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冒険者レイチェル -全ての始まりの章-  作者: Lance
第一幕 「漆黒の戦士」
46/118

第16話 「東へ」(前編)

 どちらが話し始めたのかは忘れたが、レイチェルとライラは互いの家族のことを話し始めていた。

 レイチェルはまず漁師の父がいることを口にした。サンダーは眠り、ティアイエルも気を失ったままであった。サンダーと見張りを代わったライラが彼女の話しを聞いていた。

 次に出て行ってしまった母のことを話した。レイチェルはそうして語ってゆく度に、胸の中の痞えが止め処なく溢れ、孤独だった学校でのことまでも相手に聞かせていた。

 ライラは真剣に耳を傾けていてくれた。それから話の内容がどう飛んだかは忘れたが、今度はライラが語り、彼女はこう口にしていた。

「今の私にとって、お前達は家族だと思っている」

 神妙な口調で話した後、ライラは優しげな目で寝ている二人を一瞥した。

「サンダーは弟、ティアイエルは私よりしっかり者だが、それでも妹だ。レイチェル、お前も私にとっては可愛い妹だぞ」

 そうして、彼女よりも大きな手で頭を愛しげに撫でられた。そう真面目に言われ、レイチェルは嬉しくも、照れくさくも思い、こう口にしていた。

「クレシェイドさんと、ヴァルクライムさんはどうですか? 二人ともお兄さんみたいな感じですか?」

 その問いにライラは多少思案気に顔を歪めると、やがて言った。

「そうだな、正直なところ言うと、ヴァルクライムは父のような親類のおじのような……奴には失礼かもしれんが、そんな感じだ」

 なるほどと、レイチェルも思った。言われてみればヴァルクライムは、いつも冷静で気立ての良い言葉をかけてくれる面倒見の良いおじさんなのかもしれない。

「クレシェイドは、頼れる年上の従兄だ。うん、そうだ」

 ライラはそう言い頷いた。それも的を射ているような気がする。レイチェルは思わず微笑を漏らしていた。

 二人が顔をそうやって顔を見合わせていると、ふと、ライラがハッと目を見開いた。

「霧が晴れている」

 ライラは窓を振り向きつつ言い、立ち上がって歩み寄って行った。見れば、外は神々しい程の明るい日差しに満ち溢れていた。

 レイチェルは唖然とした後、慌てて窓へと駆け寄った。

 闇の霧は失せ、そこにははっきりとした町並みが広がっていた。

 レイチェルはふと、気付いた。ヴァンパイアは日の光が弱点だ。ならば、今の状況からすると、町中のヴァンパイアが灰になっているのかもしれない。

 ライラが窓を開けた。彼女は顔を出し、周囲を見回していた。

「雲は消え失せている。何処も彼処も日の光が照らしている」

「ヴァンパイアは消えてしまったのでしょうか?」

 レイチェルが尋ねると、ライラは振り返った。

「そうだな。それでも日陰を見付けて生き延びようとする奴もいるかもしれん。それにさえ警戒すれば、もう外を歩き回っても平気だろう」

 どうするか。外に出るか、否か。ライラはレイチェルの意見を求めているようであった。

 出るとしても、何処へ行けばいいのだろうか。戦に出掛けたクレシェイドとヴァルクライムを待つ場所としてどこが最適だろうか。彼女の脳裡を騎士の広場が過ぎり、イーレとシャロンお嬢様のことが思い出された。

 そういえば二人はどうなっているのだろうか。彼女は緊張し、嫌な汗が滲み出てくるのを感じた。

「レイチェル、大丈夫か?」

 ライラに気遣わしげに問われ、レイチェルは決断した。

「あの、伯爵様のお屋敷を見に行きたいのですけど……」

「伯爵様か。確かに御無事かどうかは気になるところだ。それに、生き残った人々がいるとすれば、誰もが領主のもとへと向かうかもしれん」

 サンダーを起こし、三人は家の外へと出た。

 ティアイエルはライラが背負っている。町の中は静寂に包まれていて、まるで森深くにある遺跡にでも迷い込んでしまったかのように思わせた。物静かな路地を行き、大通りに出たが、そこには人一人の姿も見えなかった。

 レイチェルは、どれぐらいの人間がヴァンパイアになってしまったのだろうかと考えた。

 ふと、先にある小道から、ヨロヨロと人影が歩み出てきた。しかし、声を掛ける間もなく、それは弱々しく天に向かって腕を伸ばすや、灰塵と化し崩れ落ちていた。ヴァンパイアだったのだ。敵対する闇の者だが、今はその姿がどうにも哀れに思えた。そういえば、何故、人間とヴァンパイアは仲良くできないのだろうか。ヴァンパイアは人の血を吸い、吸われた人間を闇のしもべとしてしまうからだろうか。

「おい、お前ら!」

 背後から声が聞こえ、一行は足を止めた。振り返れば、そこには二十人ほどの人々が身を寄せ合い佇んでいた。先頭にいる若い男は手に木の杭を手にしている。

「お前達はどっちだ、人間か? それとも……」

「我々はヴァンパイアではない」

 ライラが応じた。後ろの集団は、ガヤガヤと相談し、そして若い女が進み出て来て言った。

「陽の光の中でも平気なんだから、あの人達は人間よ」

 そして意見を一致させたらしく、人々の集団はこちらに合流した。老若男女は誰もが憔悴しきった表情をしていた。

「俺達は伯爵様の様子を見に行くつもりだが、あんた達もか?」

 杭を手にした若い男はライラに尋ねたが、その返事を聞く前に、その視線が遥か先へと逸らされた。

 レイチェルが見ると、大通りの路地という路地から、人々が次々と姿を見せ、鉢合わせるや、人間か否かの問答を繰り広げていた。だが、中には疑い深く、お互いが武器を繰り出して議論を白熱させる集団も現われたので、若い男は声を上げて宥めすかした。

