黒鹿毛の駿馬
目が醒めたときには、すでに日が高く昇ったあとだった。
(すこし飲みすぎたな………)
ズキズキといたむ額を押さえ、スメラギはゆっくりと褥から起き上がった。
ふと目を転じると、女が寝ている。
女は、たわわな乳房、下帯もつけない恥部もあらわに寝乱れた姿で、絹の褥に転がっていた。
(そういえば、酒の勢いにまかせて)
昨夜、誘われるままに交合った……。
女の顔は凡庸だった。しかし肌理の細かい肌は絹織物のように冷たく、ほどよくついた肉が包みこむように柔らかかった。
それは貴人に抱かれるために育てられたような、見事な「女」だった。
客人をもてなすために女をあてがうことはよくあることだから、この女もウマシマジの差し金でここに来たことは容易に想像できた。
「これほどの女を所有しているのだぞ」という、ウマシマジの声なき自慢であることも理解できた。
スメラギだって男だ。
よほどのことがなければ、こういう場合、あてがわれた女は拒まない。
女が「昨夜のもてなしは首尾よくいきました、よい客人でした」と、主人に言上できるよう、できるかぎり手荒な振る舞いはしない。
しかし、昨夜は全くそういう気が回らなかった。
女の顔をよく見もしないで引き倒し、衣服をはぎとり、肩口を押さえこんで蹂躙した。
そこにあるのは、ただ行き場のない「怒り」だった。
『わたしはお前の思い通りになる女じゃない! 舞えといわれれば舞い、ここに座れといわれれば座り、酒をつげといわれれば酒を注ぐようなそういう女じゃない!』
落雷のような、怒りにまかせたサヒの声が蘇る。スメラギのこめかみに、ふたたびビリビリッと頭痛が走った。
(なんだよ、なぜあいつは俺の気持ちがわからないんだ……)
いいわけするような呟きと、顔が赤らむような恥ずかしさ。
(……ちがう、俺はそんな男じゃない。女に怒鳴られたくらいでこんな気がふせったりしない。違う……)
そうじゃなく、昨夜、罪もない女を手荒く扱ったから、虚しいような、悔いるような、妙な気持ちになっているのだ、そうに違いない。
いやちがう、お前は好きな女が抱けない腹いせに、好きでもない女をむちゃくちゃにいじめてやりたくなる嗜虐性をもってるんだ。
急に、頭の裏側から自分の声になじられる。
(くそっ!)
スメラギは狂乱したように髪の毛をかきむしり、褥を殴りつけた。
その気配で、女が目をさました。女は起きて姿勢を正し、そっと頭をさげた。
◆◆◆
女は、貴人から声をかけられるまでけっして自ら言葉を発しない。衣服もつけない。素はだかのままだ。許しがあるまで動かない。
交合のあとは男から言葉をかけるべきなのは、神代の昔からきまった習わしである。でなければ神々に疎まれ、未熟児が生まれてくると伝えられているからだ。
スメラギはこれまで長い旅路のうちに女を抱くことも少なくなかったが、たいていの女は鄙びていて、そんな神代の伝承を知りもしなかった。
………が、ウマシマジの女は違った。
スメラギにとっては素直な驚きであり、むしろそういう女を差し向けてくるウマシマジに、好ましささえ感じた。
……さて。
女は、うなじから背骨までを白く光らせ、頭をさげてうずくまったままじっと待っている。
スメラギは昨夜から今まで、この女にイヤな気持ちを持たなかった。
むしろ「いい」とさえ思った。
以前だったら、もう一度この女を抱いていただろう。
そうしたところで、誰も文句はいわぬし、かえって歓迎されるだろうということもわかっていた。
しかしスメラギに迷いはなかった。
女に言葉をかけることもなく、褥を蹴って立ち上がった。薄物いちまいをはおると板戸をあけ、「だれかおるか!」と大声で呼ばった。
「だれか俺の身支度をしろ! 帰るぞ!」
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「お気に召しませんでしたかな?」
帰りがけ、ウマシマジ王に呼び止められた。
女を、である。
「…………………」
それに対し、スメラギはなにも答えなかった。
答えずともよいと考えたわけではなく、答えあぐねたというほうが正しい。
「よいではないですか、なぜそのような顔をなさるのか」
美髯をたくわえた老爺が、一瞬、からかうように破顔した。
「よいではないですか、身体くらい別の女にくれてやっても。だが、あの巫女は一筋縄ではいきますまい。そもそも巫女の腹の上にはすでに神が乗っているのですから。そんな女と交わるには、祟りも恐れぬ命がけですぞ」
ずばり、心の中を見透かされ、スメラギは思わず顔をそむけ、羞恥を隠した。
しまった、この老いた狸にしてやられた、と気付いたときには遅かった。
