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冒険者レイチェル -全ての始まりの章-  作者: Lance
第一幕 「漆黒の戦士」
52/118

第19話 「霧の宿屋」

 ホウジュウの根は全員が一抱えするほどの収穫であった。

 誰も言わないため、どうなのかは知らないが、レイチェルにとってこれは大戦果であった。だからこんなに取り尽くしてしまって大丈夫なのかと危惧していたが、ライラが言うには、ホウジュウの草は茂るところには、いつの間にか繁茂するものらしいとのことである。

 前を行く戦神の神官戦士の娘の高い背を見詰めながら、彼女が先ほどの、実弟との出会いと別れの衝撃から立ち直ったのかが、レイチェルは気掛かりであった。

 ティアイエルやサンダーに伝えるべきだろうかと思ったが、レイチェルは黙っておくことにした。三人で集ったところで、ライラと弟の関係をどうこうできるはずもないからだ。それに、ベルハルトの方にその気があるなら再び機会が訪れるだろうと考えた。

 明朝、台地の斜面を下り、帰路に着こうとした。

 しかし、草原に踏み入ると、まるで待ち伏せしてかのように大狼達が身を起したのだった。

「奴ら、人間の味を覚えやがったんだ。元俺のお仲間達の亡骸をたらふく腹に入れたんだろうよ」

 グルリと囲む大狼達を見回してオルティーが呻いて言った。

 大狼、ダイアウルフは、仔馬ほどの大きさがあった。灰色と白の毛を逆立たせ、牙を剥き出しにして唸り狂っている。

 狼共の殺気の籠った恫喝を受けて、レイチェルは思わず怯んでいた。

 逃げても楽に追い付かれるだろう。ならば、戦うしかない。彼女は鈍器を身構えた。

 仲間達もそれぞれ武器を構えた。

「ジミー、ライラ、時間を稼いで。レイチェルは依頼人を護るのよ」

 ティアイエルがキビキビと指示を飛ばし仲間達は頷いた。するとティアイエルは翼を広げ空へ飛び立った。

「お、おい、嬢ちゃん、俺らを見捨てる気か?」

 オルティーが泡を食ったように言ったが、有翼人の少女は返事も返さず短槍を掲げて呪文の旋律を口走り始めた。

「レイチェル殿、私に護衛は無用です。ティアイエル殿の精霊魔術が完成するまで、防御に徹しましょう。皆、円陣を組むのです」

 依頼人の少女にして東方の領主の娘レイムが呼び掛ける。レイチェル達は指示に従い、互いに背中合わせになり、包囲する餓狼の群れに向き合った。

 大狼達は唸りけたたましく吠え猛った。

 そして同時に襲いかかった。

 背中越しに仲間達が武器を振るうをのを感じた。レイチェルの目の前で大狼が跳びかかって来た。

 レイチェルは鈍器を振り下ろしたが思わぬ巨体に押し退けられ、野獣に馬乗りにされた。

 狼が恐ろしい声で吠え、裂けた口に並ぶ鋭い犬歯の間から涎が飛び散った。レイチェルは必死になって野獣を押しのけようとしたが、その仔馬のような身体を動かすことはできず、ついに狼が細長い口を開きレイチェルの顔に噛み付こうとした。

 しかし、寸でのところで狼は横合いから突き飛ばされた。

「こいつめ!」

 オルティーが、すかさず狼に手斧を振り下ろした。

「神官さん、大丈夫か?」

 相手は振り返ってそう尋ね、すぐに隣に戻って来た。

「オルティーさん、ありがとうございました!」

「礼なら無用よ。アンタは俺を救ってくれたんだ」

 野盗だった中年の男はそう言って微笑み返した。

「見事でした、オルティー殿」

 背中越しにレイムが賞賛を送る。

 すると、突然周囲に生える草達が身動ぎし始めた。草は互いに結び合い、よじり合い、太い針となった。周辺一帯の草原が、緑色の棘の大地に変わった。たそして次の瞬間、狼達が悲鳴を上げ、その身体を幾つもの針が下から貫いていた。

