幕間ー1 西サハラ共和国
幕間になります
21世紀の現在、日本のスーパー等で並んでいるタコの大部分は、西サハラ共和国からの輸入だという。
今でこそ、内戦が終わりを告げ、貧困に未だに苦しむとはいえ、水産物の輸出に加え、リン鉱石の輸出も相まって、それなりに国内が安定するようになった西サハラ共和国だが、民族間の対立により、独立当初は凄まじい内戦を展開する羽目になった。
1960年代、ビアフラと並び、一時、西サハラ共和国内では、内戦による食糧輸入途絶により、多くの餓死者を出す惨状を呈し、「民族浄化」の戦いと呼ぶ者まで出た有様だった。
実際、今や西サハラ共和国に住む住民の9割以上が、スペイン系となってしまった。
かつて、西サハラの住民のほとんどを占めていたアラブ=ベルベル系の住民は、ほとんどが死ぬか、モロッコ等へ亡命して行ったのだ。
何故、西サハラ共和国が、そのような内戦を展開したのか、それは直接的には、スペイン内戦と第二次世界大戦に遠因が求められる。
かつて、西サハラ共和国の土地は、その気候風土から、元々の人口が極めて希薄で、定住者はほとんどおらず、主に遊牧民が生活している場所だった。
1880年代初頭、現在の西サハラ共和国領については、世界的にモロッコ王国領と考える者が多かったが、モロッコ王国が実効支配を確立しているか、というと当のモロッコ王国政府の高官内でも疑問を呈する者が多い有様だった。
そして、欧州諸国のアフリカ分割の流れの中で、1886年にスペイン領モロッコとして、スペインが西サハラ共和国の土地を植民地として獲得する。
その後、1930年代末までは、西サハラの本来の住民であるアラブ=ベルベル系が、時折、武装蜂起を起こすものの、そもそもの住民数が少ないために、所詮はいわゆる小規模紛争レベルで、スペイン軍が鎮圧してしまい、一応は安定した、といえる状況にあった。
だが、それを一変させる事態が起きた。
スペイン内戦である。
周知のように、1936年のスペイン議会総選挙の結果、左派が勝利を収めたものの、その結果に右派が不満を持ったことから、右派はフランコを指導者としてスペイン国民派を形成し、内戦を起こした。
それに対し、正統政府である左派は、スペイン共和派を形成し対抗した。
スペイン国民派には、英日(伊米)が味方し、スペイン共和派には、ソ(独)が味方したことから、このスペイン内戦は、第二次世界大戦の前哨戦といわれることがある。
最終的に、1937年12月、スペイン国民派が、スペイン内戦に勝利を収めるのだが、国民派の起こした白色テロ、共和派の起こした赤色テロは、双方ともに凄まじいものがあり、スペインの国民の間に深い分断を残した。
そして、敗北した共和派の支持者達には、過酷な運命が待っていた。
国民派の迫害を怖れ、多くの共和派の支持者達が亡命を策し、難民と化したが、国内の混乱を怖れる仏等はそれを冷たく拒み、積極的にスペインに送り返した。
送り返された難民たちが、かつて住んでいた土地に還ろうにも、そこは勝者と化した国民派の支持者達が自分達の物にしていることが多かった。
そして、フランコ率いるスペイン政府は、彼らを危険視し、西サハラへ様々な口実を設けて送り込んだ。
様々な口実を付けて囚人とし、流刑囚として西サハラに送り込むこともあった。
また、西サハラ開拓のために、人が必要だとして、半ば騙して送り込むこともあった。
そして、英仏米等の諸外国は、スペイン政府のこの動きについて、見て見ぬふりをした。
何故なら、このスペイン政府が行なったこの動きの時期は、ちょうど第二次世界大戦の時期と重なっており、英仏米等の諸外国にとり介入する余裕が無かったのだ。
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