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春麗のミステリーツアー【アンソロジー企画】  作者: 春麗のミステリーツアー参加者一同
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「月曜日の白熊さん」 ナツ 【純文学】



 1.白熊さんの死



 月曜日に白熊さんが死んだ。図書館から徒歩で帰宅する途中で突然、歩道橋から何の躊躇いもなく飛び降りたのだ。まず鋭い衝撃で頭が潰れ、それから手足がどれも歪な方向に曲がった。すぐに辺りは黒い血で濡れ始め、それはアスファルトの隙間を掻い潜って浸透しながら広がり、走る車のタイヤによってさらに押し広げられた。


 周りの歩行者は意味も意図も何もわからず、しばらく死体を眺める以外、棒立ちのまま何もできなかった。死体の側を通過する車の運転手は視線が釘付けになりながらも、けっして停車することはなかった。スピードは少し緩んでいたが、全てきちんと走り去った。ベルトコンベアから流れてくる荷物を機械的に仕分けるように、彼らはその一連の動作を忘れることなく行っていた。


 後に、この事件のニュースのアナウンサーに質問された目撃者の男は、「歩道橋を歩いていたら、いきなり前にいる人間がいなくなっていた。死にそうな感じはなかった」と答えた。しかし事件当日にこの男が歩道橋の階段を上り始めたときには、既に白熊さんは橋から落ちた後だったことは誰にも報道されることはなかった。それでもテレビやネットの多くでは、この不確かな発言を軸にして問題提起がされた。まるでそれが真実だったように取り扱い始めたのだ。白熊さんの死はそのようにして、あらゆる目的で散々に弄ばれた後、クリスマスプレゼントを貰った子供が古い玩具をクローゼットのなかに閉まってしまうように多くの記憶から忘れ去られた。



 2. 消えた猫と同僚



 生前、白熊さんは親密な他者の悩みを、まるで自分の問題であるように考える癖があった。しかしそういう種類の問題は往々にして第三者によって解決できるケースの方が少ないため、白熊さんがいくら頑張っても救われないことが多く、悩みも増えて深まるばかりだった。パチンコがやめられない母親の借金を返しながら、恋愛にのめり込みすぎて大学を留年した弟のために学費も出し、アルコール中毒の友達のために断酒会と病院に定期的に連れていったが、その努力はどれも実ることはなかった。


 おかげで白熊さんは常に不安で、悲しい未来を考えることがやめられなかった。夜も恐怖で眠ることができず、いつも睡眠導入剤に頼っていた。仕事で上司と話すときも、雑音のように蠢く思考を整理できなくて言葉にして表現することに苦労した。趣味の読書も辛くなり、読んでいる文章が頭のなかで情景が思い浮かぶこともなく、風が通りすぎるように通過した。それでも白熊さんは図書館に行くことだけはやめなかった。行くだけでも意味があったのかもしれない。


 白熊さんの飼っている猫がいなくなったのは、そんな苦悩の日々の最中だった。5階建てのアパートの3階に住んでいて、ドアもちゃんと戸締まりをしていたのに、白熊さんが仕事から帰ったら猫がいつの間にか消えてしまっていたのだ。そして自分が猫をとても必要としていたことに、猫がいなくなってから気づいた。長い間、白熊さんはしくしくとひとりで泣き、次の日、仕事を休んだ。無断欠勤だった。熱も寒気もしなかったが、不思議なことに身体を上手く動かすことができなかった。職場からの電話も手足に力が入らなくなって受話器を取ることができなかった。三日間、彼女は殆どをベッドの上で過ごした。食事もせず、水も飲まなかった。


 何かが死につつあるんだ、と白熊さんは思った。これまで蔑ろにしてきたけれど、とても大切な何かが消えてしまう。


 いつしか白熊さんは起きているのか眠っているのかわからない生活を送ったせいか、夢のなかの出来事と瞼の外側の出来事の間で頻繁に揺れ動かされ、その境目がわからなくなり始めた。過去で起こったことを思い出しているのか、眠っていて夢を見ているのか、それともその二つが混ざり合ってしまっているのかさえ、自分で判断ができなくなっていた。少なくとも、この三日間の最後には、白熊さんは喫茶店のテーブル席に座っていた。(しかしこの喫茶店がどこにあるのか、白熊さんは全く知らなかった)向かい側には、同期で入社した同僚が煙草を吸っていた。彼女はため息と共に白い煙を唇の端から出して、白熊さんを点検するようにじっと見つめた。


 「あなたの猫ね、ちょっと見つけられそうにないの。わかる? 」


 「ええ」と白熊さんは言った。言いながら、なんだか変だなと思った。そもそもこの同僚は煙草を吸ったりしていたっけ?


