「卒業式にはカトレアと」 秋月創苑 【恋愛】
司会を務める中年男性の、低く耳障りの良い声が、広い講堂に響き渡っている。
ここ栗ヶ丘北高等学校の講堂兼体育館には生徒および教職員およそ290名と保護者90名ほどが、身動ぎ一つ立てないよう四角張った顔つきで、正面に垂れ下がる日の丸を見つめている。
司会の男性が読み上げているのは祝電で、淀みの無い口調が虚飾に彩られた美辞麗句を粛々と吟じている最中も、誰一人咳払いすらしない。
そう、今この場は栗ヶ丘北高等学校の卒業式の只中であり、厳かな式典も佳境に入ろうとしていた。
祝電の披露が行われていると言う事は、その刻がいよいよ間近である事を意味しており、桐谷桃華の鼓動はここに来て一層速度を増していた。
緊張と言う事なら、卒業式の準備が立ち上がり始めた一月半程前から既に始まっていた。
桐谷桃華はおおよそ半年前に退任するまでこの学校の生徒会長だったのだ。
この春の卒業を待って、東京の有名国立大学に進学という優等生のテンプレとも言うべき進路まで手にしており、ただでさえ責任感が服を着て歩いているような彼女に、その使命から逃れる術は端から用意されてなどいなかった。
案の定、学年主任の肩書きを背負った初老の教師から、卒業生代表の任を言い渡された。
つまりは、答辞の役目である。
元々桃華は一貫して優等生の道を歩んできたが、本人の性格は至って平凡なそれである。
人前に立って発言をしたり、積極的に行動するようなリーダーシップなど持ち合わせておらず、出来れば窓際の一番後ろの席でひっそりと読書を嗜むような学生生活を望む生徒だった。
だが彼女の非凡な学力と責任感を重んじる生来の気質がそれを許さず、周りのやや強引な後押しに流されるまま、気付けば生徒代表という訳の分からない立ち位置に居た。
従って、今まさに彼女に課せられた任務は決して彼女にとっての名誉や栄誉では無く、ただただ苦痛でしか無い。
この祝電が尽きた際には、彼女はここにいる400名弱の人達の前で答辞を読み上げなければならないのだ。
卒業式という学校の歴史を彩る一幕で。
鼓動はどんどん早くなる。
祝電の内容などとうの昔から耳に入ってこない。
膝の上で揃えた両手にぎゅっと摘ままれた式辞用紙は、じっとりと手汗を吸い込んで湿っている。
桃華は一つ深呼吸をした。
こんなところまでテンプレ通りなのも彼女の優等生ぶりを証明するかのようであるが、そんなことを気にする余裕など勿論無い。
―ふうぅぅぅう……
深く息を吐き出すが、震えているのが自分でも分かる。
それを感じたのか、隣の女生徒が少し桃華を気遣う様子をしている。
―大丈夫。
彼女は自分に言い聞かせる。
―これまで何度も全校生徒の前でスピーチしたじゃない。
それより少しばかり人が多いだけよ。
もう一度桃華は深呼吸する。
幾分、気休め程度には心が落ち着いたようだ。
「それでは続きまして、卒業生、答辞――」
ついに中年男性のダンディな声が桃華の登場を促した。
上擦らないよう必死にコントロールしながら大声で返事をし、桃華は立ち上がってそのまま壇上へと登った。
マイクの前に立ち、小刻みに震えている事を見透かされないよう祈りながら、両手で持った式辞用紙を広げ、顔の前まで持ち上げた。
いざ、答辞を読み上げようとした彼女の目は一瞬色を失い、それから二度三度と左右に彷徨い……
――そして彼女の思考は白く染まった。
彼女が今持つ式辞用紙は、彼女が用意してきた物では無かったのだ。
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県立栗ヶ丘北高等学校は、本州の西端に近い場所にある。
東京に出るよりは当然大阪や京都の方が近いし、何なら四国や九州だって直線距離なら直ぐ近くだ。
周囲は直径50キロくらいの長閑な盆地で、概ね田園と田畑に彩られている。
田舎にふさわしく学校のある場所も広大な敷地を有しており、近くに牧舎がある事も相まって、風光明媚なカントリーライフを体現している。