「おおい! 陽の光の中でも平気なら大丈夫だろう! それが人間の証だ!」

 そしてその若い男を先頭に、集団は新たに現われた一同達の方へと歩んで行ったのだった。

 予想よりも大勢が無事だったとレイチェルは思い、それが自分の本音だったのだと気付いたのであった。

「レイチェル!」

 後ろから名前を呼ばれ、彼女は驚いて振り返った。

 白い神官の衣装をはためかせた、桃色の髪の少女が駆け寄ってきていた。

「アネット! 待って、私、ヴァンパイアかもしれないんだよ?」

 レイチェルが戸惑いながら言うと、アネットは息を弾ませ、顔を微笑ませた。

「こんなに眩しい中で平気なんだから大丈夫よ」

 そうして相手はレイチェルに抱き付いて来た。

「よく無事だったね、レイチェル」

 アネットはレイチェルの頭を胸に押し付けながら、優しい口調でそう言った。

 レイチェルはその包容力に、思わず涙ぐみそうになりつつ、顔を上げて頷いた。

「サンダー君に、ライラさんもいたから。あとは、ティアイエルさんもね」

 アネットは頷いて、レイチェルの仲間達を見た。

「ライラさん、サンダー君も、よくご無事で」

「アネットさんこそ。それに、この町にいるとは思わなかったよ。クレソナスさんは?」

 サンダーが応じて尋ねると、アネットは後ろを振り返った。そこには更に大勢の人々の姿があり、こちらを目指してきている。神官装束のクレソナスの姿はその先頭にあった。少年神官の隣には背の高い魔術師がいて、程なくしてその大集団は合流した。

「おお、シスターシルヴァンス、レイチェルさん! あの洞窟以来、本当にご無事だったんですね!」

 神官の少年は驚愕し、そして感激の咆哮を上げていた。そして素早く手を取り、握手をしてきた。

「それに、サンダー殿、ライラ殿も、またお会い出来て光栄です!」

 クレソナスの大声と、勢いに、ライラの方は多少戸惑いを見せつつ、差し出された手を握り返していた。

「しかし、これだけ大勢が無事だったとはな」

 ライラが言うと、アネットが答えた。

「私達は慈愛の神の聖堂に立て籠もったんです。司祭のクオーレ様と、こちらの魔術師ギルド支部長のロスト・フォトンさんのおかげです」

 隣にいる若い男の魔術師は頷いて言った。

「いや、君達も大いに人々のために尽くした。孤立した人々を何人も救い出したのは君達の功績だ。フリット神官長と、グラント司祭のことは残念だったが、エルド・グラビス殿がムジンリより戻ったら、そのように話をさせてもらうよ」

 そうして魔術師は、更に若い二人の神官二人の肩に手を置いて労った。

 それから大集団は、次々と膨れ上がり、民衆達は共に伯爵亭へと歩みを進めて行った。



 二



 ギラ・キュロスは届かなかった。二人の闇の者は漆黒の煙の中で上手く逃げおおせてしまったのだ。

 クレシェイドは闇の煙が消えるのを眺めつつ、心中で舌打ちをしていた。勝てる戦いだった。この剣ならば、助けに入った暗黒卿ごとサルバトールを葬れたはずであった。敵の判断が潔かったのだ。

 鎧の内側にいる闇の精霊達が大人しくなってゆく。頭上の黒雲が薄れ、日が射し始めていた。クレシェイドは背中から箱を下ろし妖剣を収めた。

 甲冑に身を固めたサグデン伯爵が歩み寄って来た。威風堂々とした見事な鎧姿であった。

「敵は逃がしたか。今一歩であったな。だが、ご苦労だった、クレシェイド」

 クレシェイドは頷いた。

「思わぬ邪魔が入ったが、あの鎧ずくめの者は何者だろうか」

「暗黒卿と名乗っておりました」

「暗黒卿?」

「ええ。ムジンリに赴いた我らは彼の者と剣を交えました。そこで勝利を収めましたが、肝心のサルバトールが発見できず、もしやと思い、急ぎ引き返して来たのです」

「そうであったか。……奴らはムジンリへ戻ったと思うか?」

 クレシェイドは思案し答えた。

「サルバトールに兵は無く、暗黒卿の傷も重いはずです。もう一方に我らの軍勢の屯するペトリア村があるわけですから、力ある闇の者とはいえ、敵も立て籠もることの無謀さを察しているでしょう」

「うむ、そうだな」

 伯爵は頷いた。

 エルドとヴァルクライムが姿を見せた。両者は肩を支え合い、ヨロヨロの足取りであった。

 サルバトールを討ち漏らしたことを詫びると、エルドは首を横に振って応じた。

「暗黒卿が割って入ってきたならば仕方あるまい。両者をまともに相手にすれば、貴殿とはいえ、ただでは済まなかっただろう。退けただけでも大戦果だ。奴らも我々人間の強さを思い知ったはずだ」

 そうこうしている内に、坂の下からポツリ、ポツリと、生き延びた民衆達が姿を見せ始めた。

 伯爵とエルドは彼らを迎え入れ、慰撫に努めていた。

「嬢ちゃん達も、ここに姿を見せるかもしれんな」

 ヴァルクライムが言った。

 生きているならばきっとそうだろう。そうであってくれ。クレシェイドは神に祈った。

 民衆は続々と姿を見せ始め、徐々にその集団も大きくなってきていた。クレシェイドは目を凝らして、その中に仲間達の姿が無いかと幾度と無く探っていた。しかし、ティアイエル達の姿は見付からなかった。

 嫌な予感が過ぎった。彼女達はヴァンパイアの歯牙にかかったのではないだろうか。そして既に灰と化し、この世に存在していないのではないだろうか。隣ではヴァルクライムが、落ち着いた態度で、人々の様子に目を向けていた。

 ふと、彼は列を掻き分けて、こちらに来る老人の姿を見付けた。それは「跳ねる翁亭」のモルドン老であった。

「お前さん方、仲間のお嬢さん達はどうしたね?」

 モルドン老が尋ねてきた。

「それが、まだのようだ」

 クレシェイドは焦る気持ちを抑えつつ答えた。すると老人が言った。

「ワシは、宿から聖堂まで、あの娘達と一緒に行動した。だが、戦神の聖堂が闇の者どもに襲われたとき、ワシは椅子の下から、あの娘らが逃げ去って行くのを確かにこの目で見届けた。心配するな、きっと上手く逃げおおせたじゃろうて」