 「これ、あなたにとって必要な人の住所。ここに行くの。わかった?」


 同僚の女はそう言うと、誰かの住所を書いたメモ帳を破って、綺麗に四つ折に畳んでから白熊さんに手渡した。


 「いい? 優先順位を間違えちゃダメよ。まずは猫を見つけること。そのために、やるべきことをやるのよ。そうよね? 」


 「ええ」と白熊さんは頷いた。


 「あなたが自分を助けるのよ? 自分のことを考えたくないからって、他人の心配をしていても何も解決しないんだからね? 」


 「ええ」


 「じゃあ、もうこれで終わり。コーヒーはいるかしら? 」


 「ええ」


 同僚の女は小さく微笑むと、店員にアメリカン・コーヒーを二つ頼んだ。そして二本目の煙草を吸って、腕時計をじっと眺めた。白熊さんも自分の腕時計を見つめた。そうやって時間を確認することで、コーヒーが何分で出来るのかを計っているように沈黙をやり過ごした。しかしコーヒーがやって来る前に、この過去の回想のような、夢のような何かは終わった。



 3.ある女



 しばらくすると、白熊さんは砂漠に迷いながら水を求める旅人のように、ベッドから苦労して起き上がった。ふらふらと歩いて、外に続くドアの取っ手を右手で掴んだ。それから同僚の女からもらったメモ帳の住所を思い出しながら駅に向かって歩いた。なぜかはわからないが、女の言っていたことが正しく思えたのだ。確かな違和感があったが、それに従うことにした。


 着いたのは渋谷駅から歩いて20分ぐらいにある黒いビルの前だった。小さかったが、建物のなかもぴかぴかで、新車のように輝いていた。白熊さんはエレベーターに乗って、部屋の扉の前で歩みを止めた。インターフォンを押して、しばらく待っていたら、知らない女が扉を開けてくれた。


 「ご用件は何でしょう? 」と女は言った。鋭くもなく、威圧的でもなく、作ったようであるが、わざとらしく仰々しくもない声だった。白熊さんが見てきたどんな女性よりも、特徴的な存在感があったが、それを誰かに説明することは難しく感じた。


 「恐れ入りますが、お名前とご用件をお聞かせいただけますでしょうか? 」と女は微笑みながら、少し声のトーンを落として言った。


 白熊さんは女から視線を外し、慌てて自分の名前を伝えた。女はその名前をたしかめ、こくりと頷いた。


 「飼っている猫を探してほしいんです」と白熊さんは言った。「あなたはそういった仕事をしておられると知人から聞いています」


 しばらくの沈黙が訪れた。


 女は少し考えるように俯いていた。しかしその沈黙のなかで何らかの解答を得たのか、温かそうな笑みを口元に浮かべた。彼女は扉をさらに開けると、「まずはお話をお聞かせください」と明瞭な声で言って、白熊さんを部屋に招き入れた。「どうぞ、メイ探偵調査事務所にお入りください」



 4. ロバート・パーカーの話



 部屋のなかは白熊さんが思っていたよりも空間が広く感じた。無駄なものがない、と思った。置物や家具も、極端にそのなかのひとつが目立つことなく、ひとつひとつが部屋の調和を保つために機能していた。そのなかでも焦げ茶色のソファと真っ黒なラジオが空間を作る『色』として役立っていた。


