第12話 「ミノスの里(後編)」
目の前に聳え立つ、雄牛の魔物を見上げながらレイチェル達は身動きが取れずにいた。その巨体の後ろには唯一の出口があるというのに、この魔物もまたそれを承知しているようであった。ティアイエルの言うとおり、この魔物は考えることができるらしい。相手は斧を身構えてはいるが、一向にその場から動く気配が見られなかった。邪悪な紫色に光る双眸は、レイチェルとティアイエルへと幾度も交互に動かされていた。言うならば、どちらから殺すものかと、迷っているようであった。
「アタシが気を引くから、アンタは隙を見て外へ逃げて。それでアイツを引っ張って来くるのよ」
レイチェルが異を唱えようとするのを察するように、有翼人の先輩冒険者はピシャリと言ってのけた。それでもレイチェルが頷かずにいると、ティアイエルは彼女の肩に手を置いて言った。
「シャンとしなさい。アンタの方が命懸けなんだから」
先輩の檄を受けてレイチェルの心は決まった。
「いくわよ!」
「はい!」
ティアイエルが両翼を広げ飛翔した。戦場に一陣の風が吹くや、有翼人の少女は、燃え盛るカンテラを敵目掛けて突き出した。ミノタウロスの視界に放射状の炎が迫る。魔物はたまらず片腕で顔を守ろうとする。その脇をレイチェルは駆けた。床を踏み締める大きな脚を通り過ぎ、豪雨が降り注ぐ夜の中へと飛び出した。視界の片側に、幾つかの炎が忙しげに揺らめいた。それは教会を包囲した悪しき人々であった。悲鳴と呻きを上げながら身体に引火した炎を消そうと、泥の上を必死に転がっている。彼らが未だに恐ろしかったが、クレシェイドの方へ行くにはそちらを通った方が早かった。そのため、レイチェルは突き進もうとした。
しかし、荒い呼吸が傍で聞こえたかと思った途端に、横合いから何者かに組み付かれた。レイチェルは背中から泥濘の上に落ち、我に返ったときは、凄まじい形相と勢いで、あの老人が自分の上に馬乗りになり、両手で頸を締め付けていた。
「逃すものか! この小娘が!」
これほど恐ろしい人の声をレイチェルは知らなかったように思う。手を懸命に伸ばし、老人の腕を掴んで引き剥がそうとしたが、枯れ木の様に細く貧弱な骨と皮だけのような腕は、予想を超えるほどの力に満ちていた。
咽は握りつぶさんばかりにグイグイ絞められ、咽からは声の代わりに詰まったような微かな音しか出せなかった。
だが、人影が老人の後ろに現れ、肩を掴んでレイチェルから引き剥がした。
「おのれ何者だ!」
レイチェルは溜まらず噎せ返っていると、悪鬼さながらの老人の声が一喝した。そして彼女を助けた人影が、隣に並んで言った。
「落ち着け御老体よ。我々はあなたに一杯食わされたが、あなたもまたミノタウロス一族に騙されたのだ」
影の様に黒い鎧の戦士はそう言うと、教会を振り返って声を上げた。
「仔細は聞いたぞ。ミノタウロス族の王、デズモンドよ!」
詰まった鼻息のような音が聞こえ、ミノタウロスが教会の中から顔を出した。紫色の眼光は凶悪なままであったが、レイチェルはクレシェイドがいるため、あまり恐ろしくは感じなかった。
「オウヨ! アルジ、デズモンドヨ!」
背後から雨音を打ち消すような重たい地鳴りが聞こえ、程なくして三匹のミノタウロスが現れた。彼らはまるで馳せ参じたようにも見受けられる。何故ならば、泥の上に片膝を着き、深々と頭を垂れたからだ。あまりの異質な光景に、レイチェルは絶句していた。
「デルー、デッツ、デヴィン。ワガ、キシタチヨ」
クレシェイドの言うミノタウロスのデズモンドは、訝しげに同族達を見下ろした。レイチェルがデズモンドを見ていると、その後ろからティアイエルが現れた。
「一体何なのよ?」
有翼人の少女は訝しげに魔物達を一瞥すると、クレシェイドに不機嫌な視線を向けた。
「全ては芝居だ」
クレシェイドはまずこう言い、そして言葉を続けた。
「彼らミノタウロス一族は礼節を知る者達だ。ただ少々、やり方が複雑で荒っぽかったようだが……」
その間にも、ミノタウロス一族のやり取りは続いていた。
「オウヨ、アルジ、デズモンドヨ。ワレラ、サンキシハ、ソコナヒトゾクノ、センシニ、スベテヲ、ハナシマシタ。コノセンシハ、ツヨイ!」
「ソノセンシノ、ツルギハ、オレナガラモ、ワガオノヲクダキ、ソシテ、ワガウデニモ、コノヨウナ、キズマデ、ツケタノデアリマス」
跪くミノタウロスのうちの二人が言い、王のデズモンドと呼ばれた、レイチェル達を襲った一際大きなミノタウロスは、目を瞬かせ、耳を疑うように彼らの言葉で問い質した。
それは野太く、ゆっくりとした音の繋がりであった。
「王は何と言っているのだ?」
クレシェイドはティアイエルに尋ねた。すると、彼女は顔色一つ変えずに答えた。
「アンタが、そこの三匹を打ち負かしたことが信じられないみたいよ」
レイチェルは先輩冒険者の知識に驚き感激していた。
「すごい! ティアイエルさん、わかるんですか!?」
「まあね」
三人のミノタウロスは、のんびりとした音のような言葉で王に説明をしているようであった。
「何て言っているのですか?」
レイチェルが尋ねると、ティアイエルは面倒そうに言った。
「誰がどうやられたのか、それを言ってるだけよ」
