「人ヲ殺ス死体 ―― Murder of the Dead ―― 7.氷解」 夢学無岳 【本格推理】
7.氷解
老人は「こほん」と咳をした。それを見て、早乙女は、ちょっとかわいいと思った。
「早乙女様。只今、私は、犯人と手段が分かった、と申し上げましたが、それは正確な表現ではございません。この事件を説明できる、合理的かつ蓋然性の高い、作業仮説を組み立てることができた、という意味でございます。そのことを、ご了承くださいますよう、お願い申し上げます」
彼が言うと、彼女は頷いた。
「まず、はっきりさせなければいけない事は、亡くなられた方は、基本的に、生き返って動き回らないという事でございます」
早乙女は「私もそう思います」と言った。
「それ故、テープの指紋について、確認させていだだきました。ご主人の指紋は、手榴弾のレバー、奥様の指紋は、ナイフに付いていたと、お聞きいたしました。と言うことは、お二方は素手だったのでございます。それなのに、テープに指紋が残されていなく、革製品の欠片が付着していた、と言うことは、革の手袋を身につけた第三者がその場にいた、と推測できます」
老人は淀みなく話し続けた。
「とするのなら、奥様を拘束し、手にナイフを握らせたのは、その第三者でございます。その者は、ご主人を刺殺した後、これを心中に見せかけようと計画したのでございます。ただし、すぐに放火することはできませんでした。なぜなら、その家を訪れていたのが、他人に知られていたからであり、アリバイを作る必要があったからでございます」
早乙女は静かに聴き入っていた。
「はじめ、奥様の左手はナイフを握らされ、テープで固定されていたにも関わらす、右腕だけがテープで巻かれていなかったのが疑問でございました。このような場合、たいてい理由があるものでございます。きっと、奥様は手榴弾が爆発しないように、一時、そのレバーを押えていたのでございましょう」
早乙女が口を挟んだ。
「それはフィリップスも言いました。でも12時間も、バネの効いたレバーを握り続けるのは、男性でも難しいのに、女性の力では不可能です。握力が持ちません。どんなに頑張っても、1、2時間で落としてしまいます。それに、レバーに付いていたのは、ナンシーではなく、ジョージの指紋です。フィリップスは、氷に手榴弾大の穴を空けて、その中に手榴弾を入れて、レバーがすぐに外れないようにした可能性もあると言いましたが、それも無理です。レバーの圧力を受けた氷から先に融解するので、数時間後には、氷の中で爆発してしまいます……」
老人は嬉しそうに同意した。
「その通りでございます。ご遺体の、刺創痕以外、すべての傷から手榴弾の破片が見つかったと言うことは、手榴弾は、氷の中で爆発したのではございません。もし、そうなら、氷の破片が無数の凶器となり、殺害後、氷が融けると、傷の中には何も残らないはずでございます」
早乙女は混乱しているようだった。
「では、仮に、ナンシーが手榴弾を握っていたとして、それが2時間と見積もったとしたら、犯人が、現場にいて、彼女に握らせたのは、事件当日の15時45分前後。デービッドもアンジェラも、もちろんボビーも、その時間には、完全なアリバイがあります。チャールズだけアリバイがありませんが……、それだと、彼は、前日の23時45分から、事件当日の11時45分の間にジョージを殺害して、昼に再び来て、また15時45分前後に、今度は人目を忍んでやって来て……、そんなこと、するなんて考えられません。する必要性が分かりません……」
彼は「そうでしょうとも」とやさしく言った。
「そもそも、ご主人の死亡推定時刻が誤っていたのでございます」
早乙女は「えっ」と息をのんだ。
「それは……、何を根拠に」
「氷でございます」
彼女は、現場に残された、氷の欠片を思い出した。
「早乙女様は、氷をご覧になりました。火災の現場には、まったくもって不自然な物にございます。しかし、それが存在した、と言うことは、もともと巨大な氷が、その場にあった、と推測できるのでございます」
彼女は、はっと思った。板張りの床には、燃えていない箇所があった。地下室にあった冷蔵庫。ジョージが大きな氷のブロックを銃で撃っていた動画を思い出した。
