「しだれ桜が泣いている」 Kan 【純文学】
桜の開花を知った時、どうせ散ってしまうのにどうして花は咲くのだろう、と僕は思った。
東京の大学に入学した僕は、形式的で退屈な入学式を終えて、その後に二日ほど大学に通った。教科書も買った。するともう日曜日になってしまった。
大学生活、はじめての休日だった。僕は、アパートの狭い部屋に寝転がっている。あたりを見まわして、この部屋に生活に必要なものが何も揃っていないことに気づいた。なるほど。やらなければいけないことはたくさんある。しかし、やる気が起きなかった。
(面倒くさいなぁ)
ため息をついた。
昨日、購入したばかりの教科書に目を通しても、意味は分からなかった。そこにあるのは地理学の説明だった。
僕は、そのページを開きながら、これからどんな学生生活がはじまるのか、ぼんやり考えていたが、将来のことなどまだ何も想像もできなかったし、これと言った理由もないのに、なんだか、ひどく落ち込んでいた。
僕には、学生生活を謳歌することが虚しいことのように思えた。人はいずれ死ぬのに、どうして頑張らなければいけないのだろう、という気がした。
それに、都会の人は冷たい気がして、街には孤独がはびこっている気がして不安だった。
僕は、田舎のカビの生えた人間関係が嫌で、都会に飛び出した。しかし、都会にも自分の居場所はないような気がした。
寝返りを打って、まだカーテンを取り付けていない窓の外を見ると、青い空が広がっていた。
(空はきっと純粋だ)
せっかく長野の田舎から出てきたのだから東京をもっと堪能しなければ、と思った。そこで僕は外出することにして立ち上がり、コートを羽織った。
僕が、アパートから出ると、そこは汚らしい路地だった。街路のあちこちから下水の匂いが立ち上っていて、ゴミがいくつも路面に落ちていた。
ひしゃげたコーラの空き缶。卑猥なチラシ。バナナの皮。煙草の吸殻。
見上げると、くすんだ色のビルに囲まれていて、空が小さくなり、閉塞感があった。全体に空気が悪い気がした。
僕の目には、東京の街は歪んでみえた。
大きな通りに出ると、車が彼方まで列を成していた。僕にはそれが象の群れのように見える。
最寄りの駅に向かい、ホームで電車を待った。やってきた電車に乗り、それが走り出すと、たちまちよどんだ世界から抜け出したような気がした。景色は後方に流れ去って、走行音が響き、空が大きく感じられる。少し気持ちが和らいだ。
そうだ。なにごともやってみなければわからない。明日のことなんて誰にも分らないのかもしれない。それにしても、なぜ僕はこれからはじまる学生生活にこんなにも絶望しているのだろう。それが僕自身にも分からなかった。
電車の中には、サラリーマン風の人もいれば、杖をついた老人の姿もあった。小学生の女の子が、忙しなく走り回っていた。
僕は、ある駅で降りた。そこには大きなビルがいくつも建ち並び、お洒落な店が軒を連ねていた。誘惑に溢れている街。簡単に言えば、若いカップルが手を取り合って、スキップをしながら歩いていそうな、おちゃらけた街だった。ここなら色々なことを忘れて楽しめる気がした。
ところが、僕は駅の喫茶店に入ると、店員のなんだか上品すぎる作り物めいた物腰と、素早い動作が機械的に感じられて、それがとても嫌だった。僕は珈琲を急いで飲むと、外に出てしまった。
(人混みから離れよう……)
僕はそう思った。
しばらくビル街から離れると、東京にもこんなところがあるのかと思うほど、物静かな住宅街に入った。
その中をしばらく歩くと、遊具がある公園があり、そこから階段が続いていて、その上に寺があるようだった。住宅街の中にあるにしては、大きな寺のようである。
見れば、人もいないのにブランコが大きく揺れている。僕は妙な気がした。
階段をのぼると、そこに立派な山門があり、その先には庭園と本堂があった。
「あっ、しだれ桜……」
僕は思わず叫んだ。
しだれ桜の花が、儚げに咲いている。それが朦朧と輝いて、まるでピンク色の霧があたり一面に立ちこめているように見える。