 次々響く獣の悲鳴と断末魔に、レイチェルはふと憐みを感じた。

「これは死闘よ、レイチェル」

 頭上で槍を周囲に差し向けながらティアイエルが言った。

「やらなきゃやられるの。アイツらには言葉だって通じないんだから。アンタにできることは、アイツらがせめて迷わず天国に行けるように祈ることだけよ」

 レイチェルは貫かれて死んでゆく獣達を見ながら、彼女が仕える獣の神に祈りを捧げたのだった。

 そうして残る獣の群れは散り散りになり去って行き、一行は再び帰路を急いだのだった。



 二



 霧が立ち込めたのは、二日目の昼過ぎぐらいであった。

 歩みを進め、時折休息する一行の前に、何の前触れも無く現れ、そしてあっと言う間に視界が全く見通せないほど、深くなっていた。

「方角あってるのかな?」

 サンダーが誰ともなく不安げに尋ねた。レイチェルもそれを危惧していた。ティアイエルが幾度も空へ飛び上がったが、彼女は頭を振るだけであった。

 一行はついに立ち往生していた。

「霧の台地とは、本当は霧の大地なのかもしれないな」

 ライラが言った。

 どうするべきか、一行は話し合った。しかし、ここらは全てが草原だ。霧が晴れたところで、その方角に自信が持てるかと問われれば首を傾げるしかない。レイチェルはそう考えていた。

 ひとまず休息を取り、今の進行方向を信じて、霧が晴れた時に歩みを再開することに決まった。

 そうして一行が腰を落ち着けようとした時、ふと、サンダーが立ち上がり、霧の向こうを指し示した。

「何だか光りが見えるよ」

 他に野営している者でもいるのだろうか。そう思い、レイチェルも少年の指し示す方角を見詰めた。

 確かに深い霧の中に、ぼんやりとした光りが見える。

「こんなところに誰かいるってのか?」

 オルティーが訝しげに言った。

「私が見て来よう」

 ライラが光の方へ歩んで行く。

「ジミー、アンタも行って」

「あ、うん」

 ティアイエルに言われ少年も霧の中へ飛び込んで行き、その姿はすっぽりと覆われてしまった。

 レイチェル達は二人の帰還を待ったが、なかなか二人は戻らなかった。

「向こう側に居る何者かに捕まったのでしょうか?」

 レイムが不審げに言うと、ティアイエルが首を横に振った。

「ジミー一人ならわかるけど、ライラならそんなドジを踏まないわよ」

「それに悲鳴とか何か声が聴こえてもいいもんだよな?」

 オルティーがレイチェルに向かって言ったので彼女は頷き返した。

 次は自分が行こうとレイチェルが名乗り出ようとすると、光りの向こう側から小柄な人影が駆けてきた。

 それはサンダーであった。

 少年は顔を輝かせて言った。

「宿だった」

 レイチェル達が言葉の意味を考え込む前に少年は続けて言った。

「信じられないけど、あそこに宿屋が建ってるんだよ。人もいる。メアーさんっていうじいちゃんがね」

「はあ? アンタ、気でも狂ったの? こんなところに宿なんてあるわけないじゃない」

 ティアイエルが言うと、サンダーは首を横に振って再び訴えた。

「ホントだよ。俺も信じられないけどね。今、ライラ姉ちゃんがそのメアーさんと話してるよ」

 するとティアイエルが声を上げた。

「アンタ、ライラを置いて来たの!?」

 有翼人の少女は宿のものと思われる光りの方へと矢のように駆けて行ったので、レイチェル達も慌ててその後を追った。



 霧の中に古めかしい建物が聳えていた。

 その入り口でライラと小柄な老人が、レイチェル達を待ち受けていた。

「皆、こちらは宿屋の主、メアー殿だ」

 ライラが老人を一行に紹介した。

 メアー老人は、整ったと白髪と、ヤギのような見事な白髭を蓄えた人物であった。また、白い眉毛がとても長くて太く両目を殆ど覆い隠していた。

「ようこそ、いらっしゃいました。私はこの、軋む底床亭の店主、ナイツ・メアーと申します」

 老人は微笑みながら、慇懃だが嫌味の無い態度で一礼した。

「こんなところに宿屋とは、正直、面妖ですが、今はありがたいですね。霧が晴れるまでこちらで休めれば良いのですが」

 レイムが問うと、メアー老人は答えた。

「残念ですが、この霧は明日の日の出までは晴れる事は無いでしょう」

「おう、じいさん、そうやって俺らをまんまと泊めて金を取ろうって魂胆だろうが、このオルティー様は、そうはいかねぇぜ」

「いえいえ、本当ですとも」

 老人は朗らかに答えた。

「私はここに宿を出してもう長くなります。その間、霧が現れた日は必ず明朝の日の出まではこの地は霧に閉ざされることを知っております。それをずっと間近で見ておりましたもので」

