これまで
朝食の後、マリーに見送られて長屋を出た。
目的地は治癒院。今現在の私の仕事場だ。ここ一月、この街に着いてから私が働いている職場になる。
「んー」
水路沿いに作られた道。そこをログと二人並んで歩く。
軽く背伸びをすると、空気が澄んでいて気持ちがいい。
「……綺麗なところだよね」
つい、ぽつりと呟く。
この街は驚くほどに何もかもが綺麗だ。水も、空気も、まるで朝の森を散歩しているかのよう。
辺りの雰囲気は落ち着いていて、水の音が良く聞こえてくる。
しかし人気が無いという訳ではない。こうして歩いていると多くの人とすれ違う。耳をすませば少し離れた所にある市場の声が聞こえてきて――。
「――」
――不思議な街だ。そう思う。
治安もいいし、この間なんて夜に独り歩きしてる女性だっていたくらいだ。
日本だったら特別でもなんでもないけど、この厳しい世界ではすごいを通り越して不可思議としか言いようがない。
もちろん、私たちも街に入るときにいくつかの注意は受けたし、守ってる。
この街では犯罪行為はもちろん、ゴミのポイ捨ては禁止だし、過剰に騒ぐのも禁止だ。
でも、それを一つの町の住人全てが守るのは不可能じゃないだろうか?
……本当に不思議だ。
どうやって、この状態を維持しているんだろう?
「ログはどう思う?」
「ん?」
「この街について」
「……いい所なんじゃないか? まあ、少し湿気が強すぎる気はするが」
……あー、それは確かに。
洗濯物がなかなか乾かないみたいなんだよね。
長屋の家事担当がいつもそうやってぼやいている。
あまりにも洗濯物洗濯物言うので、実は裏で子供たちから洗濯物ねえちゃんとか呼ばれてたりするし。
「……」
……しかし、逆を言えば彼女の悩みは洗濯物くらいしかないということでもある。他にもあれば、そちらも言うだろう。きっと別のあだ名がついていたはずだ。
だから、彼女にとってここはそれだけ居心地がいいのかもしれない。
「……この街に来て、正解だったね」
いろいろあった結果だけど。
でも今こうして平和に暮らせているのなら、あのとき頑張った甲斐もあったな、なんて、改めてそう思って――
◆
――当時のことを思い出す。
一カ月前のあの日、森を抜けたばかりの頃を。
……端的に言おう。
あのときの私たちには余裕が全くなかった。
森を出た。騎士から逃げ延びた。全員がここにいる。我らは竜という災厄を乗り越えた。私たちは今、こうして生きているのだ――なんて言えば、聞こえはいい。すごくいい。でもそれはどこまで行っても現実を無視した言葉でしかなかった。
だって、食料がなかった。
パンはもう食べ尽くし、竜や魔物の肉で作った干し肉と歩く途中で見つけた木の実や野草を食べていた。
全員が消耗していた。
数日間歩き通しだった足は疲れで震え、立っているのも辛かった。治癒魔法で傷や筋肉痛は治っても、それでも消えない疲労が蓄積し、足を重くしていた。
まだ幼い子供たちや赤ん坊は日に日に元気をなくしていった。
お腹は空いているはずなのに食事は段々と喉を通らなくなり、赤ん坊はあまり泣かなくなった。
休まなければ。街や村を目指すべきだ。
誰もがそう思っていたし、そう言っていた。重い足を引きずって、道に残る馬車の轍を追いかけた。
――しかし、それでようやくたどり着いた村は小さな村で。
とてもよそ者を歓迎してくれるような雰囲気ではなかった。
百人にも満たない小さな村だ。食料にも決して余裕がある訳じゃない。そんなところに十人規模の集団が押し掛けて、歓迎しろという方が無理があるだろう。
……それに、私たちって普通に怪しかったし。
もちろん言い訳はしたけど、子連れの集団が辺境の村を訪れるとか普通じゃないわけで。
だから、最初は門前払いされそうになった。
それでも、中に入れて一晩の宿と食事を分けてもらえたのはアニータさんと私が魔法使いだったからだろう。
『村人の怪我を治療する』という条件で私たちは一日だけ家を借り、一息つくことが出来た。しかしそこに至るまでの一連の流れは、疲れ切った私たちにとっては重くのしかかっていて。
『……』
借りた空き家の中での、しばしの無言の時間。
誰も何もできず、ぐったりと体を床や壁に預けていた。
余裕そうな顔をしているのはログだけだ。ログは道中、おんぶ紐を使ってお腹と背中に幼い子供二人抱えて、その上母親が力尽きた後は赤ん坊まで腕に抱えてたのに、一人だけ平気そうな顔をしていた。正直同じ人間なのか悩むところだ。
『……はあ』
しかし、なにはともあれ、ようやく一息ついて。
私たちはなんとか休憩場所を手に入れ、落ち着いて話し合うことが出来るようになった。
『街を、目指そう』
そして、出た意見も当然の結論であり、反対する人はいない。
このままでは早晩立ち行かなくなる。それを避けるには食料も土地も余裕がある都市部に行くしかない。
なんと言っても、人数の多さが問題だった。
長期の滞在となれば食料も宿も数が必要になってくる。
もっと人数が少なければ。それならもっと楽だったのに。
もしかしたらこの村だって数日くらい滞在できたかもしれない。ついそう思った。
『……お嬢様、ちょっといいかい?』
――だから、そう思ってしまったから。
『お嬢様はこれからどうするんだい?』
アニータさんが私を呼び出して質問した理由も、理解できた。
最初は首を傾げて、少し遅れて察する。
子供の私は首を傾げていても、大人の私は頭を動かしていた。
――確かに大人数だったら、大変だ。
――でも、私とログだけだったら?