王は三人の主従と一頻り話した後、ようやくこちらを見た。そしてティアイエルに向かって彼らの言葉を話した。
「何て言っているんだ?」
クレシェイドが尋ねると、有翼人の少女は気を悪くしたように睨み付けた。
「どうして、アタシが通訳しなきゃならないのよ?」
「それは……。俺の知識不足だからだ。この長い月日の間に、彼らの言葉を学ぼうとは思わなかった」
クレシェイドは弱りきったように述べた。
彼がそう答えたのを見届けると、ティアイエルは不承不承というように話し始めた。
「お詫びにミノスの里へ案内しよう。浚った娘達は、その友人らも含めて皆無事だって」
「あいにくだけど、私達は先を急いでいるの」
ティアイエルはミノタウロスの王に向かって言った。すると、王のデズモンドは、激しく鼻を鳴らし、首を横に振った。相手の勢いからすれば、ミノスの里というところに是非とも招待したいという旨だろうと、レイチェルにも察することができた。王は肩を怒らせるように、それでものんびりとした野太い音のような声で言った。
「笑わせるわね。自分達は本当は紳士である事を分からせたいみたいよ」
王はティアイエルに向かって更に告げた。ふと、有翼人の少女が眉を顰め、王に向かって言った。
「それはどんなものなの?」
「クッキョウデ、ガンケン、ハーフエルフガ、ウッタモノダ。ワレラハ、ツルギヲツカワナイ。センゾモ、ミンナ、オノダ。コレカラモ」
王の言葉を受けてティアイエルは知性溢れる顔を思案下に変えた。そしてレイチェルとクレシェイドに言った。
「そのミノスの里とやらに行ってみる価値はあるかもね」
「何かあったのか? ハーフエルフがどうとか」
するとティアイエルは、クレシェイドの方を凝視し言った。
「アンタの剣があるかもよ。それも是非ともアンタに貰って欲しいって言ってるのよ」
二
「それは、本当なのか!?」
クレシェイドは驚きのあまり、有翼人の少女に詰め寄っていた。危く腕を伸ばして、相手の華奢な肩を揺さ振るところであった。
「カノツルギハ、オレヌ」
彼を正気に戻した一言は、ミノタウロス族の王、デズモンドのものであった。
「オマエノツルギヨリ、ズットリッパナ、モノダ。ダガ、ワレラ、ツルギヲ、ツカワナイ。ミノスノサトヘ、コイ。オマエナラ、フサワシイハズダ」
デズモンド王は不慣れな人語で、こう話を付け加えた。
「ソレニ、ムスメタチモ、ソノツレタチモ、ブジデアル。ミノスノサトハ、カノジョラヲ、カンゲイスル。モチロン、オマエタチモダ」
いつの間にか雨が上がっていた。薄い曇り空の向こうに、僅かばかり月明かりが見えている。クレシェイド達は四人のミノタウロス族を先頭に、馬を引きつつミノスの里へと出立した。その際に、村長と思われるあの老人を探したが、既にその姿は無く、炎に包まれていた村人と思われる者達も消え失せていた。
「何故、あの老人達を脅して騙したのだ?」
道すがらクレシェイドが尋ねると、王に従い先を行く、ミノスの三騎士のいずれかが答えた。
「ニンゲンハ、ワレラヲ、オソレ、ブキヲムケル。ハナシアイ、ニ、ナラナイ」
なるほどと、クレシェイドは頷いた。すると、別のミノスの騎士が言った。
「ソレニ、ワレラノ、ツヨイトコロヲ、ミレバ、ジョウジュスルト、オモッテイタ。ダガ、ダレモ、ワレワレノ、モトメニハ、オウジテクレナイ」
「やはり、お互いが違う種族だからではないか。あなた方の中にも女性はいるのだろう?」
「イマハ、イナイノダ」
先頭を行くデズモンド王が振り返って答えた。彼の頭は木々の枝から突き出ていた。
「ワレラハ、オオゲンカヲシタ。ミノスノキシ、ニ、オンナヲ、ミトメナカッタカラダ」
「彼女達は今は何処にいる?」
「ヒガシノハテ、ダト、キイテイル」
「後を追わないのか?」
「イマハ、ムリダ。ヤマゴブリンノ、リャクダツシャ、ガ、サトヲ、ネラッテイル」
たぶん、北に進んでいるはずだ。森深くに踏み入り、太い枝や茂みが、クレシェイド達の視界を何度も塞いだ。しかし、その度にミノスの騎士達は腕を伸ばして枝を柔らかく折り曲げ、草を掻き分けて、冒険者達を導いたのだった。彼らは「紳士」だと自称していたが、その通りなのかもしれない。
空に日が昇り、木々の隙間から光りの帯が差し込んできた。陽光は、ミノタウロス達の姿を明らかにした。彼らは黄金色の身体をし、うっすらとした茶色の体毛が背中を覆っていた。身に纏っているのは、革で出来た丈夫そうな腰巻だけであり、あとは鍛え抜かれた身体を誇らしげに露出させていた。
後ろを振り返ると、レイチェルの隣でティアイエルが大きな欠伸をしているところであった。クレシェイドが見ていると、彼女は不機嫌そうに睨み返してきた。
「まだ、着かないの?」
ティアイエルが若干声を荒げてミノタウロス達に言った。
「モウスグ。タカイ、シゲミノナカ、カベノ、フモト、ニ、イワガ、タッテイル。ソレコソ、サトヘノ、デイリグチ」
言葉どおり、その足が止まったのは、程なくしてからであった。地面が高々と隆起し、天然の石壁が目の前に立ちはだかった。その下は丈のある草が鬱蒼と生い茂っている。ミノスの騎士の一人が草を大きく掻き分けると、目の前には壁を背にした大岩が一つ、鎮座していた。
とても人の力で押せぬ物ではなかった。実際にミノスの騎士でさえ二人がかりで事に当たっていた。
