「桜の木の下に埋まる物」 秋月創苑 【ミステリー】
四月上旬の東京の空はよく晴れていて、暖かな日差しとまだ少し冷たい風のコントラストが心地良く、絶好の散歩日和だろう。
池袋から徒歩で数十分という比較的都心でありながら、まだ下町の影も色濃く残している町並み。
僕は所長の黒埜氏と共に、事務所を出た。
黒埜秀虎、37歳。
180cmに届く身長、痩躯に似合うダークグレーのスーツを着こなし、年齢に似合わず白髪の無い天然パーマの男。
一昔前ならチョイ悪親父などともて囃されただろう見た目だが、実際はただのくたびれた中年男性だ。
しかしてその実態は、「下板橋探偵事務所」所長、つまりは私立探偵である。
探偵とは言った物の、本人のやる気の無さと人手不足の為に捌ける仕事に限りが有り、閑古鳥が鳴く日々だ。
なにしろ、所長と受付の綾子氏、そして探偵助手の僕、人員はこれで全てだ。少数精鋭なんて格好の良い物じゃ無い。
黒埜氏が祖父から継いだという一区画の土地と、持ちビルが無ければ成り立たない生活だろう。
僕のことにも少しくらいは触れておこう。
木田典親、24歳。二年前から下板橋探偵事務所にお世話になっている。
本当はもう少し長い付き合いで、大学時代に、アルバイトをしたことが切っ掛けとなったわけだが。
我ながら、なんて将来性の無い仕事に従事しているのだろうと、時々頭を悩ませる。
付き合って一年の彼女にも、時々やんわりと転職を勧められる。
しかし、勤務時間こそ不規則であれ、満員電車に日々揺られて通勤する事も無く、身を削るような対人ストレスにも悩まされないと言うことを鑑みれば、なかなか重い腰を上げることは出来なかった。
と、そんな前置きはこのくらいにして、話を現在に戻そう。
僕と黒埜氏は駅を目指し歩く。
本日の依頼者の元へと向かうのだ。
依頼者は私鉄で3駅行ったご近所だ。
20分後、僕らは目的の場所へとやって来た。
場所的に池袋が近く、地理的には環七が近いのに、その場所はやけにひっそりとした一帯だった。
閑静という表現がこれほど似合う場所も、そうそう無いのではあるまいか。
ここら辺は板橋の田園調布などと呼ばれることもあるらしい、高級住宅街だ。
「木田君、こんなところに一度は住んでみたいねえ。」
「黒埜さんだって土地持ちじゃ無いですか。」
「馬鹿言っちゃいけない。ここは桁が違うよ。」
確かに、雰囲気は世田谷の町並みを思わせる。
少し区画を歩けば下町だというのに。
立ち並ぶ家々も、デカいし豪奢だ。
僕はスマホを取り出し、依頼人の住所を確認する。
次いで地図アプリを起動し、目的の家が確かに目の前の邸宅である事を確認した。
「ここですね。」
車二台分のガレージはシャッターが開かれ、一台の軽自動車が見えている。
空いてるスペースにはご主人の高級車が普段は収まっているのだろう。
家を囲む白い塀の上辺にはオレンジと黄色でアクセントを付けた小さな瓦が乗っかり、オレンジがかった洋風の建物とマッチしている。
庭は狭いが品の良い松が塀の上に顔を出し、客人を出迎えていた。
インターホンを鳴らして数秒、玄関のドアが開き、これまた品の良い婦人が顔を覗かせた。
応接間で出されたお茶を飲みながら依頼内容を聞く。
僕と黒埜氏は数枚の写真を手にしている。
映されているのはどれも同じ猫。
マンチカンの『クー』氏、3歳。目下家出中。最後に目撃されたのは、3日前の午後、 庭に面したガラス戸の前で、庭にやって来たコマドリを見て興奮状態になっていたという。
「では3日戻らない、というのは今回が初めてなんですね?」
「ええ、そうなんです。
クーのことももちろん心配なんですけど……。
ご近所に迷惑を掛けないか心配で…。」
「ああ、なるほど。」
「特に、田島さんのお宅にご迷惑なんかお掛けしたら……。」
そう言って奥さんはブルリと背中を震わせた。
「…失礼ですが、その田島さんというのは…?」
黒埜氏が如才無く訊き出す。
「ほら、家の前の道を行った先にある十字路の右にある、大きなお屋敷ですよ。
タジマ・インダストリアルの会長だった、あの田島さんです。」
「…はあ。」
黒埜氏が間の抜けた相槌を打つ。
黒埜氏は知らないようだが、タジマ・インダストリアルといえば、世界的にも有名な産業メーカーだろう。ロボット技術でかなり名を売っていたと記憶している。
「その会長の田島さんが去年亡くなって、再婚相手の奥様が財産を相続したんですけど、半年ほどで姿を消しちゃった、って話。ご存じじゃありません?」
奥さんの調子が少し変わった。
主婦の井戸端会議でよく見掛ける表情だ。
「それでは、現在の田島さんの家は?」
「一人娘のお嬢さんが継いでますの。
お綺麗なんですけど、ご近所付き合いもあまり無くて。
何を考えているのか、分からない方なんですよねえ。」
「なるほど。」
何がなるほどなのか分からないが、黒埜氏も納得顔で先を促す。
「だから、ねえ?
