与り者
与り者
真夏を前に日は長い。
永塚が現場から帰って来た時も、まだ木漏れ日が飯場に木々の影を落としていた。
永塚は、もう明日の事を気にしていなかった。とにかく、中森を介してだが、高沼には伝えたのだ。
部屋に行くと一夫はいなかった。ランドセルもなかった。いつも一夫は永塚を待って夕飯を食べる。
永塚は食堂に行ってみた。
「大工さん、一夫ちゃん帰ってきた?」
お孝さんが永塚に言った。
永塚は、それで一夫が帰って来ていないことが分かった。
「あ、今日は水さんのとこに」
とっさに水本の名前を出して、ごまかしてしまった。
みんな、永塚が水本の伝手で、ここに来たのを知っていたし、水本が永塚の妹と関係があると言う噂もあった。実際、水本が一夫を連れて帰ることもあったが、さて、どこに泊まったものか。いずれにしろ、誰もそれ以上、聞くことはなかった。
「大工さん、あんまり一夫を怒んねえでな」
いつものように酒を飲んでいた石山や松夫の弟たちが永塚に言う。
永塚は、いつもなら「うちのことだから」と癇癪を起こして、大きな声を出すのだが、その声が出なかった。
水本が一夫を連れて行った事になり、永塚はそのまま一人、晩飯を済ました。
永塚は部屋に戻りがてら、中森の部屋を覗いた。しかし、松夫が上がり框に座っているのを見て部屋に戻った。
「大工さんも、一夫が水さんのとこさ行くなら、先に言っとけばいいのさ。うちのも心配したのに」
松夫が話し、中森は適当に相槌を打っていた。
部屋では、いっちゃんと子供たちが、丸テーブルを囲んで夕飯を食べていた。
一夫が帰らないと聞いて、中森は明日のことに関係しているのだろうと思っていた。
松夫が部屋に戻ると、中森は高沼の家に電話をした。ママさんが出たので昭に代わってもらう。
「明日、大丈夫かな。惚けるのは駄目だよ。一夫が小学校から帰って来ないみたい」
受話器の先で昭が声を上げた。
「後から行くね」と言って電話を切った。
それから、中森はそっと食堂の二階に上がった。
外階段を、誰かが上がってくる音で岩田は入口を見た。中森が引き戸のガラスを小さく叩いた。
岩田は小さく礼をした。中森は部屋に入った。
「中森さん、珍しいですね。どうしました」
「今、いい」
「ええ」
「岩田さん、一夫が帰って来ないんですが、何か知らない」
中森は遠慮なく核心を言った。
岩田は中森と話した事がない。岩田の作業は、トラックの運転と物運びで地中に降りる事はなかった。中森は若いが、地中で主な作業をすることが多かった。中休みや昼も、話す相手が違った。岩田から見れば、ノーマークのただの若者だった。
「なぜ、私の所に」
「紙袋ですよね」
岩田が来た訳を知る者が、ここに一人いた。
「大工さんから、話は聞いてました。けど、岩田さんを気にしていたのは、多分おいらだけですよ。大工さんにも言ってないです」
「そうですか。中森さんもご存知だったのですか。全然、気付きませんでした」
「紙袋の中身は、社長のところにいきました」
「そうですか」
「昨日、大工さんが浅草で会った知らない男から、中身を返すように言われたみたいです。当然、待ち構えていたのでしょうけどね。大工さんは、金を社長に預けたと言ったようです。明日、事務所に金を取りに来ると言っています。」
中森は直接、金には関係していないように言った。
「あれって、岩田さんのもの?」
「いや、私は単に集金係で、それを小林と言う男に渡すだけです。それを寿司屋に忘れたのです。ここを見つけ、永塚さんの事を小林に伝えました。後は小林の方で動くと言っていました」
「やはり、タクシーから?」
と聞くと、岩田は笑って頷いた。
「一夫くんは、それでなのでしょうかね。小林が何を考えているのかは分かりません。社長さんは金を用意できるのでしょうかね」
岩田はタバコに火を点けた。
「とぼけるのは駄目、と、さっき電話しておいたけど分かんないです。大工さんが拾った…、いや一夫が持って来たんですけど。大工さんも気付いたのは翌日で、中身を見て怖じけづいたんでしょう。変なのも入っていたし。おいらたちじゃ、扱える金額じゃないですから、それで社長に。でも、社長は早速、当座に入れたみたいですね。全額は無理かなと思います」
中森は苦笑してしまった。