『……』
元々、私とログは遅れて合流した身で、血の繋がりもない。
一緒にいた期間も半月足らずで、この集団の中では一番関係が薄かった。
アニータさんが私に確認したのもそのせいだろう。
彼女は私たちに常に気を使っていた。
彼女はこう言っている。
大所帯の上、子連れの現状だと怪しまれるし、相当に苦労することになる。だからその前に抜けるかどうか決めなさいと。
『……私はともかく、ログがいなくなると困りませんか?』
『困るね。小さい子たちを歩かせなきゃいけなくなる。それに、勘違いしてるみたいだけど、お嬢様のサポートだって助かってるんだ。……私は貴族じゃない。魔力が少ないからね』
『……それなら』
『でもね、竜はともかく、それは私たちが国を出た時から分かっていたことだ。だからその責任は私たちが背負うべきなんだよ』
気にすることはない。どうするかはお嬢様が決めなさい、と。
アニータさんはそう言った。なあに、いざとなったらこの村の連中に少し多めの金を掴ませて、人足でも雇えばいい、なんて明るく言ったりもして。
『……』
だから、そう諭されたから、考えた。
利益と不利益。これまでの日々と、これからの日々。それを真剣に。
――そして。
『一緒に行きます』
『良いのかい?』
『はい』
情を考えず、合理的に考えるのなら、抜けるべきだ。
私とログだけなら、これから困ることはない。お金だって多少はあるし、村や町に入るのも容易いだろう。
マリーのことが気になるけど、それならいっそマリーも一緒に連れていけばいい。マークも連れて四人程度なら、旅のお嬢様一行で何とでもできる。
知見を広めるために旅に出た貴族のお嬢様と、メイドと、護衛騎士が二人。これなら怪しくない。いかにもありそうな設定じゃないか。
それならきっと楽を出来る。
少なくとも現状よりはよっぽどに。
『――』
――でも。
――でもね、情を捨てることなんて、出来るはずないでしょう?
『……すまないね、ありがとう』
『いいえ、それがいいと思うので』
困るだろう、苦労もするだろう。
でも、大変だからと情まで捨てて、その果てに何が残るだろうか。
『……』
……忘れてはならない。
全てを切り捨てて、幸せになんてなれるはずがない。
私は、幸せになるために旅に出る。そう決めたのだから。
◆
治癒院への道を歩く。
横を客を乗せた小舟の水上タクシーが通り過ぎて、しかし金銭的にあまり余裕がない私たちは利用できない。
これを使えると楽になるんだけどな……なんて考えて、でもそうすると決めたのは私だ。
「……」
横を見ると、ログが私と同じように歩いている。
ログは立場上、私の決定に付き合わされる身だ。
だから、申し訳ないな、なんて思って――。
――でも、実はログに聞いたことがあった。
私が決めたことなのに、ログに負担がかかり過ぎてないかって。
そうしたら――
『――俺は、お嬢のためにここに居る』
なんて、そう返ってきて。
「……」
「お嬢、どうした?」
突然私が俯いたからか、記憶の中ではない現実のログが話しかけてくる。
でも私は顔を上げることが出来なかった。
……だって、頬が緩んでそうで、恥ずかしかったからだ。