「それなら本当なんじゃない? 今日はここに泊りってことだね」

 サンダーが言った。

「こんなところに宿なんて変よ」

 ティアイエルがそう呟くのをレイチェルは耳にした。

「そうですね。御老体がそこまで言われるのなら、疑う余地もありません。急ぎたいところですが、方向を見失うわけにもいかないですし、明日の日の出までこちらにお世話になりましょうか」

 レイムが言うと、老人は頷いた。

「それでは六名様でよろしいですね?」

 老人はオルティーの方を見ながら尋ねた。

「い、いや、その……金が」

 オルティーが気まずそうに言い淀むと、レイムが言った。

「私が出しますよ」

「そいつは、面目ねぇ」

 そうして一行は賃金を払うと宿の中に案内された。



 まず一階は、広々とした小奇麗な食卓であったが、他に客がいなかったため、今はひっそりした雰囲気に包まれている。

「お部屋は一人様一部屋でよろしいですね。二階の二○一号から六号までをお使いください」

 宿の主メアー老人は、カウンターの背にぶら下がっている鍵束を取ると、それを一つずつ分解し、一同にそれぞれ手渡した。

 レイチェルは二○二号室の鍵を受け取っていた。そうしてまずは燭台に吊られた灯りが煌々と照らす階段を二階へ上がり、長い廊下の前でそれぞれ部屋に入って行った。

 部屋には既に蝋燭が灯っていた。そのカンテラは小さな机の上に置かれ、清潔な寝具と白い壁とを眠気を誘うような光りで照らしていた。

 すると扉が叩かれサンダーが呼んだ。

「姉ちゃん、飯行こうぜ!」

「うん、そうだね!」

 レイチェルは答えると荷物を置きさっさと廊下に出た。

 長い廊下には窓が無く、部屋は横並びに配置されていた。

 廊下に敷かれた少しだけ高級感のある赤い絨毯を進み、階段を下りる。その時、レイチェルは手前の手摺りの下に本物かは知らないが拳大のエメラルドが嵌めこまれているのを見た。



 夕食は思った以上に豪勢なものであった。

 特大の豚肉のソテーに、たっぷりの鶏肉のシチュー、池の主かと思えるほど大きな川魚の塩焼きに、香ばしいパンがバスケットにたくさん。それと山盛りの果物と、それに負けないぐらいに盛り上がった葉物野菜のサラダであった。他には小鉢に、豆の甘煮などがあった。

 食欲旺盛で肉にも魚にも目が無いと自負するレイチェルが、まず先にフォークを伸ばしたのは、葉物野菜のサラダからであった。

 これで便通が良くなるだろう。その信じられないほど瑞々しくも甘みの出る野菜を幸せそうに頬張り続けたのだった。

「あれっぽちのお金で、こんなに奮発しちゃって商売やっていけるのかしら」

 ティアイエルが不思議そうに言いながら豚肉をつついていると、メアー老人が瓶を持って現れた。

「葡萄酒は如何ですか?」

「おう、飲むとも飲むとも」

 オルティーがグラスを差し出した。

「他の方はお飲みになられないようですね。では、果物のジュースをお持ちしましょう」

 メアー老人は奥の厨房へと引っ込んで行った。

 和やかであり、賑やかに食事は進んでいったとレイチェルは思った。しかし、彼女の向かいに座るサンダーの食事が減って無いことに気がついた。

「サンダー君、具合でも悪いの?」

 レイチェルが尋ねると、少年は首を横に振った。

「ううん。あ、いや、やっぱりちょっとお腹が痛いかなぁって」

 少年はそう答えた。

 その時、メアー老人がジュースを持って現れたので、レイチェルは腹痛の薬があるかどうか尋ねようとしたが、サンダーが遮るようにして言った。

「姉ちゃん、魚食べる!?」

 少年の声は気のせいか少し大きく思った。メアー老人はジュースを注ぎ終わると奥の厨房へと引き上げて行った。

 素晴らしく甘いのにスッキリとした感じのジュースにレイチェルは感動した。これの作り方はどうなっているのだろうか。メアー老人が出てきたら訊いてみようと彼女は思うほどであった。