そんなお宅に勝手に入って、万が一トイレなんかしちゃったら、何言われるか分かった物じゃ無いでしょう? ねえ?」
つまりはそれが本音なのか。
***
「じつに散歩日和だねえ、木田君!」
依頼人のお宅を出て、とりあえず僕たちは近所を歩いてみることにした。
幸いなことに二人とも花粉症に縁が無く、何度も言うように心地良い散歩日和なのだ。とはいえ。
「黒埜さん、仕事なんですから。はしゃがないでくださいよ。」
一応、釘は刺しておく。
「分かってるって。」
その顔は絶対、分かってない。
鼻歌交じりの上機嫌な黒埜氏と共に、閑静な住宅街を歩く。
一応、猫の好みそうな場所に目を向けながら、道を曲がり、公園を調べ、また道を歩き、狭い路地があればそこを通る。
駅まで出ると、ロータリーを曲がり、別の道からまた元の方向へと戻っていく。
チェーン店の居酒屋の裏手を過ぎ、コンビニを超えるとまた住宅街に入る。
しばらく進むと、依頼人の家の近くまで帰り着いた。
「漠然と探したって、見つかるわけ無いよなあ。」
「当たり前じゃ無いですか。」
「罠でも張る?」
「どうやるんですか?」
そんな会話をしながら、道を進むと、十字路の角に大きな囲いを見付けた。
囲いの向こうでは人が集まっているらしく、賑やかな音が聞こえてくる。
「……ここが噂の田島邸のようだね。」
そのまま高い塀に沿って歩いて行くと、やがて立派な門が現れた。
2mほどの高さのアーチ状の門は、重厚な鉄扉が開け放たれており、石畳が奥に聳える洋館へと続いている。
洋館は歴史を感じさせる建物で、囲いの外からでも窺える広い庭と共に、一種の威圧感を醸し出している。
歩いてきた方角が庭なのだろう、そちらから複数の人々の陽気そうな声が漏れ聞こえている。
洋館と庭の間くらいの位置に、見事な八重桜が咲き誇っていた。
「お花見中のようだね。」
スーツ姿の男二人、何をするとも無く道路脇に立って、民家の庭を覗き込んでいる様は、怪しすぎる。
黒埜氏を突いて離れようとしていると。
「……あら。お客様かしら?」
門の内側から、華やかな和装の美女がこちらを窺っていた。
***
「クーちゃんと言うんですか。」
「ええ、そうなんです。」
玄関先でこれ幸い、とばかりに写真を見せて猫の情報を求めようとしたら、何故か僕ら二人は宴会の場所へと招き入れられてしまっていた。
田島邸の庭は、想像以上に凄かった。
人為的に作られた起伏のある地面一杯に手入れの行き届いた芝が敷き詰められ、所々に植えられた多年草がアクセントを作っている。
奥の方には小さいながらも池が配され、楓の木が影を作っている。その周りを趣ある庭石とツツジが囲んでいる。
そして、門からも垣間見えた桜の樹。
その桜を中心にいくつかのテーブルがパラソルと共に置かれ、品の良い客人達がそこかしこで談笑をしている。
集まっているのはタジマ・インダストリアルの役員家族らしい。ほんのりと漂ってくるアルコールと料理の匂い。
和装美女の後を付いていく場違いな僕ら二人を見た客人達は一瞬眉を顰めるが、女性の顔を見ると皆一様に親しげな表情に戻り、微かに会釈する。
