サヒの知らない父と母
前回、殺されたオヅノ(クマワニ)と主人公サヒが、その前日に交わした会話を、サヒが回想しています。これでもできるだけ説明をシンプルにした(つもり)なのですが、設定がわかりにくいかもです。すみません。
「あなたは、もしや……」
篝の火明かりのもと、老翁は目をみひらき、二の句がつげない様子だった。
「いやそんなまさか……、そんなことが」
驚きのあまり、はげあがった頭をなでさすりながら、大きな目をグリグリと動かしている。
サヒは老翁に問うた。
「わが名はサヒ、またの名をイスズヒメという。そなたは私を知っているのか?」
「知っているもなにも……この僕めは、あなたさまをお探ししておりました……!」
そういうなり、精根尽き果てたようにへなへなと地べたに跪いた。
「あなたさまをお探ししておりました。お待ちしておりました。夢にまで見て、信じておりました。かならずお会いするのだと!」
シワの刻まれた大きな目がみるみる潤みだしたと思ったら、男の目からボロボロと涙がこぼれた。
「わが名は、オヅノ。またの名をクマワニ。事代主ツミハさまの側人をながらく努めていた者でございます」
「おづの?」
「は。どうぞクマワニとお呼びください。オヅノというのは世すぎの名。クマワニとはツミハさまよりの賜り名でございます」
「くまわに……」
サヒが名を呼ぶと、クマワニは満足げにほほえんだ。
「ツミハさまの命を受け、あなたさまをお探ししておりました。あなたさまは真実、事代主ツミハさまと、マキムクの巫女タタラヒメさまとの間に生まれた、たったひとりの愛児であらせられます」
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「しっかしよう似ておられます、タタラヒメさまに。目元といい姿かたちといい……。口元と眉のかたちなどは、ツミハさまに生き写しですなぁ。あまりに似ておられたので、まるであのころに時が戻ったのかと思いましたぞ」
オヅノ――…クマワニはこちらが恥ずかしくなるほど、つらつらとサヒの姿を眺めまわし、感心したようにため息をついた。
「それにしてもご立派になられた。このような美しき女子にお育ちだと知れば、ツミハさまのお喜びもいかほどでしょう」
そういうなり、ふたたびオヅノは涙を浮かべた。
サヒは、母の名こそ知ってはいたが、父の名は知らなかった。だからこそ初めて知りえた父の話をもっと聞きたかった。
「教えてオヅノ、私はずっと山に隠れていたからなにも知らないの。お父さまのことも……お母さまのことだって、じつはなにも知らない。だから教えて、オヅノが知っていることを全部」
「ようございますよ、私が知っていることであれば、何もかもお話いたしましょう」
オヅノはとおくとおく、暗闇のむこうを透かしみるように目をほそめた。
もともと天孫の末裔であるツミハの一族は、その血統の正しさから政治全般をとりしきる家柄で、ツミハの父ミホヒコは、長年にわたり朝廷の頂点にたつ大物主に任じられていた。
ところがこの大物主ミホヒコ、頭は切れるし、采女たちがさわぐほどの美丈夫だが、全くといっていいほど政治に無頓着であった。
「わしは、政治は好かん!」などと広言してはばからず、薬草園で種々の薬草を育て、その薬草から薬をつくる研究に没頭していた。
政治家というよりは、学者気質なのだ。
またミホヒコは子沢山でも有名で、生涯で三十人もの子供にめぐまれた。
そのたくさんの子供のなかでも、とびぬけて優秀だったのが二番目に生まれた男子のツミハである。
ミホヒコは、ツミハが年若いうちから大物主の補佐である事代主に任じ、大物主の代理を努めさせていた。
事代主の役目は、多岐にわたった。税や役のこと、暦や節会のこと、族同士のいさかいには仲裁を、善き者には褒美を、悪しき者には処罰を与えること。
常にひとところにとどまることなく、さまざまな地に旅をし、その地の首⻑とかけひきし、円座をあたためるいとまもなくまた別の地に赴く。
こののちミホヒコが死に、大物主の座を⻑子カンタチ(※ツミハの兄)に譲ったあとも、⻑らくこの事代主の役目を負ったのは、彼に代わるほどの人物が いなかったためだ。情に厚いが、情に流されぬ堅磐のような心と、⻑旅に耐えうる頑強な体とを備えた人物は、ツミハをおいてはいなかったのだ。
そんなツミハとともに、大八島国の津々浦々に旅をしてきたのがオヅノであった。
いわば彼の右腕、腹心といっても過言ではなく、その肩書はオヅノの誇りでもあった。
ただ腹心の側人なればこそ、黙っていられないこともある。
ツミハがあまりに実直で、すこしも女と遊ばないことであった。
