7話
「ありがとうございました」
午後八時、バイト先の喫茶店のカウンターで洗い物をしながら、今後の件について再考していた。
ここには備え付けのステージがあり、週末などにはジャズバンドなどが演奏をしている。
来る演奏者はマイナーながらもその道で食っているプロの方で、他人の演奏から技を盗むにはちょうどいいスポットだった。
夜には酒などを振る舞うこの店だからか、店内には学生などの姿はなく、仕事終わりのサラリーマンが数人、穏やかな雰囲気を漂わせていた。
不意にカウンターに座りこちらを、片頬を釣り上げて見ている一人の女性客と目が合う。その客はいつもカウンターの端に座り、コーヒー片手に本を読んでいるが、今日は先客が居たのか、真ん中のちょうどこちらと対面になる席に座っている。
茶系のジャージスーツを着て、グレーの髪を纏めるように被ったハンチング帽姿は、現代日本にはそぐわない臭みのあるものであったが、彼女はそれを綺麗に着こなし、まるで小説に出てくる探偵のようだった。
「何か、ございましたか?」
ずっと目線を外さない女性客に、何か不備があったのか聞くと、彼女はフッと鼻で笑い、頭を振って否定した。
「いいや別に、ただ文化祭でバンドやるんだってね?」
本当に何者なのだろうか?
マスターにもまだ話していないことなのに、知っているそれもバンドを誰がやるかまで知っているなんて驚きを隠せないでいた。
「えぇ、どこでそれを?」
「いや、あそこの学校の生徒会に従弟がいてね、問題児たちがいるって愚痴られたよ」
「俺ってそんなに悪目立ちしていますか?」
「普通の学生はこんな自営業のカフェバーではバイトはしないだろうさ。それに」
少し苦笑いをしながらコーヒーで口を湿らすと、常連は店のステージ部分に顔を向けた。
「その年で必死な目つきで芸を盗みたがる奴なんて、周囲では君ぐらいしか知らないよ私は……、好きな女でもいるのかい?」
どうにも彼女はよくこちらを見ているようで、かなり深いとこまで当ててくるとは思わなかった。
出来るだけ図星であることを悟られないよう、笑みを潜めるフリをして息を整えると、はぐらかすように答えた。
「いや僕は別に、……ただ上手くなりたいだけですよ」
すると彼女は微笑ましいものでも見るかのように、先ほどとは違う優しい女性的な笑みを浮かべた。
その様子に少し馬鹿にされた気がして、表情に出さずムッとするが、それにも気づいたのだろう、さらに笑みを深めた。
「男の子って言うのは何ともまぁ……、ではどの程度を腕か見せてもらおうじゃないか」
「いやまだバイト中ですし」
音楽は学生である以上はっきり言って趣味だ、アルバイト中にやるべきものではない。
断りの言葉を入れ洗い物の作業に戻ろうとすると、マスターが奥から笑いながら近くに来た。
「いいじゃないか、私も聞きたいね」
「ではお言葉に甘えて……」
言外にやれと言わんばかりに気迫を送ってくるマスターに、働かしてもらっている俺はノーとは言えず演奏の準備に取り掛かった。
………………
…………
……
演奏に入りしばらくしていると、客の会話が途絶え視線が集まるのを感じた。だが内に生まれた感情は、この状況を起こした客への怒りだった。
最初に言い出した張本人である女性は、始めこそ何かを探るような顔をして聞いていた。だがしばらくすると、マスターと会話をしてこちらを笑ったきり、手元のコーヒーに視線を落としていた。
こっちはそうそうしない客の前での演奏に、退くに退けずやっているというのに本人はすまし顔で雑談しているのだから、弦捌きも荒くなるというものだ。
――音に感情をのせても、演奏自体に感情を出すなよ。
不意に梓のそんな声が聞こえたような気がして、心のざわつきの波が膨れあがっていくのを感じた。
自分から逃げた奴が何言ってんだ、才能があるのに使いもしないで。元をたどれば俺が音楽を始めたのも、お前とバンドをやろうとしていることも、元をたどれば全て――
心の中は梓のことでいっぱいになっていた。
俺が何か始めるのには、だいたい音楽が理由にあって、その音楽の根幹には梓が常に居て、――なんだよこれは、これじゃまるで梓のために動いてるみたいじゃないか。
梓のため、そう思った瞬間心のざわつきが、熱を持って唸り始めた。心臓の鼓動が早くなり、喉から空気がせり上がる。吐き気となるのをグッとこらえて押し返す。
考えなくたって解ることだった。俺は片桐梓が舞台で演奏する姿に一目惚れして……、ただアイツの隣に立ちたい。
そのために俺はこのライブを成功させたいんだ。
周囲を見れば客全員がこちらに体を向け、演奏に耳を傾けていた。体温が五度下がったように感じる。
いや、実際考えの答えが出たことによって、僕の頭にあった熱が引いていったのだろう。
曲を弾き終わり一礼して奥へ退くと、そこには先ほどカウンターで一服していたはずの常連が水を差しだしてきた。
「すみません」
「いやいや、最初から最後まで情念の籠った素晴らしい演奏だったよ。危うく君の熱に充てられてしまうとこだった」
「そんな……僕も、何かに気づけたような気がします。ありがとうございます」
常連は何のことだか解らないといった様子で首をかしげた。
俺の独り相撲で相手は何も事情を知らないのだから、そういうことになるのは解っていた。だがこの切掛けを作ってくれたのは、紛れもない彼女なのだから、個人的なケジメのようなモノだ。
「マスターがこのままあがっていいって言っていたよ。少年、君の名は?」
そう言われて時計に目をやるともう十時になるころで、店内の客層も主婦や学生たちからサラリーマンに変わりきっていた。
もうそろそろ帰らないと時間的にまずいだろう。
「僕は早乙女影冶って言います。文化祭もぜひ楽しみにしていてください」
「私は灰山トウコ。今後どうなるか楽しみに待っているよ」
そういい彼女は手を差出し握手を求めてきたので、それに応じバイト先を後にした。