第2章ー5
人間、堕ちるなり、闇に染まるなり、は一瞬だという。
あの頃、アラナを妊娠していた頃の私は、完全に闇に染まっていた、と言われても仕方なかった。
今でも私を半ば庇護してくれている、夫の旧友、彼と私が、結局、ビジネスライクな付き合いのまま、今でもいるのも、そのためだ。
アラナを無事に出産し、体が回復した直後の頃、私は彼を誘惑し、愛人関係にもなることで、更に彼を籠絡しようとしたが、彼に断られた。
彼は、こう言った。
「君は、もう完全にファナ・グスマンだった頃に戻れないんだね」
彼の真意は、私には完全には分からない。
だが、私の胸には、こう響いた。
あの頃、娘を抱き、夫を心から愛し、貞淑で幸せな若妻だった私が、今の自分を見たら、どう思うだろうか、夫の旧友である彼の妻と、私は顔見知り程度の仲ではあったが、知人であることは間違いない。
もっとも、荒んだ生活を送ってしまい、かつての面影の大半を失った私を見て、彼女が、私をかつての知人だと分かるか、というと疑問があるが。
夫が死んで、他人に成りすましているとはいえ、知人の夫を誘惑し、愛人になろうとするなんて、私はどこまで堕ちれば気が済むのだろう。
あの頃の私が、今の自分のような女を知ったら、軽蔑し、罵倒するのではないだろうか。
それ以来、私と彼は、ビジネスライクな付き合いに徹することになった。
さて、今でもそうだが、スペインでは、売春を営む娼館は政府の許認可を受けてやることになっている。
だが、物事には全て表裏がある。
表向きは娼館では無い商売をしつつ、裏で娼館を営む秘密娼館は、当時、半公然たる存在だった。
かつての「饗宴」もその類で、表向きは酒場をしつつ、裏で娼館を営んでいた。
表向きは客と従業員が自由恋愛の末に関係を持ったことになっているが、実際には売春をしているのだ。
「饗宴」を手に入れた私は、「饗宴」を表の存在、正式な娼館にしようと考えた。
それによって、隠れて商売する必要が無くなる。
だが、それにはハードルがあった。
言うまでも無く、政府の許認可だ。
新たな娼館登録は、風紀の問題から、そう簡単に下りるものではない。
私は、一石二鳥の策謀を巡らせ、彼をそそのかした。
かつて、バレンシアを抑えていたのは、言うまでも無く、共和派だ。
スペイン内戦終結直後のこの頃、共和派シンパとの告発合戦が、市民間で横行している状況があった。
彼にしても、治安警備隊の一員として、共和派シンパを捕まえる必要がある。
バレンシアの正式な娼館は軒並み、共和派シンパが実際に経営していた。
バレンシアで有名な娼館を3つ程、共和派シンパだった、と彼は摘発して、その娼館を潰し、そこの腕利きの娼婦を、私は手に入れた。
何しろ、娼婦の世界に染まった腕利き達だ、娼館が潰れた以上、今更、正業に就け、と言われても彼女達は困ってしまう。
私が娼婦を募集すると、彼女達の多くが、私に雇ってほしいと、すぐに駈け込んできた。
そして、バレンシア市内の娼館が3つ程、潰れた代替として、「饗宴」を正式な娼館として、私は政府に申請して、それを認めさせた。
こうして、あっという間に、私が経営する「饗宴」は、バレンシアでも、有数の娼館の地位を確立した。
何しろ、潰れた娼館から、腕利きの娼婦が何人も、「饗宴」に移籍してきている。
彼女達の顧客が、「饗宴」には、すぐに集い、「饗宴」は大繁盛するようになったのだ。
更に、第二次世界大戦の勃発が、世界的には、とても不幸な出来事だったが、私やスペインにとっては、追い風となる幸運にも恵まれた。
私は、この幸運を生かすことに努めた。
それによって、バレンシアの娼館といえば、「饗宴」と言われる存在になった。
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