 「私の名前はメイ」と女は部屋を眺める白熊さんに微笑みながら言った。「だからここはメイ探偵調査事務所。単純でしょう? 」


 「なるほど」と白熊さんは相槌をするように呟いた。


 「どうぞ、そのソファにお座りください。あまり高価なものではありませんが。……コーヒーはいかが? 」


 「ありがとうございます」


 メイは頷くと、台所に行ってコーヒーを作り始めた。ヤカンでお湯を沸騰させている間に、フィルターやマグカップ等を用意して、ごりごりと豆を挽いた。やがてコーヒーを作るための全ての行程を終えると、コーヒーの入ったマグカップを二つもって白熊さんの元に戻り、そのうちのひとつを白熊さんの側に置いた。


 彼女は自分の淹れたものを飲みながら、納得するように微笑んだ。熱くて、苦くて、濃いコーヒーだった。白熊さんも少し飲んだ。


 「それであなたは自分の猫を探したいのですね? 」とメイは言った。


 「とても大切な猫なんです。仕事から帰ってきたら、いつの間にかいなくなっていて、私、どうにかしなきゃと思ってたんですけど、どこから手を着けたらいいかわからなくて、上手くいかなくて……それで気づいたら自分の身体も動かなくなってたんです。会社にもいけなくなって、本当は猫どころじゃないかもしれないんだけど、それで――」


 「少しお待ちください」とメイは静かに言った。「あなたが仕事から帰ってきたら飼っている猫はいなくなっていたんですね? 」


 白熊さんは頷いた。戸締まりもちゃんとして出ていきました、と言った。いつの間にか白熊さんは涙が出ていた。メイはそれに気づくと、ハンカチを箪笥から取り出し、白熊さんにそれを両手で握らせた。


 「落ち着いたら、お話しを続けてください」


 白熊さんはしゃっくり声で、話の続きを始めた。しかし緊張と動揺から、だんだん主な内容から逸れていったり、時系列がめちゃくちゃになって相手が理解するのに混乱させる話し方をしてしまった。だが、その度にメイは質問をして話の筋を戻し、青いノートに内容をメモして整理することによって、正確に物事を理解しようと対応していた。そのうえで、猫を見つけるのに論理的に意味がなさそうな、家族や友人の悩みも彼女は静かに聞いた。白熊さんがいつも頭のなかで蠢くものを誰かに話せたのは、これが初めてのことだった。こんなに私の話を真剣に聞いてくれる人は他にいただろうか、と白熊さんは思った。それはマッサージで肩の凝りが和らぐように、それまで苦しめられていたものから解放されて楽になった感覚と似ている気がした。


 全てを聞き終えた後で、メイはノートを閉じて、ペンの先で右の掌をリズミカルに叩いた。コーヒーはもうとっくに冷めてしまっていた。


 「猫の方は」と彼女は唐突に言った。「正直のところ、私では見つけることができません。犬やトカゲなら見つける手掛かりもあるのですが、猫となるとそうはいかないのです。奴らは人に慣れていながらも、個人には依存せず、習性に従いながらも、時には我々の予想もつかないような突飛なことをしでかします。もし猫が本気であなたの前から去ったのなら、私には全く太刀打ちできないでしょう。……もちろん、人間に例外があるように、猫にも例外はあります。一般的な猫の保有しているひとつの特性が地球上の全ての猫たちを包括しているわけではありませんからね。人に忠実な猫だって世の中にはいるかもしれない」


 「でも、私にはあの猫が必要なのです」


 「そうだとしても、こればかりは猫の気持ち次第です。もし無理をして捕まることができたとしても、猫がそのことに不服であったなら、またいずれ家から出ていくでしょう。あるいは、ただの気まぐれで出ていくこともあるかもしれませんがね」


 「……つまり、あなたは猫を探してくれないのですか? 」


 「申し訳ありませんが、わたしはあなたのお話しを聞いて、たまに助言をすることぐらいしか役に立たないでしょう」とメイは言った。「わたしが猫を探すのではなく、あなたが猫を探すのです」


 彼女はソファからゆっくりと立ち上がり、冷めてしまった残りのコーヒーを台所の流しに捨てて、「おかわりはどうですか? 」と言った。白熊さんは首を横に振った。メイは頷き、台所の蛇口を捻って、空のマグカップに水を半分ぐらい汲んだ。そして窓の側にある観葉植物に温かいシャワーを浴びさせるようにカップを傾け、コーヒーが入り交じった水道水を優しく流し落とした。


