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春麗のミステリーツアー【アンソロジー企画】  作者: 春麗のミステリーツアー参加者一同
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「嘘から出た殺人」 奥田光治 【本格推理】

「『瓢箪から駒』とか、『嘘から出た実』とか、昔からそう言う『冗談のつもりが本当になった』というタイプの諺はたくさんあったりしますが、私は今回ほど、これらの諺が本当の事だったと実感するに至った事件はないと思っています」

 その日、品川裏町の榊原探偵事務所を訪れた田中太郎たなかたろう弁護士は、大学時代の友人で元警視庁刑事部捜査一課警部補であり、現在は警察を辞めて私立探偵事務所を開業している私立探偵・榊原恵一さかきばらけいいちに対して開口一番そんな愚痴を漏らしていた。それに対し、一見するとどこか疲れたサラリーマンと言った風貌ながらも目の奥に鋭い何かを備えた榊原恵一は、苦笑気味に田中の言葉に応えた。

「来て早々愚痴とは、田中らしくもないな」

「愚痴を言いたくもなりますよ。ただ嘘が本当になるだけだったら救いがいがあるんですが、実現したのが殺人事件だったというのは洒落になりません。事実、今回の依頼人は『嘘の殺人』が『本物の殺人』になってしまった事で、事件前から被害者の死を知っていたと判断されて問答無用で逮捕されてしまったわけですから」

「……まぁ、ひとまず話を聞こうか。田中がわざわざ私の所に相談しに来たという事は、かなり厄介な事件なんだろう?」

「そういう事になりますね」

 田中はため息をつくと、持ってきた鞄から資料を取り出して資料を来客用のテーブルの上に広げた。田中と反対側のソファに座るが榊原がその資料に目をやったところで、田中は事件の説明に入った。

「事件が起こったのは今年の四月一日……世間一般では『エイプリルフール』と呼ばれている日でした。依頼人は宇曽島大弼うそじまだいすけという東京都内在住の大学生です。元々このエイプリルフールという日は嘘をついてもいい日という事で、世間一般でも企業だの何だのが盛大に悪乗りする日だったりするわけですが、この宇曽島という大学生もその例にもれず、友人の大学生に対してあるドッキリを仕掛けようとしたんです」

「ドッキリ、ね。あまり感心しない話だが」

「実際、私から見てもかなり悪趣味なドッキリです。話を聞いたときは呆れてものが言えませんでしたよ」

 そう前置きしておきながら、田中は話を進めた。

「ドッキリの標的になったのは正野拓馬まさのたくまという大学生なのですが、彼は何というか宇曽島たちの通う大学の医学部一の秀才で、そんな完璧超人の驚く顔が見たいという事で標的に選ばれたという事なんです。一方、宇曽島には仲間がいて、同じ大学に通う唐本嗣義からもとつぐよしと、久留木綱信くるきつなのぶという名前の学生でした」

「彼らは前からの知り合いか?」

「いえ、学部こそ同じ医学部ですが、知り合ったのは最近のようですね。事件の二週間ほど前から大学近くの雑居ビルにある『ヤマト屋』という無農薬野菜を使った料理を売りとする居酒屋で意気投合して一緒に飲むようになり、そんな中で成績が優秀な正野の愚痴を言っているうちに今回のドッキリを思いついたと言っています」

「何だか聞いている限り行き当たりばったりという感じがするんだが……それで、そのドッキリの内容は?」

 その問いに、田中は普段から冷静なこの男としては珍しい事に本気で呆れた表情を浮かべた。

「三人のうちの一人が死体のふりをして正野が住むアパートの近くに倒れ、それを正野に見つけさせて驚かす……という、悪趣味というか不謹慎というか、とにかくそういうものでした」

「……確かに、あまり趣味のいいいたずらじゃなさそうだ。最近の若者はみんなこんな感じなのか?」

「さすがにそれはないと思いますよ。彼らが特殊なだけだと信じたいです」

「だったらいいんだがね」

 榊原が小さく息をつく中、田中は咳払いして話を続けた。

「ドッキリを仕掛けた三人同士は知り合って間もないのですが、三人と正野という関係から見ると全員面識がありました。宇曽島は正野と同じゼミの所属、唐本は正野の住んでいるのと同じアパートに下宿、久留木は正野がバイトしている書店の同僚です。というより、居酒屋で意気投合したのも全員正野と知り合いだった事がわかった事がきっかけだったようです。それを利用し、彼らは正野を驚かすある計画を立てました」

 そこで一度言葉を切ってから、田中は勤めて事務的にドッキリの内容を伝える。

「まず、同じゼミ生で正野の電話番号を知っている宇曽島が四月一日の早朝に正野に電話。そこで自分と唐本が実は知り合いだった事をほのめかした上で、唐本から『アパートの屋上から飛び降りる』旨のメールが来たから窓から外を確認してくれないか、と伝えます。その時、当の唐本は正野の部屋の真下の空き地で頭から赤ペンキをかぶって倒れて死んだふりをしているわけです。そして、倒れている唐本を見つけた正野が慌てて一階に駆けおりて唐本の傍に駆け寄ってきたところで、たまたま通りかかった風の久留木が登場して唐本の傍にいる正野を犯人呼ばわり。彼が動揺したところで唐本が起き上がってエイプリルフールのネタ晴らしをする……というものだったそうです」