 ついでにレイチェルは、食欲が無さそうなサンダーの様子を見て、こらえきれず、シチューもパンも、全ての食事を引き取り、その腹に収めたのであった。

「アンタねぇ、お腹壊しても知らないわよ。ついてけないなら置いてくんだから」

 ティアイエルが呆れたような顔で、冷ややかにそう言った。



 三



 サンダーは寝台の上に横になっていた。

 信じられない事に宿には大きな湯船もついていた。

 オルティーとともに熱いお湯に浸かりつつも、しかし少年の気分は晴れる事は無かった。

 空腹でお腹が鳴ったので、持参した干し肉を少し齧り、水袋の水を飲んだ。

 少年は寝台の毛布の上に仰臥し、薄暗い天井を見詰めていた。

 考えすぎかもしれない。しかし、クレシェイドに言われた言葉が不思議と脳裏を過るのだった。

「サンダー、皆を頼むぞ。男はお前一人なんだ。俺とヴァルクライムの分もしっかりな」

 オルティーのおっちゃんが増えたけど、メンバーの男は俺一人だ。兄ちゃんとおっちゃんがいなくても、俺がいるんだ。

 彼の持つ疑念は、まだまだ半信半疑であった。考え過ぎだろう。メアー老人が、食事や飲み物に毒を盛るなんて。ここに宿を見つけた時、サンダーはとても幸福な気持ちであった。やったぜ、ラッキーと、メアー老人の自己紹介を受けてライラと歓喜していたものだ。

 しかし、やはりおかしいのだ。この草原しかない場所に大きな宿屋が一件、ポツンとあるのは。しかも、川は無いはずなのに、風呂まで付いている。

 だけど、結局は考え過ぎなのだろう。もうこれ以上起きていても何も起こらない。大人しく寝よう。――しかし、駄目だった。

 少年は起き上がり、暗がりの中で、革のジャケットを羽織り、クレシェイドに貰った「飛礫の小剣」を手にした。

 物々しいかもしれない。だけど、もう一度、メアー老人と話しができれば、何もかも疑いが吹き飛びそうだと彼は思っていた。窓から見る外は既に暗く、霧が未だに出ているのかも定かではないが、きっと霧は出ているだろうと彼は思った。そうだ、方角について尋ねてみることにしよう。

 少年は扉をゆっくり開け、廊下へと歩み出た。小剣は鞘に収め、左手に持っている。

 廊下は等間隔で置かれた燭台の炎が、一つ飛ばしに規則正しく消えていたため、若干薄暗くなっていた。

 メアー老人は下の階、つまりは一階にいるはずだ。

 彼は階段を覗き込んだ。ここも燭台の灯りが幾つか消えていて薄暗くなっていた。

 少年は階段を下った。踊り場を過り、下の階へと着く。

 彼は左右に首を向けた。だだっ広い食堂はきっと暗くて静かで、不気味な雰囲気になっているだろう。そう思いつつ顔を覗かせると、そこには左右に伸びた薄暗い廊下が続いていたのであった。

 サンダーは呆気に取られ、もう一度見回したが、そこは見覚えのある廊下であった。

 この宿には上の階が存在していた。きっとぼんやりして上って行ったに違いない。そんなことはあるはずないが、そうでなければ辻褄が合わない。しかしそれでも変なのだ。自分がいつ下りの階段に向き直ったのか全く覚えが無かったのだ。

 少年は薄気味悪さを感じつつも、改めて階段を下る前に、部屋の番号を確かめに動いた。

 二○一がある。これは依頼人のレイムの部屋だ。彼はレイチェルの二○二の札を確認し、自分の部屋である二○三へ来ると中を覗き込んだ。そしてそこには確かに自分の荷物がある事を確認したのだった。

 今度こそ、間違い無いように下るぞ。

 少年は下りの階段に向き直り足を進めて行った。

 踊り場を過ぎ、食堂を覗き込む。しかし、そこには左右に廊下が広がるだけであった。

「あれ、俺、どうしちまったんだ」

 サンダーは思わず呻き、首を横に振った。眠くは無いが眠気をそれで払ったつもりであった。傍の部屋の番号を見ると、そこはレイムの部屋、二○一号室であった。

 ついでに自分の部屋を覗くと、そこにはやはり見覚えのある荷物が、そのままの状態で置かれていたのであった。

 サンダーは再び下りの階段に向き直り、もう一度下り始めた。

 踊り場を横切り下の階の様子を飛び出しながら確認する。

 やはりそこは長い廊下が左右に続き、傍には二○一号室があったのだ。

 どういうわけだろう。一階に下ったつもりが二階へ下って来ている。

 ならばと、今度は上の階へ上がり始めた。踊り場を過ぎ、突き当たりの部屋を確認する。そこは二○一号室であった。

 やはり、おかしい。気のせいでは無い、だとすると、あのメアー老人が、悪者で、何かを企んでいる可能性が高い。

 俺達を閉じ込めて何かするつもりなのか。

 サンダーは己の正気を信じ、まずは仲間達を起こしにかかった。

 しかし、仲間達の部屋の扉をどんなに乱暴に叩いても蹴っても、中から応答する気配が無かった。

 サンダーは思案した。そして己の考えた事に思わず緊張していた。まず、既に仲間達は、依頼人のレイムらも含めて、メアー老人に連れ去られてしまった後だという考えと、やはり夕食で飲み食いした物には毒か、眠り薬が仕込んであったに違いないという考えであった。