岩が退かされると、大きな空洞が姿を現した。しかし、それでもミノタウロス達は屈まなければならなかった。王と、騎士の一人がそこに入ると、二人のミノタウロスが列から離れた。
「デルー、ト、デヴィン、ハ、ココデ、イチド、オワカレニナル。ナゼナラ、イワデ、フタヲ、シナケレバナラナイ」
三騎士は背格好は王より低いが、それでも彼らの体格は大きく三人は横並びであった。そのため誰が誰かは見分けがつかなかったが、おそらくはデルーがこう述べたのだろう。
「アタシ達を閉じ込めようって、魂胆じゃないでしょうね?」
ティアイエルがデルーに凄んでみせた。するとデルーは首を横に振り、デヴィンもそれに習った。
「オジョウサン、ワレラハ、ヒキョウヲ、キライマス」
「散々、人間を騙したり、誘拐したりして何を寝言言ってるのよ?」
ティアイエルが言うと、デルーは狼狽したように激しく頭を振った。
「モウシナイ。ユルシテホシイ」
ミノタウロスの王が、先のほうで振り返ってそう言った。
「ワレラハ、サミシカッタノダ。ヤハリ、オンナガ、コイシイノダ。ニンゲンノ、ムスメハ、チイサイ。ソシテ、カワイラシカッタノダヨ」
王は気落ちしたように言うと歩み始めた。ふと、レイチェルが声を上げた。
「ちょっと、待ってください! この方達を置き去りにして行くんですか?」
「イイヤ、ワレラハ、カベノボル。シンパイゴムヨウ。デハ、マタ、ノチホド」
心配そうなレイチェルに、クレシェイドは、頷いて先を促した。ひんやりとした洞窟の中を、ただ真っ直ぐに進んで行った。奥に行くほど暗くなり、そこでティアイエルがカンテラに火を点けた。眩い光りが、二人のミノタウロスの茶色の背を照らし出した。
分かれ道も無く、更に少し歩くと、先の方に明かりが見えてきた。それは人にしてみれば縦にも横にも幅のあり過ぎる出口であった。
青空の下、太陽がそろそろ昼を差そうとしている。ここは高い丘になっており、行く手は斜面になっていた。そしてミノスの里の大部分を一望することもできた。そこは中央に平坦な地があり、その周囲を遥か遠く、目の届かないところまで畑が続いていた。中央の平地では、幾つかの大きな影が動き回っているようだ。
すると、左手から重々しい足音がし、一人のミノタウロスが近付いてきた。彼もまた大きな刃のついた長柄の斧を手にしていた。その他には、これも人にしてみれば巨大な角笛をブラブラと腰に提げていた。
そのミノタウロスは、王の前に跪き、頭を垂れると、彼らののんびりとした様な言葉で何やら無事の帰還を喜ぶ旨を述べ始めた。王もまた労う様なことを言うと、再び一行を先導した。
たわわに実っている黄金色の麦畑の間に伸びた、幅のある道を一行は進んで行く。畑は予想以上に長々と続き、クレシェイドの後ろでレイチェルが、疲労の息を上げ始めた。
「レイチェル、馬に乗ったらどうだ?」
「大丈夫です」
レイチェルはニコリと笑って見せた。それにしても、広大な畑であった。その進み具合からして、王と騎士は、こちらを気遣っているようだが、歩幅のあるミノタウロスならばどうという道のりでも無いのかもしれない。ようやく終着点が見えてきた頃には、そこを行き交うミノタウロス達の姿と、人間の声がまばらに聞こえてきていた。
角笛が鳴り響き、ミノタウロスののんびりとした言葉が大音声で発せられた。すると王の帰りを出迎るかのように、数人のミノタウロスが現れ、入り口の左右で跪き、頭を垂れた。ここにいるのは約三十人ほどだろうか。そして人間達の姿は離れた場所に設けられた、背の高い雨避けの下にあった。恐々とというよりは、彼らは寛いだような、あるいは諦めたかのような、気の無い様子でこちらを見ている。そして彼の眼は更に鮮明な部分を捉えた。驚いたことに殆どが、軽装の鎧を身に着け、腰に得物を帯びていた。どうやら、あの村長の鴨になったのは旅の途中の冒険者ばかりだったようだ。当然女がおり、連れの男達もいる。
ミノタウロス達は口々に帰還の挨拶のような旨を述べ始めた。王は頷き、彼らの間を進んで行く。そして、王のデズモンドとミノスの騎士が通り過ぎると、傍の一人が立ち上がり、こちらの馬を指し示しながら、彼らの言葉で何事かを述べ始めた。とりあえず、馬を預かりたいのだろう。
「馬は向こうで管理するって言ってるわよ。食べるつもりじゃ無いでしょうね?」
「いやいや、彼らはそんなことはせんよ」
人語がどこからか飛び出して来た。すると、声の主と思われる髭の無い若いドワーフの男が、ミノタウロスの間を縫って歩み出てきた。
「それにあんた方を大切な客だと王は述べ追った。安心すると良い」
ドワーフはさっぱりとした笑い声を上げると、ミノタウロス達の中へと消えて行った。クレシェイドは、あのドワーフはミノタウロス達の鍛冶師なのだろうと考えた。
クレシェイドが手綱を渡すと、ティアイエルもそれに倣った。彼女が疑惑の目を向けていたためか、縄を受け取ったミノタウロスは、半ば戸惑い気味に慎重にそれを受け取ったのだった。
それから冒険者達は平地の奥へ奥へと誘われ、反対側の畑の近くに立てられた大きな雨避けの前まで案内された。
「オウノ、オヘヤダ」
ミノスの騎士が言った。
「アナタガタ、ココヲ、ツカウガヨロシイ。オウノ、メイレイダ」
