「般若観音寺の犯罪 7」 Kan 【ミステリー】
しばらくして、祐介たちも事情聴取に呼ばれた。祐介たちが泊まっている般若観音寺会館の一室だった。根来警部が眠い顔をして、待っていた。一通りの事情聴取が終わると、今度は、根来警部が祐介と胡麻博士の部屋にやってきた。根来警部は煎茶をすすると、いかにも疲れている様子で虎のような唸り声を漏らした。
「まったく、奇妙な事件だよ。羽黒。情報を提供するから、お前の意見を聞かせてくれ」
「わかりました」
根来はまた煎茶をすすった。
「まず、殺人事件が起こったのは深夜零時頃のことと考えられている。ちょうどその頃、中川和尚から警察に通報があったんだ。「今、自分は般若観音寺の観音堂にいる。ここで角田という僧侶が殺された」という話だった。それで、警察が観音堂に向かったところ、確かに観音堂には血まみれの中川和尚がいて、床には出刃包丁、そして腹部を刺された角田という僧侶の遺体が横たわっていたというわけだ」
「なるほど」
「そして、この時、観音堂の厨子の中にあるとされている秘仏はもうそこになかった。そして、床には開けられた状況の鞄錠が落ちていた」
「秘仏が盗まれていたというのかね!」
胡麻博士は真っ青な顔をして、立ち上がった。根来と祐介は驚いて、振り返った。胡麻博士は小さな鋭い目を見開いて、震えている。
「そんな馬鹿な……」
「そう。犯人の手によって、仏像は盗まれていたんだ。もぬけの殻だよ」
「これは大変なことになりましたなぁ」
と胡麻博士は座りながら、それが殺人事件よりも重大な出来事であるかのように言った。
「でも、盗難されたのだとしたら、警報機は鳴らなかったのでしょうか。あれが反応した場合、寺務所にまで警報がゆくはずですが……」
「それが、警報機は誰かが事前に止めておいたようなんだ。警報機のシステムは、寺務所のパソコンからも管理ができるようになっているからな」
「なんですって……」
しかし、その操作ができるのは、パスワードを知っている人間だけのはずだ。
「何時に警報機はオフにされたのですか?」
「昨日の六時頃だ」
と根来は言うと、何故だか鞄からスルメイカを出して、かじった。
「ここまではいいだろ。しかし、問題はこれからなんだ。実は観音堂の近くにある橋……これを弁天橋というのだが……この上に香川時子の血のついたコートが落ちていたんだ。そして、その橋の下を流れる補陀落川の下流に、香川時子の遺体が流れ着いていたというわけだ。彼女は、後頭部を石のようなもので強打された後に、川に落とされ、溺死したようだ」
「そうだったのですね」
「それと、彼女の靴はさらに下流で発見されたらしい。般若観音寺の山門前の橋の下あたりに引っかかっていた」
「それは僕が発見したんです」
と、さも知らないことのように言われたのが気になって、祐介は言った。
「そうだったな。さて、状況を考えてみよう。観音堂には角田明善という男の死体があり、補陀落川には香川時子の死体があった。これだけならなんてことのない事件だが、ひとつ見逃せない謎がある。それは足跡だ」
「足跡?」
「ああ。事件発生時、本堂から観音堂へと向かう道は、雨のために非常にぬかるんでいて、足跡が残る状態だった。そして、現場付近の足跡が問題だったのだが……。まて、ここに紙がある」
「まず、本堂から弥勒堂の方向にアスファルトの道が続いている。ここには足跡はつかない。そして、そこから弁天橋の間には、このように三人分の足跡が残っていた。すべて本堂側から弁天橋へと向かう足跡だった。これに対し、橋から本堂へと向かう足跡は一人分もなかった。さて、弁天橋の先には、文殊堂と観音堂がある。弁天橋から文殊堂に向かう足跡が二人分、そして文殊堂から弁天橋に戻ってくる足跡が一人分あった。そして、弁天橋から観音堂にまっすぐ向かう足跡が一人分(これは和尚の靴跡と完全に一致している)。そして、文殊堂から観音堂に向かう大きな足跡が一人分残っていた」
口頭で言われても、何がなんだか分からないが、図を見るとよく分かる。
「さて、足跡の型を三通りに分けて考えると、Cは和尚の靴跡と一致している。Bは角田の足跡と一致している。Aは香川の足靴跡Aと一致しているわけだ。ここで疑問なのだが、どこにも犯人の足跡がないんだ」
「これは不思議だ」
と胡麻博士も唸る。
「ひとつ有望な仮説がある。それは中川和尚が犯人という場合だ。単純に考えると観音堂で角田を殺せたのは、中川和尚しかいない。そして、香川時子を橋から突き落とせたのも、やはり中川和尚しかいないんだ。足跡から推理するに、手順はこうだ。まず橋で香川時子を殴打し、川に突き落とす。そして、観音堂に向かった。その後、後から入ってきた角田を刺し殺したんだ」
「だとすると、このAの足跡が、文殊堂と弁天橋の間を往復しているのは、これは何故ですか」
と祐介は尋ねた。
「それは俺の推理では、香川時子が、文殊堂を拝みに行ったのだろう。そして弁天橋に帰ってきたところを、中川和尚と鉢合わせた。きっと中川和尚はむしゃくしゃしていたんだ。香川時子を殴打し、川へ突き落とした。そして、逃げるように観音堂に入った。焦っていた和尚は、後から観音堂に入ってきた角田にさらに焦りを覚え、出刃包丁で刺し殺してしまったんだ」
「それじゃ、誰が秘仏を盗んだんです?」
根来は答えられなかった。
「何にせよ、考えられる容疑者は、中川和尚ひとりだ。他にも、黒川弥生、尼崎、金山寺春英の三人も疑わしいが、足跡を見る限り、犯行は不可能だ。また他の僧侶たちは棟が離れていて、本堂の防犯カメラの下を通らないと、観音堂まで行けないから、犯人ではありえない」
「中川和尚以外の人間は本当に犯行を起こさなかったでしょうか。たとえば、香川時子が角田明善を殺した後に、弁天橋から飛び降り自殺したということはないですか?」
「それもひとつの推理だ。しかし、足跡からして時子は観音堂に近づいてすらいない。角田明善を刺し殺すのは物理的に不可能だ。それに弁天橋の欄干には彼女の指紋がついていなかった。時子は手袋をしていなかったからな。自殺ではないだろう」
「そうですね」
「どう思う?」
祐介は黙って考え込んだ……。




