「断頭台のマリア」 真波馨 【ホラーミステリー】
それは、窓越しから見える青空とその中で優雅に泳ぐ鯉のぼりのコントラストが鮮やかな、五月の子どもの日のことだった。
地元の美術大学に通っていた私は、ゴールデンウィーク期間に課された課題と奮闘している最中であった。テーマは自由、とにかく自作をひとつ仕上げて担当の教授に提出しなければならないのである。彫刻を得意分野とする私は、最近ふとした機会で知った「サモトラケのニケ」という彫像にインスピレーションを受け、首のない女を象った作品を完成させるべく四苦八苦しているところであった。
一度作品作りに集中すると、寝食も忘れて作業に没頭してしまうのは芸術家の性である。自身を芸術家と称するのもこそばゆい気持ちではあるが、モノ作りに対する並々ならぬ集中力は私の数少ない取り柄だと自覚していた。
作業が一段落し、ふと窓に顔を向けると外はすっかり日暮れであった。空は青色と臙脂色の層が美しいグラデーションをなしており、私の美的感覚をくすぐる不思議な色合いを帯びていた。
作りかけの彫像を作業用テーブルの中央に置き、さて簡単な夕食でも作ろうかと立ち上がりかけたとき、玄関のインターフォンが不意の来客を告げた。壁に掛かった時計を見ると、六時を回ろうかという時刻で、訪問にしては微妙な時間帯である。そもそも、その日私の家に誰かが訪ねてくる予定などなく、あるとすれば保険か何かの勧誘くらいだ。それにしては、やはり妙なタイミングであることに相違ない。訝しみつつも、電話の受話器を取って「はい」と応じる。
「あ、磯部琢朗くんですか」
穏やかな声が私の名を呼んだ。聞き覚えのあるような気もしたが、その瞬間はまだ相手の正体を把握しかねた。
「そうですが、どちら様でしょう」
「僕だよ、鷹島博嗣。水崎香蓮の知り合いの。覚えているかい」
タカシマヒロシという男の記憶を掘り起こすのに、正味一分ほどを要した。その間無言が続き不安になったのか、受話器越しに私の存在を確認するように「もしもし」と声が呼びかける。
「ああ、鷹島くんね。覚えているとも。しかしどうしたんだい、こんな時分に」
「野暮用でたまたまこの辺りを通りかかってね。水崎から、きみのマンションがこの近くだと聞いていたものだから、ちょいと顔をのぞいてみようかと思っただけだ。迷惑だったかな」
「そんなことはない。よければ上がっていくか。といっても、大したおもてなしはできないが」
よくよく考えれば、かつて付き合っていた女性の知り合いというだけで、私は特別鷹島博嗣と懇意な間柄でもなかった。にもかかわらず、なぜ彼の突然の訪問を怪しみもせず受け入れたのだろう。きっと、五月初旬にしてはやけに蒸し暑い気候が、冷静な思考を鈍らせていたのかもしれない。
鷹島は、男にしては長めの髪を肩まで垂らした、柔和な顔つきの青年であった。すらりとした細身に白地のコットンシャツとチノパンの組み合わせがよく似合っている。だが、いくら記憶の中を探ってみても、鷹島博嗣という名前と目の前の彼とを一致させることはできなかった。
「まあ、上がってくれ。丁度今から夕食を作ろうとしていたのだ。しかし、いかんせん男の一人暮らしだからね、大層な料理は出せないが」
「ああ、構わないでくれ。何も食事をご馳走されに来たわけではないのだから」
鷹島は鷹揚に片手を振ると、物珍しそうに部屋の中をキョロキョロと見渡した。
「きみは、美術大学の学生だったね。そのテーブルの上の彫像は、何か作りかけなのかい」
首のない女の彫像を指さし、彼は尋ねた。
「ああ。この連休中の課題でね」
「それは、忙しいときに訪ねてきてしまったようだ」
鷹島はちょっと申し訳なさそうに眉をひそめた。
「そんなこともない。ようやく完成も間近でね。明日も時間があるし、今日はもう作業をするつもりもないのさ」
冷蔵庫を開けると、卵が一つだけ残っていた。オムライス一人分なら間に合うが、卵一つで二人分は貧相なオムライスしかできない。作品作りに熱中していたこの数日は、買い物も疎かになっていた。
