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春麗のミステリーツアー【アンソロジー企画】  作者: 春麗のミステリーツアー参加者一同
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「四月の魚は夢をみる 後編」 佐野すみれ 【純文学】

「大体、お前の行動は滅茶苦茶なんだよ」


 それまでの自由奔放な様子が成りを潜め、借りてきた猫のように大人しくなり、自分の隣に腰を降ろした弟に、綿(わた)は本日何度めになるかも分からぬ溜め息を吐いた。


「童心に帰って女装した。かといえばもうお互い大人だと言うし、突拍子もなく花見をしようなんて言い出して俺をここまで連れ出すし…お前、もっと素直になればいいのにな」


 曲解的とはいえ目敏く他人の瞳の奥の思考まで読み取り、考えるような弟が、桜の開花時期を忘れるなどという凡庸な度忘れをするわけがない。それなのに此処まで自分を連れてきたのは、何かしら話したいことがあったのだろうと、綿は肝心なところで素直に立ち回らない、器用なのに不器用な(きぬ)という弟の頭に、軽く手を乗せるようにして一度だけ撫でた。

 柔らかい猫っ毛が掌をくしゅくしゅと擽り、結いあげた髪を纏める簪を引き抜いて、無造作に頭を撫でてやろうかとも綿は思ったが、それは心に止めるだけにする。

 据え置かれた兄の手は、大きいけれど繊細な指先をもった綺麗な手をしており、絹は兄の優しい手が頭上に置かれていることに、安堵を示すように薄く吐息を漏らした。


「だって、兄さんは自分の背中についた魚に気づくことはないけど、俺の背中についた魚には気づいてくれるような人だからさ」


「なんだそれ」


 絹の抽象的な表現を用いた言葉が、綿には何を意味するのかがよく掴めず、密かに眉をしかめてしまう。

 絹は兄のその厳めしい表情がおかしかったのか、くすりと静かに笑みを溢すと言った。


「ポアソンダブリルだよ」


「はぁ?」


 突然フランス語の横文字を口にする弟が、本当に理解できず、綿は空気が漏れるタイヤのように間抜けな音をあげた。

 そのままぽかんと口を開いたままの綿の顔に、絹は笑みをより深く刻みながら、流れるように言葉を紡いで口ずさんでいく。


「四月馬鹿。四月一日(しがつついたち)。エイプリルフール。それから、ポアソンダブリル。四月の魚だよ。罪のない嘘をはいて楽しむように、罪のない背中に魚の絵とかシールを張りつけて遊ぶ。そんな風習」


 絹が言う風習は“フーシュー”という発音に聞こえ、綿にはその口調が決まった習わしや習慣というものを、どこか馬鹿にするような言い方に聞こえた。


「それで。その四月の魚がどうかしたのか」


「いや。兄さんがさっき家を出る前に言ったじゃない?」


「さっき?」


「馬鹿げてる。この家も。お前も」


 普段の天真爛漫な声色からは想像もつかないほど、冷たく、凍えた声。まるで仄暗い水底から発せられたようなその声は、自分の弟のものなのかと疑ってしまうほど、見知らぬ他人のものに聞こえた。しかし、絹のその様変わりした姿に、目を見開いて驚く綿に気にすることなく、絹は猫目石の瞳に胡乱な光を灯しながら、嘲るように呟く。


「その通りだと思うよ。あの家は馬鹿げてる。四月と言わず年中ね」


 はにかむ笑顔はどこまでも無垢で清らかなのに、乾いた笑い声には魚の目玉みたいなどろりとした虚無が広がっており、綿は、自分が感じた何かをどろりとした泥のようなものは、これと似たようなものだったのだろうと、心裡でひとり頷いた。

 絹の瞳は光を帯びているけれど、その光は水面に反射する光彩のように、危うくて、妖しい。綿はその怪奇染みた絹の瞳に魅せられないように、そっと、視線を上へと向けた。

 眠る花の姿。蕾たちが幾つも枝に芽をつけて、自身に訪れる春を待ちわびている桜の枝々が、視界に広がる。


「男児がいることを必死に隠すようなことを今でも続けてさ、本当、正真正銘の馬鹿だよ」


 絹の自嘲めいた言葉を、綿は黙って聞きながら思う。まったく、馬鹿げてると。


「…一度根深く植えられたものは、たとえ迷信でも、そう簡単に引き抜けないさ」


 雑草とは違ってな。と冗談めかして言葉を続けたが、綿は視線を上に向けたままなので、果たして絹が少しでも表情を和らげたかどうかまでは判断できなかった。けれど、次に絹が漏らした乾いた笑い声には、少し水分量が増しているように思えた。


