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春麗のミステリーツアー【アンソロジー企画】  作者: 春麗のミステリーツアー参加者一同
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「首切り雌雛殺人事件」 奥田光治 【本格推理】

 長野の松宮村という場所にあった『人形の家』と呼ばれる別荘で起こった殺人事件をひょんなことから事件に介入した私立探偵・榊原恵一が解決したのは一年ほど前の話になるが、事件が解決した時点で、この『人形の家』が全く別の事件の引き金になる事を想像できた人間は、榊原も含めて存在しなかったと言っていいだろう。

 『人形の家』は松宮村郊外の山林にポツンとあった小さな別荘で、さる資産家が趣味で国内外から集めた高価な人形が所狭しと飾られている建物だった。資産家の死後、『人形の家』は病弱だった資産家の娘が療養所として使用していたのだが、ある時その娘が何者かにめった刺しに殺害されるという事件が発生し、たまたま所用で村に来訪していた榊原が見事犯人の正体を暴いた事によって事件そのものは幕を閉じた。

 さて、事件は解決したが、その後村の中では残された『人形の家』の処分が問題になる事となった。殺された娘には後見人となる養父がいたが、この養父は殺人現場となった『人形の家』を持て余し、村人からの陳情もあって最終的に中にある人形を処分した上で建物自体は解体する方針を固めた。問題は、その大量に保管された人形の処分である。人形の中には高価なものや貴重なものも数多く含まれていたので適当に処分する事はできない。悩んだ末に、その養父はこれら大量の人形をオークションにかける事にし、大半の人形がこの大盛況となったオークションで無事に売る事ができた。それでも売れ残った人形についても色々あった末に各地の博物館などに引き取られる事が決定し、最終的に人形の処分は滞りなく進む事となったのである。

 ……さて、そんなオークションで落札された『人形の家』の人形たちの中に、今回問題になるそれはあった。保管品の目録には『首切り雌雛』と書かれていた雛人形で、そう呼ばれる理由は単純明快に、人形の首から上が現存していなかったからである。

 この雌雛に首が存在しない理由ははっきりしないらしい。目録にはこの人形の『いわく』も多少なり書かれていたが、それによればさる貴族が織田信長の側室に姫が生まれたのを祝うためにこの雌人形を献上したところ、直後に本能寺の変が起こって本能寺に滞在していた貴族自身も明智兵に首を斬られて殺され、焼け跡から貴族の焼死体と共に見つかったのが貴族同様に首のなくなった雌雛だったという。以来、この雌雛の所有者には必ず災厄が降りかかるとの事だが、それがどこまで本当なのかはわからないというのが実際だった。

 ただ、ここ最近の所有者を見てみると、その呪いとやらは実際にあるのかもしれないと思いたくなるのも事実だった。事実、目録によれば『人形の家』を作った資産家がこの雌雛を手に入れたのは、その前の所有者である貿易会社社長が今から十五年ほど前に押し込み強盗で死亡した事で遺品が放出されたからだったという。後の捜査でこの社長は裏で若者を使った麻薬密売を行っているなど相当なワルだった事がわかっており、そういう事が起こってもおかしくはない立場だったのだが、その後この人形を引き取った『人形の家』でも先述した通り殺人事件が起こっているのだから、少なくともこの人形が縁起のいいものでない事は確かだった。

 『二度あることは三度ある』と昔からよく言われる。そして、この『首切り雌雛』に関する事象についてもそれは例外ではなかった。オークションが終了してから一ヶ月も経たないうちに、この『首切り雌雛』をめぐる新たな殺人が発生する事になったのである……。


「被害者は三野月貴夫みのづきたかお、四十八歳。この『甲州人形博物館』の館長だった男です」

 初動捜査班を担当している所轄の鳩村刑事の言葉に、山梨県警警刑事部捜査一課の藤三太郎警部は渋い表情で遺体を見下ろしていた。現場となった甲州人形博物館は山梨県甲府市郊外にある個人経営の小さな博物館なのだが、その博物館の館長は今、藤の目の前で血まみれになってうつぶせに倒れている。そして、そんな三野月館長の遺体の周りにはこれまた遺体同様に血でまみれた人形が散乱しており、そして問題の首切り雌雛は被害者が誰かに奪われまいとしているかのように遺体の下で抱き抱えられていたのだった。

「まるでこの人形が館長の血を吸ったみたいだな」

 藤はそう言いながらも、鳩村に質問を重ねる。

「遺体発見の経緯は?」

「この部屋は特別展示室で、明日から『人形の家展』と題して例の長野の『人形の家』のオークションで三野月が落札した人形の特別展示を行う予定でした。なので、今日の段階では一般客は立入禁止で館長自身が人形の展示作業を行っていたのですが、被害者に用事のあった学芸員がこの部屋に入り、そこで事切れていた被害者を発見したという流れです。遺体発見は今から一時間前で、学芸員が即座に警察に通報しています」

「ふむ……」

 藤はそう言って考え込みながら、遺体を調べている県警鑑識課のベテラン鑑識官である浅田警部補に尋ねた。

「死亡推定時刻は?」

「詳しくは解剖待ちだが、概ね一時間~二時間前と言ったところか。今が午後三時だから、午後一時から午後二時の間と見て問題ないだろう。死因は全身を滅多刺しにされた事による出血死。凶器はそこに転がっているナイフだ」

 浅田はそう言って遺体近くの床を示した。そこにはこの部屋には不釣り合いなナイフが一本血まみれで転がっている。

「ついでに、発見者の学芸員いわく、ざっと見た限りここからなくなった展示物はないそうだ。犯人は被害者を殺害した後何も盗っていないという事になる」

「つまり、犯人の目的は物取りではなく被害者の殺害だった、というわけか」

 と、ここで鳩村がさらに事件の情報を追加した。

「この博物館は、一昔前にある資産家が道楽のために作った別荘を、資産家の死後に三野月が買い取って改装した代物です。出入口は合計二ヶ所。一般客が出入りする正面の玄関と、展示品の搬入などに使う裏口です。しかし、正面玄関には館内に入るための受付カウンターがあって、そこには入館チケットの販売をしている受付嬢と警備員の二人が常に常駐して客の出入りを見張っている状態でした。で、事件当時、この博物館には四人の客がいた事がわかっています」