 「猫が消えてしまったことが、私の何と関係するのでしょう? 」と白熊さんは言った。


 「さあ、わかりません。だからあなたも推理してみてください」


 「推理? 」と白熊さんは困ったように笑った。「わたしは探偵ではありません」


 「はて、探偵じゃなければ、推理をしてはいけない法律なんて、六法全書のどこに載ってあったかしら? 」


 メイはわざとらしく視点を上にやって、過去に忘れてしまった何かを思い出すような仕草をした。それからカップをテーブルの上にそっと置いて、穏和な表情で微笑んだ。


 「なにか思うことがあるみたいですね? どうぞ言ってみてください」


 「正直のところ」と白熊さんは言った。「わたしは私ほど自分のことを考察している人間はいないと思っています。これまでだって何度も考えてきたのです。しかしその度に悩み、苦しみ、深みに嵌まって抜け出せなくなるだけでした」


 メイは「なるほど」と言って、顎の形をたしかめるように指で撫でた。それを何度か繰り返し、深い深呼吸をするように肩をゆっくりと上下させた。


 「ちょっとした余談みたいな話ですが」と彼女は前置をして言った。「私の知る人物にロバート・パーカーという心理学者の男がいます。彼は十代の頃、極めて感じやすく、内向的な性格で、何事も自虐的に考える傾向があったらしいです。ピザ屋のアルバイトで店主から注意をされたり、友人の何気無い一言で酷く傷ついて落ち込むことが多かったのだとか。そしてその度に彼は飼っている猫を羨ましがって、『……もし、じぶんが猫になれたら、どんなに気儘に生きていけただろうか』と考えていたらしいです。しかしここで羨ましがるだけで終わらず、さらに物事を面白く展開させるところが、ロバートという男の突出した才能です。彼はこう考えました。『それなら想像のなかだけでも猫になっちまおう! 』と。一般的な子供ならば、おままごとの様なことをして猫を演じたり、想像上の猫のお友だちをつくって満足するところなのでしょうが、ロバートの場合はそれでは納得できなかったのです。彼はどうしても完璧な猫になりたかった。しかし彼は人間だし、そもそも人間として生きることを捨てる気にもなれないというジレンマがある。だから、自分という人間を機能させたまま、嫌なことがあれば、その逞しい想像力によって仮説的に猫にもなったのです。これにより人間としてのキャパ・ロバートと架空の猫のキャパ・ロバートが同時平行して存在しました。しかもこのロバートはさらに面白いことに、だいたいの子供が妄想から覚め始める十代の後半になっても――彼も猫になって蠅を追いかけたり、猫じゃらしで遊ぶ想像をするのに飽きたにも関わらず――猫になること自体はやめませんでした。それでどうなったかというと、人間の自分やその周囲の人間を観察するようになったのです。自分(人間)の行動をもう一人の自分(猫)が冷静に見つめる。つまりはこれにより、殆ど狂気的な客観視を可能とし、それまで制約されていたロバートの囚われた考え方は解放されたのです」


 「猫? 」と白熊さんは口をぽかんと開けて、目を見開いて言った。「猫になる? 」


 数秒間、相手の女が何を言っているのか理解できなかった。まったく、なんてことだ。


 「そう、ロバート・パーカーは猫の視点を獲得することによって、自分の見える世界から一時的に離れることができたらしいのです」とメイは皮肉っぽく笑いながら言った。「彼によると、この方法は擬似的な自己の解放であり、限りなく主観を排除できる真の客観視であるらしい」


 「それは必ずしも、猫でなければならないのですか? 」


 「おそらく重要な点は異なる視点を増やすことなので、犬でも猿でも魚でも構わないでしょうね。ロバートが偶然、猫であっただけです。面白いでしょう? 」


 白熊さんは黙った。空になったカップに視線を移して、なぜそれがテーブルの上にあるのか、その意味を探るように首をかしげた。


 「私にそんなことができるでしょうか? ……というのも、とても特殊で難しい方法に思えます」


 「ひとつの例として挙げただけです。この方法は新たな精神的な問題を引き起こす可能性も孕んでいるし、ロバートもそれによって苦しんだ時期がありました」とメイは言うと、驚くように目を見開いた。家の鍵を施錠し忘れたように。それから額に手を置いて、バツの悪そうな顔になった。「……申し訳ない、少しあなたを混乱させるような話題を持ち上げてしまったようですね。私の悪い癖が出てしまったようです。あなたはあなたのやり方を探したら良い」