 老人はこちらの背中を叩きながら慰めの言葉を掛けた。

 それからも人々は点々と、あるいは一群で、伯爵亭に集い始めていた。自分自身、忍耐強い方だとは思ったが、クレシェイドはそろそろ我慢の限界であった。

「ヴァルクライム、俺はティアイエル達を探しに行って来る。お前はここで待っていてくれ」

 有無を言わさない口調で彼は魔術師に言ったが、ヴァルクライムは首を横に振って微笑んだ。

「安心しろ、友よ。あれを見てみよ」

 振り返ると、新たに到着した一団が、それぞれ知り合いを見付けて散り始めている。彼らが消えると、そこに残されたのは、彼が待ち侘びていた仲間達、ライラに、レイチェル、サンダーであった。

 ティアイエルの姿が無い。いや、ライラの背にティアイエルの姿があった。彼はようやく心の底から安堵した。

 レイチェルとサンダーが嬉しそうにこちらの名を呼びつつ駆けて来る。

「二人とももう帰ってたんだ」

 サンダーが言い、ヴァルクライムが答えた。

「こちらに異変を感じてな。大急ぎで戻ってきたのさ」

「じゃあ、霧が晴れたのっておっちゃん達が何かしたわけ?」

「そうだな。クレシェイドが、ヴァンパイアの親玉を追い払ったのだ」

 少年と、少女が驚愕と尊敬の眼差しをここちらに向けてきた。クレシェイドは少々照れつつも、サルバトールを逃がしてしまったことを改めて悔やんでいた。奴がいるということは、またどこかの人里が、一夜にして闇の者の巣窟になってしまう可能性があるのだ。これを機に、町も村も、魔術師の町ブライバスンのように、ヴァンパイアの脅威を想定した備えを固めるべきだと彼は思い、サグデン伯爵へ目を向けた。

 伯爵は民衆の窮状に耳を貸しているところであった。だが、高らかに二名の従者の名前を呼ぶと、それぞれを使いとして、ブライバスン、ペトリア村方面へ向かうように命じた。

 リザードマンの従者ロブと、茶色の外套を羽織った黒髪の少女が、人知れずそれぞれの方角へと散って行った。人のいないムジンリと、人口が激減したであろうこのアルマンを、伯爵はどうにか立て直さねばならないはずだ。

 その伯爵がこちらの視線に気付き、民衆を掻き分けて歩み寄って来ていた。

「姉ちゃん、あの人が伯爵様だよ」

「え? お、お行儀よくしなくっちゃ」

 サンダーが囁くと、レイチェルは慌てて背筋を正していた。

 勇壮な鎧に身を固めた伯爵は、猛将のような威厳を漂わせていた。

「クレシェイド。その方ら、東へ向かう用はあるか?」

 伯爵の問いに、クレシェイドは、以前にヴァルクライムが言った言葉を思い出した。邪悪なる竜を追うため、東へ向かおうと、確か彼は言っていたはずだ。

 魔術師に目を向けると、ヴァルクライムは頷いて応じた。

「閣下、我々は東へ向かいます」

 すると伯爵は言った。

「ならば、無事な馬を貸す故、ティンバラヘ使者として赴いてはくれぬか?」

 普段はティアイエルの意見を伺うところだが、彼女はライラの背にいるので、今は、全員がヴァルクライムへと目を向けた。

「引き受けましょう」

 魔術師が言うと、伯爵は懐から、折り畳まれた羊皮紙を差し出した。

「これを、ティンバラの町長、ピャーノへと渡してくれ。できるだけ早急に頼みたい」

 ヴァルクライムが丁寧に書状を受け取ると、伯爵は、再び民衆のもとへと戻って行った。

「さて」

 魔術師は一同を見渡した。

「皆、ご苦労だが、我らはこれより急いでティンバラへ向かわなければならないが、その前に何か質問があれば伺おうではないか」

 するとレイチェルがすかさず手を上げた。

「ティンバラはどんなところなんですか?」

「山間にある小さな町だ。距離は馬で四日といったところか。特に目立ったところはない町だ。だが、嬢ちゃん、ティンバラの川魚は美味いぞ」

 魔術師の言葉にレイチェルは目を輝かせた。

「どんなのがあるんですか?」

「まぁ、色々あったが、そうだな。おそらくパン好きの嬢ちゃんが気に入るのは、油で揚げた魚の身を、リンゴとトマトと玉ねぎのタレで絡めて、葉もの野菜と共にパンに挟んだやつだろうな」

「それは楽しみです!」

 クレシェイドは、レイチェルの双眸に火が灯るのを見たような気分であった。

 程なくして、伯爵の家来が馬を四頭引いてきた。馬も鐙もどれも立派であったが、一際大きな身体つきの黒い雌馬を、家来はクレシェイドの前に止めていた。

「クレシェイド殿、貴殿はこちらを使うようにと伯爵様からの御言いつけだ」

「随分と立派な馬だな」

 クレシェイドが言うと、家来は答えた。

「それもそのはずです。この馬は名をストームといって、伯爵様の御愛用の馬なのです」

「そのような立派なものを、俺などが使って良いものか……」

 伯爵は重装のこちらを気遣ったのだろう。クレシェイドがその心遣いに感激していると、家来が告げた。

「そうですとも。ですから、ティンバラに御着きになった際には、他の馬と同様に、町長のピヤーノ殿へ、必ずお預け下さい」

「心得た」

 クレシェイドは馬に跨った。ガッシリとした筋骨隆々の馬の身体つきを、この身に感じるようであった。高い位置から彼は周囲を回した。仲間達は残りの馬に誰が乗るか話し合っている。民衆達の中で後ろにいる者達がこちらに好奇の目を向けていた。すると、伯爵の家来が大きく膨れ上がった背嚢を差し出してきた。

「これは道中の食料です。水は他の方々に渡しておきます」

「忝い」

 クレシェイドは背嚢を背負い、ギラ・キュロスの棺と並べて背中に結わえた。

 仲間達も話しが決まったようだ。ヴァルクライム、サンダー、ライラがそれぞれ馬に跨っている。ライラは眠っているティアイエルを前に乗せ、ヴァルクライムもレイチェルを乗せていた。

