思わぬ饗応
「よいか、これより後は、わがことをタケヒトと呼べ」
スメラギ……いや、タケヒトはそういってサヒの顔を見つめた。
「は?」
サヒは青くなった。
(なぜ私に忌名を告げるの?)
しかも、ひどく怖い顔で睨んで。
タケヒトは「冗談ではない」というつもりで真剣な顔を作ったつもりなのだが、浅黒い肌と精悍な顔立ちのために、悲しいかな、真剣な顔を作れば作るほど「怖い顔」になってしまうのだ。
そもそも「名」は、だれにでも告げてよいものではない。
貴人であればなおのこと、みだりに口外してはならない。むろん気安く呼び合うものでもない。
「名」と「魂」は深い根っこでつながっているため、その人の名を手に入れることは、その人の魂を手に入れることと同じこと。
その名に善きまじないをかけ富み栄えしむこともできるかわりに、詛いて病み萎えしむこともできうる、名とははなはだ危ういものなのだ。
天子であればこそ、そのようなことはとうに知っていることであろうに、なぜサヒにその名を知らせたのか?
考えれば考えるほど、よくわからない。
なにやら突きつめるのが恐ろしく、サヒはそれ以上言及せずにおいた。
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「マキムクを去ろうと思う」
サヒの表情は、暗い。
「母は死んだと、そう言われた」
サヒは、タノウエヒメに言われたおおまかな内容をタケヒトに話した。
タケヒトは黙ってサヒの話を終わりまできき、そして口を開いた。
「お前はその話を信じるのか?」
「……………」
サヒはあいまいに首をかしげた。
「そんなもの信じなければいいのさ。信じられるか? いや、信じられるわけがない。むかしから麻酔ぐる奴に伝言すな、というではないか。タノウエヒメとやらは麻を吸っていたのだろう、記憶ちがいをしていたかもしれないじゃないか」
タケヒトは他人の親のことにもかかわらず、わがことのように憤慨した。
そうなのだろうか?
……そうなのかもしれなかった。
たしかにタノウエヒメは、母に会ったこともなければ見たこともなく、ただ噂を聞いただけといった口ぶりだった。
だがサヒの意思はもう決まっていた。
マキムクを離れるという気持ちは揺らぐことがなかった。
母がまだ生きているのか、死んでしまったのか。
生きているならどうしているのか。
死んでしまったのなら、どんな死に方だったのか……
時間を巻き戻すことができないのだから、今となってはもうわからないのだ。
ただ真実は、マキムクには母はいなかったこと。
母のゆくえを知る人もいなかったこと。
それがわかった。
……そして、侮蔑と嘲笑を含んだあの眼差しにふれ、ここで自分は招かれざる存在だということも、痛いほどわかった。
それならば、強いてマキムクにとどまる理由もないではないか。
サヒの目は寂しげだったが、決意した瞳には、もう暗い影はみえなかった。
何かが解決したわけではなかったが、タケヒトに話しているうちに気持ちが軽くなっていたのだ。
「そうか。お前が決めたことなら、いいよ俺は」
なにか感じとったタケヒトはあっさり引き下がり、
「とりあえず、飯でも食おうぜ、俺は腹が減ってきたぞ」
と、腹のあたりをさすりながら空腹を訴えた。
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マキムクの御膳は、厨房の女奴が運んでくる。
だから御膳が運ばれてくる前に、タケヒトの分をもう一人前、頼んでおかなければならない。
厨房は、ほんのしばらくの間だけであったが、かつてサヒが奴婢の姿で出入りしていたところだったから、勝手知ったる場所だ。
サヒは、井戸端の泥でぬかるんだ水たまりを軽々とした足取りでぴょいと飛びこえ、足場板を踏みながら、炊屋の中に入っていく。
いま炊きあがったばかりの飯が、もうもうと湯気をあげる炊屋の、跳ねあげ窓からちょっと顔をのぞかせ、
「もう一人前、塩と盛飯を頼みたい」
と、いった。
「あいよー」
と、返事を返したのは、かつてサヒをこき使っていた奴頭だった。
私に気がつくだろうか、と危ぶんだが、割に気が付かないものだ。
着ている服も違えば、身につけているものが違う。
見た目が違えば、声も違って聞こえるものかもしれない。
「どちらへお運びいたしましょうか?」
「イスズヒメのところへ」
「………イスズヒメ?」
そんなヒメいたかな、と首をかしげる奴頭。
「イスズヒメさまといえば、近頃、巫女頭になられたという若巫女さまでございますよ」
隣で作業をしていた、目の悪い奴婢が小声でささやいた。
「存じ上げず……、それはご無礼をいたしました」