改めて見ると、雨避けの他には、剥き出しの地面しか無い所であった。ミノタウロス達は地べたに寝るのであろうか。
「ソノトオリ。バンゴハンマデ、クツログガ、ヨロシイ」
王のデズモンドは、そう言い残すと騎士と共に立ち去って行った。
三人は顔を見合わせて途方に暮れていた。
「夕食まで、こんな退屈なところで寛げっての?」
ティアイエルは肩をすくませながら言った。王の部屋だと言われても、そこには太く長い柱と、広々とした木の屋根しかなかった。そして周囲をみれば畑ばかりである。
「連れて来られた人々と話しに行ってみるか?」
クレシェイドが提案すると、二人はそれに従った。そして雨除けの建物以外に何も無い平地を適当に巡ると、女の声が聞こえた。前方にミノタウロスが居り、見下ろす先に人がいた。
ミノタウロスが、彼らの悠長な音のような言葉で話し始めると、女は答えた。
「あのね、わかって頂戴。駄目なものは駄目なのよ」
うんざりするように彼女は言うと、亜人に背を向けて去って行った。ミノタウロスは呆然とその姿を見送り、そして地面に崩れ落ちるようにして両膝を着いた。そしてうなだれる様に、首を左右に振り、悲しげな一声を発した。
「どうしたんでしょうか?」
レイチェルが不思議そうに顔を歪めた。
「振られたのよ」
ティアイエルがサラリと答えた。それから三人は、同じような光景を幾度と無く目撃することとなった。愛を告白するミノタウロスに、戸惑いながらやんわりと、あるいは毅然とした態度で断りを入れる人間の女達。彼女らの大半が冒険者で、その場合は少なくとも男の道連れがいた。
「悪い奴らじゃない」
ミノタウロスが肩を落として去って行くと、赤い長髪の女の冒険者が言った。
「そりゃあ、あの羊飼いの老人に騙されて、こうして軟禁されてるわけだがね。でも、美味い飯が食えるし、一人、一日一回の挨拶みたいな告白さえ、上手くかわせれば、実際ここは骨休めに最適な場所さ。だけど、そろそろ外に出なければならない。何故なら、ギルドの手紙の配達が、期限間近なのだよ」
彼女がそう話していると、どこからともなく、新たなミノタウロスが現れた。
「ああ、面倒だな。あの者は、こっちの言葉が分からぬから、身振りで示すしかない。悪い奴らじゃないだけに、むしろ性質が悪いのかもしれんな」
彼女は溜息を吐きながらも、相手の方へと歩んで行ったのだった。そんな光景が八方向、あらゆる場所で繰り広げられていた。中には、仲間の女性の代わりに怒号を発し、手荒く剣を引き抜く男も幾人か見受けられた。ミノタウロスは、激しく傷ついたように、よろめいて後退し、そして肩を落として去って行くのだった。
さて、ここで不思議なことにクレシェイドは気付いた。何故、ミノタウロスは、こちらの麗しい二人の姫君に向かって来ないのだろうか。王が独占権を持っているのか、それとも単純に好みの姿では無いということか。クレシェイドにしてみれば、彼女らは妹のような存在であった。そしてレイチェルは可愛らしく、ティアイエルはそろそろ大人の魅力がその片鱗を覗かせていた。
「おう、両手に花か、羨ましいね」
男の冒険者が言った。相手は仲間の女の代わりに、ミノタウロスにやんわりと断りを入れた後であった。
「ここにはどれぐらいいるんだ?」
クレシェイドが尋ねると、男の代わりに、魔術師風の長い外套を羽織った女性が答えた。
「もう、四日程になるかしら。そろそろ、解放して欲しいのだけれど、四方の門には番人が居て、彼らは意地でも阻んでくるわよ」
「美味い飯が三食と、午後にはこれまた信じられないほど美味いジャガイモのケーキが出るのさ」
男が続けて言った。
「だが、どうも奴らにはそういうので懐柔しようとか、そういう腹積もりはないようにも思える。正直、その辺りのメリハリ、奴らのそこが俺は気に入ってる。だから、昔からのギルドの風評なんざ、もう信じる気も無いね。いっそ彼らも表に出てくれば良いんだ。そして自分達の存在を大っぴらにして、俺ら人間や、エルフにドワーフ、その他に認めさせれば良いのさ。そうさ、俺はミノタウロスが気に入ったよ」
去り際に男はアロゼと名乗り、後は連れの女はフランだと紹介した。そして広い平地には、いつしか夕暮れが見え始めていたのだった。三人は戻るべき場所への帰路に着いたが、その途上で、彼らはミノタウロスが夕食の支度を始めている場面に遭遇した。
大きな石臼を、踏み台の上で二人係で引いていた。雷のような音を響かせ、臼が回る度に、隙間からはふんわりとした小麦の粉が溢れ出ていた。それは斜面の上を流れ、木でできた広い受け皿に漂着する。
傍では他のミノタウロス達が小麦を練っていた。彼の身体に合わされた磨かれた石の台の上では、小麦粉は特大のパンの形へと姿を変えていた。だが、別の台の上には、人に合わせた小さなパンの姿も見受けられた。ちょうど、それを一人のミノタウロスが、木ベラで板の盆の上に掬い取っている。おそらくは、竈に持って行くのだろう。相手が振り向いた先には、予想通りに、小屋のような石造りの竈があり、モクモクと白い煙を上げていた。屋根のある広々としたミノスの厨房では、他にも野菜を洗ったり、刻んだりと、大忙しのようであった。クレシェイドは、端にある石造りの井戸が、開け放たれた城門のように広いのを見た。そうしているとミノタウロスがどこからか駆けて来て、身振り手振りを交えて部屋へ戻るように告げたのだった。