「随分手が込んだ計画だな。その行動力を学業面で活かせばよかったんじゃないか?」

 榊原が至極もっともな突っ込みをする。

「それは私も思いますが、今は置いておきます」

「……だが、田中がここに来たという事は、そのドッキリの最中に何かアクシデントが発生した、と言ったところか」

「えぇ。結論から先に言ってしまうと……死体役だった唐本が、嘘ではなく本当に死体になってしまったんです」

 榊原は小さく呻いた。

「詳しく教えてくれ」

「もちろんです。件のドッキリですが、当初は計画通り進みました。宇曽島が正野の携帯に電話をしたのが当日の朝七時頃。これは携帯の履歴からはっきりしていて、その時点ですでにアパート前の所定位置に唐本が『血を流して倒れていた』のは近くでスタンバイしていた久留木が確認しています」

「待った。そのスタンバイは全員ではなくそれぞれが勝手に行ったという事になるのか?」

 榊原が確認すると、田中は頷いた。

「はい。一緒に行動しているところを見られたら失敗するかもという事で、事前に打ち合わせだけしておいて、当日はそれぞれが自身の判断で動く事にしていました。久留木が現場に来た時はすでに唐本は所定の位置に『血まみれで倒れて』いて、久留木は単に『気合が入っているな』と思っただけだったと言います」

「久留木が到着したのは?」

「午前六時半。計画実行の三十分前です」

「……わかった。それでその後は?」

「電話を受けた正野は素直に窓から外を見て、そして自分の部屋の真下の空き地に倒れていた唐本を発見します。言い忘れていましたが、正野の部屋はアパートの二階で、その真下の部屋は空き部屋になっているんです。正野は慌てて部屋を飛び出して空き地に行くと唐本の近くに近づきますが、そこで予定通り近くの茂みで控えていた久留木が出てきて、彼を犯人呼ばわりしました。で、予定通り正野は慌てふためき、その時点で久留木がネタ晴らしをして唐本に起き上がるように呼びかけたわけなんですが……」

 そこでいったん田中は言葉を切ると、すぐにこう続けた。

「本来なら起き上がって『エイプリルフールの冗談だ』と言うはずの唐本が一切動かず、当惑する久留木に代わって正野が改めて確認したところ、流れている血は本物で脈もなく、彼が冗談ではなく本当に死亡している事が発覚しました。それを聞いた久留木の第一声は『いやいや、あんたもエイプリルフールの冗談がうまいよな?』だったらしいですが」

「……笑えないな」

 榊原は重い表情でそうコメントした。

「で、本当に死んでいる事がわかって久留木は真っ青になって、近くに待機していた宇曽島も呼び寄せて大騒ぎになりました。正野は事の次第を警察に通報すると、警察が駆け付けるまでの間にその場で二人を詰問し、三人の馬鹿げた計画を聞かされる事になったそうです。もっとも、冗談が本当になってしまった宇曽島と久留木は完全にパニック状態で、話を理解するのに何度も繰り返し聞く事になったらしいですが……」

「で、警察は唐本殺害の容疑者として宇曽島を逮捕した、という事か」

 榊原は腕を組んだまま一度ソファにもたれかかって息を吐くと、すぐに田中から情報収集を始めた。

「まず基本的な事を聞くが、被害者の死因は?」

「高い所から突き落とされた事による墜殺でした。その点でも嘘の設定が本当になってしまったという事になりますね。ただし、頭部に致命傷とは別の打撲痕も確認でき、どうやら一度殴って気絶させた後で無抵抗の被害者を高所から突き落としたと推測されています。また、遺体には動かされた形跡があり、ドッキリの設定通りに問題のアパートの屋上から突き落とされたというわけではなさそうです」

「本当の犯行現場の特定は?」

「それについては現在も特定できていない状況です。少なくともアパートの近くではなさそうですが」

「ふむ……。死亡推定時刻は?」

「司法解剖の結果、発見の三時間から四時間前……事件当日の午前三時から午前四時頃と推定されています。さっきも言ったように被害者は遺体が発見されたアパートに住んでいるわけですが、付近を調査した結果、当日午前二時を少し過ぎたくらいにアパート近くのコンビニで買い物をしている姿が防犯カメラに映っていました。従ってこの時点まで生きていたのは確実です」

「コンビニで買ったものは?」

「タバコでした。このタバコは被害者のポケットから数本吸った状態で見つかっています」

「被害者は問題のアパートに住んでいると言っていたが、具体的にはどこに?」

「四階建てアパートの三階です。正野が二〇六号室で、唐本は三〇三号室となります」

「……いいだろう。では、具体的に警察が宇曽島を逮捕した理由は何だ?」

 その問いに、田中は淡々と答えて言った。

「まず、この犯行が宇曽島たちの仕掛けたドッキリを利用している事は榊原君にも理解できると思います」

「だろうな。ドッキリの内容を知っていないと、別の場所で突き落とした死体をわざわざアパートの前の、それもドッキリの予定地まで引っ張って来て放置するなんて事はできないはずだ」

「警察もそう考えました。つまり、犯人はこのドッキリの内容をあらかじめ知っていた人間に限られます。そして、それは実際にドッキリに参加していた宇曽島と久留木の二人に絞られるんです」

「計画に参加した三人の誰かが事件前に誰かに計画を漏らした可能性は?」

「内容が内容なので絶対そんな事はしなかったというのが両名の話ですし、唐本もそのような事はしなかったと思われます。少なくとも唐本の持っていた携帯や自宅にあったパソコンからはそんな痕跡は出ていません」