学校の敷地の直ぐ外には清らかな小川が流れ、川沿いに咲く桜の花を目当てに連日花見客が集まるような環境だ。
最も花見客というのは大概近所の農家のおじちゃんおばちゃんなので、下校中の子供や孫を嫌々巻き込む、生徒達にとっては恐怖のイベントでしか無い。
栗ヶ丘北高校としてのセールスポイントは、文武両道、県内でも名を馳せる学校である事か。
部活動は体育会系、文系問わずなかなかの成績を誇っており、大学進学率も県内ではトップを争う。
校門を潜るとロータリー状に広場が鎮座し、楕円形をした花壇が目を引く。
花壇には人が手を広げたような形でピンクのカトレアが植えられており、その周りをクロッカスの青が埋め尽くし、一層華やかに演出されている。
最もその見頃は春真っ盛り、入学式の時期になるので、今はまだ蕾のままだ。
校舎は校門から見ると正面に飛び出したT字型をしており、三階建ての20年物。
屋上には10年前から左右それぞれ南北へ向けてソーラーパネルが傾斜して設置されており、昼過ぎの時間帯だとちょうど校門に向けて、鳥が羽ばたいているような影を落とす。
桃華の家は自転車で20分程の距離であり、通学路に起伏も無い事から、なかなか通いやすい場所ではあった。
思い起こせば入学以来三年間、色々あったのは確かだが、この校門前の風景は常に変わらず見続けた物なのだ。
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「答辞―
暖かな天候に恵まれたとはいえ、長い冬もようやく終わり、本格的に春麗らかな季節を迎えまして、今日、私たちは晴れてここ栗ヶ丘北高等学校を卒業いたします。」
何とか声を震えさせずに、そこまでを一気に桃華は読み上げた。
式辞用紙には達筆な文字で桃華の考えた文章が綴られている。
この文字は確かに桃華が書道部員の知り合いに頼んで書いて貰った物だ。
「―思えば三年前の春、この学び舎の門を叩いた私たちは……」
だが、確かに今手にしているこの用紙は、桃華が用意してきた物では無い。
なぜなら、この式辞用紙は純白に保たれていたからだ。
桃華はこの日の為に、自室で朝昼晩と暇を見付けては答辞を読み上げる練習をしてきた。
晴れの卒業式という大舞台で、震えず噛まずどもらず、完璧に大役を終える為、飽きもせず何百回と同じ文章を諳んじてきたのだ。
ブレスの位置、読み間違えそうな漢字のフリガナ、溜を作るタイミング。
全て完璧になるように用紙にメモを書き込んでいた。
そのメモが綺麗さっぱり消えている。
――一体、誰がこんなことを。
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桃華は入学早々美術部に入った。
一年生としては同期に美野里、萌花がおり、二人は何かに付けサボりたがる癖があって桃華がいつもその暴走を止めていた。
とはいえ仲は良かったと思うので、こんな悪戯はしないような気がする。
美術部の隣は音楽室で、吹奏楽部ともよく雑談を交わした。
吹奏楽部と言えば、バリトンサックスを吹いていた同級生の翔太という男子に、一年の時に告白された事がある。
校庭の隅に咲く桜の木の下で告げられたのも、今は良い思い出だ。
その時は恋愛など頭の片隅にも無かったので素気なくお断りをしたが、今になってみると一度くらいは色恋の浮名を流してみるのも悪くなかった。
翔太とはその後もいい友人関係を築けているので、今回の事には関係が無いと思う。
その後三人の男子生徒に告白されたが、ほとんど話もした事が無く、学年も違っていた為、どんな人達だったか記憶が曖昧だ。
よく知らない男子だったうえ、ぶっきらぼうな態度が怖くて禄に顔も見られなかった。
もし今回の事に関係があるのなら、逆恨みにも程がある。
後は、式辞の清書をお願いした書道部員か。
日南という男子だが、性格はとても温厚だし、やはりこの件に関係しているようには思えない。
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「……校名にもありますっ……」
そこまで来て、桃華の声に淀みが生まれた。