 「わたしのやり方? 」


 「ええ、そうです」とメイは静かに言った。「もしやり方が見つかったなら、またここでお話しを聞かせてください」



 5. グレゴール・キングは子供を探す



 午後七時に白熊さんは電車に乗って家に帰った。靴を脱ぐと、手提げの鞄を廊下で落としながら歩いて、ベッドの上に力なく倒れた。かなりの疲労感があった。肩や腰に碇を取り付けられたかのように身体が重く感じた。「ロバート・パーカーだって? 」と白熊さんは毛布を握りしめながら呟いた。まったく。


 しかし窓から入ってきた蠅を眺めながら、白熊さんは少しだけ蝿になった自分を想像してみた。その小さい私が見る世界はどんなものか、と病院の待合室で雑誌でも読むように暇潰しに考えてみた。蝿の私から見た、人間の私はどんなものなのだろうか?


 「やあ、人間の私」と白熊さんは飛んでいる蝿になりきったつもりで言ってみた。そして今の自分がどんな表情をしているのか、それを飛んでいる蝿になったつもりで考えてみた。天井のライトで目を半分閉じていて、眉間に皺を寄せている自分の顔を想像できた。それがどうしたというんだ?


 「やあ、わが同胞よ」という声が背後からしたのは、ちょうど白熊さんが蝿になって、人間の白熊さんの周りを三週している最中だった。不意なことで、びっくりして驚いた。重くて、強くて、低い声だ。白熊さんはゆっくりと振り向くと、目の前にいる者に対してさらに身体を強ばらせた。しかし悲鳴を叫ぶ間もなく、「やあ、わが同胞よ」と目の前の蠅は喋り続けた。「久方振りに会えたのに申し訳ないが、俺はここまで来るのに疲れてしまった。なんたって朝も夜もぶっ通しで飛んできたんだからな。だから話をはやく終わらせたい。それにおまえも一人でここまで大変だっただろうし、疲れているだろうから何も話さなくていい。口を閉じて、俺の話だけを聞くんだ。なにか俺から質問をされたら、羽を激しく振るか、遅く振って答えればいい。わかったか? 」


 白熊さんは羽を激しく振った。すると目の前の蠅は前足を納得するように擦り合わせ、白熊さんの隣に軽やかに移動した。


 「まったく、お前を探していたんだぜ? 」と蠅はため息をつくように言った。「本当に見つかって良かったよ。知らないと思うが、父上も幼い頃にお前がいなくなったんで、とても心配していたんだからな。まったく、産まれて数日で家出をするなんてお前も馬鹿なことしたよなあ……。覚えていると思うが、俺はジョン・キングだ。卵から孵ったばかりのころ、おまえの左隣にいた蛆虫だよ。なに、その顔は覚えてなさそうだな? 」


 白熊さんは激しく羽を振った。思い出そうとしてみたが、そんな記憶はどこにもなかった。


 「まったく、俺たちの愛まで失ったというのか! 」とジョン・キングは悲鳴をあげるように叫んだ。「そんなんじゃあ、偉大なるわが父――グレゴール・キングに殺されたって知らないぞ? 俺は蝿の死骸に集る蝿なんて死んでも見たくない。これじゃあ、お前を連れて帰っても徒労に終わっちまうよ! 」


 ジョン・キングは赤い眼で、白熊さんを鋭く睨んだ。それは白熊さんに奇妙な違和感を自覚させ、言葉にならない疑問を胸のうちに呼び起こした。まるで自分が低予算で作られたカルト映画のなかに迷い込んでしまったような気分だった。