「その客とやらは?」

「正面玄関ホール横に休憩所があるので、職員と一緒にそこで待機してもらっています。事件当時はその客四人と、三野月館長を含めた職員が四人、合計八名がこの建物の中にいた事になります」

「つまり、被害者を除いたその七人が容疑者になるわけか」

「はい。我々警察が到着してすぐに鑑識が調べた結果、展示品搬入用の裏口には内側から鍵がかかっていて、ここから出入りする事はできなかったそうです。浅田さんの話では、ドアノブに細工の痕跡や指紋といったものは確認できなかったとか。内側からはつまみをひねるだけで鍵をかけられますが、外から開けるには特殊な鍵が必要で、鍵の複製はほぼ不可能というのが職員のコメントです」

 その言葉に藤が浅田の方を見ると、浅田は肩をすくめながら無言で頷いた。

「なるほどね……。では、ひとまず容疑者たちに話を聞いてみようか」

 藤はそう言って現場を鳩村に任せると、彼らがいるという玄関横の休憩室に向かった。だが、部屋に入って彼を見た時、その中に見覚えがある顔があるのを藤は見て取っていた。

「おや、誰かと思えば藤警部ですか」

 その人物の言葉に対し、藤は深いため息をつきながら言葉を返す。

「なぜ、あなたがこんな所にいるんですか……榊原さん」

 藤の視線の先で苦笑気味に笑っていたのは、元警視庁捜査一課警部補で今は都内で探偵事務所を開業している私立探偵・榊原恵一その人だった。藤も彼が現役刑事だった時代に何度か一緒に捜査した経験があり、今でも難しい事件があったりするとたまに相談するような間柄である。藤の呆れたような表情に気付いたのか、榊原は苦笑しながらも事情を説明した。

「いえ、ちょっとこの辺までくる用事がありましてね。そうしたらこの博物館であの『人形の家』の人形が展示されると聞いたので寄ってみたんですが……その結果、こうして殺人事件に遭遇してしまったというわけですよ」

「『人形の家』をご存知なんですか?」

「えぇ、まぁ。実は、松宮村で起こった事件に少しかかわった事がありましてね。その縁でちょっと気になったものですから」

 とにかく、せっかく榊原がいるならこれを利用しない手はない。藤はその場で榊原に捜査に協力してくれるように頼み、今までの捜査でわかった情報を話した。巻き込まれた身である事もあってか榊原も比較的あっさりこれを了承する。

「とはいえ、この段階では私は容疑者の一人ですから、まずは身の潔白を晴らす必要はありますがね」

 榊原はそう言って他の面々をチラリと見やる。警備員の格好をした若い男が一人と、学芸員の制服を着た男女のペア。そして榊原同様に一般人と思しき三人の、計六人である。

「では、皆さん。申し訳ありませんが名前と職業を」

 藤にそう言われて、まず学芸員のコンビが自己紹介をした。

「私はここの学芸員の博多正隆はかたまさたかといいます。こっちは同じく学芸員の鳴子未菜江なるこみなえ君」

 博多にそう言われて未菜江はおずおずと頭を下げる。次いで、若い警備員が怯えながら名前を名乗る。

「お、俺はここの警備員の曽根崎守弘そねざきもりひろです。まさか、こんな事になるなんて……」

 いささか頼りない警備員だが、藤はひとまず残る客に目を向けた。初老の男性と若い男、それにどこか不気味な笑みを浮かべた白衣の男の三人である。まず初老の男が名乗る。

「民俗学者の遠野久仁夫とおのくにおです。正確には京阪大学文学部民俗学教授、という事になりますが」

 次いで若い男が名乗る。

「僕は尾張大学社会学部三年の伊牟田藤信いむたふじのぶです。たまたま山梨を旅行中にここに立ち寄ったら、こんな事件に遭遇してしまって……」

 最後に白衣姿の不気味な男が、いかにも怪しげな口調で名乗った。

「小生はホラー作家の安達ケ原幻柳斎あだちがはらげんりゅうさい。取材のためにこの忌まわしき博物館を見学していた次第」

 自己紹介が全員終わると、藤は早速尋問を開始した。

「事件の第一発見者は学芸員の方と聞きましたが……」

 その問いに、手を挙げたのは博多だった。

「私です。館長に用事があったので探していたら、特別展示室であんな状態になっているのを見つけて……」

 その時の様子を思い出したのか、博多は体を震わせた。

「発見時刻は午後二時頃で間違いありませんか?」

「はい。館長を探す前にチラリと時計を見ましたので、そのくらいだったかと。そしたら私の上げた悲鳴を聞いて、ちょうど特別展示室の前を通りかかったそこのお客さんが顔を出したんです」

 そう言って、博多が指さしたのは他ならぬ榊原だった。

「この話は本当ですか?」

「えぇ。私はちょうど特別展示室の辺りを歩いていて、博多さんが部屋の中に入るのを見ました。そしたらすぐに悲鳴が上がって、何事かと思って中を覗いたらあの状況だったわけです」

「その後は?」

「博多さんが携帯で警察に通報して、その後事務室にも電話をかけて建物から誰も出さないように指示していました。その後はずっと二人であの部屋の前で警察が来るまで見張っていたんです」

 つまり、榊原の証言が正しいなら、遺体発見から警察の到着までの間に誰かが遺体に細工をする事はほぼ不可能だったという事になる。そして、この場で榊原が嘘をつく理由などなく、この証言は事実として受け入れるしかなかった。

「最後に被害者を見たのはいつですか?」

「えっと……午前中は私と館長の二人で九州から送られてきた展示品の倉庫への搬入作業をしていて……昼食休憩の時に二人で事務室の奥で一緒に食事したのが最後です。受付業務をしていた鳴子君も同じ部屋にいたので、証明はできると思います」

