崩壊
「……?」
ベッドから体を起こして、私はなんで起きたんだろうと不思議に思う。だって、辺りは真っ暗だ。きっと朝はまだまだ遠くて、だから肌を撫でる空気はとても冷たい。
変な夢を見たわけじゃない。別に喉が渇いているわけでもなくて、トイレに行きたいわけでもない。周囲は静寂に包まれていて、遠くから聞こえてくる水の音だけが鼓膜を刺激している。起きる理由はないし、意味もなく目が覚めるほど歳も取ってない。
「…………??」
どうしてだろう?
ただ、偶然でしかないんだろうか。それならそれでもいいんだけど――。
「――」
――でも妙に目が冴えていた。
まるで眠ってなんかいなかったみたい。
上着を羽織り、立ち上がる。灯りを落とした部屋の中は真っ暗で、一つだけある小さな窓から差し込む月明りだけが輝いていた。
窓に近づく。暗闇の中だと、月の光はとても強い。
この世界の空気は綺麗だ。きっと科学の代わりに魔法を使うからだろう。だから、家から漏れる光がなくなれば、空の光が地上を満たす。
「……」
そっと、窓から外を見る。空の真ん中、高いところに大きな月が浮かんでいる。そして少し遠い場所、水路の水面にそれが映りこんでいるのがうっすらと見えた。
――少し、霧が濃い。
うっすらとしか見えないのは、水面を霧が包んでいるからだ。
「――」
溜息が漏れそうになる位綺麗だった。
空気は冷たくて、だからこそ清々しかった。
見惚れ、しばし眺め続ける。
ふと、皆にも見て欲しいなと思った。綺麗なものを他の人と一緒に楽しむことが出来たら、それはきっと、とても幸せなことだろう。そう思って――。
◆
――この街の生活は、とても優しかった。
大切な人が傍にいて、笑い合うことが出来る。それが嬉しかった。
理不尽に私から奪おうとする人だっていなかった。出会った人は皆、良い人だった。
その暖かさに浸っていた。それを当然のように受け取っていた。
……だから。
だからこそ、忘れていたのかもしれない。
母が亡くなった時も、父が倒れてしまった時も。
マリーがいなくなった時も、ドルクが離れていった時だって。
……いつだって、悲しいことは突然やって来たということを。
◆
ずるり、という音がした。
「……え?」
音と共に、視界の端で何かが動く。
それは白い何かで、水面に満ちる霧から伸びていた。
それは地面を這いずるように動いている。蛇のように、何かの尻尾のように。うねうねとずるずると。
なんだろうと、目を凝らしてそれを見る。
でもよく分からない。輪郭がぼやけている。モヤがかかっているような……まるで霧が固まってできたような。
「……」
……あれは?
混乱する。この世界に生を受けて以来、あんなものは見たことが無い。分からなくて、気味が悪い。思わず現実逃避気味に、もしかして、この地方特有の生き物なんだろうか、なんて下らないことを考えたりもして。
「……っ」
一歩、下がる。音を立てないように、ゆっくりと。
そして自分の口を押えた。声が間違っても漏れないように。
訳も分からない。でも、本能的に何かがまずいと理解していた。
……あれは、近づいてはいけないものだ。
「……ぅ」
また一歩下がる。しかし、それはこちらに近づいてきた。
私が一歩下がった分……いや、それ以上の距離をこちらに向かって這いずってきて。
……私に、近づいて来てる?
「――」
――一瞬、悩む。
どうするべきかと。音を殺すのを止め、全力で逃げるべきか。それとも、障壁を展開して身を守るべきか。
「……っ」
……これが、一カ月前の森の中だったら、迷わなかっただろう。すぐに障壁を展開して、逃げ出していたはずだ。
でも、ここは森の中ではなく、私の部屋の中だった。本来なら、一番安全であるはずの場所で。
「あ」
――だから、気付いたときには手遅れだった。
……間違いだった。
私は悩むべきじゃなかったんだ。
瞬きをして、開いたとき、もうすぐ目の前にそれはいた。
白く、長い何かが目と鼻の先に居る。それは先端部分だけが大きくて、広がっていて、まるで顎を開いているように見えた。
近づいてくる。妙にゆっくりに見えた。
それはきっと走馬灯のように、危機的状況を抜け出そうと脳が必死に稼働しているからだ。
……でも、何もできない。
体は動かない。障壁も間に合わない。頭だけが動いていてもどうしようもない。
白い顎がどんどん大きくなる。
目の前いっぱいに広がって、それ以外が見えなくなる。それはきっと、私の頭を飲みこもうとしている。そうなればもう手遅れだ。私はここで終わってしまう。その確信だけがあった。
「……ぁ」
喉から声が漏れる。それが精いっぱいだった。
もうだめかと、そう思って――。
「――」
――しかし、銀の光があった。
横から伸びてきたそれが、怪物を薙ぎ払う。
眩く輝く銀光は的確に白い怪物を切り裂き、吹き飛ばした。
「お嬢、無事か!?」
「……あ」
隣の部屋とこの部屋を隔てる壁が一瞬のうちに砕け、そこから銀を纏ったログが現れる。 思わず足から力が抜けて倒れそうになり、それをログが腕で受け止めてくれた。
「ロ、ログ」
「無事だったか……すまない、気付くのが遅れた」
支えてくれる手に縋りつく。
今、私は、死んでいてもおかしくなかった。
遅れて体が震えだす。
何がどうなっているの? 訳が分からない!