「それにしても男二人の旅枕は、なんというか……味気ないものですなあ。我が君におかれては、もうよい歳であられるのに楽しくもない仕事、仕事、仕事ばかり。いやいや、仕事が悪いといっているのではないが……ツミハさまは女子に心を動かされることなどないのですか!」
ことあるごとにオヅノはツミハに小言を言った。
「わしのようなものでも若き頃は、毎晩違う女子と遊び戯れたものでございます。にもかかわらずツミハさまときたら、少しも女を寄せつけようとしない。どこの村でも族じゅうの女子から悲鳴があがるほどの美しいお顔立ちにもかかわらず。いつかだれだったかに、男としてどこか体が悪いのかと聞かれたときには……わしは悔しいやら腹が立つやらでなにも言い返せませんでしたぞ!」
「いわせておけばいいではないか」
ツミハは笑っている。
「笑い事ではありません。もうよい歳なのですから、そろそろしかるべき姫と妹背になるべしと、みなそう申しております」
「……………」
ツミハの顔が曇った。
「しかし、わしのもとに嫁ぐような女は幸せにはならぬだろう」
と、独り言めいてつぶやいた。
日々、根をもたぬ浮草のような生活を続けていくこと。それはツミハにとって平凡な幸せとはほど遠いものだったのだ。
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「そんなツミハさまが生涯に一度だけ、恋こがれた相手。それがタタラヒメさまでした」
ヤマトの畿内から宇陀に入り、伊勢へ抜けるという旅程の途中のことだった。
どうしたことか方角をたがえて山中、道にまよってしまった。
「クマワニ、お前はここで待て。わたしは少し先に行き、様子を見てこよう」
そういってツミハは出かけていったのだが……、どうしたことか待てど暮らせど戻ってこない。
「いったい、ツミハさまはどこでなにをしておられるのやら……」
ひょっとしてケガをして動けなくなったのではないか、途中で道に迷い、ここへ帰れなくなったのではないか……と、いやな想像ばかりがうかび、クマワニは生きた心地もない。
ところがヤキモキしているクマワニを尻目に、ツミハは満面の笑みをたたえて帰ってきたのだ。とっぷりと日が暮れたあとに。
「媛女に、あった」
ツミハの目元はぼうっと赤らみ、熱をおびたように潤んでいた。
クマワニは、ツミハが幼きころより養育しているが、こんな若君は初めて見たとおもった。
「わたしはあのような気高き姫に出会ったことがない。わが母も気高くつよき女なれど、それでもとおく及ばぬ。見たこともないほど神々しき姫だった」
「なんと、よいではございませぬか。どこの姫君ですか?」
わからない、というように、ツミハは首を横にふった。
「若君、どうなさったのですか? 頬に傷が……」
ツミハの左頬に、見慣れない傷がついていた。
「その姫にやられたのさ」
「なんと!」
男に刃を向けるなど気が強いにもほどがある。
「むろん、わしとてただやられただけではなかったぞ」
「やりかえしてやった、というわけですな。確かに、居丈高な女などいただけません。まったく、ツミハさまを誰だと心得ているのか……」
「もちろんだ。姫の宮を騒がせた非礼をわび、破れた床板をなおし、崩れた溝杭を打ちなおしてきた。お困りのようだったのでな」
「………なんと」
ツミハの帰りがあまりに遅かったのはそのせいだったのだ。
「姫のためにまだやることがある。クマワニよ、わしはしばらくここへとどまるゆえ、おまえだけ伊勢へいってもらえるか」
あげくのはてにそんなことをいいだす。
「………………」
あいた口が塞がらないクマワニ。その様子を見て、ツミハはさも愉快げに大口をあけて笑った。
あとから考えると、ツミハたちが「迷った」といっていたのは、どうやら三諸山の神域だったようだ。
三諸山には、タタラヒメが「お籠り」に使う宮―――佐葦の宮が建っている。
佐葦とはヤマユリのことで、この宮の周りにはとくにこの花が群生していたため、そう呼ばれていたようだ。
サヒはクマワニの話を聞いていて、どきりとした。
「わたしの名前……」
「そう、サヒさまの名は、佐葦の花咲く宮から名付けられたのですよ。ツミハさまがその花の美しさに感銘をうけ、いつまでも気高く、美しくあるようにと」
古事記や日本書紀において、オオモノヌシやコトシロヌシは、それぞれの神さまの名であるように記述されているが、ホツマツタエ研究者の池田満氏は、世襲による役職名だとする説を提唱なさっています。例えるなら、オオモノヌシは「総理大臣」、コトシロヌシは「総理大臣補佐官」のような。
ホツマツタエの真贋というのにも議論があることとは思いますが、ここでは池田満氏によるオオモノヌシ世襲説をとっていきたいと思います。