 その言葉に、鳴子もおずおずと頷いた。この博物館の事務室は玄関右横にある受付の奥にある。そして、当時受付業務を担当していたのは未菜江であった。

「昼食休憩が終わった後、館長は特別展示室の展示をすると言って部屋を出て行きました。一人でいいという事だったので、私はそのまま事務室で事務仕事をしていたんです。時間は確か……午後一時頃だったと思います」

「それまでにお客は?」

「いませんでした。この方たちはそれ以降に当館に入場された方々ばかりです」

 博多は客たちをチラリと見ながら証言する。藤は実際に受付を担当した未菜江にも確認を取った。

「は、はい。博多さんの言う通りです。昼から売ったチケットは四枚だけですから」

「俺もそれは証言できる」

 声を上げたのは警備員の曽根崎だった。彼は玄関の入場口を抜けたすぐ、つまり受付を見張れるような場所にずっと立っていたのである。

「しかし、このような博物館に警備員が一人しかいなくて、しかも展示室ではなく玄関を見張っているというのは……」

 藤のその疑問に答えたのは博多だった。

「こんな事を言うのは何ですが、館長の個人経営である事もあってこの博物館は金銭的にかなりギリギリで、警備員も彼一人しか雇う事ができなかったんです。なので、展示室には防犯カメラと赤外線式のセキュリティ装置を仕掛けて、警備員は玄関に配置して人の出入りを監視するようにしていました」

「防犯カメラ、ですか。では、事件のあった特別展示室の映像もあるという事ですか?」

 当然の藤の疑問に、しかし博多は首を振った。

「それが陳列作業中は作業のためにセキュリティ装置の電源を全部切っているので、防犯カメラも録画されていません。また、カメラがあるのは各展示室だけで、廊下の人の動きはわからないんです。何しろお金がなくて、展示室にセッティングするのが精一杯で……」

「つまり、特別展示室内部の状況はもちろん、事件当時に特別展示室に誰が出入りしていたのかも一切わからないという事ですか」

 藤は憮然とした表情で言い、改めてこの博物館の見取図を見やった。この博物館は通路が正方形の回廊になっていて、この正方形の底辺部分の外側に玄関があり、その玄関を入って向かって左側に受付と事務室、右側に今藤達のいる休憩室がある。玄関から中に入ると客は正方形の回廊を反時計回りに回る事になり、正方形の縦辺に該当する二本の廊下の外側に展示室がくっつく形となっている。すなわち、正方形の左縦辺の外側に第一展示室と第二展示室、右縦辺の外側に第三展示室と第四展示室が時計回りにある形だ。これらの展示室は独立しており、従ってそんな事をする奴はまずいないが、どの展示室にも入らなければ正方形の回廊をグルリ一周して何も見ずに元いた玄関に戻ってくる事も可能なのである。何度も言うように防犯カメラは展示室しか設置されていないので、展示室に一切入らず廊下だけ歩いていた人間がいた場合、その存在が映像に映る事はない。

 そして、正方形の内側部分はまるごと特別展示室になっており、この特別展示室が今回の現場となる。ただし、この特別展示室に入る出入り口は正方形の上辺部分にしか存在せず、しかも今回は展示準備中という事で立入禁止の札がかかっていて客が入れないようになっていた。ただし、展示準備中という事情から扉の鍵自体は開いたままだったので、札を無視すれば出入りすること自体は部外者にも可能である。ちなみに、上辺部の外側、すなわち特別展示室の入口と廊下を挟んだ反対側には展示品を所蔵する倉庫があり、その倉庫の一番奥に先程から話に出ていた展示品搬入用の裏口があった。

「では、事件当時……すなわち午後一時から午後二時までの皆さんの動きを確認したいと思います。まず、職員側三人の動きはどうでしょうか?」

「……さっきも言ったように、館長が出て行ってからはずっと事務室で事務をしていました。それは受付の鳴子君が証明してくれるはずです」

 博多の言葉に、未菜江も頷いた。

「は、はい。博多さんは私の後ろの事務室にずっといたと思いますが……」

 が、これに異を唱えたのは警備員の曽根崎だった。

「おい、ちょっと待ってくれ。俺の記憶が正しかったら、確か一回だけ博多さんが事務室から出て館内に入っていったと思うんだけど」

 その言葉に、藤の顔が少し険しくなった。

「そうなんですか?」

「えーっと……そう言えば確かに、一度だけ資料を取りに倉庫に行きました。でも、往復で五分くらいの事です」

「何時頃ですか?」

「一時半を少し過ぎた辺りだったかなぁ。あ、そう言えば、途中でそこの民俗学者さんと廊下ですれ違った気もします」

 その言葉に、全員の注目が遠野に向く。それを受けて遠野も少し考え込む。

「……あぁ、そう言われれば確かに、第二展示室から第三展示室へ向かうために廊下を歩いていたらそこの学芸員さんが『倉庫』とプレートに書かれた扉から出てきたのを覚えています。確か、一言二言会話もしたはずです」

 遠野ははっきりとそう証言した。

「いいでしょう。遠野さんの証言は後で聞くとして、気になる事がもう一つ。その倉庫と現場となった特別展示室の入口は廊下を挟んで隣り合っていますが、何か変わった事に気付きませんでしたか?」

「……さぁ、わかりません。ドアは分厚くて、閉じられたら中の音は聞こえませんから。私はその時、館長が中で一人で作業をしているとばかり思っていたもので……」

 何とも歯切れの悪い答えだった。

「わかりました。では、次に受付にいた未菜江さんですが……」

 その質問についての答えは簡単だった。

「わ、私はずっと受付にいました。一度も離れていません」

 それを補強したのは警備員の曽根崎だった。

「あぁ、確かに彼女は受付から一度も離れていなかった。ずっと玄関を見ていたから間違いねぇ。というか、受付の人間がいなかったら仕事にならねぇだろ」

 そして、これを逆に言えば曽根崎のアリバイも確定する事になる。

「つまり、あなた自身も該当時間に持ち場を離れていない?」

「当然じゃねぇか。警備員が持ち場を離れていたらただのさぼりだろ。目立つ場所だし、さすがの俺もそんな大胆不敵な事はやってねぇ。鳴子さんも俺の事をちゃんと見てたよな?」

