本編 1
君とは出会うべきではなかった。今でもそう思ってる。出来ることなら君との時間を消した方がいい。記憶を、なかったことにした方がいい。それがお互いのためだろう。
なのに、なぜ君は私を見つけた?君じゃなく、お金を選んだ私が憎いから?地獄に突き落とすため?
「聖を愛してるから」
そう言葉を紡ぐ君の足元には、ずっと行方不明だった私の母がボロボロの雑巾のように転がっていた。
ーーー…
「氷川さん、どうぞ」
名前を呼ばれ、席を立つ。歩くたびに編み込みして後ろで緩くまとめた髪が揺れる。
スタッフが笑顔で迎え、私の行き先を揃えた指先で示しながら入るように促される。中には採血をするための空間が準備されていて、すでに注射器で血を吸い上げている人がいた。その隣の隣、つまり一つ席を開けたところに立っている女性が頭を下げた後、席を薦めた。
「こちらにお座り下さい」
「はい、よろしくお願いします」
素直に腰を下ろして、言われる前に左腕を台に乗せた。Tシャツを着ているので捲る必要はなく、晒された腕に慣れた手つきでゴムチューブをつけられ、圧迫感を感じた。
「今までアルコール等でかぶれたことありますか?」
「いえ、ありません」
「では、消毒しますね」
「はい」
サッとアルコール綿で拭かれ、注射の準備に取り掛かる。
「少しチクっとしますね」
「はい」
針が刺さる感覚がし、しばらくその痛みを与えられる。視界の端で注射器に赤黒い液体が溜まっていくのが見えたが見えないフリをした。
「終わりました。しばらくはバンドをつけてて下さい。検診が終わったら、返却カゴへお願いします。お疲れ様でした」
「ありがとうございました」
「次は心電図になりますので、あちらの席に座ってお待ち下さい」
「わかりました」
ゴムチューブと同じくらいの圧迫感を連れて、目の前の人にお辞儀すると部屋の出口へ向かう。心電図の部屋の前に置かれている三人掛けの椅子の右端に体を預けた。
すでに左端には人がいて、この人も次は心電図の検査を受けるのだろう。自分の手元に視線を落としながら、隙を見て隣の人の様子を伺った。
露出した色白の左腕にバンドがつけられているところを見ると採血が終わっているみたいだ。その人が左腕を伸ばしバンドの下を覗くようなポーズを取ると私はある箇所に目を奪われた。
バンドの少し上に黒い塊が見えたのだ。親指くらいの大きさがあり、ホクロもシミも傷もない陶器のような肌に模様が刻まれていた。
一瞬、あいつの模様に見えて心臓が激しく反応したが、よく見たら龍ではなく花のマークでホッと胸を撫で下ろす。藤堂家ではない。それに、髪色は栗色のロングヘアで華奢な体型。この人は女性で、あいつに姉も妹もいない。
「……」
昔のことに何を動揺してんだか。自意識過剰だ。私とあいつはもう、過去の話だ。
あいつに出会ってから距離を置くまでのことが頭の中を支配したがすぐに追い出す。あれから十五年。時は過ぎた。
私はもうほとんどあいつのことは思い出さない。思い出すのは行方不明の母親のことを思い出した時くらいだ。あいつが異常なくらい私の母親に拳を浴びせた光景と共に。
あいつも私のことは忘れているだろう。藤堂家からお金を受け取ったことは伝えられただろうし、逃げるように氷川家は引っ越ししたから。
私が逆の立場だったら裏切られたと、二度と会いたくないと思うだろう。あいつもそう思ったに違いない。
ーーグラッ
視界が歪んだ。検査の関係で二十四時間以上食べていないため強烈なめまいに襲われた。抵抗する間もなく、後頭部を後ろの壁にぶつけ鈍い音が鳴る。じんじんと痛みのサインを発した。
「……大丈夫ですか?」
心地よい落ち着いた声が掛けられる。きつく閉めた瞼を恐る恐る開くと、癖のないストレートな栗色の髪をサラサラと溢しながら隣の女性は私のために眉尻を下げていた。長く上向きな睫毛と長めの下睫毛が黒目がちな眼球を飾るように咲いていた。綺麗な鼻筋と小鼻、薄ピンクで潤った小さな唇に面積の少ない顔。息を呑むほど美しかった。
「あの……?」
無意識に自分の左頬の傷を隠す。なぜか見られたくなかった。
「ごめんなさい。めまいがしまして…」
「大丈夫ですか? スタッフの人を呼びましょうか?」
「大丈夫です。一時的だったみたいです。ご心配おかけしました」
「そうですか。なら良かったです。壁にぶつけた頭は痛みませんか?」
「はい、平気です」
「…髪飾り、かわいいですね。傷ついてないといいですが……」
「あ……髪飾り……」
確かにぶつけたかもしれないと思って、髪から外して手のひらの上に置く。シルバーの髪飾りで薔薇や巻き付く蔓 、棘が細かく丁寧に彫られたものだ。
傷がついたら困る。この髪飾りは大切なものだから。
「傷はついてませんでした」
「ああ、よかったです。あたしも髪飾りをよく使いまして……兄からもらったので大切にしてるんです」
少し恥ずかしそうにしながら、でも嬉しそうに話した。
兄からもらったのか…兄妹、仲が良いのかな。私も似たようなものなので、勝手に唇が動いた。
「私も母からもらったものなんです。最後のプレゼントで…形見みたいなものです」
私の言葉に目を大きく見開き、その後悲しそうに目を伏せた。まるで、私のことを自分のことのように感じているみたい。
「私の宝物です。だから、傷ついてないか心配してくれて嬉しかったです」
「…あ、あの……」
「氷川さん、心電図検査します」
スタッフに呼ばれ、立ち上がる。私の動きを大きな黒目で追う、外見だけでなく内面も美しい女性。一度きりの出会いで終わってしまうことに名残惜しい気持ちになったが、頭を下げてこの場を後にした。