「早すぎた場所取り 第一回」 庵字 【本格ミステリ】
「おーい、理真ちゃーん、由宇ちゃーん、こっち、こっちだよー」
大勢の花見客の中で、能登亜麗砂が手を振っていた。もう片方の手にはビール缶が握られており、若干頬も赤い。すでにいい感じに出来上がっているようだ。
新潟市内にある大きな公園の一角であるここは、毎年桜の季節になると花見スポットとして賑わいを見せる。桜の木は、その艶やかな立ち姿はもちろん、舞い落とす花びらも地面に桜色の絨毯を敷き、さらには公園脇の水路に花筏を浮かべ、様々な形で人々の目を楽しませている。
「ごめんなさいね」「通りますね」と手刀を切りながら、理真と私はレジャーシートに座る花見客の間を縫って、亜麗砂のもとに辿り着いた。彼女が敷いている猫のキャラクターが描かれた、かわいいレジャーシートの上に私たちが腰を下ろすと、
「まま、駆けつけ三杯とは言わないけど、とりあえずこれでやっちゃって、やっちゃって」
亜麗砂がビールのロング缶を手渡してきた。礼を言って受け取り、
「あれさん、ひとりで飲み過ぎじゃない?」
理真が亜麗砂を愛称で呼びながらプルタブを引き起こした。私も缶を開けたのを見ると、
「じゃあ、名探偵とワトソンがそろったところで、かんぱーい」
赤ら顔の亜麗砂がビール缶を掲げ、私たちも缶を打ち合わせた。「ちょっと、あれさん」と理真はぐるりを見回したが、周囲の花見客は花を見るか飲み食いすることに完全に集中を奪われているようで、今、亜麗砂が発した言葉を聞き留めた人はひとりもいなかったらしい。
今、亜麗砂が口にしたように、確かに安堂理真は探偵で、私、江嶋由宇は彼女のワトソンをしているが、理真は作家、私は彼女が住むアパートの管理人というのがそれぞれの本業だ。それでは探偵業は副業なのかというと、それも違う。理真は(当然私も)探偵活動で収入を得ているわけではないからだ。あくまで警察捜査に手を貸す素人探偵でしかない。
「ああ、ごめんごめん」
亜麗砂は真っ赤な頬に手を当てると、ちろりと舌を出した。理真が素人探偵としての顔を持っていることは、警察も含めてごく一部の人間しか知らないし、こちらから教えてもいない。この酔っぱらい――もとい、美人の能登亜麗砂は、そのごく一部の人間のひとりだ。彼女は見た目バリバリのキャリアウーマン風だが、さにあらず。新潟市内でお弁当屋を経営しており、さる事件が縁で理真と知り合い、友人となったのだ。今日は、そんな亜麗砂に誘われ、こうして花見に出向いてきたというわけだ。
「丸ちゃんたちは、残念だったねー」
亜麗砂が酒臭いため息を吐いた。そう、本来であれば、この花見の席には、理真と亜麗砂共通の知り合いである丸柴栞刑事をはじめ、新潟県警の女性警察官たちも何人か参加する予定だったのだが、
「仕方ないよ、急な事件が起きちゃったんだし」
理真の言ったとおり、昨日遅くに事件が発生し、警察官たちは皆、そちらの捜査に加わるため花見への参加はキャンセルとなった。結果、店を休んだお弁当屋と作家とアパート管理人という、女三人だけでの花見の席となってしまったのだ。ちなみに亜麗砂のお弁当屋はビジネス街にあるという立地から、顧客のほとんどが会社員で占められるため、日曜日を休みにしても売上げにほとんど影響はないということだ。
「携帯のニュースで見たけれど、現場はこの近くなんだよね」
亜麗砂は周囲を見回した。私もざっとだが朝刊に目を通してきた。確かに事件現場はここからそう遠くないが、さすがに目視で確認できるほどではない。
第一報のためか、新聞には、民家で死体が発見されたという概要しか書かれていなかったが、理真のもとに捜査依頼が来ていないということは、そう込み入った事件でもないのだろう。
「素人探偵」という言葉の響きから察せられるように、探偵としての理真が向こうに回す事件というのは、いわゆる「不可能犯罪」に属するものに基本限られる。恐ろしく常軌を逸した、もしくは特別不可解な謎が存在する事件でもなければ、県警が理真に捜査協力を取り付けることなどほとんどない。
「それにしても、あれさん、こんないい場所よく取れたね。もしかして、随分早くから場所取りしてた?」
缶ビール片手に理真は顔を上に向けた。確かに理真の言葉どおり、私たちのいる場所は桜の木のすぐ隣で、頭上に伸びた桜の枝がよい遮光になるため、多少日差しが強く照りつけても眩しさや暑さを感じることがない。花見をするには絶好の場所だ。
「そうなの、一番乗り。暇つぶしに本とライトを持ち込んで、準備万端で乗り込んだんだよ。まだ暗かったから」
亜麗砂は得意気な顔をして胸を張った。だからこんなベストポジションを確保できたのか。今日の天気こそ花見日和の快晴だが、昨日は夕方に雨が通ったこともあり気温も低く、夜中ともなれば水たまりに薄氷が張っていたほどだったろうに。花見に賭ける女の生き様を見た。
この公園では、花見をするに当たっていくつかのルールを科している。「ゴミは持ち帰る」といった常識的なことをはじめ、「場所取りをする際は、必ず人がいなければならない」というものもある。そうしないと、前日の夜にシートを敷いて場所取りを済ませておき、翌朝になって悠々と花見に向かうという極端なことをする人が出てくるためだ。もし、人が不在でシートだけが敷かれている状態の場所取りがされていた場合、そのシートは容赦なく引き剥がしてよいことになっており、そのことは公園出入口に挿してある立て看板に明記されている。絶好の花見ポジションを得るためには、寒風吹きすさぶ真夜中を屋外で過ごすという、過酷な試練を乗り越えなければならないのだ。
