「般若観音寺の犯罪 5」 Kan 【ミステリー】
部屋に戻った祐介と胡麻博士は和尚の言うとおり、早めに眠ることにした。といっても、祐介はすぐに寝付けなかった。胡麻博士が隣で大きな寝言を言っているせいである。
「うおっ……駄目だよぉ……寝坊しちゃ駄目だって言ったでしょうが……」
祐介はその言葉が気になって仕方なかった。
(一体どんな夢を見ているんだろう……)
*
その頃、中川和尚は観音堂でひとり呆然としていた。あるものを見つめたまま、もう心が空っぽになってしまったような気がした。
(こんなはずでは……)
中川和尚が、それをまじまじと見つめていると、その時、誰かがお堂に入ってくる気配があった。
(誰だ、こんな時に……)
と中川和尚が思った瞬間、後ろでドタッという音がしたので、驚いて振り返ると、観音堂の扉は開きっぱなしで風に揺れていた。そして、入り口近くには何か黒くて大きなものが横たわっていた。和尚は気味が悪くなって、立ち上がりそれを見て、
「あっ、そんな馬鹿な!」
と叫んだ。
*
祐介はいつまでたっても眠れずに布団の中で寝返りを続けていた。仰向け、横向き、うつ伏せ。どの体勢になっても神経は逆立ったままである。その間も胡麻博士の寝言はずっと続いていた。
「寝坊だよ……本当にお寝坊さんなのだから……ごめんなさい……ううう……」
そうこうしているうちに廊下から人が走る音が聞こえてきた。なにやら、外が騒がしい、おかしいな、と祐介が思っていると、続いてパトカーのサイレンの音が聞こえた。何かあったのだろうか、と祐介はやっと布団から起き上がった。
祐介は浴衣のまま廊下に出た。そして窓の外を見ると、警官の姿があった。
(なんだなんだ)
祐介が廊下を進むと、あの太った仏像研究家、尼崎がロビーから走ってきた。
「大変ですよ! 羽黒さん。昨日、我々と一緒にいた角田さんが観音堂で何者かに刺されて倒れていたらしいです」
「なんですって」
「ええ。和尚が観音堂から通報したらしいんですよ」
祐介は驚いた。祐介は般若観音寺会館から浴衣のまま、飛び出した。外はおそろしく寒かった。そこに黒川弥生がふらふらと歩いていた。
警官たちが坂道を登ってゆくのが見えた。先導して、僧侶が走っている。その先には、補陀落川が流れていて、観音堂があるのだ。
風が強く吹いている。しかし、黒川弥生の黒髪は綺麗に結われているので乱れていなかった。
祐介が警官たちの後ろ姿に気を取られていると、黒川弥生が震えた声で祐介に言った。
「あの、香川先生がどこにもいないんです!」
「何ですって……」
「起きたらどこにもいなくて……」
祐介は眠気のせいで咄嗟に判断ができなかった。すると後ろに立っていた尼崎が、
「事件に巻き込まれたのかもしれませんね!」
と叫んだ。
「みんなで手分けして探しましょう!」
そう言って、尼崎はすぐにどこかへ走っていった。本堂の方だった。黒川弥生も観音堂がある方へと走っていった。
(何が起こっているんだ……)
祐介は自分の部屋に戻って、懐中電灯を手に取ると、また外に出て、あてもなしに付近をさまよった。吹き付ける風は冷たかった。そうこうしているうちに暗闇の中に山門が見えてきた。何台ものパトカーが橋の向こう側に止まっている。祐介は嫌な胸騒ぎがして、橋の上から、川を見下ろした。人の姿はなかった。が、しかし……。
(あれは……)
祐介の目に、スニーカーのようなものが映った。それが暗闇の中で白くうごめいているように見えた。川に垂れ下がった枝に引っかかっているのかもしれない。
祐介は嫌な予感がして、山門から離れて、橋の下に降り、川沿いをさかのぼった。スニーカーは水に沈んだ枝にからまれながらも、水の上に浮かんでいた。祐介はそのスニーカーを観察する。
(これは……?)