 その問いに、今度は未菜江がしっかり頷いた。

「はい。私の見ている限り、曾根崎さんは玄関前の持ち場から一度も離れていません」

 つまり、この二人はそれぞれがそれぞれのアリバイをしっかり証明し合っているのである。まさに完璧なアリバイだった。

「では、次に客の四人に話を聞きますが、この中で最初に博物館に来たのは誰ですか?」

 その問いに答えたのは、実際に入館手続きをした受付の未菜江だった。

「それは遠野さんでした。午後一時を過ぎてすぐくらいにご来館されたと思います」

「そうなんですか?」

 藤の問いに、遠野があっさり頷いた。

「えぇ。駅前の食堂で昼食を取って、店を出たのが十二時五十分くらい。そこからここまで十分くらいだから、概ねその時間になると思います」

「来館した後は?」

「すぐに受付でチケットを買って中に入りましたよ。そのまま回廊に沿って第一展示室に入って展示されている人形を見ていました。さっきの話が正しいなら、展示室での様子は防犯カメラに映っているはずです」

「どのくらいその部屋にいましたか?」

 その問いに、遠野は戸惑ったような表情を浮かべた。

「そんなのいちいち覚えていませんよ。とにかく、一通り第一展示室を見た後ですぐに隣の第二展示室に行って、そこでもある程度展示を見た後で廊下を通って第三展示室へ向かいました。その途中で、さっき言ったようにそこの副館長さんが倉庫とプレートに書かれた扉から出てくるのを見たんです。何か重そうなファイルを持っていて、『大丈夫ですか?』と声をかけたのを覚えていますが、問題ないとの事だったのでそのまま第三展示室に行きました。で、第三展示室を一通り見た後はそのまま第四展示室に行って、元の玄関に戻ったのでそろそろ出ようかと思った時に奥から悲鳴が聞こえて……結局こうして足止めされているというわけです。悲鳴が上がった時は玄関にいたので、そこの警備員さんと受付の人が見ているはずですが」

 藤が二人に確認すると、確かに遺体が発見された午後二時頃、遠野が回廊を一周回って玄関に戻ってきていたのは間違いなさそうだった。

「いいでしょう。では、次に来たのは?」

「えっと……伊牟田さんだったと思います。確か、来場したのは午後一時十五分くらいだったかと……」

 その言葉に、藤の視線が伊牟田の方へ向いた。

「確かですか?」

「さ、さぁ……入った時間まで覚えていませんけど、受付の人がそう言っているんだったらそうだと思います」

「入った後はどうしましたか?」

「とりあえず第一展示室を見て……次に第二展示室に入ったんですが、そこでサモトラケのニケをモチーフにした面白い姿の人形を見つけたもので、そのぉ……迷惑かもしれないと思ったけど、室内のベンチに座ってスケッチをしていたんです?」

「スケッチ?」

 思わぬ言葉に藤は眉をひそめる。

「はい。僕、絵を描くのが趣味で、面白いものがあるとスケッチするのが習慣なんです。それから悲鳴が上がるまで、ずっと第二展示室でその人形をスケッチしていました。これです」

 伊牟田はそう言うと背負っていたリュックから一冊のスケッチブックを取り出して藤に見せた。確かに、そこには奇妙な格好をした人形がスケッチされており、副館長の博多に確認すると間違いなく第二展示室に展示してある人形との事だった。

「描いているときに誰か第二展示室に来ましたか?」

「さぁ……あっ、でも第二展示室に入った時はそこの遠野さんがまだいました。僕が入って少ししたらすぐに出て行きましたけど。それと、悲鳴が上がる少し前にそこの探偵さんが来たのは覚えています。確か、探偵さんが出てすぐくらいに廊下から悲鳴が上がっていました」

 藤が榊原を見ると、榊原は小さく頷いた。この辺の話は後で確認する必要があると藤は判断した。

「では、彼の次に来たのは?」

「安達ケ原さんです。目立つ格好だったのでよく覚えています。確か、伊牟田さんの来た五分後だったんじゃないかと思います」

 つまり午後一時二十分ごろの話という事だ。藤が目をやると、安達ケ原は重々しく頷いた。

「入館後、あなたも第一展示室に?」

 藤の問いに対し、安達ケ原は黙って首を振った。

「否。小生、元より目的の人形があったが故に、そのまま第四展示室まで行った次第」

「第四展示室?」

「左様。第四展示室に展示してある『旧家・古森家の日本人形』が目的であった。次作はこの人形をモデルにした怪奇譚を書きたいと思ったが故、他の展示室などわき目もふらず、第四展示室に向かった次第。わざわざ逆方向から大回りしなければならなかったのはいささかうんざりとしたが、とにかくそのまま第四展示室で悲鳴が上がるまで充分に件の人形を堪能していた次第」

「つまり、あなたは第一から第三までの展示室には入っていない?」

「そう言っている」

「では、他の人にも出会っていない?」

「左様。ただ、悲鳴が上がる少し前にそこの遠野とかいう民俗学者が来て、しばらく展示を見た後に部屋を出て行ったのは覚えている」

 そう言えば、確かに遠野もそんな事を言っていた。改めて遠野に尋ねると、

「あぁ、確かにそう言えば、第四展示室にその男はいましたね。ずっと同じ人形ばかり凝視していたので印象に残っています」

 と、安達ケ原がいた事をあっさりと認めた。

「そして、最後に榊原さんが来たと?」

 その藤の問いに、榊原は頷いた。

「えぇ。確か、時間は午後一時半を少し過ぎた頃だったと思います。その後、順当に第一展示室、第二展示室と見て、さっきも言ったように第三展示室に行く途中で悲鳴を上げて特別展示室から飛び出してくる副館長さんに遭遇したわけです」

 その後念のため、藤は各展示室に設置されているという防犯カメラの確認作業を鑑識の浅田に依頼した。その結果、少なくとも展示室にいた時間について、全員の証言が裏付けられる事になった。