ミノタウロスの王は、三騎士と、新たに小柄なミノタウロスを一人従えて部屋で待っていた。
クレシェイドは、冒険者達に聞いた、彼らに対する良い評価や、厨房の様子を思い出すや、王に対して心から敬い跪いたのだった。レイチェルもそれに従い、ティアイエルも付き合いというように渋々倣った。
すると、王のデズモンドは、彼らの言葉で何事かを述べた。
「そのようなことは無用。どうぞお立ちになるように。と、王は言っております」
すらすらと話したのは、小柄なミノタウロスであった。声こそ野太いが、背丈からすればまだ少年か、あるいはそれより少し上というぐらいだろう。クレシェイド達が戸惑っていると、通訳のミノタウロスは安心させるように頷いてみせた。
「では、お言葉に従って」
クレシェイド達は立ち上がった。王は彼だけを無言で見下ろし、そして右手を三騎士の一人へと伸ばした。騎士が三人の内、誰なのかは元々失念していたが、その騎士は大振りの剣を、王へと柄から差し向けた。ミノタウロスの手にすれば、小剣だが、人にしてみれば巨大な剣である。茶色の革で丈夫そうに作られた鞘に収まっている。話に聞いていた剣かと、クレシェイドは胸を高鳴らせていた。そして王は、その剣を大事そうにこちらへ差し出したのであった。
「センシヨ、ウケトルガ、ヨロシイ」
王は言った。
黒塗りの柄の先にはそれぞれ、銀色の鍔と、膨らみがある。柄を握り、両手でそれを受け取った。剣の重さと、頑強さが、柄を握り締めた指の中から身体中へ染み出るように伝わって来た。
王が言葉を話し始め、小柄なミノタウロスが通訳した。
「と、ある旅人が滞在中に、食事の対価として打った物ですが、我らは剣ではなく斧を使います。その旅の鍛冶師は肉切り包丁にでもするようにと言ったのですが、そうするにも、恐れ多い品だと、王は悩んでおられました。しかし、これを振るえる人間がいたとすれば、その者こそ、武人の中の武人、勇者の中の勇者にだろうと、王は予てより思われ、同時にそのような人間の到来を心待ちにしておりました。王は、あなたがその剣を引き抜く姿を早く御目に掛けたいものだと仰せです」
「ならば、そのお言葉のままに」
クレシェイドは外へと出ると、柄に掛かった鋲打ちの留め金を外し、そしてゆっくり抜き出てくるその刃を見詰めながら引き抜いた。
それは、片刃の太刀であった。鏡のような刃には幅があり、今は落ち行く陽光を反射し紅に煌き輝いている。無骨そうだが、そうではなく、かといって飾り気はないが、美しい剣であった。
王が何事が述べ、通訳が言った。
「真にお似合いだと仰せです」
その重さは、城壁の剣や岩崩しの斧を越えていたが、彼にとっては申し分の無い、むしろ臨むところでもあった。
「フルッテ、ミヨ」
王が言った。紅色に染まりつつある陽を身体の脇に受け、剣を振り被り、まずは一振りした。風が唸りを上げ、彼の周囲で一陣の砂塵が巻き上がった。
「フム。コレホドノコトガ、デキル、ニンゲンガ、イルトハ、オモワナンダ」
王は感心するように言った。クレシェイドもまた、この太刀ならば、己の全てを発揮できるかもしれないと感じた。彼は屋根の下へ戻ると、王に礼を述べた。跪くべきか、逡巡したが、先程の王の言葉を思い出し、立ったまま相手を見上げて礼を述べた。
「王よ、このような逸品をお譲り頂き、真に忝く思います」
王は嬉しそうに咽を鳴らして深く頷いた。そして紫色に光る双眸をジッとこちらへ向けて、彼らの言葉で何事かを尋ねたようだった。すぐに小柄な通訳が口を開いた。
「王は、あなたが、その剣にどのような名前を付けるか大変興味を持たれております」
「ならば……」
クレシェイドは僅かに悩んでその名を決めた。
「やはり、ミノスの地より齎されたもの故、ミノスの大太刀と名付けようと思います」
彼が答えると王は声を上げて楽しげに笑った。そして何事か言い、小柄なミノタウロスが通訳した。
「我れらが名を冠する剣は、後にも先にもその一振りのみだろう。と、王はおっしゃられております」
それからは、平地の中央に誘われ、そこで他の人間達と共に宴となった。だが、宴と言っても静かなものであった。巨大な篝火を人とミノタウロスが囲み、運ばれてくるパンや、焼かれた肉、果物、そして酒に舌鼓を打つだけの粛々としたものであった。だが緊張の空気とは無縁であった。人々の顔を見れば、誰も彼もがその味に魅了されている。彼の傍らにいるレイチェルは勿論、ティアイエルもまた同じであった。だが、クレシェイドは、その身の上のためそれを味わうことはできなかった。彼はミノタウロス達が樽のようなグラスで酒を煽っているときに、自分の食べ物をそっとレイチェルに渡し、椀に注がれた酒の方は、隣で酔っている冒険者の男の空の椀と取替えなければならなかった。宴を催したミノタウロス達の心情に水を差さないことだけを第一に慎重に密やかに行動した。宴も酣になった頃、王の通訳が突如として口を開いた。
「人族の方々よ、我らが王は、あなた方をこのような形で招待してしまったことを、大変申し訳なく思っております。明朝、朝餉の時が済み次第、あなた方を外の世界へと御送りすることを約束したいとのことです」