「よっしゃあ、この間は馬に乗れなかったからな。へへへ、俺もいっちょまえに馬を操れるってところを見せてやるぜ。ゆくぞ、シルバー!」

 サンダーが意気込んで手綱を握り締めた。途端に馬が棹立ちになり、軽く暴れたので、少年は顔を強張らせてどうにか宥めすかした。

「おやおや、馬に舐められてますな。それにその馬の名はノーティオと言います」

 伯爵の家来がそう言って、少年を見上げて微笑んだ。

 クレシェイドは今更ながら、ティアイエルが何故眠っているのか、疑問に思った。長い間見張り番でもしていたのだろうか。しかし、周囲がこれほど賑やかになってきたというのに、彼女は目を覚ます気配が無かった。彼は心配になって尋ねた。

「ライラ、ティアイエルに何があったんだ?」

「ああ、呪いの霧に少し当てられてしまったのだ。だが、心配は要らない。既に呪いは浄化した。あとは体力が戻るまで、このまま眠らせておこう。如何かな。あ、従兄上殿よ」

「なんだって? 俺が、兄だと?」

 クレシェイドが戸惑っていると、レイチェルが笑みを浮かべながら言った。

「ライラさんは、クレシェイドさんのことを頼りになる従兄の兄上のようだと思ってるんです」

 従兄の兄か。考えてみれば、なかなか核心をついた分析結果だと彼も感じた。ライラがそう慕ってくれるのなら、彼女を従妹と呼ぶことにしよう。

「嫌か、この呼び方は?」

 ライラが不安げに顔を歪めたので、クレシェイドは首を横に振った。

「いや、歓迎だ。君が俺をそう慕ってくれている間は、是非ともそう呼んでくれて構わない」

「おお、やったぞ、レイチェル」

「良かったですね、ライラさん」

 ライラは表情を明るくさせ、レイチェルと手を叩き合った。

 それから一行はティンバラへ向けて出立した。エルドと、弟子である少年少女の二人の神官が見送りに出てきた。神官の桃色の髪の少女の方はレイチェルの知り合いだったらしく、親しげに言葉を交わしあっていた。

 一行は静まり返った街の中を、東門へ向けて馬を進ませていた。その途中、傷だらけのエルフの男が、民衆に支えられながら歩いて来るのに出くわした。

「おお、サナ殿ではないか。御無事だったか」

 ライラが馬上から声を掛けた。

 サナと呼ばれたエルフは、疲労困憊の顔を涼しげに微笑ませて言った。

「ライラ殿、それに皆さんも御無事だったようですね。これから何処かへ向かわれるのですか?」

「ティンバラに行くんだ。伯爵様のお使いでね」

 サンダーが答えた。

「そうでしたか。どうぞ、お達者で。私はしばらくこの町に留まります。またお会いできると良いですね」

「そっちも元気でね」

 サンダーが応じると、エルフは微笑み、人々に支えられ去って行った。

 エルフのサナか。クレシェイドは、どうにもその名前に引っ掛かりを覚え思案していた。そういえば、エルフのエリーに、レイチェルが短剣を返した際、その正式な持ち主が、サナ何とかと言ったように思える。クレシェイドはエルフの背に一瞥を向けていた。あのエルフがそうだったのかもしれない。軽い運命の巡り合わせに感動しつつ、彼は馬を進めて行った。



 三



 アルマンの東の門を潜り、レイチェル達一行はティンバラへと街道を進んで行った。

 伯爵様の火急の用事のために、一行は途中にある村々を通り過ぎ、合間に短い野宿をして過ごしていた。

 変わったことがあったとすれば、ティアイエルが目を覚ましたことだ。彼女は、仲間達にヴァンパイアとの一件を聞かされた後、闇の霧に当たられて、長く気を失ったことを大いに悔やみ、多少不機嫌になっていた。