「犯人は、氷をご主人の体中、服の中や膝の上、椅子のまわりに配置し、ご遺体を冷蔵保存したのでございます。その後、腹部や膝の上にのせた氷は、爆発の半日ほど前には、表面が融けて、滑って椅子の下へと落ちました。それで腹部の腐敗が進んだのでございます。それ故、死亡推定時刻が、実際より12時間前へと短縮されたのでございましょう」
「とすると……」早乙女は椅子から腰を浮かせた。
「殺害時刻は、おそらく、前日の14時半から15時頃だと存じます」
早乙女は、「ちょ、ちょっと待ってください」と立ち上がった。
「どうして、そんなに殺害時刻をはっきり言えるんですか。ナンシーの電話から15時35分には、二人とも生きていたと考えられるのに、いくらなんでも、当てずっぽうじゃありませんか」
老人は穏やかに言った。
「ご意見は御尤もでございます。しかしながら、ボビー様とアンジェラ様のご証言を思い出して下さいませ。アンジェラ様は、前日は1日中自宅にいたとおっしゃいましたが、ボビー様は、彼女がジョージ様宅から出て来た、と証言しております」
「そうです。そこが矛盾の一つです」
「私は、その証言は信用できると考えます。なぜなら、ボビー様は、誰が見ているかもしれない見知らぬ土地の住宅地での、調べればすぐに明らかになるような嘘をつく意味がないからでございます。アンジェラ様が、なぜ嘘をついたのか詮索するつもりはございません。妻の留守中、隣人の家の中で何をしていたのか考えるのは、野暮というものでございます。もちろん、彼女が、その時間帯に、ジョージ様を殺害された可能性はございません。もしそうなら、ボビー様が、ジョージ様と一杯お飲みになられて、話をされたという証言が嘘になってしまうからでございます。また、彼らの共犯という線もございません。もし共犯なら、彼女が家から出てきたと証言するはずがございませんし、トリックを用いたのなら、二人のアリバイを作るはずでございます」
早乙女は「ええ、過去を遡っても、電話やメールの履歴を調べても、二人の関係はありませんでした」と言った。
「つまり、ボビー様が訪れた時には、ジョージ様は、ご存命だったのでございます。ここで、少し話を、手榴弾に戻しましょう」
「そうです! もし、殺害時刻が、14時半から15時頃なら、手榴弾は、どうして爆発しないで、26時間も経過できたのです。半日だって不可能です」彼女は息巻いた。
老人は、自分の右手を広げて、彼女に見せた。
「彼女が、手榴弾を押さえていたのは、一時、で良かったのでございます」
右手を振ると、手の中に白い卵が現われた。彼はそれを握ると、早乙女の右手を、そっと取り、自分の手を包み込ませた。
「奥様は、椅子に縛り付けられ、そして、右手で、手榴弾の入った、ご主人の手を握らされたのでございます。おそらく、絶対に離すな、この手榴弾が落ちたら爆発する、などと脅されて……。お辛かったことと存じます。お仲が悪いとお聞きしましたが、これが最後の触れ合いだったのでございます。奥様は、ご主人の手が開かれないように、押さえるだけで良かったのですが、数時間もすると、ご主人の手が硬化していることに気づきました。力を入れても、びくともしません。奥様は、これ以上、握り続けることが困難だと思った時、少しだけ力を抜いてみました。それでも、ご主人は手榴弾を手放しません。もしかしたら、犯人が、しばらく頑張れば安全になると、嘘をついた可能性もございます。とにかく、それで、奥様は手を離したのでございます」
早乙女の中の疑問が、ひとつ解けたようだった。彼女は表情を変えて言った。
「死後硬直ですね。身体の部位によって異なりますが、上肢に硬直が現われるのは、死後5時間前後から。そして、気温によっても異なりますが、24時間から30時間で解けだします」
彼は「その通りでございます」と言った。
「つまり、犯人は、その時間帯、爆発の24から30時間前に、その家にいらっしゃり、かつ、家に残されているはずの指紋が残されていなかった人物であり、そして、軍人であったご主人をナイフで10センチも深く刺して殺害できる能力をお持ちで、かつ、確固としたアリバイをお持ちだった人物でございます」
早乙女は、流れるように推理する老人に、尊敬の眼差しを向けた。
「早乙女様。自殺をされたのは、ボビー・ブラウニング様で、間違いございませんか」
彼女は、呆けた顔で「その通りです」と答えた。すると、彼は「しかし、でございます」と、先を続けた。
「ここまでの説明に足りないものが、二つございます」




