「般若観音寺の犯罪 4」 Kan 【ミステリー】
羽黒祐介は、目の前に立っている若いお坊さんに「カレーをつくったのは香川時子さんなんです」という弁解をしているうちにすっかり打ち解けてしまった。目の前のお坊さんは、身長が180センチを優に超えていて、屈強な肉体の持ち主だった。まだ二十代だろうか。
「じゃあ、これ、香川先生がつくったんですか。あの先生、天然で困るんですよね。勝手にカレーライスなんて刺激的な香りのするものを作られちゃ……」
「そうですよね」
「どうせ作るなら、カレーなんかじゃなくて、美味いロールキャベツでも作ってくれればいいのに……」
ロールキャベツなら良いのか? と祐介は疑問に思った。
お坊さんは苦笑いを浮かべて、鍋の中のカレーをかき混ぜている。
「申し遅れました。私、角田明善と申します。この寺の僧です。
相手に名乗られると、自分も名乗らないといけない。祐介の場合はつまり、嘘をつかなければならないことにたる。祐介は少し面倒くさい気がした。
「僕は紫雲学園の教師で、羽黒祐介と申します」
すると角田は、ちょっと驚いた顔をして、へえと声を出した。
「そうなんですか。いや、奇遇ですな。私、紫雲学園の卒業生なんですよ。高校を出てすぐに、このお寺に入ったんですけど。あの、体育の橘先生は今でもお元気ですか」
いや、橘先生って誰だよ、と祐介は思った。
「ええ、まあ、元気ですよ。たぶん」
「それと、紫雲学園の野球部に井出っていうやつがいると思うんですけど、あのホームランバッターで有名になった、あいつですよ。同級生の弟なんですけど、今でも元気ですか?」
知らない話ばかりだ。祐介はなんとか上手く話をしようとして、
「それが言いにくいんだけど……井出、部活やめたってよ」
と言った。
「あいつ、やめたんですか……」
角田は悲しげな顔をした。微妙な空気になった。
その時、調理室に人が入ってくる気配があって、ふたりに話しかけてきた。
「おふたりさん。すみませんが、今日の晩御飯はカレーですか?」
入り口の方を見ると、丸々と太った男性が入り口に立っていた。スーツ姿で、蝶ネクタイ。口髭がピンとしている。まるで昔の紳士といった感じだ。
「いえ、これは晩御飯ではありません。香川先生が勝手につくったんです」
「でも、美味しそうですね。カレーライス。一杯だけ、私に味見させていただけませんか?」
「尼崎真也先生……」
と角田は呆れた顔をして言った。そして、祐介の方を向いて、
「このお方は、仏像研究家で、同時に美食家でもある尼崎真也先生です」
と言った。
「はあ、美食家なのですね」
「やはり仏教といえばインド、インドといえばカレーですからねぇ」
と尼崎はしみじみと言った。その言葉に角田は眉をぐっとひそめる。
「尼崎先生、今日の晩御飯は精進料理なんですけど……」
「ええ、それも結構です。もちろんそれも食べますよ。ただ、こうして蛇が出そうな山の中を一時間も歩いてくるともっとがつんとしたものを食べて、スタミナをつけたくなりますな。カレーライスなんていいじゃないですか。そして、甘いものも食べたくなる。やはりこの時期だと桜餅。お腹が減ってきましたね。どれ、和尚に見つかると大変ですから、ここにいる我々でこのカレーライスを片付けてしまいましょうか」
「あんまり、勝手なことはしないでください。しかし、ここにカレーを放置しておくのは、たしかにまずいですね。怒られるのは僕ですから。食堂に運びましょうか」
と角田は眉をひそめて言った。尼崎も頷いて、
「賛成です。早速、鍋ごと食堂に運びましょう」
というなかなか理解しがたい流れではあったが、祐介は付き合わされた。カレーの鍋を持って、三人が食堂へゆくと、そこにはすでにふたつの人影があった。
一人は長い黒髪を下ろした、可憐な女子大生といった印象の女性で、もうひとりは黒縁眼鏡の三十代ぐらいの男性であった。ふたりは古い絵巻物をテーブルの上に広げていた。ふたりは祐介を見て、軽く会釈をした。祐介はこの時、その図像が何なのか分からなかったが、それは白象に乗った普賢菩薩だった。
「ああ、黒川弥生さんと金山寺先生、ここにいらっしゃいましたか」