それを受け、美女もまた優雅な会釈を返す。
「しかし、見事な桜ですね。」
黒埜氏が館の脇に立つ樹を褒める。
「ええ、私が小さい時から一緒に育ってきた樹なんです。」
そう、僕らを案内してくれたのは現在の田島家当主である女性、田島佐貴子さんだ。
艶やかな黒髪は頭上で束ねられ、和服の醍醐味であるうなじを惜しげも無く見せつけている。
化粧は上品に抑えられ、勝ち気そうな黒目は挑むような視線を僕たちに投げかけてくる。
最もそれは、依頼人から聞いていた根も葉もないゴシップのせいでそう見えるだけなのだろう。
「少し、側で拝見しても宜しいですか?」
黒埜氏の希望に、佐貴子さんは喜んで応じてくれた。
「なるほど、近くで見ると本当に見事ですなあ。」
樹上を見上げながら、黒埜氏が感嘆するとおり、確かに見事な枝振りと咲き誇りぶりだ。
「この桜と、この周りだけは、私手ずから手入れをしてるんですよ。」
そう自慢する佐貴子さん。
「そいつはすごい。大変でしょうに。」
桜の樹の周りには芝生が無く、代わりに何種類かの多年草がまばらに配置されている。
アジュガ、クリスマスローズ、後は名前の知らない赤い花の草。
しばらく桜を堪能してから、僕たちは図々しくもテーブル席でビールをご馳走になった。仕事中だと言うことも忘れ、ホイホイと付いていく黒埜氏はダメな大人の代表みたいな人だが、丁度昼時だったのと、この天候、そして見事な桜とこの場の雰囲気に、僕も異論を唱えるなど到底出来なかった。
佐貴子さんは会社の経営には参加していないのか、あまり客人達の相手をすることは無く、僕らと同じテーブルについて日本酒をちびちび口にしていた。
しばらく世間話をしてみると、佐貴子さんが気さくでとても話しやすいことに気付く。
所謂セレブと呼ばれる人種なのだろうが、依頼人の奥さんよりはずっと親しみやすい人だった。
すっかり猫探しのことなど忘れて、美味しい料理とビールに舌鼓を打っていると、黒埜氏が笑顔で言った。
「……桜の木の下には、一体何が埋まってるんでしょうねえ。」
佐貴子さんの箸を動かず手が一瞬止まり、少し微笑みながら黒埜氏を見上げた。
「…さあ?
探偵さんは、何が埋まってると思います?」
妖艶な笑みとは、こういう物を言うんだろう。吸い込まれそうになる佐貴子さんの表情に、僕は息を飲んだ。
「…爆弾でしょう。」
…………はい??
「……はい?」
佐貴子さんも僕と同じリアクションだったようだ。
「地面に埋まっている物と言えば、爆弾しか無いでしょう。
こう見えても私、元FBI犯罪科学研究所爆発物課所属なんです。」
「絶対、嘘ですよね?!」
思わずツッコんでしまった。
佐貴子さんは一瞬ポカンとした後、上品な仕草で右手を口元に宛て、クスクスと笑い出した。
ひとしきり笑った後、目元を指で拭いながら佐貴子さんが言う。
「でも、どうしてそんなこと突然聞くんですか?」
「いえ、あまりに美しく咲いている物ですから。
ほら、言うじゃ無いですか。桜の木の下には死体が埋まってるって。」
冗談めかした表情で黒埜氏がビールを呷り、さらに続けた。
「桜の近くの多年草だけ、最近植え代わってますよね?