「七つまでは神様の子だっけ?神様に連れ去られないようにって、男を大事にし過ぎた結果が女に変装させるだなんて、浅はかというか、罰当たりだよね」


 神様を欺こうとするなんて、それこそ畏れ多いことなのにさ。

 絹が言うことは一理あるなと、綿は黙しながらも首肯した。


「桃の節句にしたってそう。端午の節句は息を潜めて大人しくやり過ごすのに、大層な雛人形を飾って神様に女児の存在を見せつける」


 宴を開き、まるで不安を拭い去るように態と騒ぎ立てる親族一同の動向は、綿も確かに狂気を感じるところはあった。

 人は、恐怖を目の前にしたときには指一本まともに動かすこともできなくなるが、不安なことが胸に渦巻くときには、逆にそれらから目を欺くために態と挙動を起こすものである。四月一日(わたぬき)家の雛祭りは、それを見事に体現しているようであると、綿は毎年冷ややかな目を向けていた。そして、それは恐らく弟の絹も同じだったのであろう。だからこそ、彼は家では口にしづらい事柄を臆することなく言える場所へと、自分を此処まで連れ出したのだろう。綿は引き結んだ口を緩めることなく、静かにそう思った。


「あの家は神様を信じ過ぎてるんだ。だから、男を大事にし過ぎてる。女に守られてばっかで、どうやって生きていけって言うんだよ」


 怒気の籠められた絹の声は静かで、冷たい。けれど確かな熱を孕んだそれは、水の底で燃えたぎる消えない炎のように火花を散らし、揺らめいている。

 情けない自分に対する苛立ちとも、本当の意味で自由を手にすることができないことへの悲痛な叫びともとれる絹の言葉に、綿は刹那的に目を閉じる。そうして、ゆっくり目を開く。

 弛緩した瞬きをしても、灰色の春の景色は少しも変わることなく霞んでいた。


「俺たちは、池の魚と同じなんだよ」


 呟いた言葉は、自分が思った以上に辺りの空気を震わせ、山のなかへと震撼していくようだった。


「囲われた水中世界を揺蕩う池の鯉と同じようなものだ。俺たちは、鯉のぼりの鯉にはなれない」


 空を自由に泳ぐような鯉のぼりの鯉にはなれないと言う兄の言葉に、絹は悔しそうに顔を歪めた。しかし、絹の瞳の奥には絶望や諦念といった感情の波は、揺れていなかった。


「…いつか、あんな家脱け出してやる。絶対に」


 女という鎧に守られて生きるのはごめんだとでも言うように、絹は髪を束ねていた桃の簪を引き抜くと、柔かな癖毛を無遠慮に振り乱し、簪はそのまま林の方へと投げ棄ててしまった。

 着物の袖が汚れることも厭わずに、ごしごしと乱暴に紅をさした口を拭うと、兄さんと綿のことを呼ぶ。

 弟に呼ばれた綿は素直に顔を絹の方へと向けてみれば、絹の唇は無造作に紅を袖口で拭ったために、口元が血でも啜ったかのように、赤々とした線を引いていた。

 妖艶な色香でも猫のような幼気(いとけ)なさでもなく、まるで狼のような野生の光を新たに宿した瞳は、紛れもなく男のものであると綿は凝っと見つめたまま、目を反らすことができなかった。


「池の鯉がなんだよ。魚だって、夢くらいみるだろ」


 だから俺は、囲われて守られたままの世界なんて、真っ平ごめんだね。という絹の言葉に、綿は否定も肯定もせず、然りとて同調を示すこともせず、口を閉ざしたまま。弟の水底で燃える炎のような瞳を見つめ続けることしかできなかった。


 綿雪のような花弁が、刹那。一片(ひとひら)だけ視界に写り込んだような気がしたのは、一足早い四月の魚がみせた夢の残滓だろうかと、綿は幻影を打ち消すように、そっと、眠るように瞼を降ろした。

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