「気を遣わないでくれ。長居するつもりはないから」
キッチンを覗き込んだ鷹島に頷き返し、とりあえず二人分のグラスと麦茶のペットボトルを用意し六畳間の床にぺたんと尻をついた。作業用のテーブルを脇に寄せ、足元にグラスを並べる。初夏を一飛びした真夏のような暑さが堪えていたのか、鷹島は美味しそうに喉を鳴らしながらグラスを仰いだ。
「鷹島くんは、たしかS大学で心理学を専攻していたね」
雑談はとにもかくにも近況報告から始めるのがセオリーである。鷹島はこくりと首肯すると、
「三年生になってからいよいよ研究も本格化してきてね。かくいう僕も、この連休は論文の課題に追われていたのだよ。その課題を今日ようやく片付けて、気分転換に出かけていたところだったのさ」
「互いに似たような状況だったのだね」
私たちは笑みを交わした。鷹島はそのまま視線を私から女の彫像に移すと、机上に据え置かれたそれを興味深そうにじっと見つめていた。
「あれは、どうして首がないのかな」
海がなぜ青いのか、と大人に問う子どものような率直さで、彼はそう口にした。
「『サモトラケのニケ』という作品に影響を受けて作り始めたんだ。サモトラケのニケは、ルーブル美術館に展示されていてね。名前の通り、ギリシャのサモトラケ島で発掘されたニケという女神の彫像で、発見された当初から首と両腕がなかった」
「へえ。何だか、想像力を掻き立てられる作品だね」
鷹島は多少なりとも芸術心というものが理解できる類の人間であるらしい。私はつい得意になり、それから十分ばかり彼に西洋美術の歴史をレクチャアした。鷹島は物分かりの良い生徒のように、時折相槌を打ちながら、聡明そうな瞳で私と私の作品とを交互に見比べ、じっと話に聞き入っていた。
「ふうむ。きみの話はとても好奇心を惹かれるものがあるね。僕は美術に対してまったく造詣もなかったが、この十分ばかりで恥ずかしくないくらいの美術の常識を身に付けることができた」
知的な微笑を見せて彼は述べた。それから、私の背後にあるベランダへと通じる窓に視線を投じると、
「実は、僕も一つ面白い話をきみに聞かせたいと考えていたところなのだ」
まるで思い出話でもするかのような遠い目つきで切り出した。
「磯部くんは、『断頭台のマリア』という物語を知っているかい」
「断頭台のマリア? いいや、初耳だな。西洋の童謡か何かなのか」
「まあ、そのようなものだ。僕も、最近知人から聞いたばかりなのだが、きみの作品を見ているうちにふっと記憶の底から沸き上がってきた。きみの美術講義と比べるといくらか小規模で子ども騙しのような話だが、よければ僕の語りに付き合ってくれないかい」
私は二つ返事で承知した。他人が物語る一見意味もない話でも、後の創作行為に思わぬ刺激を与えることがある。大学に入学してすぐに叩き込まれた、芸術家としての教訓だった。
今は昔、ヨーロッパのある小さな町で悲劇が起きた。マリアという一人の女性が、夫がいる身でありながら不貞を働いた罪に問われ、斬首刑に処されたのである。マリアにはヨゼフという亭主がいたが、彼に内密で牛乳配達のヤコブという男と姦通していたというのだ。ただし、当人のマリアとヤコブはこれをきっぱりと否認していた。おそらく第三者がヨゼフに密告したのであろうが、その密告者の正体も掴めぬまま、マリアには不義姦通の罪で斬首刑の命が下りた。
マリアは最期までヨゼフに訴え続けた。自分は決してヤコブという男と通じてなどいない。誰かが根も葉もない出鱈目をあなたに伝えただけなのだ、と。しかし、昔ながらの堅気な性分であった亭主は、妻の言い訳より何一つとして根拠のない噂話を信じた。マリアのささやかな抵抗は、町中に広がった醜聞を鎮めるにはあまりに非力すぎた。
結局、マリアの命乞いは夫に受け入れられることなく、刑は執行された。姦淫という証拠なき罪状を押し付けられた哀れな女性は、公衆の奇異の目と夫の冷たい眼差しを浴びながら、その華奢な首に悪魔の刃を突き立てられた。マリアは虚ろな目で空を見つめ己の最期を覚悟していたが、断頭台のギロチンを操作した者によれば、刃が彼女の首を真っ二つにする直前にこんな言葉を残したのだという。
