第17.5話 断章4 「闇の世界」 (前編)
大陸西部には大樹海がある。それこそが人間と闇の者との住処を隔てる分厚い境目であった。そしてその大樹海を更に西に抜けると、そこには永久に続くような広大な大地が広がっている。それこそが多種多様な闇の者どもの住まう世界であった。
闇の子爵サルバトールは、己が領地へと舞い戻り、主従ともども傷を癒そうと考えていたが、弱肉強食こそが、当たり前のこの闇の世界では、既に彼が脆弱な人間どもの地を奪い損ねた挙句、多大な犠牲を払って返り討ちにあったことが広まっていた。
サルバトールを侮る者どもは直ちに兵を起こすや、勢いに任せ、主が不在である間に、忽ちその領地を侵略し尽くし、互いに捥ぎり取っていたのだった。
もはや、闇の子爵に帰る場所は失われ、そしてその首には懸賞金がかけられた。ヴァンパイア一族の子爵が一人サルバトールと、傭兵団「漆黒」を率いる元兵団長の暗黒卿を誰が探し出し討ち取れるか、という競い合いが闇の世界に生きる全ての者達の興味を引いていた。この世界は敗者や、力無き者には容赦が無かった。
今、サルバトールは小高い丘にいた。彼は炎に巻かれる己が屋敷を眺めていた。敗北者の屋敷など見苦しい他に無い。そう判断したどこぞの野良犬どもが。混乱に乗じて、略奪した後、火を放ったのだ。
彼は悔しさに歯噛みした。このような結末を迎えるなど、彼の描いた筋書きの中では起きるはずも無かったのだ。今頃は、人間どもの世界に進出し、新たな多くの兵と我が新しい民とを抱えているはずであった。だが、人間どもは予想を越えるほど強く、そして賢しかった。クラメント、エレギオンの両神父に、異形の戦士と、老魔術師、そして小粒ながらも集結し、喰らい着いてきたその他の戦士達。
二度に渡って運が悪かったのだ。知らず知らずのうちにそう言い訳している己を幾度も恥じた。しかし、この悔しさ、もどかしさ、憤りを、我が屋敷を焼くあの紫色の闇の炎のように燃やし尽くせる機会は訪れるのだろうか。
足元で眠っているヴァンパイアの娘テレジアが咳き込んだ。エルフの矢はどれも幸いにして急所を外れたが、代わりに幾つもの深い傷を負わせていた。
失墜した我が誇りなど後回しよ。この娘を安静に休ませるような場所を見付けなければなるまい。しかし、何処へ行けばいいのだろうか。
ふと、茂みが乱暴に掻き分けられ、武装した数人の闇の一族の戦士達が躍り出てきた。
「おうおう、その面は、お尋ね者のサルバトールに違いないぞ!」
敵は次々と横並びになり、包囲するように広く展開してきた。
「下郎どもが!」
サルバトールは大喝し、両手の爪を鋭く伸ばし身構える。足元でテレジアが苦しげに呻き、ヨロヨロと立ち上がろうとしていた。
「閣下、御下がり下さい」
ヴァンパイアの娘は気丈にも己の手の爪を刃へと変え、敵に向き合った。
「邪魔な女め! なら貴様から死ねえいっ!」
大槍が繰り出される。しかし、それは突如として割って入った者の大盾によって阻まれた。
暗黒卿であった。両腕を半ばから失い、黒塗りの甲冑はボロボロに崩れ落ちていたが、それでも彼は強かった。
分厚い大盾を横薙ぎにし、突き出された全ての凶刃を圧し折り、打ち砕くや、もう片腕に括りつけた盾で、瞬く間に賊どもをまとめて殴打した。
脳天をかち割られ、血と脳漿を撒き散らした亡骸が幾つも吹き飛び転がった。
「フハハハハッ、軟弱な者どもよ。この通り、もう一人の賞金首、暗黒卿は満身創痍であるぞ。これを身を立てる機と思うならば、さあ、向かってくるが良い」
大勢の雑兵が打ちかかって行ったが、暗黒卿の膂力は凄まじく、動いたが最後、忽ちその盾の下に命を散らせていった。
「ようやく静かになったわ」
暗黒卿は亡骸の山を見ながら言うと、空を見上げた。
サルバトールにも分かってはいたが、そろそろ陽の出る時刻だ。人間と違い、闇の者達の休む刻の訪れである。中でもヴァンパイア一族にとって陽射しは命を脅かす大敵であった。
どこか木陰でやり過ごすしかないだろうか。サルバトールは周囲の木々を見回しつつ、テレジアのことも含めて思案していると、暗黒卿が突然、腕で指し示した。
目を向けると、一本の木の幹に二つの立派な棺桶が立て掛けられていた。
「子爵閣下よ、主従共にあれに入るが良い。我が引っ張って行こうぞ」
サルバトールはその心遣いに驚きながらも疑問を口にした。
