贄になる巫女
月のない、重苦しい夜。
早春にしてはめずらしい生温かい雨がささらのように降りしきり、激しく土を穿つ雨粒は、墨のような水煙を地表ひくく舞い立てていた。
「雨漏り……」
ふと見上げると天井から一雫、ふた雫、と水滴が落ちてくるのがわかった。
とん、とん、とん………
たたん、たたん、たたん………
どこか他の房でも雨が漏るのか、音色のちがう音が重なりあって聞こえてくる。
(………あっ…)
その音に触発され、サヒの脳裏によみがえる一叢の記憶……。
『わたし、殺されるかもしれない』
——これは女の声。
『どうして、そんなこと思うんだい?』
これは………この声は、忘れもしない。
——クマワニの声だ。
『だって、何人も……わたしが知るかぎりでも三人もいなくなった』
『いなくなった?』
『……おそらく殺されたんだわ』
サヒは夢うつつからはっと目覚めた。
クマワニが夢によみがえった。
無意識に、首にさげた鯨の喉骨を、ぎゅっと握りしめる。
そう、あれはクマワニの魂が降りたとき、私の中に流れ込んできた記憶だ。
生前のクマワニが誰か………「女」と話した記憶の断片であるようだった。
(私、なぜ気が付かなかったのかしら………)
胸に引っかかっていたことがいくつもあったのに。
サヒはすぐに夜衾をはね上げ、局をとびだした。
殿戸の外側では、タケヒトが律儀に寝ている。
寒そうに背を丸めて寝ていたが、サヒがものすごい勢いで戸をあけたので驚き、高殿の上から落ちそうになっていた。
「おい、どこへ行くんだ?」
サヒは何も言わず、タケヒトの前を通りすぎた。
事訳する余裕がなかった。
夜が明け始めていた。
朝靄がたなびき、きりりと冷たい夜気のなかを、サヒの白い木綿の足袋が滑るようにいく。
サヒは巫女が住まう局をひとつひとつ、見て回った。
(ここじゃない、ここも違う。でも、どこかにあるはず……)
サヒの目は、ある一点を迷いなく拾い見ていた。
「………あった」
ついに、サヒはその局の前で足をとめた。
その局の板戸には、内側から開けられないように、樫の木でできた咬ませ棒がかけてあったのだ。
サヒは切れた息を整えつつその棒を外し、板戸を開けた。
「ああ………」
やはり、とも、どうして、ともつかないため息が漏れた。
部屋の隅で、ひっそりと身をおこす一つの影。
寝乱れた髪。
青黒い、顔。
「………トマノヒメ」
サヒは、名を呼んだ。
そこにいたのは、かつてサヒの起居する局に棒を咬ませ、サヒを部屋から出られなくさせた、トマノと名乗ったあの巫女がいた。
その女が、いまは誰かの手によって房に閉じこめられているのだ。
トマノヒメは冷たい床に手をついて、呆然とこちらを眺めていた。
朝とはいえ、まだ薄暗い。
部屋内は闇に沈んでいる。
そこに差した一条の光。
その光のなかにサヒが立っていた。
サヒは光を踏んで歩みより、静かに、トマノヒメのもとに片膝をついた。
「逃げてください、ここから」
「え………?」
「でなければ…………」
サヒは一瞬、口にすることをためらい、しかしためらいつつもはっきりとした口調でいった。
「………次はあなたが、死ぬことになるかもしれない」
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昼間でも光のささぬ洞穴に、ところどころに置かれた足元を照らすだけの灯火………その小さな灯火が、ずっと遠くまで続いていた。
しめった風がゆるく頬をなで、ぬるりと吹きすぎていく。
岩の間からしたたり落ちた水が溜り水となり、一滴、また一滴と落ちる雫が洞穴のなかに澄んだ音を響かせていた。
女は、滑らないよう足元に気を配りつつ、一歩一歩奥に進んでいく。
暗闇のなか、どれくらい歩いただろうか。
もっとも奥深くまで到達すると広間になっており、急に視界がひらける。
そこは、みはるかす限りの蒼、蒼、蒼………。
何を燃やしているのか、広間の中央には異様な匂いをはなつ青い炎が静かにゆらめき、むきだしになった岩肌を照らし、広間全体を妖しく輝かせていた。
青く燃えさかる炎の前に、こちらに背を向けて座る者。
小さく、丸まった背中である……祈りを捧げているのか、小さく前後に揺らめいている。
やせ衰えた老婆であった。
しかしこの弱々しい姿に似つかず、その性根はとてつもなく残忍なることを知っていた。
女は跪き、その小さな背に向かって深く額づいた。
「………参りました、アカネクラにございます」
すると老婆はこちらに向きなおり、小さくひとつ頷いた。
見開いた両の眸は、薄暗がりでもわかるほど白濁し、ほとんど盲ていることがわかる。
しかし視力を失った両目のかわりに、顔全体に大きな一つ目玉の黥が天を睨むようにそこにあった。
あまりにも禍々しく怪しい黥……何度みても見慣れることはなかった。
「トミノフツクミさま………」
アケネクラが名を呼びかけると、トミノフツクミは歯のない口でにやにやと笑った。
そう、トミノフツクミ……、幾年か前に、奥山に隠れ住んでいたサヒを探しだし、中つ湖に放りこんで殺した……もとい、殺そうとした老婆であった。
トミノフツクミはにやにやと笑いながら、沓で跪いたアケネクラの手の甲を踏みつけた。
沓のうらには、すべらぬように鋭く研ぎすました竹の歯が付いていた。
それが容赦なく食いこみ、アケネクラは痛みのあまり悲鳴をあげる。手の甲から血が吹きだした。
「イスズヒメを殺し、骸をここへ持ってこいといったはずだが」
たしかにかつてあの女を水に沈めてやったにもかかわらず、なぜいまだ生きているのか………いや、殺した女が人違いだったということもありうるからのう。
トミノフツクミは歯のない口でもごもごと独りごとを呟いた。その間も、沓を上げては踏みつけにし、竹の歯は何度も、何度もアケネクラの手を噛んだ。
アケネクラは気を失うほどの痛みにうちのめされ、のたうちまわって苦しんだ。
「骨は折れておらぬ。大仰にさわぐでないわ」
トミノフツクミはにわかに興をそがれたように鼻で笑い、さっさと足をどかして背を向けた。
「……イスズヒメと名乗る女は……なにやら、屈強そうな守護人を、ぴったりとつきしたがえており……、かよわき女の身で命を狙うのは……しごく難しく……」
アケネクラは痛めた手を胸に抱くようにしてひれ伏し、荒い息のあいまに事訳をした。
「……イスズヒメとは別の、次なる贄は、すでに捕えておりますゆえ………なにとぞお許しくださりませ……」
トミノフツクミはもう一度鼻で笑い、
「贄になった女の腹を切り裂いておやり、生きたまま耳も外いでおやり、ゆっくり苦しんで死ぬように取り計らえ。苦しめば苦しむほど、骸は悪霊のちからを蓄えるだろう」
アカネクラに、そう残忍な命をくだした。