「私は、死してなお夫を愛しています。その証拠に、首が飛んだ後でも夫の元へ参り許しを請い続けるでしょう」
刑の執行者はマリアの遺言を夫ヨゼフに伝言した。亭主は青ざめた顔で「そんな馬鹿なことがあるはずがない」と一蹴し、足早に処刑場を離れた。
その日の夜、ヨゼフの元に来客があった。頭にシルクのフードを被り、手作りらしい蓋つきの編みカゴを胸に抱えた年齢不詳の女であった。
「私は、マリアの昔からの親友です。彼女の魂を偲びに伺わせていただきました」
ヨゼフは女を迎え入れた。フードの合間から、職人が丹精込めて作り上げた彫刻のような美貌がちらと覗き、ヨゼフはどぎまぎしてしまった。
「信じられませんわ。マリアがあなたを裏切って他の男と密通していたなど」
女はフードで頭を覆ったまま、抑えた声でそう洩らした。
「私も信じたくありませんでした。しかし、妻と牛乳配達の男が玄関先で体を寄せ合っていたり、仲睦まじい様子で話し込んでいたりするところを近隣の者たちが目撃していたのです。マリアは根拠のない出鱈目だと声高に叫んでいましたが、これは確たる証拠以外の何ものでもない」
「ですが、その目撃証言だって真実か定かではなくってよ」
女はマリアの肩を持つように、控えめに抗議する。
「住民が嘘をつく理由もないでしょう。それに、ヤコブには妻子がいない。若く美しい妻に横恋慕していたとしても不思議ではありません」
ヨゼフはあくまで妻の背徳を信じ込んでいた。女は編みカゴをぎゅっと胸に抱き寄せる。
「ああ、可哀そうなマリア。哀れな親友。彼女はとても純粋で、あなたを一途に愛していましたわ。どうして彼女をもっと信じてあげなかったのです」
ヨゼフは、なぜ自分がこんな女に責められなければならないのだと立腹した。自分は被害者で、妻に裏切られた身。そんな自分が咎められるなどお門違いもいいところだ。
「私だって、妻を心から愛していた。なのに、彼女は私を捨て他の男に走ったのだ。妻を断罪するのは私だって辛かった。いや、誰より私が一番、身を裂かれるような思いを味わったのだ。今だって、あれがすべて夢であればどれだけよいだろうと神にもすがる気持ちなのだから」
女ははっと息を呑むと、やおら椅子から立ち上がる。そして、教会で夫婦の契りに立ち会う神父のような厳かな声で問うた。
「では、あなたは今でもマリアを愛しておられるのですか」
「妻の裏切りは断じて許せない。だが、それと妻に対する愛情とは別問題だ。私は今だって、マリアを誰よりも愛している。彼女が死した今でも、その想いは変わらない」
フードから見えた女の唇が、三日月型に歪んだ。ヨゼフはなぜか背筋を悪寒が走るような感覚に襲われた。
「よかった。そのお言葉を聞いて、マリアもきっと喜んでいますわ」
女は目の前の机に編みカゴをそっと置いた。まるで、その中に愛しい赤子でも収まっているかのように繊細な手つきで蓋を開ける。
ヨゼフは恐る恐るカゴの中を覗き込んで、次の瞬間には椅子から無様に転げ落ちた。「あ、あ、あ……」と気でも狂ったように声を震わせ、歯をがちがちと鳴らし、額に脂汗を浮かべ、瞳は恐怖の色を帯び、金縛りにあったかのようにその場を動けずにいた。
ヨゼフは世にも悍ましいものを見た。カゴの中から、彼が愛して止まなかった妻マリアの、切なげな青い双眸が夫を捉えていた。マリアの頭は編みカゴの中に隙間なくぴったり収まっており、ふんわりとした黄金の髪が彼女の繊細な輪郭を覆い隠していた。かつてヨゼフが数えきれないほど重ね合った彼女の唇は、今でも夫の口づけを心待ちにするかのように僅かに開かれている。陶器のようにつるりとした頬はほんのり赤く色づき、死人の顔とは到底思えない生気が宿っていた。
「こ、これは一体」
やっとのこと正気を取り戻し、ヨゼフはカゴから女へとゆっくり視線を上げた。だか、彼はそこで再び正常な判断力を失い、あらん限りの叫び声を張り上げながらリビングから脱兎の如く逃げ出した。