何も書かれていないと思われた式辞に、人の手が入った形跡が忽然と現れたからだ。
「…校名にもあります栗の木もまた、『桃』栗三年柿八年と諺にある通り―」
桃の字にボールペンで書き加えられたカギ括弧。
桃華は必死に動揺を隠しながら、続きを目で追う。
声に驚きが乗らないよう、注意を払いながらも、桃華は言葉を紡ぎ続けた。
頭の中はどうして、なんで、と疑問をぶつけまくってくるが、今はとにかくこの場を納めるのだ。
一刻も早くこの罰ゲームから解放して欲しい、そう桃華は願う。
「……ある者は学問をひたすらに追い、ある者は……」
桃華にはもう一つ危惧があった。
それは、桃華が考案したこの文面を、知らない誰かにさり気なく書き変えられたりしていないか、ということだ。
これまではその形跡は無い。と、思う。
正直、断言できるほど桃華の精神は鉄壁では無い。どちらかと言えば叫びだして逃げ出したいくらいには参っている。
とにかくこれが誰かの悪質な悪戯で、不用意な発言をこの公の場で言わされたりしないように、目で認識した言葉を一度頭の中で咀嚼して言葉に吐き出す、という荒業を強いられている現状であった。
「……私たちは数多くの『愛』情と教育を享受してここまでやってこられました。」
二度目のカギ括弧の登場だ。
今度はさほど動揺していない。
大丈夫、ここまでは何とか上手くやれているはずだ―
「……ここからさらに巣立ち、より大きな『翼』を広げた私たちを……」
「……いつかそれぞれが『大』輪を咲かせる日が来る事を、ここにお集まりの皆様方に必ずお目に掛ける事を誓って、ここに答辞と変えさせて頂きます。
卒業生代表、桐谷桃華―」
桃華は周囲に気付かれないように、静かに、だがとても深く息を吐き出した。
そして震える足を動かし後退り、深々と礼をした。
相変わらず心臓はうるさく鼓動を鳴らしているが、始まる前とは雲泥の差だ。
むしろ全てが終わった事で、清々しささえ覚えている。
ぎこちないながらも何とか自分の席に戻り、パイプ椅子に腰を下ろす。
ようやく桃華は安心して溜息を吐けた。
弛緩と安堵と、少しの怒り。
隣の女生徒が囁くような声で労ったが、今はまだそちらに気を向けられない。
一体、誰がこんな悪戯をしたのか。
大事にはならなかったけれども、桃華にとってはとても笑い事ではない。
やがて式は次のプログラムに移り、卒業生が全員立ち上がっての合唱となった。
桃華も口だけは動かしながら、頭の中では式辞用紙をすり替えた犯人捜しを始める。
まず、犯人の目的だ。
犯人は何がしたかった?
―桃華を困らせる為―
本当にそうだろうか?
だが今はそれ以外に思いつかない。
でもそれなら。彼女は思う。
―あのカギ括弧は何の為?―
カギ括弧が加えられていたのは「桃」「愛」「翼」「大」。
桃華は周りの人から見えないよう、腿の辺りにすっかりふにゃらけた用紙を広げて確認する。
明らかにこれは何かのメッセージだろう。
この四つの文字は、一体何を示すのだろう――
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黒光りする筒を片手に、学ランとセーラー服が校門前の広場に散らばっている。
下級生と別れを惜しむ者、友達と笑い合う者、教師と語り合う者。
保護者も混ざり、混沌とした雰囲気になっている。
――ここに桃華はいない。
桃華はといえば、校舎の裏手、Tの字の真裏で表からはまるで見えない大きなグラウンドの、その片隅に佇んでいた。
桜の木はまだその花を咲かせておらず、黒々とした幹が寒々しく見える。
その幹に片手を当ててぼんやりとしていると、校舎の方向から一人の男子生徒が歩いてきた。
花粉症なのか大き目のマスクをしている。
顔のほとんどをマスクが覆っているが、その風貌に間違いは無い。
「翔太君……」
「やあ、桐谷さん。
お待たせしちゃったよね?
ごめん。」
大して悪びれずに学ランの少年は言った。
その瞳は穏やかで、口調には親愛の情が籠もっている。
「どうしてあんなことしたの?」
「どうしてだと思ってる?