「卿の気持ちは嬉しく思うが、果たして何処へ行けば良いのか……」
「その点ならば、心配は無用。我に当てがある」
すんなんりとした口調で応じられ、サルバトールは訳が分からず逡巡したが、ここまで付き合いそして尽くしてくれる男の言葉を信じてみることにした。
「ならば、全て卿にお任せしよう」
そうして鉄の棺桶に傷ついたテレジアを丁寧に寝かせ、蓋をすると、自らも棺桶の中に入った。そして言葉どおり暗黒卿を信じることとし、自らの棺にも蓋をした。
二
暗黒卿は、二つの棺を引き摺り、深い森を行き、やがて現れた荒野を横断した。
そうして、幾度となく立ちはだかった賞金稼ぎ達を撃退し、再び空には闇が広がる時刻となった。
ヴァンパイア主従は、それをにおいで察すると棺桶を開き、徒歩の人となり、黙々と闇の戦士の黒い背に続いた。
そうして、しばらく経つと、突然、荒野の右手から一筋の炎が、夜空目掛けて打ち上がった。
敵襲だ。大きな黒い背の後ろで、ヴァンパイア主従は、互いに緊迫した目を向けあっていた。
そうして前方と、左右から、土煙を上げて、無数の黒い影が蠢くようにしてこちらへ向かって来るのを見た。
今度は小勢ではなく、それなりに規模のある集団だろう。一定の距離を置いて集団が足を止めた。
「サルバトールだな! 人間に敗北した、情けなきヴァンパイア一族め! 我らはダークエルフ族、ガーランド男爵の戦士団である! お前達を粛清しに参ったぞ!」
隊列から騎乗した一人が進み出て、長柄の得物を振るって大音声で呼んだ。
横に展開する影は、見る限り五十はいるだろうか。これを三人で打ち破るのは、死を覚悟せねばならないだろう。しかし、こうなった以上は対峙するまでだ。
サルバトールは暗黒卿の隣に並び、両手の爪を身構えた。
「暗黒卿に告げる! ガーランド閣下は、貴公の力を大きく買われていらっしゃる。貴公だけでも速やかに降伏するならば、その命は助け、ガーランド閣下の騎士団の副団長の地位を約束すると、閣下の御言葉である。返事や如何に!?」
サルバトールは思った。卿はよくここまで自分を導いてくれた。その恩に報いてやるには、今こそ最上の機会ではないだろうか。卿の口添えがあれば、テレジアの命もついでに救われるかもしれない。
すると暗黒卿が言った。
「フハハハッ、小僧が笑止なり! 貴様程度の若輩が我が主を侮辱するとは、甚だ腹立たしい限りだ。来い、うぬら全てのそっ首を刎ねて、我が主に謙譲してくれるわ!」
そして、暗黒卿は腕に括り付けた大盾を構えて敵目掛けて単身で突撃していった。
「テレジアは、主を護れ! どこまでも、地の果てまでも護り抜け!」
そうして暗黒卿の姿は消え、次の瞬間敵の大将の目前に現れた。
大盾が振るわれ、大将は馬上から弾き落とされた。
途端に掛け声が上がり、抜刀した兵達が暗黒卿へ前からも左右からも斬りかかった。
「暗黒卿!」
サルバトールは救援に駆け出そうとしたが、テレジアが前に立ちはだかり、頑なに首を横に振りこちらを見上げて訴えた。
「閣下は行ってはなりませぬ!」
「い、いや、やはり私は行かねばなるまい!」
逡巡した後、サルバトールは心を決めた。
その時、幾本かの矢が乱戦の中からこちらへ飛来し、ヴァンパイアの娘の背中を貫いた。
「あっ」
崩れ落ちるを娘をサルバトールは抱き止め、憎悪を燃やして戦場を睨みつけた。
「下郎どもが! この闇の子爵サルバトールが、何もせぬ男だと思うなよ!」
彼は両腕を掲げて力を入れた。
夜空に黒雲が湧き出し、忽ち、月と星の煌きを覆い尽くした。
「くらえいっ! 我が怒りの雷を!」
漆黒の夜空に稲妻が走った。途端に太い落雷が敵の片方の端へと落ち、兵達を蹴散らした。
サルバトールは次の狙いをもう片端に定め、憎悪と共に雷光の鉄槌を下した。
だが、それだけで精一杯であった。失った腕を再生させ、全身の傷も防ぐのに、身体が勝手気ままに力を使い果たしていたのだ。
「卿よ、生きていてくれ」
サルバトールは乱戦の中へと目を向け、地面に突っ伏した。
その願いが叶ったのか、暗黒卿は大盾を振り回しながらその姿を見せた。だが、敵は蝗の如く、幾度も躍りかかって行く。
今一度、我が落雷を。サルバトールはそう決意すると、苦労しながら立ち上がった。
彼が両手を掲げ、憎悪の念を燃やそうとした時、遠くに新たな一団の影が見え、彼を驚愕させた。