頭部のない女が、ヨゼフをじっと見下ろしていたからだった。
鷹島の話を夢うつつに聞いていた私は、現実に引き戻されのろのろと壁時計を仰ぎ見た。薄暗がりの中目を凝らすと、意外にも七時をまだ回っていなかった。
「それで、ヨゼフはどうなったんだい」
「彼は寝室に駆け込み、布団を被って一晩中そこから出なかった。翌朝、ようやく恐々とリビングに足を踏み入れると、女の姿はどこにもない。ヨゼフはほっと胸を撫でおろし、『あれは悪い夢だったのだ』と自分に言い聞かせる。だが、机上に置かれた編みカゴが目に留まった瞬間、彼は再び寝室に閉じこもってしまった。そう、マリアの首が入っているあのカゴだ。昨夜見たものとまったく同じもの。ヨゼフは確信した。あれは夢などではなかった。執行人が伝言した通りのことが起きたのだ。マリアは断頭台で首を刎ねられてなお、愛する亭主の元に舞い戻ったのだと」
「そんな馬鹿な」
物語の中のヨゼフと同じ台詞を、私も口にした。鷹島は薄い唇からふっと吐息を洩らすと、
「もちろん、これは架空の物語だからね。幽霊も魔法使いも自由に登場できるが、少しばかり頭を冷やして考えれば、カゴの中にマリアの首が入っていたなどあり得ない。生首を抱えて親友の夫を訪ねるなど狂気の沙汰ではないからね」
「無論だよ。執行人から聞いた言葉が頭に残って、あり得もしない妄想に憑りつかれたのだろう」
「行動心理学でいうところの、初頭効果に近いものがあるね。最初に提示された情報が後の情報に影響を与える。人間は第一印象が肝心だ、というのはこの初頭効果が大きく関係しているためなんだ」
鷹島は利発そうな口ぶりで解説する。
「なるほど。マリアが戻ってくるという情報を最初に与えられていたがゆえに、女が持ち込んだカゴの中にマリアの生首という幻を見た。あるいは、そもそも女が訪ねてきたという出来事それ自体が夢であった可能性のほうが、ずっと現実的にも思えるけれどね」
「たしかにね。だが、たかが悪夢を見たくらいで人間が死ぬとも考えにくい」
薄闇の中から、挑戦的な光を宿した目が私を射抜く。
「それはどういう意味だい。まさか、ヨゼフは死んだのか」
「ご名答。夢か現実か、とにかくマリアの生首を目にした数日後、ヨゼフは自宅の寝室で変わり果てた姿となって発見された。彼の遺体はベッドの上で行儀よく布団を被っていたが、顔に掛かった布を取り払ったそこにあったのは、どんな恐ろしい悪夢を見たのか、この世のものとは思えぬほどの苦悶に歪んだヨゼフの形相だったのだ。さらに奇妙なことには、遺体を解剖してもヨゼフの正確な死因を見出すことができなかった。結局、急性心不全というありふれた病名をつけられ、ヨゼフの亡骸はマリアと同じ墓の中に仲良く納まった。めでたしめでたし、というわけさ」
まったく何という童話であろう。こんな寝物語を聞かされた子どもが純粋無垢に育つとはとても思えない。
「しかしね、きみ。これもなかなかに興味深い話だと思わないかい。ちょっとした思い込みで、人間はその生死さえ左右される生き物なんだ。自分はそんな愚かではないと自信過剰な者だってね、いざヨゼフの立場に立たされてごらん。冷静な判断力を保って、再びカゴの中を覗くことができるだろうか。少なくとも、僕にはそんな勇気ないだろうね」
鷹島はふふと小さく笑って、腰を上げた。長い髪が横顔にかかり、女のような艶めかしさを醸し出していた。
「それじゃあ、僕はこの辺で失礼しようか。夕飯時に邪魔をして済まなかった。だが、きみとの話は非常に有意義なものだったよ」
鷹島を玄関まで送り届けたとき、彼はふと私を振り返って何気ない調子で尋ねた。
「そういえば、きみはどうして水崎と別れたんだい」
私は、ぎょっとして鷹島を見た。彼は私の動揺に気付いてはいないようで、不思議そうに首をかしげている。
「きみと彼女はとても意気投合していたようだったから疑問でね。大学こそ違うけれど、定期的に逢っていたというし、彼女はきみの話をそれは楽しそうに僕に聞かせていたから。まあ、僕が首を突っ込むことでもないし、別れた今となってはこんな質問に大した意味もない。単なる僕の好奇心だよ。もちろん彼女に今日のことは一切言うつもりもない。神に誓って約束しよう……そう、サモトラケのニケに誓ってね」
