幕間ー2
いや、英仏米等の政府の一部は、スペイン政府のこの動きについて、秘かに支援していた、という歴史家さえいる。
かつてのスペイン共和派の支持者達は、ソ連や独のシンパであり、第二次世界大戦に乗じて、ソ連等を支援する活動を展開するのではないか、と英仏米等の政府内には危険視する者がいた。
実際、そのような行動を行った者も、少数とはいえどいるらしい。
このような者が、数十万人単位で、欧州内にいるのは危険だ、西サハラという孤立した土地に送り込まれるのは、むしろ歓迎すべきことではないか、と英仏米等の政府関係者の一部は考え、行動したというのだ。
こうして西サハラに送り込まれたスペイン共和派の支持者達は、どのように数えるかによって、諸説あるが、数十万人単位に達したのは間違いなかった。
この送り込みを、「スペイン版の涙の旅路」と説く歴史家もいる程である。
新しく西サハラに住み着いたスペイン共和派の支持者達、スペイン系の住民は、西サハラの開拓に乗り出すしか無かった。
少し幸いだったのは、沿岸部に住みついた住民で、彼らはタコを中心とする水産(加工)業で何とか食いつなごうと苦心惨憺した。
また、スペイン政府も単に彼らを棄民とするのは躊躇われ、鉱山探査を行った結果、リン鉱山を見つけ出すことに成功し、そのリン鉱山の採掘や、リン鉱石の輸送のための鉄道敷設、更にそれを活用した工業化等にも、スペイン系の住民は乗り出した。
だが、そうなると別の問題が起き出した。
ただでさえ、砂漠地帯で水不足の西サハラである。
そこに数十万人の人口が急増したら、何が起こるか。
1940年代後半になると、数十万人単位で新しく住み着いたスペイン系住民と、旧来からのアラブ=ベルベル系住民の間で、水を巡る紛争が起こり、憎しみの連鎖によって、それは激化する一方になった。
この時、厄介だったのは、スペイン本国にとって、スペイン系住民をスペイン本国に引き取るという発想が、基本的に無かったことだった。
何しろ、彼らは基本的に反政府思想の持ち主であり、本国から追放された面々なのだ。
彼らに本国に帰って来られては、厄介事が起きるのが目に見えている。
スペイン本国は、スペイン系住民を西サハラに定住させるために、スペイン系住民を支援し、アラブ=ベルベル系住民への迫害を本格化した。
更に、スペイン本国には、スペイン内戦による傷が完全に癒えたとは言えず、西サハラ問題に長くかかわりたくない、という発想が生まれた。
少量の出血で済むはずが、傷口が中々塞がらず、しまいには命を奪う大量出血となってはかなわない、という考えである。
それに、彼らは、そもそもが反政府思想の持ち主なのだ。
お手盛りの住民投票が行われ、裏で様々な不正が行われたとも言うが、西サハラ(スペイン領モロッコ)は、西サハラ共和国として独立国となることが決まり、スペイン政府が、独立国になるまでの暫定政府をとりあえずは作った。
独立国となってしまえば、スペインは、西サハラ問題に、基本的にかかわらなくて済むからである。
だが、それに反発する勢力があった。
モロッコやアルジェリアといったアフリカ諸国である。
西サハラ共和国は、本来の住民、アラブ=ベルベル系住民よりも、スペイン系住民が多い国家だった。
そして、西サハラ共和国は、元をたどればモロッコの領土だった。
本来の領土を取り戻すなり、本来の住民が住むべき土地にすべきではないか、という意見が、モロッコやアルジェリアで噴き出すのは、ある意味で当然のことだった。
とはいえ、現在の西サハラ共和国の住民の多数は、スペイン系の住民なのである。
スペイン系の住民は、モロッコ等の意見を拒否した。
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