「となると、容疑者は宇曽島と久留木の二人だけ」

「ところが、厄介な事に久留木には死亡推定時刻のアリバイが存在するのです」

 その言葉に榊原は眉をひそめた。

「アリバイって、午前三時から四時のアリバイなんてものがあるのか?」

「それがあるんです。久留木によると、事件当夜彼はバイトからの帰り道に駅前で偶然高校時代の友人と再会し、そのまま意気投合して一緒に徹夜でカラオケをしていた事が判明しました。解散したのは朝の六時……久留木が現場に足を踏み入れたと主張する三十分前で、それまでのアリバイは完璧です」

 その事実に、榊原は唸り声を上げた。

「カラオケを始めたのは何時頃だ?」

「当日の午前零時頃から六時間ぶっ通しだそうです。問題のカラオケ店は駅前の六階建て雑居ビルの四階に入っていて、現場となったアパートから徒歩二十分ほどの場所にあります」

「その友人がかばっている可能性は?」

「ないですね。葉木郁男はきいくおというのがその友人の名前ですが、当時彼は九川芝代くがわしばよという彼女と同伴していて、その九川を含めた三人で歌っていたんです。葉木だけならともかく、久留木と面識のない九川までが久留木をかばっている可能性は限りなく低いと考えた方がいいでしょう」

「本当にずっと一緒にいたと断言できるか?」

「もちろんトイレやドリンクの補充のために久留木が部屋を出た事はあったらしいですが、大体五分くらいで戻って来たらしいです」

「だが、突き落とすだけなら五分でもできるはずだ。遺体は移動されているんだから、カラオケ店に近い場所……例えばそのカラオケ店の入っているビルの屋上や非常階段辺りから死亡推定時刻の範囲内のいずれかに被害者を突き落とし、カラオケが解散した午前六時以降に現場に運び込んだ可能性もある」

 榊原の鋭い指摘に田中は首を振った。

「その可能性は検討されましたが、問題がいくつか。一つは、仮にそうだったとしてどうやって遺体をカラオケ店から現場まで運んだのかという問題。言った通りカラオケ店から現場まで徒歩二十分の距離がありますから、その距離を血まみれの遺体を担いで運ぶというのは非常に厳しい話です。念のため言っておくと、久留木は運転免許を持っていませんので自動車を使った運搬も不可能ですし、事件当夜彼らしい人間を乗せたタクシーも確認されていません。さらに二つ目の問題として、警察もその可能性を考慮して問題のカラオケ店の周囲を捜索したんですが、墜死したなら確実にあるはずのルミノール反応がビルの周囲からは検出されなかったそうです。つまり、ビルの周囲で人が墜死した可能性は科学的にも否定されている事になります」

 だが、それでも榊原はなおも食い下がる。

「血痕だけなら、あらかじめレジャーシートかビニールシートでも敷いておいて、そこに落下させれば防ぐ事が可能だ。つまり、移動の仕方の問題をクリアできれば久留木にも犯行は可能になるはず」

「それはそうですが、その『移動の仕方』とやらを榊原君は指摘できるのですか?」

 その問いに、榊原は小さくため息をついて首を振った。

「それができればこの事件は簡単に解決するんだがね」

「ちなみに、スーツケースなりに入れるという方法は駄目ですよ。発見が三~四時間後ですから、その頃になると死後硬直が始まっていて、ケース等に入れた場合遺体がうずくまったような姿勢で固定されてしまいますから」

「だろうな」

 さすがにその辺は榊原も考えていたようである。

「それに、問題はまだあります。さっき榊原君は屋上か非常階段から突き落とせばいいと言っていましたが、カラオケ店から非常階段に出る扉は一つで、その扉にはカバーがかけられているんです。通常時にむやみに客が出入りしないようするためで、非常時にはこのカバーを壊して外に出る仕組みですが、調べた結果カバーは壊されていませんでした。事件当夜、カラオケ店が入っている階から非常階段に出るのは不可能です。それ以外から他の階や屋上に行こうと思ったらフロント前の階段かエレベーターを使うしかありませんが、店員の話では該当時間に久留木がそれらを使った事はなかった、と」

「つまり、久留木は事件当時カラオケ店内から外に出ること自体難しかった、と」

「時間をかければ店員の目を盗んで、という事も考えられますが、何しろ彼が葉木たちと別行動していた時間は最大でも五分程度です。殺す時間を考えると物理的にも無理でしょう。さらにもう一つ……」

「仮にそれらを何とかして被害者の突き落としに成功したとしても、五分しか時間がなかったら突き落とした後の遺体の処理はカラオケが解散するまで不可能。つまり、それから少なくとも二時間は墜死体がビルの下に無造作に放置される事になる。それらが誰にも発見されないままというのはさすがに虫が良すぎるか」

 榊原は自分で自分の推理に対する問題点を挙げた。

「その通りです。とにかく、久留木にアリバイが確認されたので、容疑は必然的にもう一人の宇曽島に向きました。そして、久留木と違って宇曽島には死亡推定時刻のアリバイがありませんでした」

「むしろ、午前三時から四時にアリバイのある方が普通じゃない。大抵の人間は寝ているはずの時間だ」

「はい。実際に宇曽島も自宅アパートで寝ていたと証言しています。前日の夜、彼はさっきの話に出てきたいつもの居酒屋でポテトサラダとロールキャベツを肴に一人で飲んでいて、ぐでんぐでんに酔って帰宅しそのまま爆睡していたらしいです。これは居酒屋の店主がちゃんと確認していますが、彼が居酒屋を出たのは閉店直前の、ちょうど零時を回る頃だったらしいです」

