「般若観音寺の犯罪 3」 Kan 【ミステリー】
三人が観音堂の中に入ると、ほとんどの観光客はこのお堂まで来ないのか、伽藍とした伽藍で、埃の匂いが立ちこめていた。
胡麻博士はふふんと唸って、堂内の様子を確認した。正面に巨大な厨子が置かれている。この中に仏像があるらしいのだが、大きな鞄錠がぶら下がっていた。厨子には警報機が取り付けてあるらしく「触ると警報が鳴ります」という注意書きが貼られていた。
「こちらの厨子は、このお堂ができた時につくられて、このようにずっとこの場所に固定されています。それ以来、外に運び出されたことは一度もありません」
「そうなんですね。でも、これはどう考えても大丈夫ですよ。和尚さんが心配しているようなことは何も起こらないでしょう」
と祐介は無責任ながら断言した。
「そうですかね」
和尚はそれでも不安げな表情である。そこで祐介はさらに質問を続ける。
「この警報機は作動すると、本堂に知らせがゆくようになっているのですか?」
「ええ。すぐに警報がゆきます。この警報機は、本堂のパソコンで制御ができるんです。そして、この警報機を停止させるには、パスワードを入力しなければなりません。そのパスワードを知っているのは、般若観音寺の僧侶で、私ともうひとり、角田明善という私の後継者のふたりだけなんです」
と和尚はいったので、さすがにそのパスワードが外部の人間に気づかれているわけでもないだろうし、祐介はさらに和尚の考えすぎに感じた。
三人はやってきた道を逆戻りした。右手に先ほどの文殊堂が見えた。またその建物の横に、青いレジャーシートが畳まれて置かれていた。
「こんなところにレジャーシートが。お花見でもしたのですか?」
「ええ」
と和尚は小さく頷いた。
「この近くのしだれ桜が、とても桜が綺麗だったので、昨日、花見をしたんです。しかし、このレジャーシートをこのままにしておくわけにもいきませんね。雨も降りそうだし。どれ、ひとまず、その文殊堂にでもしまっておきましょう」
と言って和尚はレジャーシートを拾い上げて、文殊堂の中にぽいと投げ入れた。
そして祐介と胡麻博士は、本堂の前で和尚と別れ、桜の木の下をくぐって白い建物に入った。ここは宿坊などにも利用される施設で、般若観音寺会館というのである。館内には、宿泊できる和室が沢山ある。なんでも温泉もあるらしい。ふたりはそのうちの一室に入った。
旅館風の和室で、十畳だった。低い机の上には煎茶のポットが置かれている。また、正面の窓からは枯山水風の日本庭園が見えていた。
胡麻博士はごろりと畳の上に転がって、
「まったく、心配性な和尚だ」
と呟いた。
祐介もそう思った。そして、おそらく和尚が心配しているようなことは何も起きないだろうと思った。
それから、胡麻博士は付近の仏教的な遺物を見るために出かけた。なんでも貴重な石造物があるらしい。祐介は畳の上に転がって、少しばかり眠ることにした。しばらくすると、本堂の方から読経が聞こえてきた。祐介は妙な気持ちになって、寝返りを打った。なんだか心細く感じられた。そのうち、窓の外が暗くなり始め、雨音が響き始めた。
「雨か」
祐介はわざと声に出していってみた。その声はなんだか虚しく響いて消えた。
しばらくして、びしょびしょに濡れた胡麻博士が部屋に入ってきた。そして、くしゃみをしながら、上着を脱いで、それをハンガーにかけた。祐介は途端に暑苦しく感じて、むくっと上半身を起き上げると、机の上のすでに冷たくなってしまったお茶を一口飲んだ。
「雨ですな」
と胡麻博士はぼそりと言って座ると、鞄の中から大きな饅頭をひとつ取り出し、それをほうばりながら、さらに煎茶を二杯ほど飲んだ。
「しかし楽しみですな。明日になれば、秘仏が拝めるのですぞ」
と胡麻博士は愉快そうに言った。雨に打たれたにも関わらず、元気そうである。
祐介は、ぼんやりと窓の外を眺めた。雨の降りはますます強くなっている。そして、お腹が減った。ご飯なんだろう、と祐介は考える。
お寺だから精進料理だろうか。それとも法事で食べるような寿司等、日本料理なのだろうか。
祐介は、だんだん旅行気分になってきて、浴場がどれだけ広いか、見ておきたくなった。
「胡麻博士。ちょっとお風呂を見てきます」