「ジミー、アンタの馬、アタシによこしなさい」

 サンダーが馬のノーティオに梃子摺ってるのを見ると、すかさず先輩冒険者はそう命じた。

「ええ!? だって、前のときは俺、乗れなかったし……」

 少年が、弱々しく反論すると、有翼人の少女はズカズカと歩み寄り、声高に言った。

「だって、アンタ、その馬に馬鹿にされてるじゃないの。アタシなら、そんなことはさせないもん」

「うーん。だったら、姉ちゃんが乗って、それでも上手くいかなかったら、その時はまた俺に返してね?」

 サンダーが悲痛な面持ちで訴えると、有翼人の少女は頷いた。

 乗り手が変わり、ティアイエルが颯爽と馬に跨ると、ノーティオは暴れようともしなかった。

「見なさいよ」

 ティアイエルが鼻高々にサンダーを見下ろして言った。ノーティオは有翼人の少女を認めたのだ。レイチェルもそう思った。

「まだだよ、動かしてみなきゃ分からないよ」

「あっそ。まあ良いけど」

 少年がそう言い、ティアイエルは手綱を握り馬腹を蹴った。

 しかし、ノーティオは口をモグモグ動かし、ノンビリしているだけで動こうとはしなかった。

「この、動きなさいよ! 走るのよ!」

 ティアイエルが再度試したが、馬は言うことを聞かなかった。

「約束だよ、俺に交代してね」

 サンダーが手綱を引き渡すようにと求めた。ティアイエルは馬上で歯噛みしていた。

 すると、ライラが歩み寄り、馬の頬に手を当てて、その目を覗き込みながら何事か話しかけていた。

「彼女の言うことを聞いてくれ」

 ノーティオが顔を上げた。

「ティアイエル、走らせて見てくれ」

 ライラが言い、ティアイエルは頷いた。彼女が手綱を握り、馬腹を蹴ると、ノーティオは駆け出して行った。そして少し先で止まり、こちらを振り返った。

「これで文句無いでしょ?」

 ティアイエルが得意げに言うと、サンダーはすかさず反論した。

「ずるいよ! ライラ姉ちゃんのおかげじゃん!」

「それでも今のアタシは乗りこなせているわよ」

 そうしてその場で一回りさせていた。

「ライラ姉ちゃん……」

 サンダーが恨みがましく相手を見ると、ライラは苦笑した。

「すまない、サンダー。ならば、私の方の馬を操ってみないか?」

「え、良いの?」

 少年が顔を輝かせた。

「ああ、私を後ろに乗せてな」

「うん、わかったよ!」

 少年は勇躍し、手馴れた動作で馬に跳び乗った。

 こうして再びティンバラへの道を一行は急ぎ足で進んで行ったのである。

 路面が剥き出しの土から、石畳に変わり、ティンバラの町並みが遠くに望めるようになったのは、それから、三日後のことであった。

 レイチェルは早くも、目的のパンのことを思い、口の中が落ち着かなくなってきていた。

 ティンバラは、木の柵に囲まれた町であった。門扉は鉄格子で、今は開け放たれている。門番が一人、入り口を塞ぐようにして、一行の到着を待ち兼ねていた。

 全員が馬から降りると、門番は一行の一人一人を見詰め、納得したように目を放した。

「通って良いぞ」

「我々はサグデン伯爵の使いの者だが、町長殿のお宅はどちらにあるかな?」

 ヴァルクライムが門番に尋ねた。

「この通りを真っ直ぐ行くと、十字路に出る。そこを北だよ。石の壁に囲まれてる家がそうだ」

 一行は街の中へと入って行った。さすがに小さな町だと言われるだけあって、行き交う人も賑わいもまぁまぁなものであった。少し歩くと、ヴァルクライムが言った。

「私とクレシェイドが、町長のもとへ赴くとしよう」

「じゃあ、俺達は宿を探してるよ。冒険者ギルドはあるの?」

 サンダーが尋ねた。

「ギルドなら、十字路を南だ。脱ぎ出す酔っ払い亭という名前だよ」

 門番がそう声を掛けてきた。

「脱ぎ出す酔っ払い亭か。じゃあ、おっちゃん達は用事が済んだらそこに来てね」

「わかった」

 十字路に差し掛かると、クレシェイドとヴァルクライムは、左右の手に、それぞれ馬の手綱を引いて去って行った。

 レイチェル達はそれを見送ると、通りを南の方角へと進んで行った。目的の建物、脱ぎ出す酔っ払い亭は、少し歩くと見付かった。扉は、レイチェルの腹から胸の辺りまでの小さな開き戸であった。

 扉を押し開くと、そこに結わえられていた鈴が小さく鳴り響いた。

 これまで同様、一階は食堂になっていた。客の冒険者が数人、談笑しながら食事を取っていた。

「見ない顔だな」

 男が声を掛けて来た。その風体は、鎖鎧の上に革の鎧を羽織り、鉄の兜を被っていたので、冒険者の戦士に思えた。しかし、相手は目の前のカウンターの後ろに居る。椅子に尻を落ち着けて怪訝そうにこちらを窺っていた。

 レイチェルは、男の左目が黒い眼帯に覆われているのを見た。そのせいか、少々厳しい面構えに見えた。

「六人なんだけど、部屋開いてる? できれば、三人、三人で、二部屋が良いんだけど」

 サンダーが臆する様子も無く相手に尋ねた。

「まあ、寝具を持ち出せば三人寝ることはできるだろうさ。多少、部屋は狭くなるだろうがな」

 店主は答えた。

「それで良いかな?」

 サンダーがレイチェル達を振り返った。レイチェルとライラは揃ってティアイエルへ目を向けた。

「良いわよ」

 有翼人の少女が答えると、店主はフンと鼻息を鳴らして、階段へと歩んで行った。

 四人は、手近の席に着き一息入れた。給仕の女が台帳を手にして歩んで来たので、それぞれ食べ物と飲み物を頼んだ。勿論、レイチェルは、待ちに待った、魚の挟まれたパンを頼んだ。川魚の甘辛ソースサンドという名前であった。

 そうして運ばれてきたのは、彼女が想像していたものよりも大きいものであった。大皿の端から端にドンと置かれている。ふっくらとした長いパンをめくると、そこには、頭を落とされた油で揚げられた大振りの魚の白身が、瑞々しい葉もの野菜の束の上に寝かされていた。そうして、たっぷりと溢れんばかりにかけらえたトマトを基調とした赤色のソースは、甘酸っぱい香りを飛ばして、こちらの意識を奪い、鼻腔から胃袋、そして腸までを大きく揺らめかせた。

「姉ちゃん、それ全部食えるの?」

 サンダーが心配そうに声を掛けてきたが、レイチェルは夢見心地で答えた。

「うん、平気だよ」

 レイチェルは、手で掴み、心を決めて、それに齧りついた。

 ああ、何てことだろう! 彼女はパンと具材達、それを纏めるタレと香料の、その相性の良さに思わず目を瞠った。ウディーウッドで食べたサンドとどちらが美味いだろうか。頭の中では両者を左右にし、審判の振り子が激しい動きで行き交っていた。

 もう一口齧り、咀嚼の後に、軍配はこちらへ上がった。ウディーウッドの走る親父亭の店主には申し訳なく思った。しかし、これが自分の結論なのだとレイチェルは自らに厳しく言い聞かせた。

 そうして、彼女は食べ終わってから、ようやく仲間達の呆気に取られた視線と、手元にフォークとナイフがあったことに気付いたのであった。

「アンタ、本当に大袈裟なほど、美味しそうに食べるわね」

 ティアイエルが紅茶を啜りながら言い、レイチェルは途端に恥ずかしくなった。

「でも、味の濃そうな物ばかり好むと、早死にするわよ」

 有翼人の少女は冷静な口調でそう言った。レイチェルは苦笑しながら、自分の皿に滴り積もったタレをどうにか食べる方法は無いものかと思案した。さすがに、仲間達の手前、指でペロリというわけにはいかない。しかし、どうにかしてタレを……どうにかしたかったのだ。

