忘れ物
忘れ物
「かずお」
永塚の癇癪が聞こえたのは、翌日の夜だった。永塚の部屋は松夫の部屋の真上になる。
部屋にいた松夫や中森、隣の食堂にまで聞こえた。
(あーあ、また始まった)
住人たちはすっかり慣れていた。怒鳴り声はそれだけで、しばらくして永塚と一夫が食堂に下りてきた。
食堂では、石山と松夫の二人の弟と数人が晩飯を肴に酒を飲んでいた。いっちゃんと通いのお孝さんが、厨房から心配そうに見ている。
「大工さん、だめだ。一夫を怒っちゃ。なあ、一夫」
すでに、酔いの回った石山が笑って言うと、みんなが相槌を打った。
「いや、石山さん、うちのことですから」
「そうか」と言って、石山はあっさりと引き下がる。
中森が食堂に来た頃には、永塚は親子で夕飯を食べていた。中森は素知らぬふりをして飯を食べていたが(まったく、昨日の上機嫌はどこにいったのだ)と思っていた。
それでも、子供は父親の横に座り、俯き加減で飯を食べるのだ。
中森が部屋に戻ると、向かいの部屋では松夫といっちゃん、子供たちが丸テーブルを囲んで夕飯を食べていた。
永塚が中森の部屋に来たのは、ちょうど風呂から上がってしばらくしてだった。
「中森さんちょっといいかな」
外には酒屋の軽ワゴン車が止まり、各部屋を御用聞きに回っていた。中森は酒屋から買ったチョコレートを、現場で使う金づちで割りながら、口にほうり込んでいた。
「どうしたの」
永塚は、部屋に上がり込んだ。
戸を閉めると、紙袋を中条の前に差し出した。
「これなんだがね」
中森は紙袋の中を覗いた。右の眉が上がった。新聞紙に包まれた、札束が見えた。
中森は立ち上がり、窓の鍵を掛けた。
「出してもいい」と永塚に聞いた。
見た目で百万円を輪ゴムで留めた束が新聞紙で包まれていた。千円札、五千円札も切りよく束になっている。
さらに、袋の底には晒しに巻いた匕首があった。匕首を抜いてみた。きずも刃毀れもない抜き身は、曇りもなく、蛍光灯の明かりを反射して輝いた。
「どうしたの、これ」
中森が聞くと、永塚は寿司屋で客の忘れ物を一夫が持って来た、と言った。
「ああ、手癖悪いな」
思わず、小声が出た。
(癇癪で、怒ってばかりいるからだ)
と、言いそうになった。
「三千万くらいかな。結構重いのに一夫、頑張ったね」と言って中森は笑った。
「どうしたらいいかね」
永塚が中森に聞いた。
「寿司屋に返すか、ずらかるか」
「いやいや、おやじにお願いできるかね」
「社長は絶対、懐に入れちゃうよ」と中森は苦笑した。
「中森さん、言ってくれないかな」
「えー、おれ」
永塚は黙りこんでしまった。
「…早い方がいいよね。ちょっと話してみる」
中森の部屋には、夜、事務所から切り替わる電話がある。出稼ぎ者が多い時は、よく田舎から電話がきて、中森が取り次いだ。
中森は高沼の家に電話した。時間は、九時を過ぎていた。
「あら、中ちゃん。どうしたの」
電話に出たのは、ママさんだった。
「ママさん。社長、起きてる」
「起きてるよ」
「今から、行ってもいいかな」
「大丈夫だよ。ご飯は?」
「食べた。じゃあ今から行く」
永塚は聞き耳を立てていた。
「大工さんも行く?」
中森は電話を切ると、永塚に聞いた。
「いやいや、僕は…。中森さん頼みますよ」