「早すぎた場所取り 第三回」 庵字 【本格ミステリ】
突然のことに立ち上がり、自分を取り囲む刑事たちを見回した男は拳を上げて臨戦態勢をとった。が、ただでさえ屈強な刑事が相手であるうえ、多勢に無勢が過ぎる。加えて、半日以上も座ったまま飲まず食わずでいた疲労も手伝ったのだろう、男はすぐに拳を下ろし、大人しく刑事のひとりに捕縛されることとなった。
刑事のひとりがこちらに近づいてきた。暗くてよく見えないが、スーツ姿の女性のようだ。ということは。
「由宇ちゃん、お疲れ。理真は? 寝てるの? あれさんも?」
やはり、新潟県警捜査一課の紅一点、丸柴栞刑事その人だった。
話を聞くと、理真から連絡を受けた丸柴刑事は数名の刑事を引き連れ、公園のそばで待機していたのだという。まだ明るいうちに乗り込めば花見客に危険が及ぶ可能性があったうえ、理真の推理で男はこの場を離れないだろうということも承知済みだったためだ。理真がトイレに立ったときに電話を入れておいたのだろう。
事件の経緯はこうだった。
犯人の男は、かつて被害者の経営する会社に勤めていたことがあり、仕事の書類の受け渡しをするため一度だけ自宅を訪れ、書斎にも入ったことがあった。そのときに男は、被害者が部屋にあった小型金庫を開けるところ、さらには金庫の中に少なくない現金が入れられていることを目撃していた。被害者も迂闊だったことは否めないが、男はその解除番号を記憶し、家を出るとすぐにそれをメモに残していた。
程なくして男は仕事が嫌になって退職することになったが、それから数ヶ月経ったある日、かつての勤め先の経営者宅前を通りがかったとき、庭に足場が組まれているのを目にした。その足場の直上には、一度だけ入ったことのある書斎の窓がある。男は金庫の番号を書いたメモを未だ自宅に保管しており、しかもまだ失業中の身だった。経営者が家政婦と二人暮らしであるということも知っていた男は、襲い来る誘惑に抗うことが出来なかった。
深夜、家の窓のどこからも明かりが漏れていないことから、居住する二人とも寝静まったものと判断した男は計画を実行に移す。足跡を残さぬよう芝生だけを踏んで庭に入ると、足場に上って窓ガラスを割り、鍵を開けて書斎に侵入した。目当ての金庫を前にした男は、ここで人生最大のミスを犯したことに気付く。解除番号を書いたメモを自宅に忘れてきてしまったのだ。唖然となり立ち尽くしていた男は、気配を感じて振り向いた。経営者が書斎に入ってきたのだった。どうやら彼も花粉症に悩まされ寝付きが悪くなっていたようで、物音を聞いて目を覚ましてしまったらしい。侵入者と遭遇して悲鳴を上げた経営者を前に、男が犯す人生最大のミスは上書きされることとなった。気が動転し、用意してきたナイフで元雇い主の腹部を突き刺してしまったのだ。
被害者が床に倒れた直後、階下から声が掛けられた。家政婦のものだった。男は窓からの逃走を余儀なくされたが、手ぶらで帰るわけにはいかないとばかりに、狙っていた金庫を窓から投げ落とした。金庫としては小型とはいえ、外寸で縦三十センチ、横四十センチ、高さ二十センチの大きさがあり、重量が二十キロもあるそれを抱えたままでは、窓を抜けて足場を伝うことはさすがに不可能と判断したのだ。二階から落とされた金庫は土の地面に落下し、跡をつけることとなった。ちなみに家政婦は、雇い主から書斎にだけは入ることを禁じられていたため、この金庫の存在は知らなかったということだ。庭に付いた跡を見ても、何のものか分からなかったとて無理はない。
落とした金庫を抱え上げて逃走した男だったが、家政婦の110番通報が早かったため、現場周辺にはすでにパトカーのサイレンが聞こえていた。さらに、その音で起こされた近所の住人たちが野次馬となり、現場周辺に集まりつつもあった。
殺人事件が発生した現場付近から遠ざかるように金庫を抱えて歩く男。野次馬の注目を集めることは間違いなく、現場周辺を慌ただしく行き交う警察官に目撃されでもしたら、職務質問を受けてしまうことは火を見るよりも明らかだ。さらには、金庫自体も、数キロ以上離れた自宅アパートまで抱えて帰るにはあまりに大きすぎ、そして重すぎた。そもそも当初の計画では金庫を持ち運ぶ予定などなかったのだ。男は金庫を持ち帰ることは諦め、とりあえずどこかに隠すことにした。その場所として選ばれたのが、現場からそう遠くはないが、付近に民家がないため野次馬も出ていない暗く静かな公園だった。
計画はこうだ。公園出入り口近くの地面に金庫を埋めて一旦帰宅。解除番号を書いたメモを持参してとんぼ返りし、改めて中身を回収する。
最初は素手で地面を掘っていたが、思いのほか埒があかないため、立ててあった看板を引っこ抜いてスコップ代わりに使った。金庫が埋まった分、上に被せた土が盛り上がってしまったが問題はないと判断した。埋めた場所の目印にもなることだし、構うものか。ひと仕事終えた男は手ぶらのまま、野次馬たちの中を通り抜け、何食わぬ顔で悠然と帰宅した。土で汚れた手はポケットに入れていたし、なるべく外灯の明りの届かない暗がりを選んで帰路に就いた。幾度かすれ違った警察官が彼を見過ごしてしまったのも、やむを得ないことだっただろう。