唇に人差し指を宛がい、片目を瞑る鷹島。私は肩の力を抜いて壁に寄りかかると、「大した理由があったわけじゃない」とそっけなく返した。
「お互い、勉学やその他のプライベートな事柄で忙しくなって。ありきたりなすれ違いだよ、何のドラマティックな展開があったわけじゃないのさ」
「この世の大半の出来事は、平凡で退屈なものだよ。男女の事情だって同じことだ」
鷹島は大人びた仕草で肩を竦めると、玄関先で私に別れを告げた。まるで、逢魔が時に現れた幽霊が去るように、鉄の扉は音もなくぴたりと閉ざされた。
オムライスを頬張りながら鷹島が語ったマリアの話をぼんやり反芻していると、再び呼び鈴が鳴らされ心臓がどくりと脈打った。妻が死んだ夜に、夫の元を訪れた謎の女。私は早まる脈を静めるため深呼吸をすると、そろそろと受話器に手を伸ばした。
「あ……磯部くん。私です」
ひゅ、っと喉が鳴る音を聞いた。それが自分の体内から発せられたものと分かって、私は思わず咳き込んだ。
「何の用だ、こんな時間に」
電話機のデジタル時計は午後八時ちょうどを知らせていた。か細い女の声が私の耳元でぼそぼそと要件を伝える。
「あの、どうしても磯部くんに会いたくて。ごめんなさい、非常識なことは分かっていたけれど」
だったら来るな、と吐きかけて、ぐっと言葉を呑み込む。つい一時間ほど前に鷹島が出ていった扉をゆっくり押し開けると、髪の長い、青白い顔をした女が私を上目遣いに見上げてきた。
「あいつから聞いたのか」
赤く小ぶりな唇がぽかんと開かれる。
「鷹島だよ。あいつから聞いたんだろ、今日ここに来たことを。それで我慢できずにのこのこ赴いたわけだ」
「どういうことなの。私は何も知らないわ、彼から一言だってそんなこと聞いていない。完全に自分の独断であなたを訪ねたのよ」
先ほどとは打って変わって力強い声で主張した。己の潔白を必死に夫へ訴えたマリアのように。
「そうか……それで、どうしてまたここに来た。言ったはずだよな、もう二度とここへ踏み入るなと」
詰問口調の私に、彼女はつと俯いて体をもじもじさせる。
「磯部くんと別れたことを、今更どうこう言うつもりはないの。寄りを戻してなんて頼むほど、図太い神経を持ち合わせてもいないわ」
だが、元彼のマンションを夜分に訪ねる度胸はあるわけだ。皮肉の一つでも浴びせてやろうかと思ったが、子どもじみた言動は慎むべきだと自制が働いた。
「じゃあ、何しに来た」
「一つだけ、どうしても伝えたいことがあるの。私、浮気なんてしていなかったのよ。磯部くん以外の男の人と個人的に逢ったことなんてないし、ましてあなたでない他の男性と出かけるなんて破廉恥なこと、私は絶対にしていないわ。お願い信じて」
六畳間の床に立ち、彼女は再び声に力を込める。だが、私は相手を睨み据えたまま冷たく言い放った。
「また弁明しにきたのか。いい加減にしろよ、今さら何を言ったところでお前が犯した裏切りは帳消しにされるわけじゃない」
「本当なのよ。私があのとき愛していたのはあなただけ……いいえ、今だってあなたが忘れられなくて、誰とも交際していないの。お願いよ、私を尻軽女だとか浮気性だとか決めつけないで」
目尻に涙を溜め、すがるような声色で私に迫ってくる。止めてくれ、そんな言い逃れ聞きたくもない。
「もういい。お前をどう思おうがこっちの勝手だろう。他人の心の中にまで口出しされては堪らない」
「口出しですって。その言葉、そっくりそのままあなたに返すわ。男と遊んできたんだろうとか、教授に媚を売って取り入っているんだろうとか、ありもしないことで私を疑ってばかりいたのはあなたでしょう」
女は半狂乱になって髪を振り乱す。化粧で美しく整えられた顔も、醜く歪んで今ではちっとも魅力に感じない。あのとき、私はなぜこんな女を夢中で追いかけていたのだろう。世間では修羅場と言われるこんな状況で、私は馬鹿に冷静な気持ちを保つことができていた。