多分、ここ一年くらいの間に。」
少し離れた場所では初老の男性が三人集まってどこぞのゴルフカントリーの話をしていて、その隣では妙齢の婦人と中年男性がリゾート地の話題で盛り上がっている。
僕の世界とはまるで縁の無い話ばかりだ。
なんだか周囲の温度が少し下がったような気配がして、僕は思わず背筋を震わせた。
「さすが、探偵をやってらっしゃる方ですのね。目ざといわ。」
相変わらず微笑みを絶やさないが、瞳に少し硬質な雰囲気が混じったのは僕の気のせいだろうか。
「…失礼ですが、先代の田島氏の死因は何だったんですか?」
黒埜氏が事も無げに聞く。
流石にそれは看過できない。
不躾にも程があるという物だ。
「黒埜さん…!」
「…糖尿病と高血圧を患っていたんです。」
僕の制止の声に被せるように、佐貴子さんが答えた。
「そうだったんですか。…ご愁傷様です。
さぞかしご苦労なされたんでしょう。」
「いえ、死の間際は楽だったと思います。」
「いえ、私は申し訳ありませんが田島氏と面識がありませんので。
私が慮るのは佐貴子さんです。」
「……私?」
佐貴子さんが意外そうに黒埜氏を見る。
「ここに集まる方々は、皆さん佐貴子さんに敬意を払ってます。経営に関わっている訳でも無いのに。
きっと、佐貴子さんが小さい頃から可愛がっておられたか、多大な恩義を感じているんでしょう。」
僕には黒埜氏の言いたいことが皆目分からなかったが、佐貴子さんは目を丸くして黒埜氏を見ていた。
「……本当に、不思議な方。」
薄らと微笑み、佐貴子さんはまた日本酒を一口含んだ。
「……あの桜の樹は、私が子供の頃に、父が記念に植えた物なんです。
あの樹は私と父にとって、大切な物でした。」
佐貴子さんの言葉に、僕らはまた八重桜を眺める。
「父の死後、この家を継いだのは再婚した義母でした。
義母は葬儀の数ヶ月後に、当時執事をしていた者と再婚すると周囲に話し始めたんです。
父の生前から、正直私は義母が苦手でした。
だから、もしかしてと思って、父の書斎や遺書なんかを手当たり次第に調べてみたんですけど。
特に義母の不貞を示すような物は見つかりませんでした。
それから一月くらい経った頃だったかしら。
ふと思い立って、桜の木の下を掘り返してみたんです。
私が小学生の頃に埋めたタイムカプセルの場所。
地面の下から出てきたのは、私のタイムカプセルでは無く、父の日記でした。」
佐貴子さん曰く。
無くなった田島氏の日記には、佐貴子さんの義母と執事男性の不貞の様子、更には財産を見込んだのであろう、田島氏の食事への意図的な食材の改竄、処方された薬に手を出し薄めるなどの暴挙の数々が記されていたらしい。
義母と執事の不倫現場の盗聴データまで添えられていたという。
「そこまで分かっていて、何故田島氏は直接妻を糾弾しなかったのでしょう。」
「曲がりなりにも、愛していたからだと思います。
いえ、本当に愛だったのかは分かりませんが。
父は非常に義に厚い人でした。
義母は、父が青年時代にたいへんお世話になった方の娘だと聞いてます。
だから、全てを知っていても、甘んじて受け入れていたのかもしれません。
幸い義母も、直接手を下すほどの胆力はありませんでしたから。
それでも、残される私の為に、あれらを残してくれたんだと思います。」
遠い目をして語る佐貴子さんは、とても儚く見えた。
結局証拠の音声データと日記を見せ、殺人の疑いを突きつけると、義母と執事は夜逃げのように家を出て行ったのだという。
危うく会社の乗っ取りまでされ掛けていたと言うから、恐ろしい世界だ。
庶民で良かったと、つくづく思う。
「嫌なことを思い出させてしまい、申し訳ありませんでした。」
頭を下げる黒埜氏に、佐貴子さんが笑って応える。
「いえ、探偵さんと話す機会なんて滅多にないですし。
…私も、誰かに聞いて貰いたかったのかもしれませんね。」
立ち上がり、辞去しようと思ったところで思い出した。
「あ、そういえば猫。」
「…なんだっけ、それ?」
すっとぼける黒埜氏を睨んでいると。
「あら、クーちゃんならあそこにいますよ?」
佐貴子さんが何でも無さそうに指差した。
その視線の先、池のある場所には、確かに写真の猫と、可愛らしいアメリカンショートヘアが仲良さそうにくっついていた。
「ええ?!」
「話してませんでしたっけ?
うちのジョイと仲良しで、3日前からよくここに来るんです。」
悪戯そうに笑う佐貴子さんは、春の風のような人だった。
<了>