そもそも、どうして僕だと分かったのか、桐谷さんの考えを聞かせて欲しいな。」
桃華のすぐ近くにまで辿り着き、10㎝ほど高い身長からやや見下ろすように翔太は聞いた。
その声音は相変わらず優しげだ。
毒気を抜かれた桃華は、辿々しくも自分の考えをポツポツと語った。
「カギ括弧が書かれていたのは『桃』『愛』『翼』『大』だった。
そこから思いついたのは…
『桃』は桜。
『愛』は……その、えっと。一年の時に…。
…コホン。
『翼』と、『大』からは、翔太君の名前を連想したの。
だから……ここに来いと言ってるのかと…思って…」
顔を紅潮させ尻すぼみに言葉を濁らせる桃華を見て、翔太は楽しそうに笑った。
「はは。やっぱり良いな。
桐谷さんは、すごく良いよ。」
そして徐に制服の第二ボタンを外し、桃華に差し出した。
「今時流行らないかもしれないけど。
桐谷さんに受け取って欲しいな。
…好きです。」
あまりにストレートな言い草に桃華の思考がストップする。
思えば、一年の時の告白もこんな感じで真っ正直だった。
「覚えてるかな、二年前の事。
僕は言ったよね。すっと待ってるって。」
そう言ってまた屈託無く笑う翔太を見て、体中の力が抜けていくのを感じながら、桃華は差し出されたままのボタンを受け取ってしまった。
もうなんかどうでもいいような気になっていたのだ。
このまま浮ついた雰囲気に流されてみるのも良いのかも。優等生最後の日なのだし。
「ありがとう。
少し、歩きながら話さないか?」
誘われるまま桃華は、校門の方角へと足を向けた。
特に会話も無く、二人でのんびりと歩いて行く。
やがて校門前の広場に辿り着く。
まだ人はけっこう残っていて、名残惜しそうに写真を撮ったり、寄せ書きの色紙を回したりしている。
広場にはちょうど校舎の影が覆っており、まだ肌寒い風が時折生徒達を震えさせる。
「あの花壇に植えられている花、知ってる?」
「クロッカスとカトレアでしょ?」
桃華は気持ち翔太を見上げながら答える。
「そう。ピンクのカトレアはね、ランの女王とも呼ばれているんだ。
桐谷さん、知ってた?」
桃華は黙って首を振る。
「僕は桐谷さんを一目見た時から、桐谷さんはカトレアだと思ってた。
桐谷さんは大人しめなのに何故か存在感があって、優しいのに厳しさも持っていて。
ランの女王にふさわしいな、って。名前に桃の字もあるしね。
まぁ、生徒会長にまでなっちゃった時はびっくりしたけど。」
そう言ってまた明るく笑う。
二人で花壇の前に回り込む。
桃色のカトレアはまだ咲いていないが、クロッカスの蕾に囲まれて、人が両手を広げたような形で植わっている。
むしろ、大の字と呼んだ方が良いだろう。
校舎の影は花壇を覆う辺りまで伸びている。
俯瞰で見れば、屋上のソーラーパネルがちょうど鳥の翼を象っているだろう。
「カトレアの花言葉はね。
まぁ、色々あるんだけど。
僕はこの言葉を選びたいんだ。
『君は美しい』」
「……えっ?」
「書道部の彼が捨てようとしていた練習用の用紙を貰って、僕が書き込んだメッセージは…
恥ずかしいけど、僕なりのラブレターだよ。
この場所で、君を待っていた。」
そう言って少年は手を差し伸べた。
少しの逡巡の後、少女はその手を取る。
「でも。
あれじゃぁ何にも伝わらないよ?」
「ごもっとも。
核心は自分の口から伝えたかったからね。
あれを見て、待ち合わせの場所を探し当ててくれたら、もう一度告白しようと思った。
ダメだったらすっぱり諦めるつもりだったよ。」
「ぷっ」
溜まらず桃華は吹き出した。
「ダメだったじゃない。私、見当違いの所に行っちゃったよ。」
「ははは、そうだね。
でも、でもあの場所を覚えていてくれた。
その方が、僕には大きかったんだ。」
穏やかにそう告げた少年の顔を、やや呆れながら、でもこの上なく楽しい気持ちになりながら桃華は見つめる。
その時、二人の顔にいくつもの花びらが舞い踊った。
季節前のサプライズの桜かと思ったが、それは誰かの飛ばした紙吹雪であった。
見つめ合って、二人はまた笑った。
(了)