 乙女の部屋に無断で侵入することは憚られたが、それでも仲間の安否を確認せねばなるまい。

 サンダーは、金属の輪っかと、捩じり棒を取り出し、ライラの部屋の前で、扉の開錠を試みた。ライラなら、自分が無断で侵入しても、まず異変の方のにおいを察してくれるだろう。逆にティアイエルは、問答無用で鉄拳制裁が飛んでくる可能性もある。レイチェルは、あれでも年頃の女性なのだ。後回しにすべきだろう。

 しかし、努力も虚しく部屋の扉は開かなかった。

 サンダーは溜息を吐き、次はレイチェルの部屋を選んだ。

 程なくしてカチリと、扉の鍵が外れる音がした。

 サンダーはゆっくりと部屋に入ったが、さすがに消灯されていたので、一旦自室に戻って燭台を手にして再び訪れた。

 灯りが、寝台で仰臥し眠る少女の姿を照らし出す。片足で毛布を跳ね上げ、神官衣服はずり上がり、お腹が見えていた。酷い有様の寝像であった。

 サンダーは服を整えてやるべきか思案し、結局止めることにした。触らぬ神に祟り無しだ。

 そしてレイチェルの耳元で名前を呼び、起こしにかかったが、神官の少女は全く目覚める気配が無かった。

 だが、これで夕食に眠り薬が使われていた説が濃厚になってきた。

 レイチェルを諦め、続いて覚悟を決めてティアイエルの部屋の前に彼は居た。

 部屋の開錠に手間取ったが、どうにか鍵を外すことに成功した。

 そうして燭台を向けると、有翼人の少女が寝ている姿を確認できた。

 サンダーが近付いて行き、その耳元で名前を呼ぼうとした時、彼は目の前の年上の少女が、しきりに歯軋りしている音を聞いたのであった。

 途端に彼は、有翼人の少女が憐れに思えた。ツンケンしているが、メンバーのリーダーとして、きっと色々鬱憤が溜まっているに違いない。

 このまま寝かしておきたいのは山々だが、恐縮だが起きてもらうしかない。

 しかし、幾度呼び掛けても、有翼人の少女も目覚める気配は無かった。

 この分だとレイムとオルティーも同じなのかもしれない。でも、まだ眠っているだけなら安心できる。何故ならば、その間にこっちから事の元凶の前に出向いてやり、問い質すか、成敗してやれば良いのだ。彼は小剣を握りしめた。

 問題は下の階に辿り着けない事だ。何処を調べればよいのか、ひとまずは階段の周りを調べてみる事にしよう。

 そうして彼は下りの階段の半ばで、その隅に拳大の綺麗なエメラルドが落ちているのを見つけたのだった。

 これは何だろうか。単に落としものなのだろうか。しかし、そのエメラルドはきっちりと角張らせてあるようにも思える。

 だとすれば、どこかに嵌め込めれていたのかもしれない。それがもしかすれば下に行ける鍵という可能性もある。

 まずは広い踊り場を上から下まで、右から左まで背が届く限り探ったが、どこにも穴やへこみのようなところは無かった。

 だとすれば、どこかの段か、手摺りか。

 彼は上に戻りながらそれらを丹念に見回し、ついに階上の手摺りの下の方に明らかな窪みを見つけたのであった。

 そうしてエメラルドがピタリと嵌まると、彼は驚喜し、慌てて心を落ち着けた。もしも、下の階へ行けるのなら、そこでメアー老人と決戦をすることになるからだ。

 おそらく、老人は仮の姿なのだろう。その正体は、殺戮の蛮族オーガーか、それともそのまま悪い魔法使いか。

 彼はゴクリと緊張で喉を鳴らすと、下の階へと赴いて行った。



 四



 緊張の面持ちで階下へ達すると、少年はゆっくり首を突き出し、左右を見回した。

 左側に闇に覆われた食堂がある。右側には出口の扉があった。

 サンダーは出口へ向かわなかった。もしも出口が突然開いて、自分だけ摘まみ出されて、二度と戻って来れないという想像をしたのだ。それは仲間達を見捨てた事になる。そんな愚かしい妄想すらも、どうにも今の心境だと現実味を帯びてくるのであった。