「間違いないのか?」

「居酒屋と言ってもカウンター形式の小さな店ですからね。当時他に客もおらず、おまけに相手は常連ですから、店主もしっかり覚えていたようです。また、居酒屋を出てから乗ったエレベーターの防犯カメラにも、問題の午前零時にエレベーターに乗る彼の姿がはっきりと映っていました」

「そして、そこから朝までのアリバイがない……か。ドッキリ当時、宇曽島はどこにいたんだ?」

「自分の住んでいる学生向けアパートの屋上です。実はこのアパートと現場のアパートの間は徒歩十分程度の距離で、双眼鏡を使えば屋上から現場アパートの様子を見る事ができるんだそうです。で、そこから様子を伺いながら携帯で正野に電話をかけたとか」

「屋上に出たのは何時だ?」

「本人の話だと午前六時四十五分頃だったと」

「うーむ」

 確かに、宇曽島にとってこれはかなり厳しい状況である。

「ちなみにもう一人の関係者……ドッキリの標的になった正野についてはどうだ?」

「バイト先の書店を前日の午後十時半頃に出た後はまっすぐに帰宅。その後レポートの作成や食事、入浴等を済ませ、午前二時頃に就寝したというのが本人の話です。それから、午前七時に宇曽島から電話があるまではずっと寝ていたと」

「妥当な証言ではあるが……こっちもアリバイはない」

「問題は、標的である正野は宇曽島たちの計画したドッキリの内容を全く知らなかった上に、それを知る機会もなかったという事なんです。つまり、殺害後に唐本をあのアパートの下に放置してドッキリに見せかけるという工作が彼にはできなかった事になります」

「確かに、この犯行は問題のドッキリの内容を知っていないと成立しないが……現場が彼のアパートの真下だったという事が少し引っかかる。当然、死体が放置された際に物音等がしたはずだが……」

「熟睡していたのでそうした音は聞かなかったと。まぁ、彼の部屋は二階ですし、アパートの壁は以前住人同士の騒音トラブルでかなりもめた事がある関係から防音仕様。おまけに遺体があった場所に一番近い彼の部屋の真下は空き部屋ですから、誰も気づかないのは無理もない話ですが」

「筋は通っている、か」

 榊原は唸った。

「聞いている限りだと、宇曽島の容疑はかなりのもののようだが、田中の感触としてはどうなんだ?」

「私は、彼が無罪である事を前提に動いています」

 田中の答えは単純明快だった。

「理由は?」

「一つは、彼が犯人なら自分に疑いがかかるのにドッキリの見立てをする必要がない事。発見現場で殺したというならまだしも、今回は遺体が移動されていますからね。彼が犯人ならわざわざあの場所に遺体を運んで自分に疑いを向けさせるより、実際の殺害現場に遺体をそのまま放置した方がましなのは明白です」

「その殺害現場が彼が犯人であると特定してしまう場所だった、とすればどうだ?」

「だとしても自分に疑いのかかるドッキリの現場に遺体をわざわざ持っていくというのは考えにくいです。それ以外の場所ならいくらでもあるわけですから」

「誰かが宇曽島に罪を着せていると?」

「引っかかるのは確かです。警察は、そう思われるのを見越してわざとあの場所に遺体を放置したとか、あるいはドッキリの準備中に襲われた風に見せかけるための工作だ、などと言っていますが、正直私は全く納得していませんね。榊原君はどう思いますか?」

「……まぁ、私もその警察の意見には全く納得できないがね」

 榊原は苦々しく笑った。

「それにもう一つ怪しい事もあります。警察が被害者の遺体を調べた結果、ちょっと妙なものが見つかったんです」

「妙なもの、というのは?」

「それが、『イモムシ』なんです」

 冗談かと思いきや、田中は真面目だった。

「遺体の肩の辺りで潰れていたそうです。調査の結果キアゲハの幼虫だった事がわかりましたが、遺体発見現場周辺や被害者の自室などにそんなイモムシがいそうな場所は確認されていません。もちろん、残る二人の容疑者である久留木や正木の周辺にもそれらしいものはありませんでした」

「つまり、そのイモムシは犯行現場で遺体に付着した可能性が高い、と?」

「そうなります。正直、警察としても他に犯行可能な人間がいないため消去法で彼を逮捕したようなもので、検察も現段階では証拠が少ない事を理由に起訴を渋っているようです。とはいえ、他に犯行可能な容疑者が出ない場合、このまま起訴される可能性がかなり高い。こうなると一刻も早く他の容疑者の存在を示さなければならないわけで、だからこそこうして榊原君に相談する事にしたわけなんですが……。どうですか、榊原君。ここまでの話から何かわかる事はありますか?」

 田中の問いに対し、榊原はしばらくの間黙って何事かを考えるような仕草を見せた。田中も榊原が頭の中で推理を構築しているのがわかっているのか、口出しをせずに黙って相手が何かを言うのを待っている。そして、そのまま十分程度時間が過ぎた瞬間、榊原はゆっくりと顔を上げた。