「私、正直あなたのことで我慢ならないことも沢山あったわ。気難しくて神経質で、疑り深くて粘着質で……それでも、芸術論を語ったり一心不乱に作品を作ったりするあなたの姿に惚れ込んでいた。他のどんな欠点にも目を瞑ってなかったことにできるくらい、あなたを愛していたのよ。ねえ、ここまであなたを一筋に想うことができるのは私だけよ。だからお願い、私を嫌いにならないで」
生白い腕が、私の足に絡みついてくる。蛇のように、脹脛から太腿、腰、胸を伝って、妖怪のように醜悪な形相がとうとう目と鼻の先にまでたどり着いた。
「私を、嫌いにならないで」
爬虫類のように長い舌が、私の口内に割って入ろうとする。抵抗を試みるも、一見華奢な彼女の腕が驚くほどの力で体を締め上げてきた。息が詰まったが、唇を開くわけにはいかない。開いたが最後、口から魂を吸い取られこの世に永遠の別れを告げることになる。そんな恐ろしい想像が私の頭を駆け巡った。
彼女に押し倒される形で、私は床へ体を打ち付けた。節々に痛みが走るが、それがまだ生きている証なのだと思うと安堵さえした。だが、決して余裕ぶっていられる状況ではない。冗談ではなく、生死の際どい淵を右往左往しているのだ。
視界の端に、作業用テーブルの脚を捉えた。そのすぐ傍に木材を切断するための鋸が無造作に放られている。必死に右手を伸ばして、鋸の柄の部分を指先で手繰り寄せた。手のひらはじっとり汗ばんでいて、少しでも気を抜けば柄を取り落としてしまいそうだった。
私は鋸を握りしめて、女の白いうなじめがけて勢いよく振り下ろした。ぐしゃり、という身の毛もよだつ音は、最期まで愛する夫に信じてもらえなかったマリアが、断頭台で命を散らせた場面を思い起こさせた。
長い長い五月の連休が明け、私は美術大学の教授室を訪れた。金縁の丸眼鏡に土気色の地味なスーツを着込んだ教授が、椅子をくるりと回し私に向き合う。
「きみは、今期生の中でも特に才能に溢れている。この連休も、さぞ作品作りに余念がなかっただろうね」
「ええ、それはもう」
私は唇をめいいっぱい横に広げ、両手に抱えた作品をテーブルの上にそっと置いた。
「これはまた、随分大きな作品だね」
「はい。実は、連休が終わる直前まで別の作品を仕上げていたのですが、唐突に新しいアイデアが降って湧いてきたんです」
「ほう」
「教授は、サモトラケのニケという作品をご存じですよね」
「愚問だよ。ミロのヴィーナスと双璧するルーブル美術館の目玉作品だ」
教授は嬉しそうにもみ手をする。
「そうです。サモトラケのニケには、頭部と両腕が欠陥していることは有名です。そこで私は、もしサモトラケのニケに頭部が存在したら、と発想を巡らせてみました。あの彫像は、頭部がないからこそ無限の想像ができる作品ではありますが、私は敢えて、あの彫像にどんな表情のニケの頭部がくっついていたのだろうと思い描き、作品にしてみたのです」
「なるほど、なかなかユニークな着眼点だ。それでは、きみが作り上げたニケの頭部をぜひとも拝見しようじゃないか」
私は自分でも分かるほどに満面の笑みを浮かべ、作品を覆っていた布を取り払う。一呼吸の間を置いて、教授の絶叫が校舎中に響き渡った。
『……本日、H美術大学の教授室から女性の頭部が発見された事件で、警察は当大学の在学生である磯部琢朗二十一歳を、殺人及び死体損壊の疑いで逮捕しました。被害者の能登真理亜さんは磯部容疑者の元恋人であり、警察が磯部容疑者の自宅マンションを捜索したところ、被害者と思われる頭部のない遺体が見つかりました。磯部容疑者は警察の取り調べに対し、自分がやったことは間違いないと容疑を認めたうえで、マリアの霊が彼女を殺せと囁きかけてきたと供述しているとのことです。警察は、詳しい動機や被害者との関係について調べを進めていく方針です。では、次のニュースです……』