 「ちっちっ」とジョン・キングは舌打ちをするように言った。「仕方ないが、このまま記憶のないお前をつれて帰るわけにはいかなくなった。……ああ、可哀想な、わが同胞よ! しかし今はその時ではないのだ。わかってくれるな? 」


 白熊さんは激しく羽を振った。そうしたあとで、遅く振った方がよかったかもしれないと思った。どちらが正解なんてわからない。


 「記憶が戻らずとも、愛が戻りさえすれば、父のグレゴール・キングはきっとおまえのことを見捨てないだろう。その時、俺はまたお前を迎えにくるよ。愛しているぜ、同胞よ? 」


 白熊さんは黙っていた。ジョン・キングも、もう何も喋らなかった。長い間、お互いをじっと見つめあっていた。だがそれによって相手の何を知れたのか、どちらとも全くわかっていなかった。白熊さんは自分が目を瞑っていることに気づいたのは、ジョン・キングが白熊さんに別れのキスをして、ベランダの隙間から帰った後のことだった。外は太陽が昇り始めていた。全ては瞼の裏で起こった出来事であり、それは夢であったかもしれないし、正確にはそうではないかもしれない。時計の針は午前7時を示していた。



 6. そして月曜日



 話はまた戻りつつある。


 この日、白熊さんは気分転換に市の図書館に行った。仕事にはやはり行く気にはなれなかったが、部屋に籠って死んだように一日が過ぎるのを待つのはもう嫌だった。それなら英米文学コーナーで『キラーレイン・ストーリー』を読んでいたかった。白熊さんはP・ゴートンのファンなのだ。物語の展開に困ると、殺人や鉄砲を持ち出してしまう悪癖のある作家だが、その文章には確かな力が宿っており、白熊さんもそれを気に入っていた。あまり有名でなく、むしろマイナーであったことも、この作家を好きになった要因であっただろう。隣に男が座るまで、白熊さんは熱心に好きな作家の好きな本を読んでいた。


 その男は少し前にクリーニングを終わらしたかのような、ぱりっとした黒いスーツを着ていた。左手首にはクリーリ製の腕時計を巻いており、それは殆ど傷ついていないみたいに見えた。白熊さんは横目で男が何の本を読んでいるのか盗み見た。本の表紙には大きな白い十字架がプリントされてあり、そのあとタイトルを見て、聖書であることがわかった。


 彼は白熊さんに頬笑むと、綺麗に整えられた眉を均等に上げた。まるで今から商談が始まるかのように、男はごほんと咳をした。


 「聖書を読んだことはありますか? 」


 「聖書? 」と白熊さんは言った。聖書がなんだって?


 男は深く頷くと、テーブルの上に置いた本を優しく擦った。


 「ええ、聖書です。読んだことはありますか?」


 「いえ」と白熊さんは答えた。「それがどうかしましたか? 」


 「面白いですから、ぜひ読んでみてください。これは、なかなか為になる本です。私はこの本から職業倫理を学びました。他の本からも言えることかもしれませんが、本というものは読み方を変えるだけで多くのことを学習できます」 


 「たとえば、聖書からはどんな? 」


 「あまりぱっとしない基本的な教訓ですよ。報酬には対価を与えるとかね。しかしこれがなかなか面白い」男はそう言うと、白い歯を出して笑った。「そういえば、あなたは欲しいものはありますか? 数えきれないぐらいの札束が欲しいとか、過去に戻りたいとか、何でも言ってみてください」


 「いなくなった猫が戻ってきて欲しいです」と白熊さんは答えた。この質問はなにを意味しているのだろう?


 「へえ」と男は呟いた。「猫ねえ。飼っていたのですか? 」


 「ええ」


 「いいでしょう、それなら私がすぐに猫を見つけて差し上げましょう」


 「そんなまさか」と白熊さんは呆れたように言った。そんなまさか、あり得ない。探偵に頼っても断れたっていうのに。


 しかし男は、白熊さんの態度を気にする様子もなく、聖書を脇に退けると、机の上を指で何度か叩き始めた。それは何かの暗示のようだった。10回ぐらいそれを繰り返した後で、男は愉しそうに目を細め、机の下に手を素早く伸ばした。木に隠れている蝉を捕まえる子供のように、男の瞳は爛々と輝いていた。そしてごそごそと手を動かしていたが、「少しお待ちくださいね」と言うと、次の瞬間、掴んでいるものを握力を計測するかのようにぎゅっと握り締めた。しかし机の下に腕があるせいで、白熊さんからはその光景が見えなかった。何かが言葉にならない声で喘いでいる音が微かに聞こえただけだった。