「いいだろう。この事件、私なりに解決してみるとしようか」


 次の日の昼頃、榊原は、たった一人である場所にやってきていた。黙ってその場の様子をじっくり観察していた榊原だったが、不意に何か気配を感じたのかゆっくりと後ろを振り返る。するとそこに、榊原が来る事を予想していた『ある人物』がその姿を見せた。

「やぁ、どうも。初めまして、というべきでしょうね」

 相手はまさかこの場に誰かいるとは思っていなかったのだろう。思わぬ人物の登場に戸惑っている様子だった。

「私は私立探偵の榊原と言います。ある筋の依頼で、先日起こった大学生殺害事件の真相を探っています。この事件の事は、あなたは当然ご存知ですね?」

 そう言われて、相手の表情に警戒が浮かぶ。が、榊原はそれに気づかぬ風にしながら一方的に話し始めた。

「現在、この事件の犯人として宇曽島大弼という大学生が逮捕されていますが、私は彼が犯人だとは思っていません。というより、逮捕した警察や検察も起訴をためらっている節があります。なぜなら、犯行が可能なのが彼以外存在しないので目下のところ彼が最重要容疑者となっていますが、それにしてはわざわざ自分が疑われるような場所に遺体を放置した事になっているなど、彼が犯人だと仮定すると明らかにおかしい事がいくつか存在しているからです。とはいえ、他の可能性がない以上、このままだと検察は強引に起訴に踏み切るかもしれない。そうなると、彼が無実である事を証明するには、真犯人を司直の手に引き出すのが一番手っ取り早いものでしてね。まぁ、そう言うわけで、私はこの場であなたを待っていたというわけですよ。ここに来れば、あなたに必ず会えると思っていましたからね」

 それは、今ここにやって来た相手が犯人であると告発する、事実上の宣戦布告に等しいものだった。相手もそれに気づいたらしく、その雰囲気が一気に臨戦態勢に近いものへと変化した。

「今回の事件最大のポイントは、この事件が三人の大学生がエイプリルフールの余興として考えたドッキリ企画をベースとしているところです。犯人は明らかに、被害者がこのドッキリを行う事を知った上で犯行を行っています。ここからすなわち、犯人はあらかじめ彼らが余興でくみ上げたドッキリ計画を知っていた人間である事は確実です」

 そう言ってから、榊原はすぐに次の言葉を紡いだ。

「さて、仮に宇曽島大弼が無実だとするなら、犯人の可能性がある人間は他に誰がいるのでしょうか? 状況的に可能性が高いのは、宇曽島以外でドッキリに関与していた久留木綱信と、標的だった正野拓馬のいずれかで、この場合わざとドッキリの見立てを行う事で宇曽島に容疑が向くよう仕向けたと考えるのが筋です。しかし、久留木はドッキリの内容をあらかじめ知れる立場にいましたが、被害者の死亡推定時刻に完璧なアリバイが成立していて犯行が不可能。一方の正野は犯行自体の実行は可能ですが、事前に彼らが仕組んでいたドッキリの計画を知る術が存在しない。両方とも一長一短で、彼らのいずれかが犯人だと断定するには、久留木が犯人ならアリバイ崩しを、正野が犯人ならドッキリ計画を知った経緯を証明する必要があります。私は、それが可能かどうかを必死になって考えました」

 相手は無言のまま榊原の言葉を聞いている。それに対し、榊原は表面上あくまでも冷静に続けた。

「結論から言いましょう。散々考えましたが、久留木のアリバイ崩しや正野が計画を知った経緯を立証する事は『不可能』だと結論付けなければなりませんでした。久留木のアリバイは崩す余地がないほど完璧ですし、正野が計画を知る手段が存在しない事も事実です。つまり、この考えのままでは推理が暗礁に乗り上げてしまう。……だから、私は推理が暗礁に乗り上げそうになった時点で、発想を逆転する事にしました。すなわち……久留木や正野を犯人として立証する事ができないのなら、そもそも容疑者が二人しかいないという時点で錯誤があるのではないか……もっと言えば彼ら以外に犯人の条件に合致する『第三の容疑者』がいないかどうか、という点です。そして、事件の流れを思い出してみると、それに該当する人間がもう一人いる事に気付きました。だから、私はその人物について徹底的に調べる事にしたんです」

 そして、榊原は今自分の前に対峙しているその人物に告げる。

「さて、ここまでの話に対して何か言う事はありますかね? 唐本嗣義を殺害した真犯人の……居酒屋『ヤマト屋』店主の矢的武正やまとたけまささん」

 その言葉に、相手……宇曽島ら行きつけの居酒屋の店主は、怖い表情でその場に棒立ちになっていたのだった。


「俺が……犯人だっていうのか?」

 居酒屋店主……本名・矢的武正はそう榊原を牽制した。

「えぇ。あなたなら、彼ら三人が計画したドッキリを知る事ができたはずです。なぜなら、そもそもあの三人がドッキリの計画を立てたのは行きつけの居酒屋……つまりあなたの店での事で、店主のあなたであれば彼らの話している話を聞く事は充分に可能だったはずだからです」

 そう、ドッキリの事を知る機会があった人間はもう一人いた。宇曽島たち三人がドッキリの計画をしたのは彼らの自宅など閉ざされた空間ではなく、居酒屋というオープンスペースである。ならばその居酒屋にいた人間……すなわち店の店員が話を聞いていた可能性は充分にあるのである。