「午後一時少し過ぎたところで遠野さんが第一展示室に入り、十五分後に部屋を出た後、二十秒ほどを経て第二展示室に姿を見せています。同じ午後一時十五分過ぎ、正確には遠野さんが第一展示室を出てから四十秒後ですが伊牟田さんが遠野さんと入れ替わるように第一次展示室に入り、午後一時二十四分頃に安達ケ原さんが第四展示室に入室。確認したところ、あの回廊を玄関から第四展示室まで反時計回りに歩けば四分程度はかかるとわかったので時間的には合致します」

 浅田の報告に全員が黙って耳を傾けている。

「午後一時半頃に伊牟田さんは第一展示室を出て二十秒後に第二展示室に入室してスケッチをはじめ、それから五十秒後に榊原さんが第一展示室に入室。午後一時三十七分ごろに遠野さんが第二展示室を出て、三分後の午後一時四十分に第三展示室に入室。午後一時四十五分に榊原さんは第一展示室を出て二十秒後に第二展示室に入り、午後一時五十分に遠野さんが第三展示室を出て二十秒後に第四展示室に入室。そして午後二時少し前に遠野さんと榊原さんがそれぞれのいた展示室を出て、その直後に遺体が発見された模様です」

「そうか……」

 藤は苦々しげに頷いた。すべてが各々の証言通りで、誰も犯行を成し遂げられる隙が全く無い。藤は思わず榊原の方を見やっていた。

「あの、榊原さん、どうでしょうか? 今までの話を聞いて何かわかる事はありますか?」

 正直、藁にもすがる思いだったのだが、それに対して榊原は少し考え込むと、淡々とした口調のままこう答えた。

「まぁ、ひとまずこれではないか、という考えはありますがね」

「え……」

 その言葉に、全員の視線が榊原に向いた。

「それはつまり……犯人がわかった、という事ですか?」

「あくまで私の推理に過ぎませんがね」

「き、聞かせてください!」

 藤は思わず必死に頼んだ。それに対し、榊原はこう呟いた。

「……そうですね。確かに、今ここで真相を明らかにするのが最善の策でしょう。一つやってみるとしましょうか」

 そう言うと、榊原はゆっくりと容疑者たちの顔を一瞥すると、おもむろに自身の推理を語り始めたのだった……。


「まず、推理をする前にこの事件における疑問点……すなわち論点を挙げていきたいと思います。その論点を一つずつ解決していけば、犯人の正体もはっきりしていくはずです」

 そう前置きして、榊原は事件の検証に入った。

「疑問の一つ目は、先程藤警部が確認したように、犯行当時この博物館にいた全員に強力なアリバイがあるという事。あれだけの犯行となれば五分~十分程度の時間は必要になりますが、それだけの時間自由に動けた人間が存在しない。この不可能状況をどう解釈するかが問題になります」

 榊原の言葉をその場にいる全員が固唾を飲んで聞いている。

「二つ目の疑問は、ずばり犯人の動機です。ただし、問題になるのは犯人自身の動機というよりも『なぜこの状況で犯行をしなければならなかったのか?』という犯行の実行に関わる部分の動機です。そもそも、仮に犯人に被害者に対する強い動機があったとしても、わざわざ容疑者が限られてしまう博物館の特別展示室で被害者を殺害するというのはいささか不自然な話です。単に殺害するなら他にもその機会はいくらでもあったはず。にもかかわらず、犯人がこの場所、この機会を選んだのはなぜなのか? これについて、皆さんはどんな考えを持ちますか?」

 いきなり話を振られて、部屋の面々は全員動揺する。代表で答えたのは藤だった。

「例えば……犯人の目的が被害者の殺害ではなかったとすればどうでしょうか? 具体的には、あの特別展示室に飾られる予定だった人形を盗む目的で侵入したが、そこを被害者に見られてやむなく殺害した、とか……」

 確かに、それならこの状況で犯人が被害者を殺害した理由に説明がつく。しかし、榊原はそれに対してこう反論した。

「はい。確かにそう考えるのが自然ではあります。しかし、そうなると不自然な事が一つ……そこまでやったにもかかわらず、問題の特別展示室から盗まれた人形が一つたりとも存在しないという事実です」

「そ、そういえば……」

 そんな事を鑑識の浅田が言っていた気もする。藤は思わず副館長の博多を見るが、博多も榊原の言葉に同意した。

「確かに、発見した時にあの部屋を見た限り、展示予定だった人形は全て室内にあったと思います。その事は鑑識の人にも話しました」

 その言葉にうなずいてから、榊原はこう続けた。

「つまり、犯人は人形を盗むためにこの博物館に侵入したわけではない。では、その上でもう一度同じ質問をしますが、犯人はなぜ今日この場所、この機会に被害者を殺害する事を選んだんでしょうか? もっと言えば、この状況で犯人が被害者を殺害するメリットがどこにあるというのか?」

「メリット、ですか……」

 藤たちは少し考え込んだが、誰もそれを指摘する事はできなさそうだった。それを確認して榊原は話を進める。

「そうなると、考えられる事は一つしかありません。犯人はあくまで人形目的でこの博物館に侵入し、その過程で被害者を殺害した。しかし、にもかかわらず犯人は目的の人形を盗まずに逃亡した。矛盾しているかもしれませんが、これがこの事件の構図だった事になるのです」

 その言葉に、誰もが首を傾げた。

「いや……こう言ったらなんですけど、あなたも言っているようにそれって矛盾していますよね? 人形を手に入れるために殺人までしておきながら、肝心の人形を持って行かないなんて……」

 博多が恐る恐る聞くが、榊原は

「えぇ、普通に考えたら矛盾しています。しかし、これ以外の状況が浮かばないのも事実。だから私は逆に考える事にしました。この推理が矛盾するというなら、この矛盾が成立するのは一体どのような場合なのか、と」

「矛盾が成立って……」

 その場がざわめく。

「さて、ここで話を一度第一の疑問に戻しましょう。すなわち、事件当時この博物館にいた全員に存在するアリバイについてです。もちろん、犯人がこの中にいるならいずれかのアリバイは捏造という事になるわけですが……」