岩田はしばらく逡巡した後、大きくたばこの煙を吐き出した。
「私が置き忘れたのも悪いんでしょうね。もし、足らなければ私も出しましょう。一度は私も弁償しようと小林に言ったのですが、小林はいいと言ったんですよ」
「そうですか。社長に鎌を掛けて聞いてみます。やはり、駄目だったら岩田さんのこと出しますね」
「ええ、構わないですよ」
大部屋を出ると永塚の部屋に行った。向かいの部屋の兄弟は、まだ食堂で飲んでいた。
「中森さん、どこに」
永塚は、また中森の部屋に顔を出していたのだった。
「声、大きいって」
中森は眉をひそめた。
「一夫、帰ってないんだよね」
「そう、それなんですよ」
その言葉に、ちょっと呆れたが、中森は微笑みを返した。日頃、永塚の相談相手は水本だったが、今回は何も伝えていなかった。何となく話しやすいのが、中森だった。飯場の住人の中では頭が回る。
「電話したから、ちょっと社長のとこに行って来ます。悪いけど大工さん、金出して」
「ちょっと、減ったが」
と言って、永塚は輪ゴムで留めた三束とばらを押し入れから取り出し、中森に渡した。
中森は、ばらを永塚に返した。
「使ったのは、いいって言ったんだよね」
ばらと言っても、七、八十万はあった。
「一夫には何もしないって。もう今日は、どうもなんないから寝たほうがいいよ。明日は休まないでね」
永塚がまだ「大丈夫かな」とくどくど言うので、
「大工さんも社長のとこ、行く?」
と聞くと
「いやいや、お願いします」と言った。
中森は、大丈夫じゃなけりゃ、また顔を出す、と言って高沼の家に向かった。
中森が抜いた二束は机に入れたままだった。
高沼はいつものように浴衣姿で水割りを飲んでいた。昭は座ってビールを飲んでいた。卓の上には料理が並んでいた。
「中ちゃん、晩飯は」
ママさんが聞いた。
「まだ」と言うと中森の分も持ってきた。
「ビールを飲んじゃいな。泊まればいい」
と、言ってコップを持ってきた。
「一夫が帰って来ないんだって」
高沼が坐椅子に、もたれながら言う。
「人質かな。でも、悪さはしないと思うけど」
それから、永塚から預かった三つの束を卓に置いた。
「社長はどう。あんまり、とぼけられないよ」
「半分くらいならって。新井さんに聞いた」
代わりに昭が答えた。昭が事務員の新井に、残高と直近の支払いを聞いておいた。
新井は年のいった女性だが、経理を一番把握していた。足らないのは明らかだから、身内で駆け引きをしてもしようがない。
「それで足んない分を出すと言う人がいるんよ」
「誰」昭が聞いた。
「岩田さん」
「なんで」と昭が聞いた。
「だって、岩田さんが金を忘れた張本人だから。岩田さんが渡す相手に探すように言われたらしい。やっぱり、タクシーから探して飯場に来たそうだよ」
昭は現場で会っていたが、中森と同じく話すことは少なかった。高沼は水本から聞いていただけだった。
「中森は、なんで分かった」
高沼が中森に聞いた。
「場所は、すぐにばれるって分かっていたじゃないすか。岩田さん、その頃に来たからね」
中森はビールを口にした。
「本当は、聞く気はなかったけど、一夫に手が出ちゃったみたいだからね。さっき岩田さんに聞いてみた。おいらに聞かれて、びっくりしてたけど。渡す相手だった小林って言う人に、飯場と大工さんのこと言ったみたい。大工さんと岩田さんの話しを聞くと、一夫に悪さはしないと思う。何となくだけどね。ただ、こっちの逃げ場を塞いだだけだと思う」
「いくら位、出せそうだ」
高沼が口を開いた。
「わかんない。ただ、なくした時に小林に弁償するって言ったらしいから、それなりにあるんだと思うけどね。千くらいは出しそうだけど…。ちょっと悪いよね」
高沼が頭で計算しているのがわかった。
「話だと、意外にあっさりと割り引くみたいだよ。大工さんにも使った分はしようがない、とか言ったみたいだし。最初、岩田さんが弁償するって言ったけど、受け取らなかったそうだし、怒りもしなかったんだって。落とし物なんだから、謝礼とでも言って割引いてみたら」
「社長が上手く言えば良いんだな」
昭が高沼に目を向けた。
「よし」
高沼は勝ち味の計算ができたのだろう。はったりも得手にしている。体を起こした高沼の口元が綻んでいた。
中森は社長の家に泊まり、翌朝早く飯場に戻った。