鳥をよぶ巫女
凍てつくような鋭い北風がいっときに吹きすぎ、葦の細葉を波立たせたとき……、サヒは動けなくなった。
枯れた草にぶちまかれ、濡れて、広がる大量の、真紅。
それは、血しぶきだった。
イモムシのように丸まり、動かなくなったひとかたまりの残骸……
「なぜ?」
問いかけに、答える者はだれもいない。
「クマワニっ!」
サヒはようやくつかんだ糸口を捕まえるため、いま翔り去ろうとする魂に呼びかけた。
「死なないで! ……どうして!?」
サヒは震える指先で彼の衣を掴み、ぐいぐいと揺らした。ちょうど、幼子が何かをせがむときのように。
「………………」
はっとして、サヒは彼の口元に耳をよせた。
クマワニが吐息とともに何かをつぶやいたような気がしたのだ。
「いま、なんといったの?」
「サヒさま………か、ならず……、ツミ、ハさま……のもとへ」
確かにそういった。
クマワニは最期の力をふり絞り、ふところから取りだした物をサヒの手のひらに握らせた。そして、それきり動かなくなってしまった。
「クマワニ……」
屍となった身体はずっしりと重みを増し、そのままずるりと地面に滑りおちていった。サヒの衣に、顔に、手のひらに、全身にすさまじい血の刻印を、まるで「決して忘れるな」とでもいうように残して。
しかし「なぜ」「どうして」と問うている余裕はサヒに与えられなかった。
いったい誰にやられたというのか。
これは生半可な傷ではない。
鋭く研ぎすまされた刃物で、何度も刺しつらぬかれたような、そんな傷であった。
やがて、近づいてくるけたたましいケモノの啼き声。
「猟犬だ!」
誰かが、飼いならした犬をけしかけているのだ。
鼓動がはねあがった。
よく飼いならされた猟犬は、狙いをさだめた獲物をけっして逃さない。
踵を狙ってかみつき、かみついたら最後、その主人が「よい」というまで離さない。
あっというまに声が追いつき、踊るように犬が走ってくる。
あたりに満ち満ちた濃い血のにおいに誘引されたか、激しい啼き声とともに、猟犬が飛びだしてきた!
いち、に、さん、し……四、五匹の猟犬が、つぎつぎにサヒに牙をむけた。
……ところがそれは、サヒの体の薄皮一枚も、それどころか裳裾の端すらも、引き裂くことはできなかった。
黒い影のようなつむじ風が、あたりを撫でるように吹きすぎ、襲いかかる犬たちをたちまち弾き返したのだ。
どうしたことか、風に触れた犬たちはひっくりかえってはね飛ばされ、戦意消失、あっというまに尻尾をまいて逃げていってしまった。
「おい、どうした!」
あとから現れた猟師があわてて口笛をふきならすが、ただの一匹も戻ってくることはなかった。
「なんだ、腰抜け犬が情けない! あわてふためいて逃げるからどんな猛者がいるかと思ったが、たかが女ではないか」
犬をあざ笑いつつ、どやどやとやってくる屈強の男たち。
こいつらは、ちかごろマキムクに占拠する兵士だ。
―――…そして、そいつらのあとから悠然と現れたのが、鈍色にかがやく甲冑を身につけ、黒鉄造りのかぶとに朱色のはねを高々とさし立てた将軍であった。
「罪人の死骸は、犬にでも食わせておけといったはずだ。何を手こずっている」
「申し訳ございません、カギロイオキミさま」
これまで居丈高にしていた男たちが、急におびえたような目をして将軍にむかって頭を垂れた。
「……カギロイオキミ……」
サヒは、噛み砕くように口中でその名をなぞった。
それが聞こえたのかどうか、カギロイオキミはサヒを一瞥し、「なんだ、奴婢か?」といった。
「私は巫女だ!」
サヒはむっとして言いかえした。いきなり奴婢よばわりとは失礼にもほどがある。
「この者を殺したのは誰だ! おまえたち兵士のうちの誰かなのか?」
すでに足もとに息絶え、地に斃れふした哀れなクマワニの骸がある。サヒはそれを問うた。
しかしサヒが真剣になればなるほど、兵たちはにやにやと笑っているばかり。だれもまともに答えない。
「……殺して何が悪い」
将軍であるカギロイオキミが答えた。
「わけのわからぬことを言い散らす、気の狂った奴婢を斬りすてたまでだ。何が悪い」
まったく悪びれるそぶりもない。
「気の狂った奴婢、だと?」
サヒは怒りのために、おのれの体がわななき震えるのを抑えることができなかった。もはや言葉も出てこない。溢れかえるような怒りが全身からこみ上げてくるのに、それは喉のあたりでせめぎあい、言葉にすることができない。