この知らせに、人々の顔は明るくなった。
「それで王様、あんた等はどうするのだ?」
あの赤い長髪の女が篝火の向こうにいる王に向かって尋ねた。
「嫁はもう探さなくて良いのかい?」
すると、王は言った。
「ワレラハ、タビニデル。ヒガシニオモムキ、オンナタチト、ハナシアウ」
「ああ、それは良い考えだよ」
赤い髪の女は激励するように言うと、椀の酒を一気に飲み干して見せた。そして言った。
「だが、あたしらがそうだったように、世間の人間達は、あんた達を悪魔の様に恐れている。知っての通り、外はすっかり人間達が支配している世界だ。森を行こうが、山を行こうが、行き着くのは人の集う所さ」
「タシカニ、ソウダガ……」
王は思案げに声を落とした。
「まぁ、そう落ち込むことは無い。こんな時は人間の冒険者を雇えば良いんだよ。冒険者が、女達の居場所を突き止めて、まずはあんた等男達の意見や、気持ちの書き綴られた手紙を届けるだろう。そして、今度は冒険者は女達の手紙を持って戻ってくるだろうさ」
「ソレハ、チト、ユウチョウ、デハ、ナイダロウカ?」
王は咽を唸らせながら赤髪の女に尋ねた。すると女は気持ちの良い笑い声を上げた。
「その悠長な間に、あんたら男達にはやることがあるんだよ」
王は真意が分からずに首を傾げて相手を見た。
「ミノタウロス一族にかけられた風評と嫌疑をまっさらにするのさ。そのためには、外の世界にいる、人間や、エルフ、ドワーフ、その他の種族に掛け合わなければならない。そうすれば、人は今後、あんたらに剣を向けることは無いだろう。それに、お互い交易って言う、物々交換だってできるようになる。あんたらの酒や、作物は素晴らしく美味い。それこそ外に出れば、たちまち人気者になれるさ」
王や、他のミノタウロス達は互いに、彼らの言葉で悩ましげに話を始めていた。人々はそれを慈愛に満ちた表情で眺めていた。程なくして王が、赤い髪の女に言った。
「ワレラハ、テガミヲカク、ボウケンシャヲ、ヤトウ。ボウケンシャヲ、ヤトウニハ、ドウスレバイイ?」
「その点は、心配無用だよ。何を隠そう、あたしが冒険者なのさ」
「オオ、ナラバ、オマエヲ、ヤトウ」
「はいよ。ならば、手紙が出来次第、出立するよ」
「だったら!」
そう意気込んで声を上げたのは、見覚えのある冒険者であった。確かアロゼと名乗った男である。
「俺とフランは、ミノスの使者が人の町へ赴く際の護衛と通訳を務めよう。この役目は名誉なことだ。是非ともやりたいね」
アロゼは長剣を佩き、革と金属が縫い合わされた胴鎧を身に纏っている。その隣で、フランと名乗った相棒の女魔術師はニッコリと微笑んだ。王はその申し出の意図を理解するのに、少々時間を要していた。通訳と、三騎士達と話し合い、ようやく相手の冒険者に向かって頷いた。
「ワレラハ、オマエタチモ、ヤトウ」
それから宴は粛々と続いた。その間にクレシェイドは思案し、やがて決意を固めると、アロゼの後ろに歩んで言った。
「やあ、御同輩楽しんでるか?」
アロゼが振り向いて尋ねた。酒で顔を真っ赤にしている。彼の膝の上では、相棒の女魔術師が寝息を立てていた。クレシェイドは、ブライバスンの魔術師ギルドの長を務める、ゼーロン・ゴースが渡した印を相手に見せた。アロゼは不可解だというようにこちらを見た。
「これがあれば、ブライバスンの魔術師ギルドの長とすぐに話せるだろう。ゼーロン・ゴースという男だ」
「そいつはありがたいが、あんたには重要なものじゃあ無いのか?」
「そうかもしれない。だが、ミノタウロス一族には、個人的に大きな借りを作ってしまった。それを返すには今しかないと思ったのだ」
「よくわからないが、そういうことならありがたく頂いておくぜ。俺も奴さんらも素早く事を運ばせたいしな」
それから宴は誰もが上機嫌で終わり、人々は篝火の切れ端を持たされながら、それぞれの場所へと引き上げた。腹が膨れたようで、レイチェルは歩きながらうとうとし始めていた。ふと見ると、ティアイエルも同じであった。そして二人の足取りが覚束なくなってきたのを見計らい、クレシェイドは、そっと、それぞれを左右の肩に抱き上げた。程なくして彼の顔の隣で、二つのか細い寝息が聞こえ始めた。
三
明け方、ミノタウロス達が突如として慌しい動きを見せた。すると、通訳を務めていた小柄なミノタウロスが長柄の斧を手にし、息急ききって現れた。クレシェイドが歩み寄ると、相手は呼吸を整えながら話し出した。
「西門に山ゴブリンの軍勢が現れました」
見れば、西の方から黒々とした煙が長い帯状になって立ち昇っている。クレシェイドの隣に、目を覚ましたティアイエルが並んだ。
「軍勢の規模は?」
クレシェイドが尋ねた。
「知らせでは三百程だと。王が三騎士と、ミノスの男達を連れて迎撃に赴いております故、ここまでの心配は無いと思われますが、皆さんは中央に集まって下さい。我が同胞の数人が、あなた方をお守り致します」
そして通訳のミノタウロスは西の方へと駆け去って行った。
「レイチェル、起きて!」
ティアイエルが声を掛けると、神官の少女は寝惚け眼を擦りながらも、剣を掴み寄せて起き上がった。
「どうしたんですか?」
「敵襲よ」