 そう言われて、全員の顔に緊張が浮かぶ。

「そこで明らかに犯人ではない人間が誰なのかという事を考えてみましょう。まず、犯行時刻にずっと絶えず誰かに見られていたという鳴子さんと曾根崎さんは犯人でないと判断しても差し支えないと思います。この犯行は明らかに自動殺人ではありえないし、死亡推定時刻直前の午後一時まで被害者が生きて目撃されている以上、死亡推定時刻を誤魔化してアリバイを作る類の犯行とも思えない。となれば、常に誰かに見られていて犯行の機会が一切なかったお二人が犯人である可能性は極めて低いと言わざるを得ません」

 その言葉に、当の未菜江と曾根崎はホッと息を吐いた。

「これで残るは博多さん、遠野さん、安達ケ原さん、伊牟田さん、私という事になりますが、先程の防犯カメラによって証明されたアリバイを見る限り、犯行を成し遂げられる機会があった人間は誰一人存在しない。それでも強引に何とか解釈をひねり出すとすれば、この犯行が共犯によるもので、誰かが誰かのアリバイを偽装しているという可能性が考えられますが……実はそんな事を考えずとも、犯人であるかどうか判別できるもう一つの問題点が存在するのです」

「そ、それは一体?」

「言うまでもなく……返り血の問題です」

 その言葉に全員が黙り込んだ。

「今回の事件、犯人は被害者を刺し殺しており、現場には大量の血痕が残されていました。ここまでの惨状となれば、犯人が返り血を浴びた事は間違いありません。何らかの細工をしてアリバイを偽装したとしても、この返り血を誤魔化す事はできない。当然、返り血を何とかして誤魔化す必要があるわけなのですが……」

 その言葉に、藤は改めて容疑者たちを見やる。もちろん、彼らの中に衣服に血痕らしいものが付着した人間はいないし、また防犯カメラに映っていた衣服と現在の彼らの衣服は一致している。すなわち、事件後に着替えた人間も存在しないのだ。

「もちろん、後で皆さんには身体検査をする必要はあるでしょうが、私の予想では血痕が出る事はないと思います。この閉鎖された館内では水で洗い流すなどという事もできなかったでしょうし、第一そんな事をしたら別の意味で痕跡が残ってしまう。また、犯行後に着替えたというのもナンセンスでしょう。皆さんを見るに着替えを持ち込めるような荷物は持っていないようですし、あらかじめこの館内に着替えを隠しておくというのも無理がある。さらに言えば、着替えがあってもあのアリバイの中では着替える時間自体が存在しない。レインコートなりで返り血を避けたというのも今回は当てはまりません。そんなものがあったら警察が発見しないわけがありませんから」

 そこで、榊原は断定する。

「アリバイだけならまだいくらか考える余地はありますが、ここに返り血の問題まで加わってくるともうどうしようもない。この状況で『アリバイ崩し』に固執するといつまで経っても事件の真相は見えてこない。よって私はこう結論付けるしかありませんでした。すなわち、犯行後に館内にいた人間の中に犯人は存在しない、と」

「お、おい! ちょっと待てよ! それが本当なら、結局誰が犯人なんだよ!」

 曾根崎の叫びに、榊原は静かに答えた。

「そう……どれだけ考えてもここにいる全員のアリバイを崩す事はできないし、返り血の問題を解決する事もできない。そうなれば、残る可能性は一つ……犯人は事件当時公には館内にいなかった事になっている外部の人間です」

「待てって! 何度も言うが、事件当時今この部屋にいる人間以外館内に入る事はできないんだぜ! それは玄関にいた俺と鳴子さんが証言できる!」

 曽根崎の言葉に、未菜江もコクコクと頷く。だが、榊原はひるまなかった。

「だったら可能性は一つ。犯人が侵入したのは倉庫にある裏口だったんです。そちらなら誰も監視している人間はいませんから、鍵の問題さえなければ出入りは自由になるはずです」

「だけど、その裏口には鍵がかかっていたじゃないか!」

「その通り。しかし、先程も考えたようにこの事件を外部犯の仕業とした上で、事件の本質を『アリバイ崩し』ではなく『密室崩し』だと考えると、もはや『トリック』とも言えない極めて単純かつ人を馬鹿にしたような『小細工』を仕込む余地が出てくるんです。そして、それが可能な人間は、たった一人しかいません」

 そして、榊原は冷静な表情でその名を告げた。


「もういいでしょう。そろそろ犯行を認めてもらえませんかね? ……山梨県警鑑識課の浅田直太郎あさだなおたろう警部補!」

 その言葉に、隅で控えて榊原の話を聞いていたベテラン鑑識官の表情が真っ青になったのだった。


「な、か、鑑識の人が犯人……」

 博多を筆頭に、容疑者たちは唖然とした表情を浮かべている。もちろん、長年一緒に仕事をしてきた藤や県警の捜査員たちはわけがわからず呆然としていた。

「えぇ。彼が犯人なら、事件の犯人の動きにすべて説明がつくんです」

「ま、待たれよ! その者が犯人だとして、状況は変わっておらぬ! 一体そ奴はどうやってこの博物館に出入りしたというのだ?」

 安達ケ原の問いに、榊原はあっさり答えた。

「もちろん、さっきも言ったように裏口を使ってですよ」

「だが、さっき警備員が申したようにその裏口には鍵が……」

「その『裏口に鍵がかかっていた』という事実を、事件後に最初に確認したのは誰でしたか?」

 そう聞かれて、藤はアッと声を上げた。

「確か……事件後に駆け付けた鑑識が最初に確認したと……」

「藤警部の話では、問題のドアには指紋や痕跡は確認できなかったという事でしたが、同時にそれを調べたのも浅田警部補だったはずです。つまり、事件後最初に裏口のドアを調べたのは浅田警部補だった。しかし、事件について考えれば犯人は裏口から脱出したとしか考えられない。ならば、最初に裏口を調べた浅田警部補自身が何か仕込みをしたと考えるしかないでしょう」