この男が殺したのだ。
カギロイオキミという、この男が。
サヒは男をにらみつけた。
「なぜ殺した!」
そう怒りにまかせて怒鳴り散らすことだってできた。
しかしクマワニが《《奴婢同然》》の貧しい身なりだったことも確かだ。奴婢の命は虫のように軽い。殺すことに理由さえ必要ない。
「……この遺骸を里のはずれの殯の宮まで運ぶのだ。この者は私が弔います」
ようやっと息をつき、せめて声が震えぬよう、サヒは低く抑えた声でいった。
ところが男たちは腕組をしたまま、誰も動こうとしない。
「嫌だね」
カギロイオキミが言った。
それを合図に、ほかの兵士らも再びニヤニヤ笑いをはじめた。
「巫女が命じているのに、か?」
マキムクでは神につかえる者の身分がもっとも高い。いくら兵士とはいえ、男とはいえ、巫女の命令に逆らう者などいない。
サヒだって権力をかさに着る言いようは好かぬ。
しかし、あえてこういったのは、カギロイオキミというこの横柄な態度の肚のうちを聞いてみたいとおもったからだった。
しかしカギロイオキミは、「巫女」と聞けどもすこしも怯んだようすは見せず、
「犬が腹をすかせているのさ、せっかくの獲物だ、こいつは犬にでも食わせてやるつもりだ。いいだろう?」
と、わざとサヒの逆鱗に触れるようにいった。
「昔のマキムクはいざ知らず、いまとなっては落ちぶれた宮殿じゃないか。口だけは巫女と名乗っていたとて、ふたを開ければ、男どもに股をひらくだけのただの浮かれ女ばかり。みてみろ、神託を宣ることができる巫女などいるか? もはや誰ひとりとしておらんぞ?」
「もっともだ!」
「将軍さまのいうとおりだ!」
「巫女なぞただの女だ!」
兵士たちに異論などあるはずがなく、みなカギロイオキミのいうことに肯い、おもしろそうに手を叩いて笑いあった。
サヒは眦をつりあげ、怒りをあらわにした。
「よくも、そのように口汚く……! そのいいざまが神坐すヤマト畿内で赦されるとおもうな!」
「ほうほう、では、どうするというのだ? 巫女という身分の《《小娘どの》》よぅ、お前になにができるんだぁ、刀も振れぬし、弓も引けぬくせに。手弱女は黙って男に抱かれていろ!」
嘲笑がさざなみのように広がった。
「教えてやれ、女とはどんなものか。女とは、男の慰みのためにあるものだと」
カギロイオキミがそういうのを待っていたかのように、みな一歩ずつにじり寄ってくる。
ヒゲ面の兵士が下卑た《《すきっ歯》》をのぞかせながら、サヒの手をつかもうとした。
――――そのとき。
一瞬、黒い疾風がサヒの周りを吹きめぐり、ふうっと砂けむりがたった。
「あ!!」
驚いたのは男たちだ。
いまいま、サヒの腕をつかもうとしていたヒゲ面の男。その男の手首から先が、忽然と消しとんでいたのだ。
「わ! わ! わあああ!!」
男の手首から先は、まだサヒの腕にからみついていた。サヒはそれを掴んで引き剥がすと、落ち着きはらって足元にほうりなげた。
手首を切られた男は、どくどくと流れだす血を見るなり、たちまち卒倒した。
度肝をぬかれた男たちは、けがをした男を介抱するどころか、その場から誰も動けずにいる。
「来たれフツよ、鳥の神を呼べ!」
サヒは叫んだ。
金の鈴をふりならすような澄んだ声が、空高くすいこまれていった。
そのとたん風という風がやみ、音が消えた。
蒼穹に、恐ろしいほどの静寂が落ちてきた。
そして遠く、遠く、うつろな空のむこうから芥子粒ほどの黒点――!
ひとつふたつではない。
「あれはなんだ!?」
それは無数の鳥であった。
四方から、ありとあらゆる鳥たちが羽ばたき、鳴きさわぎ、ウンカのように押しよせてくる。
あっというまに集まってきた鳥たちは、サヒたちの頭上でうずを巻き、一斉に兵士たちを攻撃し始めた。
「う、うわあ、やめろ!」
そこには男たちは武器を投げすてて逃げだす者、頭をかかえて地に伏す者、あまりのことに口を開けて放心する者がいた。
だれひとりとしてまともに戦える者はいなかった。
カギロイオキミは太刀を抜いて鳥を切りつけたが、舞い散る羽で視界を遮られ、なすすべなく立ち尽くしている。
「もうよい、やめよ!」
サヒの一声で、鳥たちは静まった。
夢のように美しく、ふわふわと羽が舞い踊っている。
「わたしは、大いなるマキムクの巫女王の娘、イスズヒメである。この名において命ずる。クマワニの亡骸を殯の宮へと運ぶのだ」
もはやだれも、サヒの命ずることに逆らう者はいなかった。