「口なし奉一物語」 真波馨 【ホラー】
妻とまだ幼い娘を連れて花見に訪れたのは、三月も下旬にさしかかる頃だった。
地元では有名な花見スポットで、シーズン真っ盛りのために多くの花見客が足を運んでいた。駐車場に続く道は長蛇の列を作り、妻はフロントガラス越しに前方を見ながら苛立たしげにハンドルを指で叩いていた。
結局、「これじゃ先に降りて場所を確保しておいたほうが早いわ」と妻に命じられ、私はブルーシート片手に長い坂道を上るはめになった。ぜいぜいと息を切らしながら二十分ほどかけて頂上の公園に辿り着いたときには、人の群れとレジャーシートが敷地内をぎゅうぎゅうに埋め尽くしていた。
半ば絶望的な気持ちになりながらも、場所取りの手が伸びていない空間を探し求める。十分ばかり園内を巡っていると、草むらがむき出しになったままのスペースを見つけた。だが、視線をずらしてすぐにがっかりした。浮浪者のような薄汚い格好の男が、シートも敷かず直に尻をつけ居座っていたのだ。私は男にそろそろと近づくと、駄目元で彼の隣の空間を指さした。
「そこ、空いていますか」
すると意外なことに、男は無言でひとつ頷くと、尻をちょっとだけ浮かせて蟹のような動きで横に移動し、空いた場所と私を交互に見比べた。彼の親切心に甘えて、私はブルーシートを広げる。
「ありがとうございます」
一礼すると、浮浪者の男はまたも無言で首を縦に振った。私はシートに腰を下ろす、携帯電話で妻にメールを打つ。それからしばらくの間は頭上に咲き誇る桜を眺めていたが、やがて手持ち無沙汰になって隣に坐る男を横目で観察しはじめた。
だが、あまり熱心に見過ぎたのか、男は私の視線に気付くとどこからともなくスケッチブックを取り出してそこに何か書き始めた。そしてそれを私に手渡した。
『私に何か御用ですか』
私はびっくりして男を見た。彼は真一文字に結んだ口元を指で示し、首をゆっくり横に動かす。私は謝罪のつもりで男に向かって頭を下げた。そして彼にスケッチブックを返すと、シャツの胸ポケットからボールペンとメモ用紙を取り出した。
「桜、綺麗ですね」
走り書きしたメモを男に見せる。彼は豆粒のような目で私をじっと見つめていたが、すぐにスケッチブックの上で滑らかに手を動かした。
『桜、綺麗です。誰かとお花見ですか』
男に会話を続ける意思が感じられ、私は嬉しくなってメモに書き足した。
「妻と娘が駐車場所を探しています。私は先に場所の確保に来たのです」
『そうですか。見つかって良かったですね』
「ありがとうございます。あなたのお陰です。何もお礼はできないのですが」
男は私のメモを凝視していたが、やがてスケッチブックの新しいページにこんな一言を書き込んだ。
『ではお礼代わりに、私の思い出話にお付き合いいただけますか』
私は、名を奉一といいます。私は、もともとは他の大勢の人たちのように何の不自由もなく話すことができていました。私が永久に声を失ってしまったのには、ある理由があるのです。
その昔、私は三味線ひとつで各地を放浪し、弾き語りで日々の生計を立てていました。健常者であった頃の私は、自慢の美声と三味線の技を以って人々を魅了したものです。そしていつの間にか、「三味線語りの奉一」の名で広く知れ渡るまでになっていました。
あるとき、逗留していた旅館の女将から奇妙な話を小耳に挟みました。旅館の裏手に樹齢数百年の巨大なしだれ桜の木があって、その木には桜の精が住んでいるというのです。桜の精は、それは大層な美貌の持ち主で、気に入った男の前にだけ姿を見せるのだそうです。
私は半分好奇心で、しだれ桜の木を訪れました。桜は見事なまでに咲き誇り、なるほど精霊が宿っているという噂を鵜呑みにしてしまうほど、不思議な生命力に溢れていました。
もちろん、桜の精の噂を本気にしていたわけではありません。私は花見を存分に満喫すると、桜の木に背を向けその場を立ち去ろうとしました。