と尼崎が入ってくるなり叫んだ。
「羽黒さん。こちらは月輪大学の香川先生の生徒、黒川弥生さん。香川先生の助手として呼ばれてきた方です。そして、こちらは胎蔵界大学の金山寺春英先生です」
と紹介されるとすぐに金山寺は祐介の顔を見て、
「どうも、よろしくお願いします。金山寺です」
「羽黒です。なにやら、面白いものをご覧になっていますね」
「ああ、これはこのお寺に伝わる絵巻物になります。ご覧になりますか。ほら、こんなものもありますよ」
と金山寺は、ダンボール箱の中から古地図のようなものを出してきた。それは文政三年のものと記されていて、般若観音寺を上空から見た絵であった。だいたい現在と同じような建物が並んでいるようである。祐介は、現在の本堂の横に「観音堂」という文字が書かれているのが少し気になった。それでは、観音堂の方はというと、そこには「地蔵堂」の文字が書かれている。
「それにしても皆さん、鍋なんて持って、一体どうしたのです」
と金山寺は気になっているらしく尋ねた。尼崎はふふんと鼻息荒く、
「ここで食べようと思っているんですよ」
と言い放った。
「ああ、そうなのですか。いや、これは困ったな。てっきり、食堂はしばらく使わないものかと思って、ちょっと調べものをしていたのですよ。皆さんがここを使うのなら、私は部屋に引き上げましょう」
そう金山寺は語って、絵巻物をものすごい勢いで、左右の手の中で巻き取ると、それを紐で結び、箱にしまって食堂を出て行った。
祐介は、ぼんやりとその様子を見ていたが、すぐに壁にかかっている一枚の地図を見て近づいた。こうなっているのか、と感心した。
その間も窓の外では雨が降っていた。仏像研究家たちは仏像の話をしながらカレーライスを頬張っている。祐介が壁にかかった時計を見るとすでに午後六時頃。
「ずいぶん。降ってますね。雨が降ると観音堂に通じる道がひどくぬかるむんですよ」
と角田はカレーを食べながら、話していた。
しばらくして、胡麻博士と香川時子が食堂にやってきた。香川時子はなにやら胡麻博士と喋っていたが、カレーの鍋を見つけて、息を呑んだ。
「あら、そのカレー……」
「香川さん、ご馳走さまです!」
尼崎はにこやかに皿を持ち上げた。
時子は、自分が作ったカレーライスが知らないうちに完食されていたことに複雑な感情を抱いたらしい。それにあまり尼崎のことを好きでもない様子で、ぶつぶつ文句を言っていた。時子は活発な活動家という風で、高そうなスニーカーを履いていた。左右ともリボン結びになっている。後で考えるとこれが重要なことだった。
しばらくして、お腹がいっぱいになったところで、さらに夕飯の時間になった。食堂に中川和尚が神妙な表情で入ってきた。
「なにやら、カレーの匂いがしますな。カレー味のお菓子でも食べましたのかな。ここは修行の場ですから、あまり匂いのきついものは持ち込まないように。さて、明日はいよいよ開帳です。今日は、精進料理を食べて、風呂にも入り、早めにお休みくださいませ」
と短い挨拶をした後に、精進料理が並べられた。和尚がいかにも気難しい表情を浮かべている。
「皆さま、釈尊が入滅してからすでに二千五百年が経ちました。天竺で釈尊が悟りを開いたその日から、仏法の教えの灯明は絶えることがありません。私は、二千五百年の後にも、この教えを伝えていこうという覚悟であります。さて、この般若観音寺は、飛鳥時代に、そこに流れております、補陀落川の上流より流れてきたとされる観音立像を本尊として始まりましたが、この観音立像は残念ながら焼失してしまいました。そこで平安時代に定朝一派によって、つくられたのが明日、開帳することになっている観音立像なのであります」
と和尚の説明が続く。祐介はお腹いっぱいなので、部屋に戻りたいと思った。
「観音立像は、享保年間に秘仏にされて以来、人の目に触れられることはありませんでした。また観音堂も、文政年間に建立されたものでとても貴重なものです。ここで秘仏を開帳すれば、多くの参拝客が訪れるようになるでしょう。どうか明日は、よろしくお願いします……」
と和尚は熱く語っている。
祐介が窓の外を見ると、どうやら雨は止んだようだった……。