クリーム色のスーツを着た女性キャスターが、深刻な顔で磯部琢朗の事件を読み上げていた。ニュースの内容が政治家の不倫問題に切り替わったところで、テレビの電源を落とす。テーブルの新聞を取り上げると、第一面にもやはりH美術大学の事件が大々的に取り沙汰されていた。これが週刊誌であれば、男女の愛憎や若者の歪んだ深層心理云々かんぬんと御託を並び立てていたことだろう。
「ヒロシ、朝ご飯できたよ」
鷹島博嗣は新聞から顔を上げた。真っ白いブラウスにエプロンを身に付けた女が、春の日差しのような淡い微笑みを浮かべテーブルの向いに腰を下ろす。
「あ、そのニュース早朝のテレビでも報道していたわ。元恋人の生首を芸術作品にするなんて、考えられない」
女はエプロンを椅子の背凭れにかけながら、ぶるりと身を震わせる。鷹島は新聞を几帳面に畳むと、テーブルの隅に置いた。
「そうだね。よほど二人の間に何か深刻な問題でもあったのか」
「案外、頭に血が上りかっとなって殺した、という顛末のほうが現実的かも」
箸を取り上げ「いただきます」と小さく頭を下げた女に、鷹島は苦笑する。
「でも、殺人というショッキングな出来事を挟んだことにより精神に混乱が生じ、複雑な動機や殺人に至るまでの記憶を一時的に忘却してしまうことだって考えられる」
「いわゆる、記憶喪失みたいなもの?」
「そう。極度の緊張状態にあって普段なら忘れるはずもないことでも記憶から抜け落ちてしまった、というのは多々あることだ。たとえば、舞台役者が本番に緊張し、自分がどんな演技をしたのか忘れてしまうとか。大好きな芸能人と接する機会があったけど、緊張しすぎて何を話していたか覚えていないとか」
「私も、ヒロシと初めてデートした日は嬉しさで舞い上がって、何を話したのか忘れてしまったわ」
女はにこりと白い歯を見せた。鷹島も微笑み返し、茶碗と箸を手に取った。
能登真理亜の惚気話を聞く中で、磯部琢朗が彼女に対して歪んだ愛情を抱いていることは容易に想像ができた。真理亜は良くも悪くも究極の楽天家で、自分は磯部に正しく愛されているのだと信じて疑わなかった。彼の嫉妬深さも、芸術家にありがちな性質なのだと捉えて恐れることさえしなかった。
だが、真理亜が恋愛相談と称して鷹島と食事をしているところを、運悪く磯部に目撃されてしまった。この時点で磯部は鷹島の存在をまだ知らなかったものの、真理亜を猛烈に責め立てて蓮っ葉だのアバズレ女だの罵り尽くしたという。二人はまもなく喧嘩別れしたが、鷹島はその責任の一端が自分にあるとは露ほども考えなかった。
問題は、磯部と別れた真理亜が何かにつけて鷹島を頼るようになったことだ。鷹島にはすでに恋人がいて、大学卒業後には婚約も決まっていた。そこへ、能登真理亜という爆弾が投下されたのである。
恋人から浮気を疑われるわけにはいかない。鷹島はいかにして真理亜の存在を抹消するか考え抜いて、磯部琢朗を利用する手立てを思いついた。磯部は芸術家としての才覚を秘めた一方で、そうした人間にありがちな誇大妄想癖を患っている節があった。彼を心理的に誘導し、自身の手は一切汚さずに、邪魔者を一人抹殺する。行動心理学を熟知している鷹島にとって、その計画はさほど難易度の高いものではなかった。
当然、磯部琢磨が必ずしも真理亜を手にかけるとは限らない。鷹島とて百パーセントの期待を抱いていたわけではなかった。だが、仮に『断頭台のマリア』なる間接殺人計画が失敗に終わったとしても、鷹島にはいくつもの奥の手が用意されていた。実験成功の秘訣は、成功するまで続ける根気強さ。それに尽きる。
結果としては、さほど苦労することなく邪魔者を片付けることができた。警察がどんなに探偵めいた捜査をしようとも、鷹島博嗣に容疑の目が向けられることは決してない。彼が真理亜殺人に関わった証拠はこの世のどこにもないのだから。
未来の婚約者が、今晩の夕食のメニューについて弾んだ声で話している。鷹島は飲み干した味噌汁の椀を机上に置くと、
「今夜は、きみが作る美味いロールキャベツを食べたいな」
「嬉しいことを言ってくれるのね。じゃあ、腕によりをかけて用意しておくわ」
「ああ……楽しみにしているよ、香蓮」
飛び切りの甘い声で恋人の名を呼んだ。