ところがそのとき、頭の中に奇妙な声が木霊したのです。鈴を鳴らすような繊細な声で、
「お待ちくださいませ」
たしかに、そう告げたのです。私の両足は金縛りにあったように動かなくなり、かといって背後を振り返る勇気もなく、ただその場に立ち尽くしていました。すると再び鈴音の声がして、
「そなたは、かの名高い三味線語りの奉一でありますか」
と尋ねたのです。私の唇が無意識のうちに動いて、「いかにも」と答えていました。鈴音の声は続けます。
「そなたの弾き語りは大層素晴らしいと耳にする。ぜひとも妾に聴かせてはくれませぬか」
私は操り人形にでもなったようにその場に胡坐をかくと、背中に背負った三味線を手に、私自身の意思とは無関係に弾き語りをはじめました。
三味線をかき鳴らし、朗々と歌いあげること四半刻。ふいに体の自由が戻ったかと思うと、頭の中で三度鈴音の声が呼びかけました。
「素晴らしい。そなたの弾き語りは聴く者の心に衝動を与え、強く訴えかけてくるものがある。妾はそなたが気に入った。明日の宵より百日間、このしだれ桜の木の下で妾に弾き語りを聴かせてほしい。もし約束の百日を一日も違わず守り通してくれたなら、礼としてそなたの願いをひとつ叶えてさしあげよう」
奇妙な声は、それから一切聞こえなくなりました。私はしだれ桜を振り返りましたが、そこには何者の姿もありません。ただ、桜の花びらが吹雪のように舞い散っているだけでした。
次の日の晩、私は半信半疑でしだれ桜の木を訪れました。桜の花は月明かりに照らされ白く発光し、昼時とは一味違う幻惑的な姿で私を迎えました。周囲には私以外人っ子一人見当たりません。
客のいない場所で弾き語りというのも味気なく感じられましたが、もしあの鈴音の声がしだれ桜の精であったならば――「願いをひとつ叶えよう」という誘惑の言葉を、私はそのときすでに信じ込んでいたのかもしれません。
その日から、私と桜の精との奇怪な交流がはじまったのです。
私は、約束を忠実に守り続けました。一晩、また一晩と日を重ね、遂には九十九日の宵まで一日も違えずしだれ桜の下に通い詰めたのです。
そうして、百日目の朝を迎えました。
その日の朝、逗留先の宿に私宛の電報が届けられました。それはさる大地主から送られてきたもので、中身を一読した私は天地がひっくり返るような気持ちになりました。大地主には一人娘がいたのですが、その娘がかつて私の弾き語りを聴いたときから、長く私を慕い続けていたというのです。そして、私さえ良ければ娘の婿にならぬかというのです。大地主の娘に婿入りするということが私の人生をどれほど大きく変えるものか、誰よりも私自身がよく解っているつもりでした。
しかし、ひとつ大きな問題がありました。その日の晩、地主の屋敷で酒宴が開かれる。その酒宴にぜひ参加して客の前で件の弾き語りを披露してくれないかと、電報には認められていたのです。
そのとき私は、大地主の娘婿としだれ桜の精との約束を天秤にかけました。そして、桜の精と交わした約束を百日目にして初めて違えてしまったのです。
私が最後にしだれ桜を訪れたのは、約束から百一日目の晩のことでした。背中に担いだ三味線が、まるで岩のように重かったことをよく覚えています。
しだれ桜は九十九日目に訪れたときと変わらず、闇の中で満開に咲き乱れていました。私は申し訳なさを感じる一方で、姿形もない桜の精霊など信じるほうが愚かなのだと、己に言い聞かせてもいました。生者である私にとっては、生命なき者との約束よりも生者同士の約束のほうがはるかに大事に違いないと、自身の行いを正当化しようとしていたのです。
狂い咲くしだれ桜を見上げながら、私はだんだん恥ずかしくなってきました。子ども騙しのような噂に釣られて、九十九日間も通い続けたことがひどく滑稽に思われたのです。私は三味線を背負いなおすと、踵を返しその場を去りました。鈴音の声は、一言も私に語りかけてはきませんでした。