サヒという弱みが握られてしまった以上、今後強引な政治的外圧がかけにくくなってしまう。
「あんなこなまいきな女など、もう知らん!」
取り繕ってはみたが、かなしいかな、これではやせ我慢のようにさえ聞こえてしまうではないか。
「あの巫女はまだ子どもなのですよ、男を知らない。せいぜい箱に籠めるように大切に慈しみ育てなさい。そうしてちょうど熟れるまえの一番の食べ頃に箱からだして、味わって食えばよい」
ウマシマジは笑いをかみ殺している。
「熟れる」「食べ頃」という言葉に触発されて、スメラギの脳裏に昨夜のなまめかしい女の肢体がよみがえってきて、それが大人になったサヒの面影とかさなり、これ以上ないほど顔が真っ赤になった。
「イワレビコ王(※スメラギの別名)も、その年ににあわずおぼこいお人ですなあ」
ウマシマジは大げさに驚いた顔をしてみせたが、思いの外スメラギの素直さを気に入ったようだった。
◆◆◆
「それにしても、驚きましたぞ。突然、訪ねてこられたのですから」
気を失ったサヒを連れてきた日のことである。
この日、殯の宮の前で気を失ったサヒをかつぎ、「さてどうするか」と思案した。しかし途中から考えるのが面倒くさくなったスメラギは、いっそのことこの近くにあるというマキムクの王の屋敷に訪うてやろうという気になった。
マキムクの王は、ウマシマジという男だということは知らせとして聞いていたし、遅かれ早かれ、どういう料簡の男か、一度は会うてみなければわからぬと思っていた。
(ただ………)
むちゃくちゃだ、という自覚はあった。
自身が、である。
馬を連れているというだけで、薄物いちまい羽織っただけの起きぬけだった。太刀を一振り差しただけのほとんど丸腰状態で、伴人もつれず(フツはいつのまにかいなくなってしまった)、得体のしれない女を背負っているといういでたちである。
はたして自分が多くの兵士らをひきつれ、船団をつくり、西の果ての美々津より艫舳をつないで遠征してきた将軍だとだれが信じるだろうか。
ともすると虚言を吐く狂人だととられれば、追い払われるならまだしも、投獄される危さもあった。
…しかし、正常な判断がむつかしいほど、このときのスメラギは動揺していた。
迷っているひまがなかった。
肩に担いだこの少女が、あまりに、鳥の羽毛のように軽くかぼそく、それがスメラギを不安にさせた。
呼吸も弱々しく、いまにも絶えてしまいそうだった。
一刻も早く、あたたかい部屋へいれ、柔らかい褥へねかせ、滋養のある食べ物を与えなければならない。
そういう気持ちで門戸を叩いた。
「わが名はイワレビコ、またの名をホホデミという。
前天皇ウガヤフキアエズは我が父なり。この度、ヤマト国内の騒擾を憂い、はるばる日向の国よりのぼりきた。
屋敷の主人、ウマシマジノミコトに目通りしたい!」
閂を開けた奴婢は驚きあわて、主人に取り次いだ。
「まあなんということ……」
門まで迎えにでたウマシマジは、白髪と白髯をたくわえた老爺だったが、わりに気さくな男だった。スメラギの風体をみて驚きあきれ、しかしそのわりに彼の来訪を拒まなかった。
「先触れ」を送ったわけではなかったのに、すぐに屋敷に通してくれた。
なぜ自分が王だとわかったか、なぜ自分を信用したかを問うたとき、ウマシマジは大口をあけて笑いながら答えたのだ。
「なに、おまえさんの連れている馬じゃよ」……と。
「おまえさんの連れとる馬は、見事な黒鹿毛の駿馬だ。この馬の鼻筋に飛ぶ鳥のような星(※模様)があるので一目でわかった、わしも遠目に一度、見たことがある。これは磯城のシキヒコが一番かわいがっていたあの愛馬だと」
磯城はつい先日、スメラギ率いる皇軍が攻め滅ぼした土着の豪族が住む邑で、シキヒコはその棟梁の名だ。
スメラギとの戦さに負けたシキヒコだったが、非常に頑固者で、「死んでも皇軍にまつろわぬ(従属しない)」というから仕方なく首を刎ねた。
人も金も食い物も、城も土地も国人も、シキヒコの持ち物はみな皇軍の持ち物となった。
そういうわけでスメラギがこの邑の新たな支配者となったわけだが、意外にも国人らの反応は悪いものではなかった。
シキヒコは怠惰で強欲、また残虐な支配者だったため、人びとからは憎まれていたのだ。
死んでせいせいした、とまで言うものまであった。
「磯城が滅び、シキヒコが死んだウワサは、わしでなくても知っている。あっというまにヤマトの国内中に広がっていたからな。それでピンときたのだ、こいつがシキヒコを斃したツクシの大王であるに違いないと」
ウマシマジはスメラギの来訪を存外喜び、すぐにサヒを和毛の褥に寝かせ、自分を湯殿へと案内してくれたのだ。