「馬鹿馬鹿しい。たくさん客がいてそれぞれが大騒ぎしている店内で、調理だのなんだのをしている俺が特定の客の話に聞き耳を立てられるほど暇なわけが……」

「普通の居酒屋ならその言い訳は通用するかもしれませんが、聞いた話によればあなたの店はカウンター形式の小さな店です。いくら調理だのなんだのしていても、少人数が目の前のカウンターで話している話を店主のあなたが聞いていないとは思えませんね」

「……」

「だから最初にはっきりさせておきましょう。あなたは、彼らがドッキリの計画について話しているのを聞いたのか聞いていないのか? よく考えてお答えください」

「……考える必要なんかねぇよ。俺は知らねぇ」

 矢的の言葉は簡単だった。

「否定しますか」

「聞いていねぇんだから当然だろ。客の話なんかいちいち聞いちゃいねぇよ」

「……結構。なら、それを前提にこの事件の話をしましょう」

「なんで俺がそんな話を……」

「逃げますか?」

 何気なく、しかし鋭い声で聞かれて、矢的は小さく舌打ちした。

「勝手にしろ」

「では、遠慮なく。事件当夜、あなたは午前零時の閉店時間に容疑者の宇曽島大弼が店を出ていくのを見ていて、宇曽島自身もこの点については認めています。しかし、裏を返せばあなた自身にもそれ以降から朝にかけての時間のアリバイは存在しない事になる。違いますか?」

「違うも何も、そんな時間にアリバイがある方がおかしいだろうがよ」

「では、あの日の閉店後、あなたが何をしていたのか教えてもらえますか?」

「何って……次の日の仕込みの準備をして戸締りした後、そのまま家に帰ってひと風呂浴びて寝ちまったよ」

「あなたの家はどこにあるんですか?」

「店が入っている雑居ビルの裏手にあるアパートの一階だ」

「なら、あなたが店から出たのは何時ですか?」

「覚えてねぇ」

「それでは、あなたが店を出た事、あるいは家に帰宅した事を証言してくれる人間は?」

「いるわけねぇだろ! そもそも、何でそんな事を聞くんだ!」

「何でも何も、私の考えでは、唐本が殺された本当の犯行現場は、『雑居ビルの高層階にあるあなたの店の階』だったと思っているからです」

 そう言って、榊原は正面の建物……すなわち矢的の経営する居酒屋の「ヤマト屋」が入っている五階建て雑居ビルを見上げる。そして、問題の「ヤマト屋」はこの雑居ビルの四階にあるのが、外からでも看板でよくわかった。

「事件の話を聞いて少し妙だと思ったんです。当初、私は問題の居酒屋が雑居ビルの一階にあると勝手に勘違いしていました。普通こういうビルに入っている居酒屋は客が気軽に入りやすいように一階にある事が多いですから。ところが、話を聞いていると『宇曽島が事件当夜居酒屋を出た後でエレベーターに乗って帰宅した』という事になっていましてね。もし、彼が飲んでいた居酒屋が一階にあるなら、帰宅するのにエレベーターを使う必要は全くない。にもかかわらず使ったとなれば、問題の居酒屋がエレベーターを使わないといけない場所……つまりその雑居ビルの高層階にあるとしか考えられません。そして、もしそうだとすれば、その居酒屋のある階から被害者を突き落として殺害する事が充分可能という事になってしまうんです」

 だが、矢的はひるむことなくこう反論した。

「はっ、あんたの妄想には付き合いきれねぇよ。その程度で容疑者になるなら、高層階に店を持っている人間は誰でも犯人扱いじゃねぇか」

「ですが、『ドッキリの事を知っていて、なおかつ殺害条件となる高所を確保できる』となると、条件に合致するのはあなただけです。事件当夜、被害者の唐本がどこにいたのかははっきりしていません。午前二時頃にアパートを出てタバコを購入したのが確認されているのが最後です。つまり、唐本がこの後でこの居酒屋にやって来たと考えても無理は生じないんですよ」

「馬鹿馬鹿しい。そもそも、閉店時間中の午前三時にうちの店にやって来るなんて意味がわからねぇ。それに、仮に来たんだとしても、それならうちの店に来るためのエレベーターのカメラにその姿が残っているはずだ。いくら警察でも、それくらいはちゃんと調べているはずだろ」

「えぇ。確かに、該当時間にエレベーターを使用した人間がいないのは確かなようです」

「だったら……」

「それを逆に考えれば、唐本はこの居酒屋に来るのにエレベーターではなく非常階段などのイレギュラーな経路を使った、とも解釈できますが」

 そう言って、榊原は改めて目の前のビルを見やった。

「このビル、非常階段は外付けされているタイプのようですね。この非常階段を使えば、目的の階までエレベーターを使わず到達する事は可能なはずです」

「ふざけるな。非常階段は部外者が入れないように内側から鍵がかかっているんだ。そんなところから入るなんて……」

「つまり、逆に言えばあなたが内側から鍵を開けてさえいれば、中に入る事は可能という事です」

「証拠のない言い掛かりだ!」

「いいえ、少なくとも被害者がこの非常階段を使っていたところまでは充分特定が可能と考えます。もし、事件当時彼がこの階段を使っていたとすれば、非常階段には彼の指紋や靴跡が付着しているはず。もちろん、ある程度は事件後に消す作業をしたと思いますが、他テナントも入っている四階分の非常階段の手すりや床を誰にも見られずにすべてふき取るというのは物理的に不可能と言わざるを得ませんからね」