しかし、これもあと幾日かで散ってしまい、土にかえることだろう。それは虚しい事実だ、と思った。もちろん、そののちには、八重桜や藤の花がこれに代わって、この寺の庭園の景観を賑わすであろう。しかし、それはもうしだれ桜の花ではないのだ。
僕が、夢のように咲き誇る、しだれ桜の可憐な花の下をくぐると、その花たちが、まるで我が身に降ってくるようだった。空の青色に重ねて見れば、その薄いピンク色がくっきりと際立って見えた。
しかし、しだれ桜はなんだか泣いているように見えた。いつかは散ってしまうことを知って、咲いているのだろうか、と思った。それを見て、僕はまたひとつ虚しくなった。僕が孤独なら、この花たちも孤独なのだと思った。
僕は、そこにベンチがあったので、そこに座ってじっと桜を眺めていた。どこからか、インコが飛んできて、枝にとまった。よく似合っていると思った。
それからどれほどの時間が経ったのか、いつのまにか、僕はベンチの上で眠ってしまったらしい。はっと目が覚めると僕がいるのは、夕焼け空の下だった。しだれ桜は黒い影となって、風にそよいでいた。風の音がどこか冷たかった。僕は暗闇の中に取り残されてしまったような寂しさに襲われた。
僕はその時、桜の木の下におかっぱ頭の赤い洋服の女の子がいることに気づいた。小学生二、三年生ぐらいだろうか。女の子はこちらに歩み寄ってきた。
「お兄さん、一緒にあそぼうよ」
僕は驚いて立ち上がり、女の子に話しかけた。
「こんな時間にどうしたの? もうおうちに帰らないと……」
しかし、女の子はかぶりを振った。
「ねえ、おにいさん、おそぼうよ」
僕は、その女の子の顔をみた。とても可愛らしかった。
「もうお家にお帰り。夜になる前に、帰らないとお父さんやお母さん、心配するよ」
「帰らないわ」
「どうして?」
「だって、お兄さん、悲しそうな顔をしているもの。お兄さんを残して、私、ひとりで帰れない」
「僕はそんなに悲しそうな顔をしているかな」
「うん」
「でも、もう帰りなよ。お兄さんのことはいいからさ」
「そうね、私にはお家があるものね。ねえ、お兄さんもお家に帰りなよ。きっとお家はあるよ」
そう言うと、女の子はさっと後ろを向いて、暗闇に走って行った。
女の子は消えてしまった。
どこへ消えてしまったのだろう。僕は不思議な気持ちになった。そして、僕はこう思った。僕には帰るべき家なんてあるのかな、と。
風が吹いてきた。僕は途端に怖くなった。さまざまな不安が込み上げてきた。そうだ。僕に居場所なんてあるのだろうか。すべてのものが虚しさに満ちている。思わず、あっと叫びそうになった。
僕ははっとして瞼を開き、ベンチから起き上がった。青空が広がっている。まだ昼間だった。
目の前には年老いたお坊さんの姿があった。坊さんは、杖をついて、しだれ桜をじっと見つめている。お坊さんは僕の方をちらりと見て、
「お若い方、お目覚めかな」
と言った。
「僕は眠ってしまったようですね」
「大分、うなされていましたな」
とお坊さんは言った。
僕はなんと答えてよいか悩み、
「ただ、なんとなく、寂しい気がしたんです」
と答えた。
お坊さんは微笑んだ。
「さよう。あなたはその寂しさから、このしだれ桜に呼ばれたのだ」
僕はそうかもしれない、と思った。そしてしだれ桜を見つめ、
「この花は泣いていますね」
と言った。
「それはあなたの心が泣いているからですな」
そうか、花が泣いているように見るのは、僕の心が泣いているからなのか、と僕は思った。
「こんなに綺麗な花もいつかは散ってしまいますね」
「その通り、この世に散らない花はありません。しかし散ってしまう心配をするよりも、今、存分に咲ききることが大切なのです」
「そうなのですか」
「だから、あなたも散ることより、今、咲ききることを考えなさい……」
「咲ききること……」
僕は、お坊さんにお礼を言って、階段を降りた。僕は確かに、さまざまな雑念に悩まされていた気がする。そして、それは今も変わらないが、きっかけをつかんだ気がする。
(そうだ。これから大学生活が始まる。不安も多いかもしれない。どんなに頑張っても、どうなるかは分からない。だけど、今を必死に生きぬくことが大切なんだ)
僕はそう思って、公園に降りた。
……先ほどのブランコはもう揺れていなかった。