「それじゃあ……」

「やっている事はどこぞの三文推理小説にでも出てくるような『トリック』以前の『小細工』です。つまり、犯人は問題の裏口の鍵に一切何もしないまま鍵をかけずに堂々と現場を脱出し、鑑識として現場に臨場した後、誰よりも早く問題の裏口に駆け付けて自分で内側から鍵を閉め、さも最初から鍵が閉まっていたかのように見せかけただけだった。シンプルですが……事件発覚後初めて現場を調べる『鑑識』だからこそできる荒業です」

 あまりに簡単かつ人を馬鹿にして、しかしそれでいながら筋の通った種明かしに誰もが絶句する。と、ここでようやく鑑識服姿の浅田が前に出て反論した。

「黙って聞いていれば好き勝手な事ばかり……。出るのはそれでいいとして、入るときはどうしたというんだ!」

「博多さんの話では、午前中九州から送られてきた展示品の倉庫への搬入作業をやったそうですね?」

 不意に聞かれて博多は慌てて頷く。

「となれば、その搬入作業は裏口を使って行われたはず。しかも実際に作業していたのは二人だけ。だったら、搬入作業の隙を伺って二人の目がないときにこっそり中に入る事は充分可能なはずです。その後はそれこそ例の特別展示室にでも身を潜めておけば、午後になって被害者が特別展示室に来るまで発見される事はありません」

「馬鹿馬鹿しい! 大体、俺が何で博物館の館長を殺さないといけないんだ!」

 浅田はそう吐き捨てたが、榊原は落ち着いていた。

「詳しい事まではまだわかりませんが、おそらく特別展示室にあったいずれかの人形が目的だとは思います。そして、あなたが犯人ならば人形が目的で殺人まで犯した犯人が現場から肝心の人形を持ち出さなかった理由にも説明がつくんです」

「どういう事だ!」

「鑑識のあなたなら、殺害後すぐに持ち出さずとも、鑑識として臨場した際に問題の人形を堂々と合法的に持ち出す事ができるからです。そう……事件の『証拠品』としてね」

 榊原はそう言うと、浅田を睨みつけた。

「おそらく、浅田警部補は展示室にある人形のいずれかを持ち出す必要がありながら、自分の狙いがその人形である事を知られたくない何らかの事情があったんでしょう。博物館に侵入して人形を盗むこと自体は先程の方法を使えばそれほど難しくありませんが、実際に盗んでしまうと『なぜその人形を盗んだのか』が問題になり、人形の過去が調べられる事になる。私の推理ではその『人形の過去』に浅田警部補に関わる何かがあり、それが調べられると浅田警部補の名前が出るなどして非常に都合が悪かったのでしょう。なので、浅田警部補は『件の人形が狙われた事を知られないように問題の人形を手に入れる』という非常に難しい条件を突き付けられる事となり、その結果出てきたのが『鑑識として何らかの事件の証拠品として人形を押収する』という手法でした。そして、被害者はその条件を達成するためだけに殺されたと私は考えています」

 榊原は鋭い視線を浅田に向けた。

「この事件で浅田警部補が己の目標を成功させるためには、事件後に鑑識が現場に入る事が絶対条件です。そうでなければ問題の裏口の鍵の小細工を仕込む事ができず、事件が外部犯によるものだという事になってしまいますから。しかも、鑑識として臨場できても問題の人形を押収できなければ話にならない。貴重な展示品である人形を押収しようと思ったら、生半可な理由では不可能です。そう……それこそ問題の人形が血みどろになっているとか、あるいは被害者が死の間際まで守っていたとかしない限りは」

「ま、まさか……」

 藤が声を震わせながら呻く。

「えぇ。事が殺人事件であれば鑑識は間違いなく呼ばれますし、その際に件の人形に血でもかけておけば、その人形は間違いなく鑑識が押収する。だからこそ、浅田警部補はこのトリックを成立させるために誰かを殺害する必要に迫られたというわけです。そして、運悪くその白羽の矢が立ったのが被害者の三野月館長だったんでしょう」

「そんな……」

 博多が絶句する。そして榊原は浅田に容赦なく告げた。

「私の予想が正しければ、今回の事件で鑑識が押収した人形のいずれかに、浅野警部が殺人まで犯して盗もうとした『何か』が隠されているはずです。県警本部から別の鑑識を呼んでちゃんと調べれば、それが何かはすぐにわかるはず。今この場で多少強引に私が彼の罪を暴いたのはこのためでしてね。このまま問題の人形を県警に持っていかれてしまうと、そこで鑑識作業を担当する浅田警部補が目的を達成してしまう可能性がありましたから。今の段階なら、まだ証拠は残っているはずです」

「……」

 もう、浅田は何も言わなかった。だが、その真っ青になった顔が、全てを完全に物語っていた。

「それに犯行から臨場まで数時間しかかかっていない以上、直接的な物的証拠はおざなりになっているはず。返り血のついた衣服や靴が、まだ自宅に残されている可能性は非常に高いでしょう。犯人が内部犯だという事になれば後日ゆっくり処分できると考えたんでしょうが……残念でしたね」

 そこまで榊原が言った瞬間、浅田は膝から床に崩れ落ちた。その瞬間、全ての勝負が決まった事を、この場の誰もが察していたのだった……。


 それから一週間後、東京・品川裏町の榊原探偵事務所に藤が訪れていた。先日逮捕された浅田の動機について説明するためである。

「被害者が抱きかかえるように持っていた『首切り雌雛』と呼ばれる人形……それを調べた結果、人形の中が空洞になっていて、そこから袋に入った覚醒剤が発見されました。しかも、その覚醒剤が入ったビニール袋に浅田警部補の指紋が付着していた事も発覚しています」

「浅田警部補の目的はそれですか?」

「えぇ。榊原さんの推理通り、証拠としてあの『首切り雌雛』を押収した後、鑑識作業中にこっそり中から問題の麻薬を抜き出そうと考えていたんだそうです」

「……なぜあの人形の中に浅田警部補の指紋がついた麻薬が?」

「それなんですが、問題の『首切り雌雛』が先日長野の『人形の家』からオークションで出されたという事は御存じですか?」

 藤の問いに榊原は頷いた。その原因の一因は、『人形の家』で起こった殺人事件を解決した榊原にもある。

「問題の人形ですが、元々はある貿易会社の社長だった木本松夫きもとまつおが所有していたものを、十五年前に木本が押し込み強盗で死亡した後に『人形の家』の所有者が購入したという来歴になるんですが、調べた結果この二代前の持ち主である木本の会社が、若者を使って海外からの組織的な麻薬密売を行っていた可能性が浮上していました」