 彼は足音を忍ばせ、食堂へと歩んで行く。手には蝋燭の灯った燭台を握っていた。

 その蝋燭の灯りが奥の締められた扉を照らし出す。確かめたわけではないが、ここは厨房のはずだ。

 メアー老人がここにいるかもしれない。

 少年が手を伸ばし、扉を開けようとした時、それは音も無く開かれた。

「おや、眠れませんかな」

 真っ暗な部屋から小柄な老人が歩み出てきたため、サンダーは悲鳴を上げそうになりつつ、後退した。

「じいちゃんよ、アンタ、俺達の夕飯に眠り薬を混ぜたろう?」

 サンダーは強気な態度を装って問うと、老人は小さく笑った。

「なるほど、あなた様にはお見通しですか。食事に殆ど手をつけなかったのは、このような事態を想定してのことでしたか」

「あたぼうよ。それで、俺達をどうするつもりだったんだ?」

 サンダーが燭台を向けると、橙色の光りに照らされた小柄な老人が、肩を震わせ、天を向いて笑い狂った。

「いやはや、上手くはいきませんでしたか。私はこういう者です」

 老人は口の両端にはみ出た牙を見せた。

「ヴァンパイア!?」

「そのとおりです」

 サンダーは最悪の相手に出会ったと感じていた。ライラやレイチェルならまだしも、自分では吸血鬼に対抗する手段を持ち合わせてはいなかった。

 しかし、やるしかない。彼は小剣を敵に向けた。

「そうか、俺達の血が目的だったんだな!」

「左様ですな」

 老人は背中に手をやると、次の瞬間、双剣が現れたのだった。そして相手は不気味なほどに穏やかに笑っていたかと思うと、目にも留まらぬ速さで剣が眼前に突き出された。

 サンダーは間一髪小剣で受け止め、捌いたが、その重い斬撃に右腕に痺れが走っていた。

「遊んでいる暇は無いですぞ」

 老いたヴァンパイアが剣を振り下ろしてくる。サンダーは後ろへ下がってその素早い二つの剣を避けた。

 勝てる相手ではない。彼は純粋な力の差を比べて、明らかに不利な事を悟った。しかし、やるしかない。死ぬとしても挑むしかないのだ。仲間達のために!

 サンダーが身構えようとすると、容赦無く敵の攻撃が小剣に打ちつけられ、その激しい一撃に彼は思わず足を取られ転倒していた。

 しまった!

 サンダーが仰ぎ見ると、相手は目の前に立ち、見下ろしながら剣で貫こうという構えを見せていた。

 どうする。絶対避け切れない。

 小剣を握り締めた時、その柄の感触が、クレシェイドの言葉を呼び起こさせた。

「これは飛礫の小剣という、ちょっとした魔法の剣だ。良かったら使ってくれ」

「店主の話では、岩を殴りつけると、その名の通り、砕けた欠片が飛礫となって飛散するらしい」

 彼は小剣を見た。

 飛礫。でも、飛礫を飛ばせるようなところはどこにもない。床はきっと飛礫にはならないはず、むしろ、これは木端というのだろうから。

 それでも!