そう言われ、レイチェルは姿勢を正して、周囲へ目を走らせた。彼女も煙を目に留めたようだ。
「まだ、ここまでは来ていない。ミノタウロス達によれば、被害が及ぶ事は無いらしいが、念のため中央に集って欲しいそうだ」
それから三人は駆け足で指定の場所へと向かった。この広い平地のどこが中央なのかは、それは佇む四つの巨躯の影が知らせてくれた。
人間達が緊迫した表情で集い、斧で武装したミノタウロス達が、それぞれ四方を向いて取り囲んでいる。三人の姿を見ると、ミノタウロス達は、彼らの造った安全な陣形の中へと促すように、彼らの言葉で言った。既に他の人々は集っていた。彼ら三人が入ると、ミノタウロスの一人が、人々に彼らの、のんびりとした言葉で事態を説明し出した。だが、どうにも、理解するのが難しく、人々は困惑気味に互いに顔を見合わせていた。
「誰か、彼らの言葉をわかる奴はいないのか?」
男の冒険者の一人が一同を見回して尋ねた。クレシェイドと、レイチェルがティアイエルを見ると、途端に全ての視線が彼女へ一手に注がれた。ティアイエルは、咳払いを一つして通訳した。
「山ゴブリン達は、作物が実る時になると、こうして奪いに現れます。彼らは数が多いですが、心配は御無用です。デズモンド王達は一振りで忽ち奴らの数匹を仕留めます。奴らの放つ矢も剣も貧弱で、鍛え抜かれた我等の身体にとってはさほど妨げにもなりません。この戦はいつも通りすぐ終わるでしょう」
人々は「なるほど」と、安堵した。連戦連勝で、相手がミノタウロスに比べて遥かに小粒なゴブリンだと知ったためだ。
「山ゴブリンとゴブリンは何が違うか、聞いてくれ」
冒険者の男の一人がティアイエルに言った。
「何で、アタシがそんなことしなきゃならないのよ」
彼女は慌て気味に反発した。その意味をクレシェイドは察した。彼女は鼻を鳴らすようなミノタウロス語を話さなければならないからだ。ミノタウロスには失礼だが、人族の乙女にとって、それは承諾しかねる頼み事だろう。クレシェイドは山ゴブリンがどんな姿のかを知っていた。彼が已む無く説明を切り出そうとしたときに、冒険者アロゼの相棒、魔術師の女性フランが助け舟を出した。
「山ゴブリンは、褐色肌のゴブリンです。普通のゴブリンは飢えと暴力性で動きますが、奴らはそうではなく賢い生き物です。弓を扱う他、金品を好みます。得た宝を、彼らはトロルの傭兵を雇う代価とするのです」
「じゃあ、トロルも来るの?」
町娘風の格好をした一人が恐々と尋ねた。
その時、南の方角から角笛が激しく吹き鳴らされた。
ミノタウロス達は弾かれたように南を向くと、表情を険しくする。居合わせた人々も多くが事態を察し、表情を強張らせた。それは敵襲の知らせに違いない。
角笛は何度も吹かれたが、ついに聞こえなくなった。ミノタウロスの一人がたまらず飛び出そうとしたが、もう一人がその肩を掴んで引き止め、首を横に振りながら何事か言って聞かせていた。
「お嬢ちゃん、彼らは何と言っているんだい?」
赤い髪の女がティアイエルに尋ねた。
「アタシ達を護る事が先決だって言ってるわ」
「ふむ、なるほど」
赤い髪の女は頷いた。彼女は剣士のようであった。丈夫な革の鎧の上に真紅に染まった薄手の外灯を羽織っている。腰には長剣が一つあり、短剣が脛に二つ、括りつけられている。そして、その涼やかだが鋭利な目つきは熟練者の顔付きであった。
「出し抜かれたかもしれぬぞ」
女剣士は言った。そして人々が見ると、彼女は言葉を続けた。
「火を放ったのは、大掛かりに見せて、そちらに戦力を分散させるためだ。こちらを手薄にし、ひとまずは南方から一気に食料を奪う腹積もりだろう。有翼人のお嬢ちゃんや、彼らの言葉を話すのは気が進まないかもしれないが、今の私の言葉を伝えてはくれないか?」
剣士に真っ直ぐ見られ、ティアイエルは僅かに躊躇しつつも、ヤケクソだと言わんばかりにミノタウロスを見上げた。彼女は綺麗な声で、間延びしたようなミノタウロス達の言葉をすらすらと繰り出し、そして時にはしっかりと鼻を鳴らしてみせた。
ミノタウロス達は顔を見合わせ、尤もだと頷き合ってた。そして一人が西の方へと駆け出して行った。他のミノタウロスはただ南方の麦畑の果てを傍観するだけで動かなかった。
「良いのか、作物が奪われてしまうぞ?」
赤い長髪の女剣士がミノタウロスを見上げながら尋ね、ティアイエルがミノタウロス語で相手に伝えた。ミノタウロスは達は揃って首を横に振って、何やら述べた。
「麦よりも、客の命の方が大事だと言ってるわ」
ティアイエルが訳して言った。冒険者のアロゼが忌々しげに言葉を吐いた。
「奪われるままにするのか。もどかしいぜ」
不意に、近場の麦畑から幾つもの矢が飛来した。それは鳥が揃って飛び立ったかのようにも見えたが、クレシェイドには矢だと分かった。その鋭利な先っぽが、空で滑空を始める頃には、既に彼は仲間の二人の前に飛び出て押し倒して背中で庇った。
女の驚く悲鳴が幾つも上がった。そしてクレシェイドは、背後で幾つかの低い呻き声を聞いたのだった。
振り返れば巨体が三つ、両腕、両脚を開いて仁王立ちしていた。そして、カエルや水鳥を思わせるような、「ギャッギャッ」というゴブリンの鳴き声が聞こえ始めた。
