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春麗のミステリーツアー【アンソロジー企画】  作者: 春麗のミステリーツアー参加者一同
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「四月の魚は夢をみる 中編」 佐野すみれ 【純文学】

 相変わらず縁側から離れようとはせず、庭の景色をぼんやり眺め続ける兄に心を配っているのか、はたまた退屈を覚えているだけなのか、(きぬ)は柏手を打つように一つぴしりと手を合わせて叩くと、そうだと声をあげた。


「兄さん。こんな中途半端な花見じゃなくてさ、どうせなら山の方まで行っちゃおうよ」


 名案だと言わんばかりに本人は頷くと、それがいい。そうしよう。などと突飛な物言いにもかまわず、綿(わた)を立ち上がらせようと袖を掴む。

 綿は袖を掴む絹の手を振りほどこうとはしなかったが、怪訝な表情を浮かべ、じっとりとした目で、絹の猫目石のような目を凝視した。


「お前な…一応、今日は一族総出の祝事なんだぞ」


 雛祭りという名目を大義名分に浮かれ飲み食いしてるだけにしか見えない狂乱であっても、桃の節句に四月一日の一族が一同に介するというのも、男児が七つまでは女児の格好を装うことと同じく、この家に伝わる習わしなのである。

 遊び盛りの幼少時ならまだしも、成人を迎えた男二人が、家の宴会が退屈で堪らないからという理由で抜け出すというのは、些か忍びない。

 腰を持ち上げることに億劫な空気と躊躇いを示す綿に反し、絹は企てた悪戯を開始するべく意気揚々とする子供のような溌剌とした笑みを浮かべて言う。


「いいじゃん別に。今日は女の子の日。主役は女なんだから、男の俺達が少し抜け出したところで、誰も咎めたりしないっしょ?」


 もうお互い、大人なんだし。と次いで絹が続けた言葉には、どこか昔を懐かしむような色が含まれており、それを感じた瞬間。そういえば、自分は昔から弟の要望や提案には嫌々ながらも付き合ってしまうのだということを、兄は弟のおねだりに弱いことを思い出し、またも一つ溜め息を吐いた。けれど、その吐息は重々しくも鬱蒼としたものでもなく、もっと軽やかなものだった。


「わかったよ。お前は言い出したら聞かない奴だしな」


「やった。それじゃ行こう」


 猫のようにしなやかな姿をしているが、絹が浮かべる表情は子犬が元気に(はしゃ)いでいるように見え、弟のちぐはぐなその様子に、綿は自然と口元が緩んでいくのを、自分でも自覚していた。


***


 絹が言った山というのは、四月一日の屋敷の裏手にある森林のことを意味している。

 そこも四月一日の所有している土地であり、名目上は四月一日家が管理していることになっており、いわゆる地主というものなのだろうが、綿も絹も子供の頃から遊びなれた場所という認識でしかないため、大人になった今もそういった込み合った事情はよく分からないし、あまり興味もなかった。そもそも、女系色の強いあの家のごたついた相続やら後継人やらに、男の自分たちが家督を継ぐはめにはならないだろうと考えてもいるため、とらぬ狸の皮算用はしないのである。


「うちってさ、女の子の日は盛大に宴を開いて祝うのにさ、男の子の日は一度も祝ったりしたことないよね」


 春の芽吹きが実りはじめる木々が林立する細道を歩いていると、絹がふとそのような言葉を呟いた。

 綿は絹の声に何気なさを装ってるような雰囲気が感じられ、隣を歩く麗しい女装の和服美人を横目で窺うと、絹は鼻梁の通った高い鼻筋をぴんとさせながら、飄々と涼しげな表情を浮かべて春の小道を歩いている。

 気にしすぎだろうかと、絹の緩やかな髪を纏めあげた桃の簪が揺れる様に視線を移し、綿は口を開く。


「そうだな。まあ、家は女が権限を担ってる女性政権みたいな家系だし」


 男がすげなくされているのは、今に始まったことでもないだろうと、昨今は家でなくとも、どこも“かかあ天下”の蔓延する時代なのだろうと、綿が時の流れの残酷さに思いを馳せていると、絹は苦笑を漏らしたのちに言う。


「それはそうなんだけど。端午の節句の時期になると、他の家が鯉のぼり立ててるのが羨ましかったなって思ってさ」


「あぁ…あの巨大な魚の旗な」


「旗じゃないし、鯉だし」


 妙に不貞腐れた様子で抗議の声をあげる弟に、綿は思わず吹き出し笑い声をあげてしまった。

 綿が自分を馬鹿にして笑いだしたのだと受け取った絹は、笑うなよーと唇を尖らせながらも、目元は楽しそうに緩んでいた。


「兄さんは憧れなかった?鯉のぼり?」


「鯉のぼりな…俺は特に何も思わなかった」


「えー?本当に?兄さん男としてそれはどうかと思うよ?」


「いや。寧ろ男なら鯉のぼりよりも、甲冑とか五月人形を羨望の的にするんじゃないか」


「分かってないな兄さん。鯉のぼりは登り竜だよ?出世の象徴だよ?男なら目指せビッグなバンだよ?」


「お前は新たに宇宙を誕生させようとでもしてるのか」


 壮大な夢を持ってるなと弟を揶揄(からか)ってやれば、絹は綿の言葉を真っ直ぐに受けとめた様子で、まあね。と鼻歌まじりに返事を返してきたので、やれやれと首を軽く振った。