 サンダーは思いを込めて床に剣を突き立てた。

 すると蝋燭の灯りが床から舞い上がった破片を照らし出した。

 それはとても速く、針のように飛翔し、吸血鬼の顔に突き刺さった。

「うっ、これは!?」

 相手が呻く、サンダーはこの機を逃さなかった。

 素早く立ち上がり、懐に飛び込むと、剣を敵の胸に突き立てた。だが、切っ先は固いものによって阻まれた。

 ヴァンパイアは鉄の肉体をもつという。サンダーはそれを思い出し、絶望しながらも背中に廻り込み首元を狙い、剣を突き立てようとした。

 しかし、敵は素早い動作で振り返るや、その剣が少年の肩口に叩き込まれたのであった。

 腕を落とされた。サンダーはそう察した。

 尻餅をつきながら、迫る敵を見上げ、すぐに訪れる最期を確信するしかなかった。

「さあ、手間取らせて頂きましたが、小癪なあなたにはこれで死んで頂きますぞ」

 老いたヴァンパイアは口元を嬉しそうに歪めて剣を振り上げた。

 その時、慌ただしく旋律を詠む声が、闇に閉ざされた部屋に響き渡った。

 敵の背中の方、つまりは階段の前に、ライラが立っている。長柄の得物を片手に提げ、もう片方の腕には白い浄化の光りが輝き出していた。

「姉ちゃん、こいつヴァンパイアだ!」

 サンダーは有らん限りの声で叫んだ。

 すると、老ヴァンパイアは双剣を突然床に落とし、朗らかに、愉快そうに笑い声を上げたのだった。

 サンダーが驚きながら訝しんでいると、相手は言った。

「いやはや、悪戯が過ぎましたな。降参でございます」

「どういうことだ!? 急に命が惜しくなったとでもいうのか、ヴァンパイアめ!」

 ライラが声を鋭くして問い質した。

「私はヴァンパイアなどでありませんよ。ほら」

 老人は口に手をやり、突き出ていた牙を抜いた。それはヒラヒラと床に舞い落ちた。

 牙は羊皮紙でできていた。

「すみませんな。色々と説明せねばならぬでしょう。さあ、お茶を淹れます故、どうぞこちらへ」

 老人はサンダーの脇を通り抜け、食堂の蝋燭に火を点け始めた。

「サンダー、怪我は無いか?」

 ライラが傍に来て尋ねた。サンダーは頷き、立ち上がりながら、相手が落とした剣を凝視していた。

 それは最初こそ剣に見えたが、正体は堅そうな二本の木の棒であった。

 でも、凄まじい早さと、力を持っていた。これは事実であったため、サンダーは席を用意している老人に尋ねていた。

「本当にヴァンパイアじゃないの?」

 自分でも間抜けな質問だと思ったが、相手は穏やかに微笑み頷いて見せた。

「でも、じいちゃん、かなり強かったよ」

 すると老人が答えた。

「それは、こう見えて昔は、中央で王の近衛兵をしておりました。それ故、老いたりと言えど、少しは腕に自信はありましたもので」

 老人が席を勧めたので、サンダーと、ライラは警戒を解いて移動した。

 メアー老人は、厨房へ戻ると、程なくして、盆に湯気の立つティーカップを三つ乗せて戻って来た。

 差し出されたお茶は、綺麗に透き通った紅色をしていた。

 サンダーは突然、喉の渇きを覚え、それに口をつけた。

「それで、何でこんなことしたの?」

 サンダーが問うと老人は言った。

「実は、最初は泥棒かと思ったのですよ」

「泥棒?」

「はい。何故ならば、この時間帯にお客様達が一階に下りてくる事は、まず無いからなのです」

 そう言われ、サンダーは思案し答えた。

「料理に眠り薬を入れたから?」

「それもございます」

「それも?」

 そう応じてサンダーはもう一つのことに思い当った。

「階段の仕掛けだね?」

「仕掛けだと?」

 ライラが訝しげに尋ねたので、サンダーは頷き、老人に向かって話した。

「エメラルドの石がそうでしょう?」

「ええ、そうです」

 老人が答え、ライラが解りかねるというような顔をしたので、サンダーは説明してみせた。階段の窪みのことと、何度も二階へ戻って来たこと。拾ったエメラルドを手摺りの窪みに嵌めこむと、ようやく一階に下りる事ができるようになったことをだ。

「そうですか、エメラルドの石を私はうっかり落としてしまった様ですね」

 老人は苦笑いをして言った。

「それで、何故、眠り薬を盛ったのか、それと階段の仕掛けの事だ。話していただこう」

 ライラがやや強い口調で問い質すと、老人は頷いた。

「実は、深夜は、明日の調理の仕込みをする時間帯なのですよ。ですから、時々、生きたままの鶏を縊り殺す事もあるのです。全ては食品の新鮮さを保つためとはいえ、断末魔の悲鳴をお客様方に聴かせるわけには参りませんので、深夜だけは一階に下りる事を魔法の仕掛けで不可能にしておりました。ですからつい、うっすらと聞こえた忍び足に、私は外部からの侵入者、つまりは泥棒なのではと思い至ったわけですが……つい、お坊ちゃんが剣を手にしていたの見て、どうにも昔の近衛兵時代の血が騒ぎましてな。申し訳ありません、悪ふざけが過ぎました」

 老人が慇懃に頭を下げて謝罪すると、サンダーは呆れて溜息を吐いてしまった。こちらは真剣を手にしていたのだ。もう少しで、老人の首を貫くところだったのだ。ふと、サンダーは思い出した。老人の胸を突いた時、切っ先が阻まれた事をだ。

 サンダーが問うと、老人は割烹着のボタンを開け、胸元を見せた。そこには鉄の胸当てが仕込まれていたのだ。

「これは有事の際の備えです。腕に覚えがあるとはいえ、所詮、私は老人に過ぎません。もしも強盗が二人組でも襲ってきたら、たちまち討たれてしまうでしょう。これはそうなったときの備えで、常日頃から身につけておるのです」