私はシートの上に投げ出してある、ブックカバーのかかった文庫本を取り上げた。亜麗砂が場所取りの間、暇つぶしに読んでいたというのがこれだな。知らない作家の本で、『どっきり! 本能寺』という変なタイトルの短編集だった。ナンセンス歴史コメディという変わったジャンルの小説らしいが、表題作である一編を少し読んでみよう。
「光秀、猿めに電報を打てい」
「して、文面は?」
「『ノブナガ ウタレル』とせよ。奴め、血相を変えて飛んでくるに相違ないわ」
「なぜ、そのようなお戯れを?」
「光秀、今日は何月何日じゃ」
「はあ、四月一日にございます……まさか?」
「そう、エイプリルフールではないか」
「なぜターゲットが羽柴どのなのです?」
「なぜって、この行事の名称に奴が出てくるではないか」
「……はあ?」
「気づかぬか。『猿』と入っておる。わはは」
その瞬間、明智光秀の胸の内に湧き上がった黒い熾り。それが殺意でなかったと誰が否定できようか。
光秀が「それ」を押さえつけておけたのは二月が限界だった。天正十年六月二日、明智光秀謀反。世に言う「本能寺の変」である。
なんだこれ。バカなんじゃないの。書いたやつの顔が見たいわ。私は文庫本をそっと閉じてシートに置くと、亜麗砂に、
「でも、そんな早くから場所取りしてる人なんて、あれさんの他にはいなかったんじゃないですか?」
「ううん、そうでもなかったよ。私のすぐあとにも来た人がいたよ」
「どこの場所の人ですか?」
と辺りに目をやると、
「うんとね……あそこ」
亜麗砂が指をさした。
「えっ? あの場所? 間違いないですか? あれさん、相当酔ってるんじゃ?」
「失礼な。絶対に間違いありません」
座った目で亜麗砂は言い切る。理真を見ると、その表情からして彼女も私同様に疑問を抱いたらしい。なぜなら、亜麗砂が指し示したそこは、決して〈花見に絶好のポジション〉とは言い難い場所だったからだ。公園のほぼ端の出入り口近くで、どの桜の木からも遠く離れているうえに、地形的にも問題があった。シートの一部が盛り上がっているのだ。シートがそうなっているということは、そもそもその下の地面が隆起しているということになる。わざわざあんなところを選んで、しかも夜明け前から場所取りをするなど、ちょっと信じられない。さらに、そこに座っている人物も妙だった。
「ひとりだけですか?」
「そう。あの男の人が場所取りをしてて、それからずっとあのままだよ」
私の借問に亜麗砂が答えたように、そのシート上に座っているのは、三十代程度に見える男性ひとりだけだった。しかも、そもそも、その男性が花見をしているのかすら怪しい。というのも、その男性は花を見るでもなく、かといって花そっちのけで酒を浴びるでもなく、不陸(地面が水平でないこと)状態のシート上に、どっしりとあぐらをかいているだけなのだ。というよりも、酒を浴びようにも男性の鎮座しているシート上には、ビール缶の一本どころか、置かれているものが何もない。弁当や水筒すらない。
「あれさん、あの人、何時からあそこにいるの?」
理真が訊くと亜麗砂は、うーん、と人差し指をあごに当て、思い出すように上目遣いになって、
「朝の三時くらい?」
午前三時は朝じゃなくて、ぎり深夜だと思うのだが。待て。ということは、亜麗砂はそれよりも早くから場所取りをしていたことになるが? そんなに暇なのか、この人。
「今、何時?」
理真が腕時計に目を落とした。私も自分の腕時計を見ると、午前十一時半。
「あの人は八時間以上も、ずっとあそこに座ってることになるよ?」
理真は目を丸くした。当然私も驚く。が、亜麗砂は、
「ん? そうだね。でも、それが何か?」
酔いが回って正常な思考が出来なくなっているらしい。彼女は「ぷはぁっ!」と気持ちよさげな声を上げて――この日何本目になるのか分からないが――缶ビールを空けた。
「いやいや、どう考えてもおかしいでしょ。八時間もああしてるなんて……」理真は改めて男性に目をやってから、亜麗砂に視線を戻して、「でも、さすがにトイレには行ってるでしょ。それと、もしかしたらどこかで飲食を済ませてるとか」
「ううん。あの人、私が見ると必ずいるから、数分くらいのトイレは行ってるかもしれないけど、どこかに出掛けてるとかは多分ないよ」
八時間以上も飲み食いしていないというのであれば、トイレも一回か二回だけで済むかもしれない。それにしたって……。
「あー、ビール切れちゃった」亜麗砂は保冷バッグを覗き込んで、「私、買ってくるね」
と立ち上がろうとしたが、
「危ないよ、あれさん。私が行くから」
私は千鳥足の彼女を支えた。亜麗砂を座らせるのを手伝う理真が、
「ねえ、由宇、ついでに、あの男の人のこと見てきてくれない?」
「見るって、何かあるの? 確かに変な人だけれど」
「うん。気になる」
「何を見てくればいい?」
「本人の様子とか、服装とかにおかしな点はないか。あと、シートやその周辺もね」
「オーケー」
人差し指と親指で輪っかを作り、私は立ち上がった。