「それはね、茹でて潰したジャガイモと絡めて食べると美味しいわよ」

 そう傍で囁くように言ったのは、給仕の女性であった。美人で、気の強そうな顔をしていた。

「でも、それってメニューにあるんですか?」

 レイチェルが尋ねると、相手は笑った。

「随分、急いじゃったみたいね。それの下に付け合せはいかが? って字が書いてあったんだけど」

「今からでも?」

「言うと思ったわよ。はい」

 そうして目の前には、山盛りの茹でて潰されたジャガイモが皿に載って現われた。レイチェルは思わず感激した。

 彼女が一心不乱にスプーンでジャガイモをタレに絡めていると、隻眼の店主が階段を下りて来た。

「部屋の準備が整ったぜ」

 店主は卓の端に鍵を二つ置いた。そしてジャガイモを頬張るレイチェルをマジマジと見詰めて言った。

「お嬢さん、純朴そうだから、一つ忠告しておこう。最近、この町は、窃盗が多発している。大切な物はしまっておけ。それと歩き回る際にはそれなりに注意を払っておくのだな」

 口いっぱいにジャガイモを頬張りつつ、レイチェルが頷くと、店主は去って行った。



 四



 伯爵の使いを終えたクレシェイド達は、仲間達の待つ宿へと足を進ませていた。

 書状にはヴァンパイアとの一件のことが記されていたらしく、初老のティンバラの町長は、二人の前にも関わらず、大慌てで神官を集めるようにと使いを出していた。

「貴殿らが、手傷を負わせたとはいえ、その行方は知れぬのだ。この近くに潜んでいるやもしれん」

 町長は顔面を蒼白にさせ、そう言ったのだった。クレシェイドは、とどめをさせなかったことを胸の内で悔やんだのだった。

 帰路。仲間達と合流するため歩んでいると、不意に、背後から馬蹄が響きが聞こえた。

 クレシェイドが振り返ると、こちらへ真っ直ぐ猛進してくる馬があった。

「どけどけ!」

 馬上の者が大音声を轟かせると、人々は慌てて道を明けた。無頼の徒だろうか。クレシェイドも已む無く道を明ける。すると、目と鼻の先を通り過ぎようとしていた馬の上から素早く腕が伸び、クレシェイドの肩を押すようにして引っ掴んだ。

 突然のことに、クレシェイドは体勢を崩していた。そして顔の脇で刃が煌き、背中に結わえていた紐を切られるのを感じた。背後が軽くなった。目を向けると、遠ざかって行く馬上の上で、男が、ギラ・キュロスの納まった棺を小脇に抱えているのを見た。

「しまった」

 彼は己の迂闊を呪ったが、泥棒の姿は見る見るうちに遠ざかっていった。

 ギラ・キュロスは危険な代物だ。あれを他人の手に渡すわけにはいかない。彼は即座にそう判断し、魔術師を振り返った。

「ヴァルクライム、加速の魔術を!」

 だが、魔術師は首を横に振った。

「まあ、待て」

 そして彼は右腕を振るった。すると、光りの縄が伸び、それはあっと言う間に、遥か先を行く馬上の盗賊へと届き、その身を絡め馬から引き摺り落とした。

「さあ、行こう。この町中でギラ・キュロスを使われれば厄介だ」

 二人は駆けた。町の人々は遠巻きに盗人を取り囲んでいた。その間を掻い潜ると、盗人が起き上がった。だが、その手にも、周囲にも棺の姿が見当たらなかった。

 クレシェイドは焦り、よろめく相手の胸倉を掴んで怒鳴った。

「お前が盗んだものはどこにある!?」

 盗人の若い男はしばし呆然と目を漂わせた後、状況を理解したかのようにせせら笑った。

 クレシェイドはその頬を殴打してやりたかったが、堪えて、辛抱強く問い質した。

「惚けても無駄だぞ。あれは大切なものだ! そして危険な代物でもある! 何処へやったか言え!」

 相手は口を開く気は無さそうであった。そう判断すると、クレシェイドも強行手段に出るしかなかった。ミノスの大太刀を引き抜こうとしたが、ヴァルクライムが押し止めた。魔術師は周囲の人々に問い掛けた。

「すまぬが、誰か、この辺りに棺のような木箱が落ちているのを見なかったか?」

 観衆は、互いに顔を見合わせあった。すると、一人の女性が言った。

「それなら、馬に括りつけてあったわよ。だけど、何処からか男が来て飛び乗って行ってしまったわ」

 急いで追わねば。クレシェイドは男から手を放し、急かすように魔術師を振り返った。

 だが、ヴァルクライムは落ち着いた態度で、口笛を一つ高らかに吹き鳴らした。

 すると、商店の屋根の上から、鳥がバサバサと翼をはためかせて舞い降りてきた。ヴァルクライムが腕を差し出すと、鳥はその上に止まった。クレシェイドは鳥には詳しくないが、それが立派な猛禽類であることは見て解った。

「隼だ」

 観衆の中から誰かが言った。 

 ヴァルクライムは隼に向かって、何やら、途切れ途切れの音のような言葉を囁いた。そして手を振り上げると、隼は大空へと飛び立って行った。

 クレシェイドが真意を測りかねていると、魔術師は言った。

「あの隼が、剣の行方を追ってくれる」

 ヴァルクライムがそう言うならば、言葉通りなのだろう。クレシェイドは急きたい気持ちを抑えて言った。

「手遅れにならなければ良いが……」

 あの妖剣を手にすれば、普通の人々ならば、忽ち強烈な闇と呪いに支配されるだろう。それが盗人自身に死を呼ぶだけならば良いが、狂気を植えつけるとなると厄介だ。呪いは千差万別である。恐ろしい殺戮者を生み出す結果となることを彼は心配していた。

「急がば回れだ。多少、遅くなろうとも、正しい道順を知る方が、結果的には早く済むかもしれん。この男を、我々が拷問できるなら話は別だが、それは別の人間の役目だろうな」

「わかった。知らせを待とう」

 程なくして騒ぎを聞きつけた憲兵が三人駆け付けてきた。ヴァルクライムが魔術の縄を解放すると、憲兵の一人が盗人の手を掴み、両手を荒縄で縛り付けた。

「最近多発している窃盗の数々も、お前の仕業だな!?」

 よほど憤っていたのだろう。その場で憲兵が厳しく詰問した。盗人は面倒とばかりに顔を背けた。途端にその手が縄からスッポリと抜け、脱兎の如く群集の中へ飛び込み消えて行ってしまった。