だが、更に驚いた事に、その一段は矢を放ち、自分達を殺しに来た者達を次々と射抜いていったのだった。
「我は、アムル・ソンリッサ子爵である! 我らが客人の命を狙う者達を討ち果たしに参った!」
声高く女の声が轟いた。
矢の嵐にバタバタと倒れるガーランド男爵の戦士団は、大慌てで戦場から抜け出て、姿を散らせて行った。
「ここは我らがガーランド閣下の領地だ! 閣下が黙ってはおりませぬぞ!」
退却する敵兵の中で、敵の大将が振り返ってそう叫んだ。
「面白い、アムル・ソンリッサが、いつでも相手になるとそう伝え置くが良い!」
アムル・ソンリッサは長弓を引き絞った。そして放たれた矢は突風を巻き起こしながら、一直線に大地を横切り、遠く離れた敵大将の兜を射落としていた。
サルバトールはその長い銀色の髪と、細腕に見入っていたが、女が暗黒卿のもとへ走ったところで、慌ててその身の心配をしたのであった。
「卿! 暗黒卿! ズィーゲル!」
女は長い髪を振り乱して、相手に駆け寄った。
暗黒卿は二本の足で堂々と大地を踏み締めていた。無事のようであった。
「あなたという人が、人間に負けるだなんて!」
アムル・ソンリッサは、巨躯の相手を見上げてそう叫んだ。
「それにこんなにボロボロの姿に……」
「これが結果だ。人間にもそれだけの戦士がいたということを示すものだ」
暗黒卿が言った。
「信じられない」
アムル・ソンリッサは首を振り、そしてサルバトールを睨んで一瞥した。
「あなたは、これ以上、あの者といるべきではありません。私の屋敷に行きましょう。私と私の兵があなたを護ります」
サルバトールも頷き、二人に近づきつつ言った。
「卿よ、そうすると良い。貴殿は私のために良くやってくれた」
「フハハハッ、我が主よ。この私は、貴殿を主と決めたのだ。忠誠の儀が必要ならば、今ここで済ませてしまおうではないか」
暗黒卿はこちらを振り返るとそう言い、跪こうとした。サルバトールは慌てて止めた。
「私は、あなたを従者にするつもりはない」
「我が働きが御不満か?」
暗黒卿が言った。
「そうだ、卿が、このような負け犬にこれ以上付き合う必要はないのだ! この男が、卿の武名を汚したのだ!」
アムル・ソンリッサが美しい顔を憎悪に変えて、サルバトールを指さした。ヴァンパイアの子爵は戸惑いながらも、冷静に頷いた。
「その通りだ。私が至らぬばかりに、未来永劫、闇の世に轟くはずだった貴公の勇名を失墜させ、閉ざしてしまった」
アムル・ソンリッサがサファイアのような青い目で再びサルバトールを睨んだ。だが、暗黒卿は頭を振った。
「いや、あれは我が挑んだ戦いだった。そして敗北した。それこそが、むしろ、サルバトール卿の名に泥を塗ったに等しい罪ではないか」
暗黒卿はどっかりと地面に座り込んだ。
「敗戦の責任は我にあり。潔い粛清を望もう」
サルバトールはどうしたものかと困り果てた。すると、アムル・ソンリッサが溜息を一つ吐き、提案した。
「卿の主を慕う心はよくわかった。だが、いつまでもここには居られない。ならば、ひとまず互いに友誼を結んではどうか」
対等の立場になるということだ。サルバトールはそれこそ最上と判断した。
「ソンリッサ卿の言う通り、ひとまず友誼を結ぶこととして、この件は終わらせよう」
「なれば、ひとまずはそれで」
暗黒卿は頷いて立ち上がった。
「アムル、我らはちょうど貴殿の屋敷を尋ねようとしていたところだ。我と、ヴァンパイア主従の面倒をそなたに頼みたい」
「卿と、その友人だというならば、仕方がありませぬ。どの道、我らは、卿をお迎えに来たのですから」
「すまぬ」
暗黒卿が真っ直ぐに凝視し応じると、アムル・ソンリッサが顔を背け、再び目を上げた。
「ならば、急いで戻ることにしましょう。ここは我々にとって敵地故、ガーランドの騎士団でも出てくると大損害は免れません」
そしてアムル・ソンリッサは兵達に撤収を告げた。更に二人の闇の者の兵を呼び、暗黒卿と、サルバトールとに、転移の魔術を施すように言った。
「待ってくれ、ソンリッサ卿、我がしもべをここに置いては行けない。それに彼女は傷ついているのだ」
サルバトールが訴えると、相手は頷いた。
「心配はない。私が連れて行く」
そうしてアムル・ソンリッサは、横たわるヴァンパイアの娘を見下ろすと、抱き上げた。
「では、先に行く」
そしてその姿が消えた。続いて暗黒卿も消え、サルバトールも後に続いた。