ところが、その日からしだれ桜が私に牙を剥いたのです。
毎晩のように、悪夢に魘される日が続きました。夢の中で、私はしだれ桜の木の下で一心不乱に弾き語りをしています。すると、しだれ桜の枝が蛇のように私の首に巻きつき、喉を締め上げようとするのです。私は声も出せずにもがくばかりで、段々と息苦しくなるうちに夢から覚めるのです。そんな夜が、かれこれ一月は続いたでしょうか。
私は恐怖に戦き、宿の近くにある寺へ駆け込むとしだれ桜の噂と私が体験した出来事を洗いざらい和尚に話して聞かせました。和尚は難しい顔をしていましたが、桜の精から逃れる方法がないわけではないと教えてくれました。
いわく、寺のすぐ近くに人が一人入れるほどの祠がある。その祠に閉じ篭り、桜の精の襲撃に備えるのだというのです。ただし、祠に閉じ篭っている間は、いかなる者とも一切口をきいてはいけない。万一口をきいてしまえば、桜の精が私の自慢の声を永遠に奪い去ってしまうだろうと、こう忠告しました。
私は藁にもすがる思いで和尚の指示に従い、祠篭りをはじめました。和尚によると桜の精との約束の日数、つまり百日間祠に篭りきることができれば、桜の精は二度と私に手出しはできまいということです。この命が助かるのならば、祠の中でに百日過ごすことなど何の苦もありませんでした。
祠の戸の隙間から日が昇っては沈むのを眺めること九十九日。その日の晩、私は祠の外で狂ったように咲き誇るしだれ桜を見ました。私はふと、桜の精に弾き語りを披露し続けた日々を思い返します。そして、たった一晩の約束を守ることができなかった己の弱さを呪いたい気持ちになりました。妙なことに、あれほど恐れていたしだれ桜の鈴音の声がそのときは恋しくさえなっていたのです。
そのうち、私は浅い眠りにつきました。次に目覚めたときには、祠の戸の外からほの白い朝の光が注いでいました。私は飛び上がり、踊り狂わんばかりでした。とうとう桜の精の呪縛から開放されるのです。早く和尚が祠の鍵を開けてくれないかと、私はそわそわと祠の外に目を向けていました。
ほどなくして、和尚が祠の前に現れました。「百日間、よく辛抱しましたね」と私を労ってくれました。そして、錠を開ける重々しい音が辺りに響き渡りました。
祠の戸が開いた瞬間、私の目の前に信じがたい光景が広がりました。朝日だとばかり思っていたのは、夜闇に咲くしだれ桜が発していた光――そう、私が祠の外に足を踏み出したのは、祠に閉じこもってから九十九日目の晩だったのです。
微笑を湛える和尚の顔が、奇妙に捻じ曲がっていきました。私はそのとき初めて、桜の精の美貌を拝んだのです。そして、再びあの鈴音の声を耳にしたのです。
「そなたの声は、永遠に妾のもの」と。
「あなた、こんなところで場所を取っていたのね」
はっと気が付くと、顔に微笑を湛えた妻が私を見下ろしていた。
「何度もメールしたのに、全然返事しないんだもの」
苦笑を浮かべて私の前にしゃがみ込む。妻の隣で、娘の桃華がぴょんぴょんと楽しげに跳ねていた。
「すまないね。隣の彼とすっかり話しこんでいて」
メモにそう書き付けると、妻は怪訝そうに眉をひそめる。
「あなた、何を寝ぼけているの。誰もいないじゃない」
私はえっ、と頭を回す。昔話を語っていたはずの浮浪者は、私の横から忽然と姿を消していた。妻はよいしょと腰を上げると、
「桜の妖精があなたに夢でも見せていたんじゃないの」
冗談めかして笑う。そして桃華の手を引きながら、
「向こうにもっと眺めの良い場所を見つけたのよ。こんな片隅の桜じゃ寂しいわ」
空いたほうの手で私に手招きした。言われるがままにブルーシートを畳むと、桃華が妻の手を引っ張って走り出す。「パパ、早く」と元気良く口を動かす桃華に手を振りながら、後ろをちらと省みた。
男が坐っていた草むらの上に、一輪の白い花をつけた枝が落ちていた。それが季節外れの梔子の花だと思い出したのは、帰りの車中でのことだった。