 ここで初めて矢的の反論が止まった。その隙を逃さず、榊原は畳みかける。

「そして、もしそれらが検出されたら、唐本がビル関係者でもないにもかかわらず非常階段というイレギュラーな経路を使っていた事がはっきりするんですよ。まぁ、なぜそんな事をしたのか、唐本の目的までは現時点ではわかりませんが……そこで何かがあって唐本が非常階段から突き落とされたと考えても何ら支障はないのは事実です」

「知らねぇ!」

 矢的は苛立った風にそれを否定する。

「あんたが言っているのは、俺が犯人だと最初から決めつけた妄想だ! 証拠も何もありはしない! そもそもあんたの推理通りなら、非常階段からその被害者を落とした時に、落下地点に血が飛び散るはず。何だったら、非常階段の辺りをルミノールとやらで調べてみてくれ。賭けてもいいが、絶対にそんな痕跡は出ねぇよ」

 だが、その兆発に対して榊原は首を振った。

「やっても構いませんが、その様子だとおそらく無駄でしょうね。ただし、墜殺した被害者の血痕を地面に残さない方法についは、実はすでにかなり早い段階で検討してあるんです。具体的には、落下地点にあらかじめビニールシートかレジャーシートでも敷いておけば済む話だと考えます。というより、遺体が移動されていると聞いた時点でそうしたシート類が必要なのはある程度想定していました。その手の物で包まなければ、血まみれの死体を、痕跡を残さずに運ぶのは不可能に近い話ですから」

 榊原は矢的をジッと睨む。

「そして、最初からシートなりが敷かれていたのだとすれば、これは事故や突発的な犯行ではなく明らかな計画殺人です。つまり、あなたは最初から唐本を殺して、例のドッキリを利用して宇曽島君に罪を着せる手はずだったという事になります」

「だから! 想像だけで証拠はない!」

 矢的は榊原を睨みながら叫ぶ。が、榊原はこう続けた。

「あなた、軽トラックを持っていますよね?」

「な、何だよ、急に」

「居酒屋なら仕入れのためにその手の物を運べる車は必需品のはず。そして、軽トラックがあれば現場まで遺体を運ぶ事は充分に可能です。あなたの軽トラを調べたら、何か痕跡が出るかもしれませんね。それに現場周辺の防犯カメラを調べれば、真夜中にもかかわらず何かを運んでいるあなたの軽トラが映っている可能性さえあります。試してみますか?」

 その問いに矢的は一瞬顔を青くしたが、すぐにこう反撃した。

「か、仮にそうだったとしても、俺が殺したっていう証拠はないはずだ」

「つまり、現場に遺体を運んだことは認める、と?」

「そうは言ってねぇ! ただ、仮にそんな証拠が出たとしても、俺が事件当夜にその軽トラを運転していた証拠はないはずだ。もしかしたら合鍵を持った誰かが勝手に俺の軽トラを使っただけかもしれねぇ!」

「随分都合のいい言い訳にしか聞こえませんが?」

「その可能性がゼロだって証拠もないはずだ。どうなんだよ?」

「……では、具体的な証拠を挙げましょうか」

 そう言うと、榊原は矢的にとどめを刺しにかかった。

「今回の事件、被害者は突き落とされる前に一度殴られて気絶し、その後高所から突き落とされています。私の推測では、この最初に殴られた場所は他ならぬあなたの店の中だと思っています。つまり、被害者があなたの店で殴られた事を立証できれば、あなたが犯人である事を証明できる。何しろ、あの店で犯行を起こせるのは店主であるあなたしかいないわけですからね」

「そんな事できるわけが……」

「ところで、あなたの店のメニューにポテトサラダとロールキャベツがあるそうですね?」

 いきなり榊原は訳の分からない事を言い始めた。

「な、何だよ、急に」

「宇曽島の担当弁護士に頼んで聞いてもらいました。事件当夜に確かにそのメニューを頼んだそうです。メニューには『野菜たっぷりのポテトサラダ』『美味いロールキャベツ』と書かれてあったそうですが、これは正しいですか?」

「あ、あぁ、確かにそんなメニューはあるが……」

「その一方、さっき看板を見た限りだと、あなたの店は地方の農家と直接契約して産地直送で無農薬の野菜を仕入れているそうですね」

 榊原はそう言って店の看板を見上げる。矢的は苛立ったように叫んだ。

「だからどうしたっていうんだ! それが事件と何の関係が……」

「その被害者の死体に妙なものが付着していたんですよ。何でも、潰れたイモムシだったとか」

 唐突にそんな事を言われて矢的は困惑するが、榊原は推理を続ける。

「警察の鑑定によれば、付着していたのはキアゲハの幼虫だったという事です。このキアゲハという蝶はごく身近に見られる蝶ですが、その幼虫はある特定の葉を餌にする事で知られています。それは例えば……ニンジンの葉、などです」

 そこまで言った瞬間、不意に矢的の顔色が変わった。

「さっき言った『ポテトサラダ』と『ロールキャベツ』ですが、これの共通点としては『ニンジンが使われる事がある料理』だという事。つまり、あなたは料理にニンジンを使っているわけで、そのニンジンは産地直送、無農薬で店に送られてくる事になる。もちろん、送られてくるときには害虫の検査などはしているはずですが……その中に、たまたまキアゲハの幼虫が付着したまま送られてきたニンジンが一本くらい紛れていたとしてもまったくおかしな話ではありません」