「何という不手際だ!」

 まったくだ。

 憲兵達は慌ててその後を追って行った。これで当てになるのは猛禽の知らせのみとなったわけだ。

 それから二人は歩み出した。その途中、クレシェイドは幾度も空を見上げて、猛禽の影が過ぎるのを待ち侘びた。結局、そのまま脱ぎ出す酔っ払い亭の扉を潜ると、四人の仲間達が軽食を取っているところに出くわした。彼女達に己の間抜けを説明しなければなるまい。大切な剣を、泥棒に奪われたという情けない事実は、どうしてもクレシェイドの気を重くした。

「お帰り」

 サンダーが陽気に声を掛けて来た。そして二人は勧められた席へと座った。

「町長殿は、どのようなお方でした? あ、従兄上」

 ライラがやや恥ずかしげにそう尋ねた途端に、ティアイエルが咽った。

「ちょっと、何よそれ?」

 有翼人の少女は驚きながら、こちらとライラとを交互に見た後、鬼のような形相で、こちらを睨んだ。

「アンタ、ライラにそんな風に呼ばせてるわけ?」

 胸倉を掴むような勢いで、ティアイエルが卓上に身を乗り出した。

 クレシェイドは、どう言い訳しようが、悪い方向へ行くことを悟っていた。少なくとも、自分の口から、ライラ自身がそう呼びたいと言ったのだと、訴えたところで、ティアイエルは耳を貸しやしないだろう。だが、何か言わなければならないのも事実だ。

「最低の変態! 信じらんない! このポンコツ鎧馬鹿!」

 有翼人の少女は声を荒げてそう罵った。こちらが間誤付いていると、レイチェルが口を開いた。

「違うんですよ。ライラさんが、クレシェイドさんのことをそう呼びたいんです。そうですよね、ライラさん?」

 レイチェルに言われ、ライラは頷いた。

「その通りなのだ、ティアイエル。私はお前達を家族だと思いたい。だからそう呼ばせてもらってるのだ」

「アンタ、それ本当なの?」

 ティアイエルがライラに向かって驚いたように尋ねた。

「そうなのだ。だから私はお前のことも妹とも呼びたいのだ。私よりも大分しっかり者だが……もし良ければ……」

「べ、別に良いわよ。そういうことなら別に、ええ」

 ティアイエルは座席に収まった。さて、一段落したところで、いよいよ言わねばなるまい。クレシェイドは口を開いた。

「実は、お前達に言わなければならないことがあるのだが……」

 仲間達の怪訝そうな視線が集まった。

「先程、泥棒にあった……」

「あ、そういえば最近、泥棒が多発しているらしいよ」

 サンダーが割り込んでそう教えた。クレシェイドは頷いて、先を進めた。

「それで、盗まれてしまったのだ。ギラ・キュロスを」

 一瞬の思案の間の後、レイチェルとサンダーが、盛大な悲鳴を上げた。ティアイエルも目を大きく見開いている。するとヴァルクライムが口を開いた。

「まぁ、そういうわけだが、案ずるな。泥棒の行方は追跡してある」

「誰が追跡を?」

 ライラが尋ねた。

「鳥だ。隼だな」

 レイチェルとサンダーは、耳を疑うように互いに顔を見合わせていた。

「使い魔ね?」

 ティアイエルが言った。

「そうだ」

 魔術師が頷いた。

「使い魔ってなんですか?」

 レイチェルが尋ねた。

「魔術師が、魔術で使役した動物のことよ。高度な魔術師だと、自分の意識を使い魔に移すこともできるらしいけれど」

 ティアイエルが答えると、ヴァルクライムは頷いた。

「そのとおりだ。既に奴の姿は見付けてある。街道を東に進み、そこから先にある茂みに隠された道を進んでいるところだ」

「え? おっちゃん、もしかしてここから見えてるの?」

 サンダーが驚くと、ティアイエルが言った。

「さっき言ったでしょう。自分の意識を使い魔に移すこともできるの」

 だが、サンダーは首を傾げていた。ヴァルクライムが笑った。

「まあ、今、少年自身が言ったことだ。ここから、泥棒の背中が見えているわけだ」

 サンダーは半信半疑という様子で頷いた。

 そして、ようやくと言った具合に、ティアイエルの冷ややかな視線がこちらへ注がれた。

「面目ない」

 クレシェイドが謝罪すると、有翼人の少女は深く溜息を吐いた。

「こういう間抜けはこれっきりにして欲しいわね」

 そして彼女は椅子から立ち上がった。

「さあ、行くわよ。一応、借り物の剣なんだからね!」



 五



「ここだな」

 魔術師の手が丈の長い草の束を掻き分けた。

 東の街道の途中に、茂みに遮られた道が彼女達の前に現われた。幾度も踏み拉かれたような倒れた草の道である。道幅は広く、ずっと奥まで続いていた。

「奴は馬を飛ばしてこの道を進んでいる」

 ヴァルクライムが言うと、サンダーが駆けて行き、屈み込んだ。そして彼はこちらを振り返って言った。

「蹄の跡があるよ」

 少年の言葉に更なる確信を深めて一行は歩み始めた。

 森は静かであった。聞こえる音と言えば、微風が木の葉を揺らす音と、遠くで鳴く鳥の囀りだけであった。一行は黙々と足を進め、やがてヴァルクライムが告げた。

「相手は森を抜けたぞ。その先は広い湿原だな。さすがに馬を降りている」

「剣はまだあるんですか?」

 レイチェルが尋ねると、魔術師は頷いた。

「鞍に括り付けてある」

 そう答えると、魔術師が表情を険しくさせ、手を横に翳して一同の歩みを止めた。

 どうしたのだろうか。レイチェルが不思議に思っていると、葉を揺さぶる微かな音が彼女の耳にも届いた。右手の方から聞こえている。ガサガサガサと、その音は徐々に早く大きくなった。明らかにこちらへ近付いてきている。

