間章
ホテルのフロント係を長年務めてきて人を見る目が出来た自分が見る限り、その男は、現役のかなりの高位のフランス軍人と見受けられた。
大きめの黒サングラスを掛けて、人相を隠しているが、その立居振舞は、幾ら隠そうとしても高位の軍人なのが、丸分かりだった。
更に、できる限り誤魔化してはいるが、スペイン語の中にフランス語訛りが入っている。
その男は、自分に尋ねた。
「ちょっと女と遊びたいのだが、「饗宴」の場所は、20年程前から変わっていないかね」
成程、こっそり買春したいという訳か、それにしても20年ぶりとは、随分と久しぶりに来たものだ。
私も、その男と調子を合わせて、声を心持ち潜めて答えた。
「ええ、変わっていません。今では、バレンシア有数の娼館で、安心してお勧めできます」
「ありがとう」
その男は、バレンシアの街に出て行った。
その男、アラン・ダヴー将軍は、黒サングラスで人相を隠したままで呟いた。
「全く、今頃になって、娘が生まれていたとは知らなかった。更に娘の縁談の後押しをするとは」
本音としては、まるで犯罪者のように、黒サングラスで人相を隠したくはなかった。
だが、自分の立場が、それを強いている。
「素顔で、この街を歩いて、「饗宴」に入っているのを見られたら、ちょっとした醜聞ネタだな」
アランは自嘲した。
アラン・ダヴーは、それなりに軍功を挙げた結果、第二次世界大戦終結時、少佐という立場にあり、それなりの出世街道を、第二次世界大戦後も歩んだ。
だが、彼の最大の本領は、第二次世界大戦後に発揮された。
インドシナ、アルジェリア等、フランスの植民地からの独立を目指す紛争地において、彼は勇戦し、フランスに勝利をもたらした。
彼自身は、直接の血のつながりは無いが、姓のつながりから、
「20世紀に転生してきたダヴー元帥の生まれ変わり」
と周囲から呼ばれるようになり、実際、それにふさわしい戦功を、それぞれの紛争地で彼は挙げていた。
だが、その中でも、アランは、冷静な立場を崩さなかった。
「最早、植民地の独立の流れは、押し止めようがない。後は、如何にきれいに植民地を手放すかだ」
アランは、そう積極的に周囲に説いた。
あのアランでさえ、そう言わざるを得ない、アランの言葉に触れた周囲は、植民地を手放すことに徐々に賛同するようになった。
そして、その動きは、終にフランス本国をも動かすようになった。
1950年代半ば、終にフランス領インドシナは、ヴェトナム、ラオス、カンボジアの3国に分かれての独立を果たすのだが、その陰で、アランの働き掛けがあったのは否定できない事実だった。
そして、アランの名を最も高めたのは、1958年のいわゆる「五月クーデター」だった。
この頃、アルジェリア独立問題は、フランス国内で大問題となっており、アルジェリア駐留軍を中心としてクーデターが発生し、アルジェリアの永久保持を訴えた。
この時に、首都を管轄するパリ地区軍司令官になっていたアランは、クーデターの情報を入手すると、すぐにクーデター軍の即時武力鎮圧を主張し、実際に部隊を即座に動かす準備を整えた。
このアランの態度を見た中立派の部隊のほとんどは、すぐに反クーデターに動き、そのために、時のド・ゴール国防相は、容赦なくクーデターの武力鎮圧を遂行できた。
この一件で、アランは、「フランス第三共和政を救ったサムライの血を引く英雄」とフランスの国内外のマスコミから謳われるようになった。
実際、アランが即座に動いたことが、クーデターを失敗に導いたのは否定できない話だった。
だが、そのお蔭で、娘アラナの結婚に際して、父アランはこうして変装して動く羽目になっていたのである。
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