「ロ、ログ、わた、わたし」
「……お嬢、落ち着いてくれ」
「でも、なにが、いま!」
「悪い、でも今は本当に時間がない」
「……え?」
そう言われて、ようやく気付く。
ログの顔が少し引きつっている。頬を汗が伝っていて……まるで焦っているように見える。
「お嬢、障壁を急いで展開してくれ。俺とお嬢を包むように」
「……あ、う、うん」
咄嗟に、言われた通りにする。
魔力を起こして、私とログの周りに透明な壁を作り出した。
「――ありがとう。お嬢はもう一端の魔法使いだな」
「……え?」
「言われてすぐに反応できるのなら、十分すぎる位だ。それが出来ずに死ぬ奴は山ほどいる」
ポンポンと、背中を叩かれる。
その感触は優しくて、だから混乱した頭も落ち着いていく。
「……何が起こってるの?」
「わからない。そしてすまない。悠長に説明している時間もない」
「……へ?」
――と、ログの腕が霞む。
驚いているうちに、銀閃が壁に走り――ゴトリという音がして私の部屋の壁が崩れた。その穴から外が見える。薄い霧が足元に溜まっているのが見えた。
「……え?」
「怒りは、後で聞く。今は俺に任せてくれ」
ログが近くにあったローブを私に被せる。そして私の体に手を回し、私を片手で抱え上げた。……体が勝手にログにしがみ付く。実は少し前から非常事態に備えてログに抱えられる練習もしていた
「フードは大丈夫か?」
「えっと、うん」
ローブのフードを被り、紐を結わえる。
……そして。
「……では、行くぞ」
体が強く引っ張られる感覚に咄嗟に目を閉じる。
次に目を開くと、私たちは長屋の屋根の上にいた。
そして、そのままログは次に隣の家の屋根に飛び移って――さらに隣の屋根へと、家の屋根の上を渡るように走り出す。
「あの、な、なんで、屋根の上を?」
「……下を見てくれ」
不思議に思って、なんとか問いかける。
グラグラと揺れる中、舌を噛まないようにするのに必死だった。
――でも、下?
言われて首を動かし、視線を向ける。
「……ひっ」
屋根と屋根の間。建物と建物の境。
普段は人が歩いているそこは、既に白いもので埋め尽くされていた。
そして、その白いものはうぞうぞと動いていて――
「――き、気持ち悪い」
「俺の感覚だと、もう街中こんな状態だ。道はまともに移動できないだろうな」
……なんなの、これ。
意味が分からない。理解できない。何がどうなったらこんなことになるのか。
さっきから起きていることが、何もかも分からない。
これまで理不尽なことは沢山あった。
苦しいことも悲しいことだって、沢山。
――でも、意味が分からないことはなかった。
お金だったり、身分だったり、私を攻撃する理由だけは理解出来たんだ。
……なのに。
「訳が、分からないよ」
「……ああ、俺もだ」
まるで足元が突然不安定になったような、そんな感覚。
理解できないものに触れてしまった恐怖があった。
「……とりあえず、この街から離脱する。それから体制を整えよう」
「……え」
ログが言う。
それは真っ当な判断に聞こえる。それしかない。だって情報がなさすぎる。
「……でも、ログ」
それでも、一つ、どうしても無視できなことがあって。
咄嗟にそれを問いかけようとした――。
「――! お嬢、衝撃に備えろ!」
――次の瞬間だった。
空から蒼色が振って来た。
「――」
上空で蒼色と銀色がぶつかり合う。
――世界を震わせるような轟音が響き渡った。