「若者を使った密輸、ですか?」

「えぇ。海外旅行中の日本人の若者に近づいて、『栄養剤』などと称して麻薬を預け、何も知らない彼らの手により麻薬を日本に持ち込むという手法です。ばれてもその若者が捕まるだけで組織自体にはダメージが行かず、成功した場合は持ち込んだ麻薬に付着した指紋をネタに彼らを脅迫して無理やり麻薬密売の道に引きずり込むというかなりたちの悪いやり方でした」

「……もしかして、浅田警部補も?」

「はい。当時大学生だった浅田警部補も東南アジア旅行中にこの手口に引っかかり、帰国後に自身の指紋が付着した覚醒剤入りのビニール袋をネタに木本から脅迫されて麻薬密売の片棒を担ぐ事となりました。実際に都内で何人かに麻薬を売りさばいた事もあるそうです。ですが、嫌気がさした浅田警部補は自身を脅迫する木本の家に侵入して自分の指紋が付いた麻薬のパックを取り戻そうとしたんですが、そこを木本に発見されて反射的に殺害。犯行後、指紋が付いたパックを探し続けるがついに見つからず、人が来たためやむなく逃走したんだそうです」

「つまり、十五年前の強盗殺人事件の犯人も浅田警部補だった?」

「残念ですが、そういう事になります」

 藤は重苦しい表情で同僚の犯罪を認めた。

「それからしばらくして、生前の木本の言葉から彼が所有していた首切り雌雛の中に問題のパックが入っている事を確信しますが、既に問題の雌雛は売却された後で行方がわからなくなってしまっていました。その後、浅田警部補は故郷の山梨で警察に就職し、行方不明の首切り雌雛の事を気にしながらもついに鑑識課主任の地位まで上り詰めていました。というより警察に就職したのも、行方不明になっておそらくは裏社会に流通しているであろう雌雛の情報をいち早く手に入れたかったかららしいです。ところが、松宮村の事件で『人形の家』にあった大量の人形が放出され、行方不明になっていたはずの首切り雌雛が甲州人形博物館に落札された事で状況は一変。しかも館長の三野月が問題の人形のX線を使った解析を行う旨を発表したため、中に保管されたパックが発見され、付着した指紋から自分が特定される事態に陥る事を危惧して今回の犯行に至ったそうです」

「なるほど。下手に首切り雌雛に手を出すと人形の来歴を調べられて、そこから自分が密輸に関わっていた過去がばれる可能性がある。だからこそ、浅田警部補は人形が事件に関係ないように見せかけながら、人形の中から問題の麻薬入りパックを回収する必要に迫られたという事ですか」

「そうです。そこで考え出されたのが、榊原さんが暴いた通り、三野月を殺害して首切り雌雛にわざと血を浴びせ、雌雛を証拠品として押収して鑑識という立場から密かに中にあるパックを回収しようという方法でした。さらに供述によれば、裏口の鍵をかける事で外部犯の可能性を消し、博物館内部にいた人間に疑いを向けさせたかったとの事です。取り調べの結果、いざとなればアリバイのない人間が不利になるような証拠を鑑識作業中にでっちあげる覚悟までしていたんだとか。ただ、まさか館内にいた全員にアリバイが成立してしまう事になるとは、さすがに予想外だったようですね」

「犯罪というものは常に予想外が起こるものです。手ごわい犯人はそれさえ味方にしてくるものですが……どうやら今回はそこまで肝が据わった犯人ではなかったようですね」

 榊原の言葉に、藤はしばらく黙った後こう尋ねた。

「あの……いつから浅田警部補が怪しいと思ったんですか?」

 それに対する榊原の答えはシンプルだった。

「彼が裏口の鍵を確認したと聞いた時から違和感はありましたが、確信に変わったのは『裏口に何の痕跡もない』と浅田警部補が言ったと聞いた時ですね」

「なぜですか?」

「ちょっと考えればすぐにわかるはずですが、事件が起こる前の午前中、三野月館長と博多副館長があの裏口を使った搬入作業をしています。しかし、そうなればあの裏口のドアノブなどには少なくとも二人の指紋なりの痕跡が付着していなければならないはずです。ところが、表向き犯行に裏口は使われていないはずなのに、浅田警部補は『裏口に何の痕跡や指紋もなかった』と言いました。だとすれば、それをふき取ったのは犯人以外おらず、そんな事を犯人がしている以上は明らかに裏口は犯行に使用されています。しかし浅田警部補は裏口の鍵はかかっていたと言う。合鍵を複製するのは無理だというし、そうなるとこの矛盾を解決するには、あの時私が推理したように最初にあのドアを調べた浅田警部補自身が自分で鍵をかけたか、あるいは『痕跡がなかった』と言っている浅田警部補が嘘をついているかのいずれかしか考えられません。どちらにせよ、これで浅田警部補に疑いを持つなという方が無理があるでしょう」

 つまり、浅田の報告を聞いた時点で裏口が犯人に使用されている事を見抜けたからこそ、浅田の証言がおかしい事に気付けたという事だ。確かに、言われてみれば納得できる話である。

「で、問題の首切り雌雛はどうなりましたか?」

「今回の事件の重要証拠ですからね。そのまま警察の証拠保管庫に収容される事になりました。少なくとも裁判が終わるまで日の目を見る事はないでしょう」

「……まぁ、何にしても松宮村の事件から続いた悲劇の連鎖がこれで終わりになってくれればいいんですがね。できるなら、もうこれ以上『人形の家』絡みの事件にはかかわりたくないものです」

 榊原はそう言ってふぅと息を吐き、藤も無言で頷いたのだった。

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