奴頭はにわかに慇懃に腰を折った。
そのときはじめて奴頭がサヒの顔を直視し、はたと気がついた。
「……お、お、お…………」
おまえ、といいかけて、言葉が出てこない。
目の悪い、隣の奴婢も気がついた。
「あれ。その声、聞き覚えがあると思ったら……見習いしていたイノコじゃないか?」
イノコというのは、奴婢部屋に放り込まれたとき、サヒが思いつきでつけた自らの偽名である。
「どうしたんだね、急にいなくなったから案じていたよ……」
奴頭が、慌ててその奴婢の口をふさいだ。
「こら! 余計なことをいうもんじゃない。イスズヒメさま………うけたまわりました、確かに」
奴婢の口をふさいだまま、奴頭はようやく声をしぼりだした。
「では、頼みましたよ」
サヒが跳ねあげ窓を閉めると、がちゃん、と存外大きな音が響いた。
そんなつもりはなかったのだが、奴頭を怯えさせるのには十分な威力があった。
ヒメの宮のほうへ戻ってみると、そこはそこで大変な騒ぎになっていた。
武人姿のタケヒトが、女たちに囲まれている。
タケヒトがなにか騒ぎを起こしたのかもしれないと気を揉んで、あわてて駆け寄ってみると、なんのことはなかった。
「まあ、見かけないお顔でいらっしゃいますが、新しくこちらに赴かれたお方でございますの?」
「お名は? なんておっしゃるの?」
「どちらの兵舎にお泊りですの?」
「なんて丈高き方かしら、お顔の彫りも深くて。遠き国からおいでになられたの?」
「そういえばわたくし、担いでほしい荷があるの。こんな雄しき男を探していたのよ」
……女たちに、ちやほやされているのである。
(ちょっと見た目がいいからって………)
サヒは憮然とした。
さんざん嗤われ、侮られ、のけものにされた自分とはあまりにも違う扱いではないか。
「おおい!」
なんとなく気まずくて、そっと後ずさりしたサヒだったが、すぐにタケヒトに見つかって大声で呼ばれた。
「おおい! おおい!」
知らないふりをしていたら、女たちの囲いのなかから抜け出したタケヒトが、かろやかにこちらに駆けよってくるではないか。
そして唖然としている女たちを振り返り、
「わしは、このヒメの守護人だ。他の者にわが名を明かすこともなければ、負袋もせぬ! わが兵舎とは、このヒメが坐す殿戸のきわだ! ……わかったか!」
と、大きな声でいった。
まぁーあ!
………と、女たちの呆れたような声が響いた。
サヒは、顔から火がでるほど恥ずかしく、逃げるようにその場を離れた。
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「さすがマキムクだな。いつもこんないいものを食っているのか」
半ば、皮肉をこめていうタケヒト。
「そんなこと、あるわけないわ」
と反論しつつ、サヒ自身も驚きを隠せないでいた。
粟に、麦に、小豆に、キジ肉の汁物、干し栗の蜜煮まである。
珍味がどっさり載った膳を、厨房の奴頭みずからささげもってきた。
「イスズヒメさまにおかれましては、なにとぞご宥恕いただきますことを。なにとぞ、なにとぞ」
奴頭は、サヒの顔をちらちらと盗み見ながら、ただ「なにとぞ」を繰りかえし、震える手で配膳した。
サヒは、ふといたずら心を出し、
「その折は世話になりましたな」
………と、声をかけてみた。
すると奴頭は「ひぇ!」と頓狂な声をだすなり、とたんに平伏した。
サヒは、さらに追い打ちをかける。
「なにかと懇切丁寧にご指南いただきました。礼を言いますぞ」
「あ、いえ、そのようなことは、なにとぞ、なにとぞお許しを……」
奴頭は豆虫のように背を丸め、そそくさと帰っていった。
サヒは鼻をならしてその背を見送り、「小者め」と呟いた。
「なにかあったのか?」
形式上、サヒの下座にすわっているタケヒトがその様子を見て訝しげに首をかしげていた。
奴頭が下がってまもなく、また外が騒がしくなる。
きゃあきゃあと嬌声をあげ、足音も賑やかしく入ってきたのは、さきほどまでタケヒトに群がっていた女たちだった。
手に手に、食物がのった器を抱えている。
「わたくし、青菜を持ってまいりました!」
「わたくしは筍を!」
「鹿肉の干したものはお好きでございますか?」
「わたくしの故郷からツナシ(※このしろの古名)の塩漬けを送ってもらいましたの、めずらかでございましょう?」
「どうぞ、お召し上がりくださいませ!」
サヒには一瞥もくれず、タケヒトの前にどんどん置いていき、きゃあきゃあいいながら帰っていった。
「ふうん。あなたこそいつも、こんなよいものを食べているのね」
ほうぼうからのおもわぬ饗応で、板の間いっぱいに並んだごちそうを眺め、サヒはさっきとそっくりそのままの皮肉で応酬した。