「みんな、離れてろ」

 クレシェイドがミノスの大太刀を抜き、茂みを睨みながら言った。

 レイチェルは言われたとおりに後ろに下がった。他の仲間も、後退し身構えている。

 ガサッ。目の前に聳える草葉が揺らめくと共に、大きな影が飛び出してきた。

 その影が地に降り立つと、クレシェイドは一気に斬りかかっていった。

 しかし、彼の強烈な一撃を、現われた影は、首を捻って大顎で咥え込んだ。

 ガキッという金属の音が響き、レイチェルはようやく現われたものの全貌を見ることが出来た。

 それは大きな顔をし、四足で、黄色の体毛に覆われた大きな身体をしていた。ボサボサの茶色のたてがみは襟巻きのように生え揃っている。戦慄させるような凶悪に血走った双眸があり、太い鼻面は黒く突き出て、その周囲には幾つもの髭が飛び出ていた。そしてクレシェイドの剣を噛み締めるその口は大きく、太く鋭い牙が並び、今は荒々しく歯茎を剥き出しにしていた。

 これは恐ろしい猛獣だ!

 レイチェルが驚いていると、猛獣は太い首を左右に振るい、剣ごとクレシェイドを脇へと放り捨てた。

 その双眸がこちらを見た。

「そいつ、キマイラよ!」

 ティアイエルが叫んだ。

「皆、下がっていろ!」

 ライラが長柄の斧槍を振り翳し、猛獣へ向かった。

「ライラ気をつけて! そいつの尻尾は毒針よ!」

「わかった!」

 ティアイエルの助言にライラが頷く。すると、猛獣の方から素早く前足を突き出してきた。

 ライラは避けた。猛獣の爪は牙に巻けず劣らずの太さと鋭さであった。太い四肢から繰り出すあれをまともに受ければ、腸までも深々と切り裂かれてしまうだろう。

 ライラが得物を突き出し、猛獣の鼻面を突き刺した。彼女は更に力を加えるように足を踏み出した。

 途端に頭上に長い尾が現われ空中を素早く旋回し、ライラを襲った。その体毛の無い黒い尻尾は惑わすように空を泳ぐように動いた。

 その先端がティアイエルの言うとおり、細い針状になっているのをレイチェルは見た。

 ライラは得物を引き抜き、振るい、触れ動く尾を断とうとしたが、悉くかわされた。途端に、狙い済ましたかのように猛獣が彼女目掛けて飛び掛り、ライラを組み倒した。

 猛獣は左右の前足で彼女の両肩を押さえ込み、空へ向けて、粗暴な響きの咆哮を上げた。

「ライラ!」

 ティアイエルとクレシェイドが叫んだ。

「不覚だ! 油断した!」

 ライラが声を上げ、どうにか逃れようと身じろぎしているが、どうにもならないようであった。

 急いで助けなければならない。レイチェルはそう思ったが、生憎武器を手にしていなかった。ならば、拳で! 彼女は手を握り締めると、ティアイエルが手で制した。有翼人の少女はそうしながらも、もう片腕を掲げ、魔術の旋律を唱えていた。

 ティアイエルの掲げた手の先が光った。何かが起こったのだ。レイチェルは猛獣を見た。

 すると、周囲の草という草が伸び始め、互いに絡み合って縄となった。それが猛獣の首に左右から巻き付き、咽もとを締め上げ吊るし上げた。ライラはその隙に身体を転がせて逃れた。

「クレシェイド!」

 ティアイエルが叫んだ。

 甲冑の戦士は駆け、横合いから猛獣の身体目掛けて剣を突き出した。

 その刃は通り、猛獣の身体を貫き、反対側には刃の先端が僅かだが覗いていた。

 だが、猛獣は身体をよじり、吊るしていた縄を引き千切って離脱した。

 クレシェイドが剣を引き抜くや、雷鳴のような咆哮を上げて、彼に突進した。クレシェイドの身体は空高く舞い上がり、茂みの向こうへと落ちていった。

 キマイラは荒々しく息を吐きながら、こちらを振り返って睨み付けた。そして突進してきた。

「皆、避けろ!」

 ヴァルクライムが声を上げ、レイチェルは茂みへ駆け込んだ。彼女の隣にはサンダーがいた。二人は顔を見合わせ、耳を欹てた。猛獣の荒い呼吸が、葉っぱに遮られたすぐ向こうに聞こえる。顔を覗かせるわけにもいかず、二人にはどうしようもなかった。

 すると、目の前の茂みから怪物が顔を突き出した。

 二人は悲鳴を上げ、尻餅をついた。まるで憤怒しているかのような双眸がこちらを睨みつけている。咽を低く鳴らせ、そして牙を剥き出して身も凍るような咆哮を上げた。

 レイチェルは頭の中が真っ白になった。その自分を庇うように、サンダーが前に躍り出た。

「この野郎! 来るなら来てみろ!」

 サンダーは小剣を構えて怒鳴り声を上げ、レイチェルも正気に戻り、慌てて立ち上がって少年の後ろで身構えた。

 すると、土煙と共に怪物の身体が突然空に舞った。いや、そうではなかった。巨大な尖った岩が突如として地面から聳え立ち、その先端で猛獣を貫いたのだ。

 頭上でキマイラは弱々しく鳴き、そしてガクリと首を垂らした。おそらくは息絶えたのだ。

 その姿を見て、レイチェルは突然猛獣を哀れに思った。しかし、こうしなければ、自分や大切な仲間達が、その牙の犠牲になったのだ。彼女は、猛獣の御霊が獣の神のもとへ迎えるように胸の内で祈った。

「嬢ちゃん達、無事か?」

 ヴァルクライムが茂みを掻き分けて顔を覗かせた。

「これって、おっちゃんがやったの?」

 サンダーが尋ねると、魔術師は頷いた。

「レイチェル、サンダー!」

 ライラが飛び込んできた。

「おお、無事か!」

 こちらの様子を見て彼女は胸を撫で下ろしたようであった。クレシェイドとティアイエルも姿を見せた。そして改めて仲間達は、聳え立つ岩の針に貫かれた猛獣の亡骸を見上げていた。

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