祐介はそう言って、廊下に飛び出したが、肝心の浴室がどこにあるのか分からなかった。すると、どこからかカレーライスの匂いがした。どうやら夕食はカレーライスらしい。お寺では、刺激的な匂いのする食べ物は出ないと思っていたので、ちょっと祐介は面食らった。それでも、そのカレーの匂いに誘惑されて、祐介は調理室の方までふらふらと歩いた。
調理室を除きこむと、四十代ぐらいのすらっとしたエプロン姿の美人な女性が立っていて、鍋でカレーをぐつぐつ煮込んでいた。祐介はカレーの香りが、仏教的だと感じた。ガンジス川の流れや、インドの荒涼とした黄色っぽい大地が浮かぶような香りだった。
「美味しそうですね」
と祐介が言うと、その女性は振り返って白い歯を出し、喋り出した。
「あら。どうもこんにちは。こちらのお寺の方?」
「いえ、僕は明日の仏像開帳の件で、和尚に呼ばれてきたものです」
「なら、あなたも仏像研究家のひとりなのですね。私、月輪大学の香川時子です」
「すると大学の先生ですね」
「ええ、あなたは?」
祐介は捜査中であるため私立探偵だとは言えず、何と名乗ろうか困ったが、考えた末、こう答えることにした。
「紫雲学園という高校の教師で、羽黒祐介と言います」
祐介の職業経験は、私立探偵以外には、紫雲学園という高等学校に潜入捜査した時のものしかない。だから、教師と答えておくのが安心だった。(「紫雲学園の殺人」を参照されたし)
「あら、そうなのですね。でも、高校の先生が仏像の専門家としてお呼ばれするのはちょっと珍しいですね」
「ええ。僕が呼ばれたわけではありません。実は今回、天正院大学の胡麻教授に誘われて来たんです」
と祐介は自分でも、よくこんなに流暢に嘘が口から出るな、と思った。その言葉を聞いた途端、時子の目が金沢の金箔のように輝いた。
「えっ、今ここにいらっしゃるの! あの胡麻先生が……」
時子は、じっと祐介を見つめた。
「え、ええ……」
「あの、私、ファンなんです。胡麻先生の書かれた本はすべて持っていますわ。あの、今、どちらに……」
「部屋にいます」
「そうなんですね。ああ、どうしよう。ちょっとカレーを見ていてくれませんか?」
「え? ええ……」
「それじゃ、行ってきまーす!」
時子はそう叫んで、調理室を飛び出し、廊下を走っていった。祐介は呆然とした。部屋の場所が分かっているのだろうか。が、祐介はすぐにカレーの鍋がグツグツ音を立てているのに気づいた。
(このカレー、どうしよう……)
すると今度は、若いお坊さんが調理場に走りこんできた。
「あなた。なに勝手にカレーなんて作ってるんですか! ここでは精進料理しか出さない決まりなんですよ?」
「えっ、いや」
祐介は突然の濡れ衣に、
「ぼ、僕じゃありません!」
と叫んだ。
時子が深呼吸をしてから「胡麻教授」と書かれているナンバープレート横のドアを開いた時、胡麻博士は畳の上でブリッジをしていた。
「あっ、ご、胡麻先生?」
「ぐはっ」
胡麻博士は苦しげな声を漏らし、畳に倒れ、そのまま腰を痛めた。そして、よろよろと起き上がり、
「これも人生の交差点なのだ」
と言った。
「は、はあ……」
「あなたは、どなたですかな」
「あの、私、胡麻先生のファンで、月輪大学の香川時子と申します」
「そうですか。私のファンとは、センスの良い、もの好きですな。いえ、失敬」
「あの、私、先生の本はすべて持っているのですよ」
「それは結構。嬉しいことこの上ないですな。ということは「大化の改新から本能寺の変までの日本人の霊感の変遷と影響についての研究」もお読みかな」
「えっ、あ、はい。読みました」
「どうでしたか」
「えっ、あ、あの、とても素晴らしい研究だと思いました。大化の改新以降の日本人の霊感の変遷について、よく書かれていて……。日本人の霊的な能力は、平安時代に絶頂期を迎えましたが、織田信長による仏教弾圧の影響を受けたのですね。本能寺の変の後も、豊臣秀吉や徳川家のキリスト教弾圧の影響をもろに受けましたわ。つまり、近世化の中で大きな歪みを生まれたのですね。そうですわ。その通りですわ」
「そう、よく分かっていらっしゃる」
というオカルト雑誌さながらの研究をふたりは真面目に語り合っている。