今度は間違いなく解除番号を書いたメモを懐に忍ばせた男は、現場で金庫が開かなかった万一の場合を考え、金庫が入る容量の鞄と、タオルも一枚持って公園に向かった。夜明けまではまだ数時間あり、外はまだまだ暗い。事件直後に比べれば野次馬の姿もぐっと少なくなり、深夜ということで警察の聞き込みも本格的に始まってはいなかった。予定外のトラブルに見舞われもしたが、計画の修正はうまくいったと言っていいだろう。男はほくそ笑んだ。
だが、公園に舞い戻った彼を待っていたのは絶望だった。あろうことか、こんな深夜から花見の場所取りをしている酔狂な人間がいたのだ。金庫を埋めるときは公園内は確かに無人だったため、入れ違いになってしまったのだろう。無職の彼は曜日感覚がなくなり、日付が変わってその日が日曜日であることに思い至らなかったのだ。
園内に照明はないが、男が金庫を埋めた位置は出入り口の近くだったため、道路の外灯が照らす範囲にかろうじて入っている。だからこそ男も手早く金庫を埋めることが出来たのだ。
見ると、気の早すぎる場所取りは、ライトを持ち込んで本を読んでいるようだ。が、金庫を掘り出すなどという目立つ行動をしてしまったら、間違いなく気を引いてしまい、その一部始終を目撃されてしまうだろう。向こうは女ひとりのようだ。いざとなれば力尽くで何とか出来ないではないが、まだ事件の余韻が残る時刻。騒ぎの音や悲鳴を聞きつける野次馬――最悪警察官が残っていないとも限らない。男は早すぎる場所取り客を呪った。かといって、まごまごしていたら夜が明け、場所取りの花見客は増えていく一方だろう。このまま放っておき、花見客の誰かに金庫を掘り起こされでもしたら……。最悪、現金は諦めきれたが、素手でべたべたと触った金庫が警察の手に渡ることだけは絶対に避けねばならなかった。タオルを持って来たのはそのためだった。男は覚悟を決めた。
一旦自宅に戻りトイレを済ませた男は、レジャーシートなど持っていなかったため、引き剥がしたベッドシーツと、金庫を入れる鞄とタオルは持ったまま公園に取って返した。あたかも自分も花見の場所取りであるかのように装い、金庫を埋めた地面の上にレジャーシート代わりのベッドシーツを敷いて、どっかと腰を下ろすと、首にタオルをかけ、ゴールの遠い長期戦に臨む体勢を整えたのだった。
「他の花見客はみんな帰って、私たちだけが粘ってたけど、とうとう痺れを切らして金庫の掘り出しにかかったのね。もう体力的にも精神的にも限界だったんだろうね」
「そうね、残っている花見客は女性三人で、しかもそのうち二人は寝てるから、何かあっても対処可能だと判断したんでしょうね」
男が連行されていくと、理真と丸柴刑事は意見を述べ合った。
「ということは」と私は、「理真は、犯人を油断させるために狸寝入りをしてたってことなんだね」
「最初はそのつもりだったんだけど、本当に寝ちゃってた」
「おい」
「だって、いい感じで酒が入って、気温も暖かくて、気持ちよかったんだもん」
「まあ、分からんでもないけど……」
私は、この騒動の中でも未だ気持ちよさげに眠っている能登亜麗砂を見下ろした。
「でも、今回はあれさんのお手柄だったわよね」と丸柴刑事も熟睡中のお弁当屋の寝顔を見て、「あれさんが深夜から場所取りに来てなければ、犯人はさっさと金庫を掘り出して現金を抜き出すか、金庫自体を鞄に入れて逃走していただろうからね。もしそうなっていたら、犯人に辿り着くまで相当苦労したはずよ。場合によっては逃げ切られてたかも」
と、その亜麗砂が、がばりと起き上がった。寝ぼけ眼で私たち三人を順に見上げて、
「ん? どうしたのみんな? なんで丸ちゃんが……?」
ふわぁ、と大きな欠伸をした。
「綺麗だね」
理真は上を向いた。金庫が埋められていた現場には規制線が張られ、警察が持ち込んだ照明機器によって真昼のように照らされている。その明りはここにも届き、桜の木を彩る絶好のライトアップとなっていた。
「よし、理真ちゃん、由宇ちゃん、飲み直そうか」
完全に覚醒したのか、亜麗砂が意気軒昂として立ち上がった。
「いいね。夜桜を見ながら一杯、最高だね。ひと眠りして気分もすっきりしてるし」
理真も元気だ。私だけ寝てないのだが。
「ちょっと」と、それを聞いた丸柴刑事が、「現場検証真っ最中の隣で、鑑識の照明をライトアップに使って夜桜花見と洒落込もうとは、なんていう……」
「まあまあ、丸姉」理真が彼女の肩と、ぽんと叩き、「事件が無事解決したのは、あれさんのおかげじゃない。少しくらい大目に見てよ」
「丸ちゃん、お願い!」
亜麗砂も女刑事を拝んだ。
「もう……」とため息をついた丸柴刑事は、「ちょっとだけだからね」
そう言い残すと踵を返し、現場に向かって歩き出した。
「丸ちゃんも、仕事が終わったら合流してね」
背中に掛けられた亜麗砂の声に、丸柴刑事は片手を挙げて答えた。
私は改めて頭上を見上げた。夜空を背景に、ライトを浴びて艶めく桜は、眠気を吹き飛ばすくらいに美しかった。