「……」

「そして、遺体にはそのキアゲハの幼虫が付着していた。言った通りキアゲハの餌はニンジンですから、現場近くや各容疑者の関係各所でこんな幼虫が付着するはずがありません。では、この幼虫はいつ付着したのか? ここに至れば可能性は一つしかないでしょう。あの晩、あなたは自分の店で被害者の頭部を殴って気絶させ、気を失った被害者を非常階段から突き落として殺害した。そして、頭を殴られて被害者が気絶した際に、おそらくはまだ未使用の送られて来たばかりのニンジンの上に倒れたか、あるいはニンジンから床に這い出していたキアゲハの幼虫の上に倒れて、彼の肩にキアゲハの幼虫が付着する事になった。農地のほとんどない大都会の東京でこんな事が起こるのは、キアゲハの幼虫が付着している可能性のあるニンジンがあるあなたの店以外あり得ないでしょう」

「そ、それは……」

「あくまで否定するなら店を調べても構いませんか? 私の予想が正しいなら、どこかに潰れたキアゲハの幼虫の体液なりがまだ残っているはず。被害者の遺体に付着していた幼虫の遺骸は警察が保管していますから、調べれば同一個体かどうかはすぐにわかりますよ。それがわかった時点で……あなたが被害者を殺害した事が完全に確定するのです」

「……」

「さぁ、どうしますか! まだ否定しますか!」

 その瞬間、勝負は決まった。

「畜生……」

 矢的は一言そう呟くと、その場に崩れ落ちた。榊原は、黙ってそれを見つめているだけだった……。


「動機はやり切れないものでしたよ」

 後日、事務所へ事件を報告しに来た田中は開口一番そう言った。あの後、矢的は駆け付けた警察に拘束され、調べた結果店内の床から榊原の主張するキアゲハの幼虫の体液が検出され、その上現場近くの防犯カメラに矢的の店の軽トラックが映っていた事、その軽トラックから微量ながら被害者の血液が検出された事が決定打となり、矢的に対して正式に逮捕状が発行。本人が素直に自供している事もあり、即日宇曽島は釈放される事となった。

「あの矢的という居酒屋の店主には別れた妻との間に高校生の息子がいたんですが、その息子が三年前に自殺未遂をしているんです。自宅の自室で首を吊って、命こそ助かりましたが今でも意識不明のまま眠り続けています。自殺未遂の動機は同時期に学内の裏サイトでひどい誹謗中傷があった事によるもので、どうもその誹謗中傷をしていた生徒の一人が殺された唐本だったらしいです。矢的は当初その事を知らなかったんですが、今年になってあの三人が自分の居酒屋に来て飲んでいるときに唐本がかつて裏サイトで誹謗中傷をしていた事実を冗談半分で残り二人に話しているのを聞き、被害者の父親が目の前にいるのも知らずに反省もせずに面白半分で自分のやった事を話す唐本に我慢ができなくなって、今回の犯行を計画したという事だそうです」

「そういうわけか」

 榊原は少し厳しい表情で頷いた。こうした復讐目的の殺人が決して報われるものではない事を、榊原は探偵としてよく知っているようだった。

「被害者がバイト先を探している事を宇曽島たちとの会話などから知っていた矢的は、彼が一人で店に来た際に何食わぬ顔で『うちで働いてみないか?』と唐本に打診し、事件当夜、面接をするからと彼を閉店後の店に呼び寄せる事に成功しました。その際、正面のエレベーターではなく裏の非常階段で来るように指示し、唐本は何の疑いもなくやって来たそうです。で、しばらくとりとめもない話をして、唐本が油断したところで店内にあった消火器で被害者の頭部を殴って気絶させ、後は榊原さんの推理通り非常階段からあらかじめ敷いておいたレジャーシートの上へ突き落として殺害。その後はレジャーシートに包んだ遺体を軽トラックで現場に運び、ドッキリの関係者に罪を着せようとしたとの事です。なお、彼が言うには恨みがあったのは唐本一人だけで別に宇曽島に恨みがあったわけではなく、せいぜい『ドッキリに関係している宇曽島と久留木のどちらかが容疑をかぶってくれればいい』程度の認識だったそうです。もっとも、殺すほどではなかったとはいえ唐本の話を笑いながら聞いていた彼らに思い知らせてやりたかった気持ちがなかったかと言われれば嘘になるとも言っていました。今回はアリバイの関係から宇曽島が疑われたわけですが、状況では久留木が逮捕されてもおかしくなかったという事ですね」

「なるほど、ね」

 その辺は概ね榊原の推測通りだった。

「それにしても、一匹のイモムシが犯行の決定的な証拠になるなんて……こう言っては何ですが嘘みたいな話です」

「下手なエイプリルフールの嘘よりも荒唐無稽だ。まさに『事実は小説より奇なり』だ」

「その宇曽島と久留木については、今回の件でかなり懲りたようですよ。何より自分たちのくだらないいたずらで友人一人を亡くしてかなり意気消沈しているようです。私もフォローはしてみるつもりですが……」

 榊原は少し複雑そうな表情でこう締めた。

「今回の教訓は、嘘はほどほどに、という事になるのか。まぁ、嘘を暴く事を仕事にしている私からしてみれば、エイプリルフールのたわいもない嘘など、犯罪捜査において犯人がしてくる命懸けの嘘に比べれば遊びのようなものなのだがね」

「そう……ですね」

 榊原の言葉に、弁護士である田中も同意せざるを得なかったのだった……。

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