祐介はそのスニーカーの靴紐が気になった。
この付近に香川時子はいるのであろうか。しかし、あたりは真っ暗闇である。祐介は懐中電灯で水面を照らした。何もない。安心しかけたその時。
「あっ……」
祐介は思わず、声を上げた。川岸の岩場に香川時子の死体が打ち上げられていたのだ。
*
「なんだ、羽黒じゃねえか」
と般若観音寺会館のロビーのソファーに祐介が座っていると、聞き覚えのある声がしたので、振り返った。そこに仁王のように屈強な、強面の男が立っていた。
「根来さん!」
その男は泣く子も黙る鬼警部、根来拾三だった。群馬県警の根来拾三といえば、荒っぽい捜査で有名で、若い頃から鬼根来と恐れられていた男である。
「どうしたんだ。こんなところにいて……」
「実は和尚に、明日、開帳する仏像の警備を頼まれていたんです。この建物の中には胡麻博士もいます」
「なんだ、そうだったのか。羽黒。まさかこんなところで会うなんてな。でも、もう仏像どころじゃねえよ。観音堂で人が殺されたんだからな。この寺の坊さんで、角田という男だ」
「そのようですね。ちなみに第二の死体を発見したのは僕です」
「そうなのか。まあ、これから俺は捜査があるから、後でまた会いにくるぞ」
と言って根来はその場を離れてしまった。祐介は頷いた。
*
根来警部が弁天橋にたどり着いた時、すでに鑑識が道の足跡を調べていた。ぬかるんだ道には足跡がくっきりと残っている。これが壊れないように気をつけながら、根来は弁天橋の上に立った。そこから見える川下の方でも、多くの警官が動いているらしく、懐中電灯の明かりが暗闇の中でいくつも揺れていた。
あそこに香川時子の死体が打ち上げられたのだ。人間の命なんて、もろいもんだな、などと勝手な感慨にふけっていると、観音堂の方から根来の部下である粉河修二刑事が走ってきた。
「根来さん。お待ちしておりました。殺害現場は二箇所で、ひとつはこの橋の上でもうひとつは向こうの観音堂です」
「えっ、この橋で殺人が行われたというのか」
「はい。川で発見された香川時子の遺留品が橋の上に落ちていました」
見ると、香川時子の血のついたコートが橋の上に落ちていた。ここで殺人が行われたのだろうか。それとも自殺なのか。根来は欄干の高さを見て、部下の粉河刑事に、
「重い死体を抱えて、この欄干の向こう側に落とすのは、女性や老人にはたぶん無理だな」
と言った。
「そうですね、一般人には。レスリングの女性選手やボディービルダーの老人ならできるでしょうが……」
根来は粉河の言うことに頷く、
「指紋はどうなんだ?」
「欄干からは不審な指紋は発見されませんでした。そして、被害者の指紋もありませんでした」
「そうか」
根来はさらに先へと進んだ。左手に文殊堂がある。その先に観音堂はあった。根来が堂内に入ると、目の前に開かれた厨子があって、入り口の付近に若い僧侶の血まみれの死体が転がっていた。
「ひでえことしやがる」
根来はそう言って、あたりを見回した。床に出刃包丁が落ちている。
「これが凶器だな。畜生……」
根来は殺人が行われたことを苦々しく思った。
「根来さん」
部下の粉河刑事が話しかけてきた。
「どうした、粉河?」
「被害者はこの寺の僧侶で、角田明善といいます。死因は、腹部を刺されたことによる失血死で、即死ではありませんでした。死後しばらくは体力が残っていたようです。凶器はその出刃包丁のようです。この死体を発見したのは、中川和尚です。和尚は死体を発見し、この観音堂から携帯電話で警察に通報しました。その時刻は深夜の十二時過ぎでした」
「なるほどな」
「そして、被害者のポケットからピッキングの工具が出てきました」
「窃盗犯だというのか?」
「その可能性は高いですね。どうも状況を考えると中川和尚が犯人のように思えます」
「どういうことだ」
「観音堂の外には、被害者の足跡の他には、中川和尚の足跡しか残っていなかったんです。そして、通報時、現場には中川和尚と被害者しかいませんでした。さらに出刃包丁からは中川和尚の指紋しか検出されませんでした」
「だとしたら、中川和尚が犯人ということでほぼ確実だな。でも、否認しているのか。そういえば、川の下流に流れ着いたもうひとりの被害者は?」
「香川時子といって、中川和尚に招待された仏像研究家でした。後頭部を殴打された跡があるようですが、溺死の可能性もあります。彼女も中川和尚が殺したのでしょう」
「なにか動機はあるのか?」
「分かりません」
粉河は首を横に振った。
「和尚は先ほど、秘仏が盗まれた、と叫んでいました」
「秘仏か、そういえば、羽黒もそんなことを言っていたなぁ」
と開かれた厨子を見つめた。
「羽黒さんがここにきているんですか?」
「ああ、さっきそこで会ったよ。なんでも、明日、秘仏を開帳するとか……。するとこれは秘仏目当ての窃盗犯を和尚が殺害したということか?」
「可能性はありますね」




