本編 9
「…仰せのままに」
「ちょっと秀! いい加減に……」
あんなに余裕があった秀から怒りの感情が感じ取れる。表情も言葉もそんなに変わらないのに秀の背後には黒いモワモワしたものが見えるような…。
私とハナさんの距離感でなんでそんなに秀が怒るのだろうか。私の分際で秀に挑発したことで秀は怒ったが私に傷をつけることは過去の件でできないからハナさんに当たったのだろうか。
私のせいなのに…こんなの理不尽だ。
それにしても、タトゥーだけじゃなく整形や去勢までさせられたのに揺らがないハナさんの忠誠心はなんなんだろうか。
ハナさんは兄…秀についてこう言ってた。
『…孤独だったあたしに生きる意味をくれたかけがえのない人です』
『兄のためならなんでもします』
『これ、ベロニカっていうんです。あたしの証です』
ハナさん…あなたって人は。
「こんなことなら性転換させとくべきだったかな。キスはできるけど…行為は防げる。ハナじゃなくて女にすることも考えたけど、僕の目に映る女は聖だけでいい」
え。どういうこと?
「……秀は、私が秀じゃなくてお金を選んだから憎んでるんじゃないの?」
秀は私の言葉を聞いた後に小さくため息を吐き、やれやれというような表情をする。
なに。私はずっとそう思ってきたよ?
「そっんなに小さい男に見えるわけ? お金なんていくらでもあげるよ。いくら欲しい?」
「あ…いや……その」
「お金はあっても困らないものだからもらえるならもらう方がいいんじゃない? 別に聖がお金もらったからって憎んだりしないしそんなことで憎めるなら……いや、なんでもない」
「最後まで言ってよ! なに?」
「…とにかく! 藤堂のトップは僕で、業界でも他社を大きく引き離し海外でも劣ってないからもう聖に不自由な思いはさせることはない」
藤堂が安定していることと私が不自由な思いをしないことと何の関係がある?
「じゃあ、なんで月桂樹の花の花言葉が“裏切り”なの?」
「ああ。ハナのことさ。“ハナ”の花言葉…みたいな? なんちゃって」
「………」
寒い。とても、寒い。地球で一番寒い南極もビックリの寒さだよ。
「コホン。でも、さすが聖だね。ハナの裏切りに気づけた。ハナには罰を与えないとな」
「罰…? ハナさんは悪くない! 何もしないで」
秀の眉毛がピクリと反応する。そして、じっと私の目を見つめた。
再会してからこんなに近くで秀の目をじっくり見るのは初めてで。私を映すヘーゼルな瞳が語らぬ想いを抱えているような気がした。
「な……なに?」
あくまでも平然を装う。間違ったことは言っていないから。
「…ハナが好きなの? それってどっち? 女として? 男として?」
秀を盗み見る。私を好きだという感情はなさそうに見えるのだが。
「…見過ぎ。なに?」
バレた。そりゃこんな近くでガン見してたらバレるか。
「あの…さ……」
「……」
「恋の時効って…あると思う?」
秀が私を好きなはずがない。さすがにそれは自惚れすぎ。
大して取り柄もなくて、生活するために仕事している顔も体も平凡な私が小さい時に関わっていたというだけの薄く、細く、今にも千切れそうな糸でかろうじて繋がっているごときで。
もしかして…なんて期待する価値もなくて。
「…凶悪犯罪の公訴時効は廃止されてるよ」
「へ?……凶悪犯罪がなんだって?」
頭が弱くて聞き取れなかった。たぶん、聞いたところで結局分からない。
クエスチョンマークを浮かべ、秀の返答を待っていると背中を向けられた。
せ…背中広っ。この背中に飛びつきたい女性は大勢いるのだろうな。
「時効があるのもあるし、なくなったものもあるって話」
「…ほう……そっか…」
秀が一般論で話してくれているのか、自分のことを話してくれているのか分からなくなってきた。秀の優しさから遠回しに断ってるのかな。
だから言ったじゃん。期待なんかしたらよくないって。
「……僕のは時効ないけどね」
「そうだよね。時効なんてない…よ……? …ないの!?」
秀は私へと向き直り、ハッキリとした口調で言った。
「聖の王子様はこの僕だ」
え。じゃあ。それって。つまり。
「……私のこと好きってこと? どこが?」
「顔。」
「顔なんて私より美しい人は腐るほどいるじゃん!」
「……」
「いつ頃から好きだったの?」
「覚えてないなぁ」
「そもそも私たちの出会い、覚えてる?」
「どうだったっけ」
「……」
あー分かりました。これは秀の冗談です。遊んでます。私で遊んでます。
なにが楽しいのか全く分からないし、分かりたくもない。
はいはい身の程知らずでした。申し訳ございませんでした。
だったら、ハナさんに乱暴しようとしたのは私のせいで……私のせい、なのかな?じゃあ私がいなくなればいいんじゃない?
いらなくない?憎んでて印をつけられるわけじゃないんだよね?
『お金はあっても困らないものだからもらえるならもらう方がいいんじゃない? 別に聖がお金もらったからって憎んだりしないしそんなことで憎めるなら……いや、なんでもない』
「憎んでないなら、なんで見つけたんだろ?」
思っていたことが口から漏れてしまった。ハッとした時にはもう時遅し。
「聖を愛してるから」
そう言葉を紡ぐ秀の足元には、ずっと行方不明だった私の母がボロボロの雑巾のように転がっていた。