 嘘ではないだろう。老人が一人で宿屋をやるのだ。このぐらいの備えは当然なのかもしれない。サンダーは老人に対する疑いを完全に解いたのであった。

 彼は素晴らしく爽やかな香りの立つ茶を啜ると言った。

「でも、じいちゃん、かなり強かったよ。身のこなし方も、俺より凄かった」

「御褒め頂きありがとうございます。それならば、まだまだ当分一人で宿を経営してゆく事ができそうですね」

 そうして少し談笑しつつ、夜の空気に身を浸らせた後、ささやかな御茶会はお開きとなった。

 サンダーはライラと共に階段を上がりつつ、彼女に尋ねた。

「そういえば、姉ちゃんは、どうして下りてきたの?」

 ライラは答えた。

「寝ている時に、誰かが激しく扉を叩いたような気がしたのだ。最初は夢かと思ったがな。それから不意に目が覚めて廊下を確認すると誰もいなかった。しかし、気になって出てみると、お前の部屋の扉が開いていたのを見つけたのだ。私はてっきり、あの御老体が体調を崩しでもして、お前が介抱しているのだと思ったのだが」

 ライラが他に何かを言ったように思ったが、サンダーは、不意に訪れた強烈なまどろみのせいで言葉が上手く聞き取れなかった。

 身体の感覚が変であった。まるで宙に浮いているような感覚だ。

 サンダーは察した。先ほどのお茶にも眠り薬が仕込まれていたのだろう。しかし、今回ばかりは老人の配慮と善意で行われた事だと思った。朝までぐっすりと、眠れなかった分までを取り戻してほしい。そう、考えていたに違いない。

「サンダー、大丈夫か?」

 ライラが問う声は妙にグニャグニャしているように聞こえたが、彼は頷いた。

「物凄く眠くなってきたみたい」

 サンダーが言うと、ライラが彼をヒョイと抱え上げた。

「部屋まで送ってやる。それとも私と寝るか? 私は構わないぞ」

 気遣わしげに尋ねられたのでサンダーは頭を振った。

「大丈夫だよ、一人で寝れるから」

 そうしてサンダーはついに睡魔に屈し、少しだけ早く彼女の腕の中で眠りについたのであった。



 五



 素晴らしい目覚めであった。まる三日眠りに着いたらこんな感覚だろうかと、レイチェルは思った。

 だが、身体中に気だるさは無く、むしろ爽快な気分であった。

 廊下で顔を合わせると、誰もが同じようなことを口にしていた。

 そうして待ちに待った朝食の席へ向かうと、そこにはやはりバスケットにたくさんの焼き立てのパンと、ジャガイモとトウモロコシのポタージュに、ソーセージが皿いっぱいと、昨日と同じくトマトや葉物野菜が山盛りになっていた。

 レイチェルの目の前で、すっかり腹痛が治ったのか、サンダーは物凄い勢いで食事やジュースを掻き込み、幾度もおかわりを宣言したので、レイチェルも慌てて食事にかぶりつきながら、少年同様、何度もおかわりをしたのであった。

「御二人とも良く食べますね」

「アンタ達、ホントに、お腹壊すわよ。そうなったら、本当に置いてくんだから」

 レイムが驚いたように言い、ティアイエルが呆れた声で続いて言った。

 するとパンの詰まったバスケットを手にし、メアー老人が現れた。

「まだまだありますよ。どうぞ御遠慮なさらないでくださいませ」

 そうして少し休憩した後、一行は宿を出立することにした。

 すっかり外の霧は晴れ、朝の陽射しが、緑と茶色を煌びやかに照らし出している。

「南の方角はここから真っ直ぐでございます。きっと寸分も違わずに村へ辿り着けるでしょう」

 メアー老人がレイチェル達を見送りつつ言った。

 一行は、メアー老人に別れの挨拶を述べて、いざ旅立った。

 それにしても素晴らしい日々だった。ぐっすり眠れたことと、たくさんの美味しい食事に思いを馳せながらレイチェルは今一度宿を振り返った。

 そして愕然とした。

 そこに宿の建物は無く、同じように微風に揺れる草原が広がっているだけであった。

「あ、あれ?」

 レイチェルは思わず困惑し、声を出すと、他の者も振り返り、驚きの声を上げたのであった。

「どういうことでしょう。見えなくなるほど歩いてもおりませんし」

 レイムも動揺しながら言った。

「狐に化かされたのかもしれねぇな。んでも、酒は本物だったけどよ。きっと酒好きの狐に違いねぇな」

 オルティーがしみじみとそう言った。

 

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