(鯉のぼり…か…)


 鯉のぼりに何かを思ったことは特にないと絹には言ったが、厳密に言えば、綿は鯉のぼりが苦手であった。

 五月を迎えると家を除いた他家には、様々な鯉のぼりが吊り上げられ、あたたかな春の風に雄大な姿を靡かせるあの巨大な魚の群れが、綿には恐ろしくて堪らなかった。

 あの、何を写し、考えているのか、全くわからない虚無の目玉が、怖くて、怖くて、仕方なかった。

 鯉が滝を登りあげると竜になるなどという迷信は、一体どこから生まれたのだろうと、綿は今でも不思議でならない。


(竜だなんてとんでもない…あれは、どこまでいっても魚だ…どこまでも続く、水の、深い、底の…)


 庭の池にいる錦鯉。桃の花弁を食べようと口をぱくぱくと開いていた鯉。

 鮮やかな紅と艶やかな黒。それから、煌めく白の鱗を纏った、歪な斑模様を水中で揺蕩(たゆた)わせる、魚。

 自由に、どこまでも。水底(みなぞこ)泥濘(ぬかるみ)が、足に、触れるまで…


「兄さん?」


 絹の、弟の声に、綿は我に返る。

ほんの束の間ではあるが、まるで白昼夢に(うな)されていたような、どこか遠い場所へと意識が刈り取られていたような倦怠感と、ひやりとした汗が薄らと肌に張りついている感覚に、自分が先まで見ていたのが幻惑の類いであることが窺えた。

 底冷えする水の冷たさを打ち消すように、春の柔らかな一陣の風が身を滑り、それがなんとも心強く感じた。


「…悪い。少し、意識が飛んでただけだ」


 心配そうに此方を()っと見つめる絹に申し訳なさを感じ、大丈夫だと一言言い添えると、絹は眉を下げつつも笑いながら言った。


「意識飛んでたって大変なことじゃない?てか、どこに飛んでたの?」


「あっち」


 そう言いながら綿が指を差したのは、林立からはぐれたかのように一本だけ聳え立つ、大きく立派な桜の木であった。

 その桜の木は、昔、子供の頃に兄弟がよく二人で木を登ったり、家が窮屈に感じたときの避難所として用いた、兄弟の思い出の場所である。

 記憶が刷り込まれた桜の木はしかし、まだ蕾がついているだけで、春爛漫とはほど遠い殺風景な灰色の春を写し出していた。

 寂しげな春の光景をつくりあげる桜を見て、ありゃ。と絹は間の抜けた声をあげる。


「花見っていったけど、なんていうか…蕾見?」


「いや、どちらかというと枝見じゃないか?」


 側まで行けば蕾くらいは見えるだろうが、全体を眺めて俯瞰する分には無数に枝分かれをする小枝たちの、枝々しか目に写らない。


「…梅も桃も咲いてるからつい忘れてたけど、桜はまだもう少し先だったな」


「あー、そういえばそうか」


 今気がついた。とからから笑い声をあげる絹は、楽しそうにまだ花が眠っている桜の木を眺めていた。

 綿は、絹が笑っている姿を静かに眺めていた。すると、綿の視線に気がついた絹は、笑いで薄らと浮かんだ涙を指で掬いながら、首を傾げて綿を見つめ返す。


「どうしたの兄さん?」


 俺の顔に何かついてる?と朗らかな笑みを浮かべて言う絹の目を、綿は凝っと見つめ続ける。

 猫目石のように、忙しく変化する綺麗な瞳。自信に満ちた輝きを放つ弟のそこに写る自分の姿は、同じ血を分けた兄弟で、とてもよく似ているといわれるが、何もかもが違う異分子で構成されているようで、綿は絹が眩しくなった。


「なぁ、絹…なんで態々俺をここまで連れてきたんだ?」


 見えない光が目に入ってくるようで、綿は眩しそうに目を細めながら絹に問う。


「あの場所から離れて、何を話したかったんだろう。お前は」


 軽い挨拶をかわすように言葉を言い残すと、桜の可憐な薄紅色の花からは想像し難い、太く立派な黒々とした幹の元まで綿は歩み寄り、そうして、幹に寄り掛かりながら座り込んだ。その行動は、兄が自分の話を聞く際に必ずとる行為であることを知っている絹は、大人しく、兄の誘いに甘えるように隣に腰掛けた。

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