 そのあと、男は周囲を気にしながら、こっそりと白熊さんに掴んでいるものを手渡した。ずしりと重くて、綿のように柔らかい感覚があった。白熊さんはそれを確かめてみると、いなくなってから探し求めている猫だったことにすぐ気づいた。ぐったりと倒れて、二度と動けなくなったこと以外、猫は以前となにも変わらないように見えた。


 「この猫ですね? 」


 白熊さんは何も答えなかった。言葉を出すために口を開こうとしたけれど、唇が震えていてうまくいかなかった。ただ、腕のなかにいる猫を見つめていた。


 「……可哀想に、死んでいますね」と男は言った。「お辛いでしょう? 」


 白熊さんは黙っていた。男はその表情を愉しそうに眺めながら、白熊さんの手に自分の手を重ねた。それから白熊さんの手の甲を人差し指で何かを描くように動かした。そして彼は満足そうに微笑み、聖書を鞄に入れ、さよならも言わずに席から立ち上がって白熊さんの前から去った。



 7.白熊さんは止まらない



 白熊さんが隣にいた男がいなくなったのに気づいたのは、図書館が閉館時間に鳴らす『別れのワルツ』が聴こえたときだった。視線を下に向けると、腕のなかにいたはずの猫も消えていた。しかし白熊さんは一度として、眠ってはいなかった。それを白熊さんは確信をもってはっきりと言えたが、もし本当にそうなら、あの隣にいた男も信じなければならないような気がして、やはり夢であった方がよかったと思った。いったい、私の人生はどうなってしまったのだろう?


 白熊さんはもう少し図書館にいたかった。落ち着く時間がほしかったし、今から外に出るのはとても不吉なことが起こるような勘が働いた。しかし司書が迷惑そうに眉を潜めていたので、白熊さんは読みかけの『キラーレイン・ストーリー』を本棚に仕舞い、図書館を出ることにした。


 帰り道、白熊さんは頬に冷たい感覚があった。空を見上げたら雨が降っていた。まるで白熊さんが図書館から出るのを待ち構えていたように、その雨は土砂降りになった。


 何でこんな日に雨が降るんだろう? 白熊さんはそう思ったが、もう涙も出なかった。


 携帯電話に電話が掛かってきたのは、雨が白熊さんの身体まで濡らし始めた頃だった。知らない番号からだった。


 白熊さんは携帯電話を右耳に当てると、「私よ」という女の声が聞こえた。しかしそれが誰なのかわからなかった。見当もつかなかった。


 「ねえ、あなた、今どこにいるの? 」と女は言った。


 「図書館の近く」


 「今日、暇だからどこかで遊びましょうよ? 忙しいかしら? 」


 「こんなに雨が降っているのに? 私は家でゆっくりするよ」


 「雨? そんなのどこに降っているの? 」と相手の女は困惑したような声色で言った。「ねえ、今日はこんなに晴れてるじゃない? 」


 白熊さんは急に気分が悪くなり、携帯電話の存在を消すようにポケットに仕舞った。そして口元を手で押さえながら路地裏まで走ったが、途中で我慢できなくて胃から込み上げるすべてをビルの角で吐いた。喉が痺れるように痛くて、胃が縄で締め上げられる感覚があった。周囲を歩く人間の奇異の目が恐ろしかった。みじめ。この言葉が何度も頭のなかで繰り返し聞こえた。もうこんなのやっていられない。


 これ以上、何も考えたくない!

 

 白熊さんは前を見据えるように見ると、黙々と歩き始めた。もう口元から垂れた唾液や吐瀉物で黄ばんだように汚れた服も気にかけたりしなかった。ただ、歩道橋を目指しながら、ひとつの目的だけしか考えなかった。白熊さんのなかでは、もう何もかもが終わっていた。


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