ミノタウロス達の身体には、太い矢が幾つも突き立っていた。
「そうか、奴らは、少しずつ戦力を削ぎに来たのだな」
痛みに呻くミノタウロスを一瞥し、深い畑の中を凝視しながら赤い長髪の女剣士が言った。
「だが、この矢は話に聞いていたのとは違って、ずっと破壊的だ。トロルの姿は無いが……いや、そもそもあいつらは弓を引かぬか」
彼女は訝しげに言い、クレシェイドも尤もだと思った。そして遠くに見える畑から幾つかの影が躍り出てきた。人の様に両脚で立つそいつらはゴブリンとは違っていた。何故なら咆哮を上げたからだ。居合わせた面々を見ると、伝説上の生物である獅子ではないかというような者達もいたようだが、勿論そうではない。奴らは、蛮族の殺戮者、オーガーであった。
鬣を振り乱し、得物を振り上げて次々と麦畑の中から殺到してくるが、その場に踏み止まり、矢を射掛ける者もいた。
飛来する矢に、ミノタウロス達は人々のためにその身を惜しまず盾とした。矢は次々と彼らの硬い胸板を埋めつくし、手足にも針山のように突き立ってしまった。呻き声を上げ、体勢が崩れ掛けるが、それでもミノタウロス達はその身を立て直し、降り注ぐ矢へ自らの身体を差し出した。満身創痍の光景に、クレシェイドは居ても立ってもいられなかった。しかし、正面には地を揺るがし、差し迫る殺戮者達の姿がある。一人ではとてもではないが波に呑まれてしまうだろう。新手の射手が合流し、頭上に矢が打ちあがった。
ミノタウロス達も覚悟を決めて留まっている。頑健な身体も次は無いだろう。人々は自分達のために身を投げ出す亜人の背を見守るしかなかった。
その時、背後から突風が吹き荒れた。怒るような唸りを上げて、その風は矢の軌道をあらぬ方へと捻じ曲げて落としてしまった。
振り返ると、ティアイエルが槍を掲げ、振り回し、一心不乱に精霊を操っていた。レイチェルも剣を抜き、有翼人の少女を庇うように身構えている。彼女達の顔を見て、クレシェイドの心は決まった。蛮族に臨むべく、身を乗り出すと、隣にもう一人が並んだ。それは赤い長髪の女剣士であった。
「サリィだよ、鎧兜の戦士さん」
「クレシェイドだ」
吹き荒れる風のせいで、オーガー達は思うように前に進めずにいた。これを好機と見ずに何とする。ミノスの大太刀を抜き放ち、クレシェイドは敵へ向かった。風の後押しのおかげで、足取りが軽やかであった。懸命に前に進もうとする殺戮者達は、突然、疾風の如く迫るこちらの姿に度肝を抜かれ、口をあんぐりと開けていた。その凶悪な首を幾つもミノスの大太刀が横合いから刎ね飛ばす。隣でオーガーの身体が貫かれた。目を向ければサリィが剣を繰り出し敵を仕留めていた。
「この風、あたしには重石が無いもんだから、吹き飛ばされるかと思ったんだけど、そうじゃないね。それに向かい風だろうが、剣を楽に振るうこともできる。大したもんだよ、あのお嬢ちゃんさ」
ミノスの大太刀は、風の勢いを受け、奴らの身体を次々と裂いていった。その一撃は、皮の重ね鎧ごと身体を真っ二つに割り、勢い余って地をも大きく穿つほどであった。麦の林の中から次々と現れる蛮族達は、途端に身体を束縛する向かい風を受けて、棒立ちそのものになるばかりであった。
そこでアロゼや、得物を手にした冒険者達が殺到し、敵の中へ深く切り込んで行った。オーガーの後ろに潜んでいた山ゴブリン達が、慌てて弓を構え、臨戦態勢をとるが、矢は番える前に風に浚われてしまっていた。
だが、風に阻まれようが、蛮族の殺戮者達の方は、野獣そのものの顔を怒りに引き攣らせ、豪腕に握り締めた得物を振るって応戦していた。冒険者の中には力負けをする者が多く、危いところを、クレシェイドとサリィの剣が幾度も救い続けた。蛮族の纏う皮の重ね鎧は、金属の様に強固であったが、ミノスの大太刀は、それごと身体を分断していた。彼の剣が届くところは、敵の血煙だけが噴き立っていた。その切れ味の鋭さにクレシェイドは瞠目した。
クレシェイドとサリィの間を、後ろから大きな影が通り過ぎて行った。見上げれば、それはミノタウロスの王デズモンドであった。作物を燃やされ、荒らされ、客人を襲い、忠実な配下を傷つけられたためか、蛮族に向けられる紫色の双眸は、憤怒に満ち溢れていた。
怒りの斧は、蛮族達を横合いから吹き飛ばしても足らず、目に付いた者達を、刃で片っ端から叩き潰していったのだった。そしてクレシェイドは、初めてあの蛮族オーガーの殺戮者達が、自ら戦いから退いて行く様を見たのであった。
「オマエタチ、チイサイノニ、ナカナカヤル」
クレシェイドとサリィを見下ろして感心するように王は言い、背後を振り返った。
「ダガ、スベテハ、カゼノ、オカゲデモアッタ。ダカラ、ハヤク、クルコトデキタ」
王はティアイエルを凝視し、更に咽を唸らせた。
「あの娘に、愛の告白はしないのかい?」
サリィが王に向かって言った。そう言われ、クレシェイドは内心驚きつつ、王の言葉を待った。ミノタウロスの目にそれぞれの人々がどう映るのかは不明だが、ティアイエルは美人であった。少々、勝気で頭に血が上りやすいところもあるが、それもまた彼女らしさを飾るものに他ならない。さて、ミノスの王も、他のミノタウロス達も何故、そんな彼女を放っておくのだろうか。
「アノ、ムスメ。ムネガ、チイサイ。ユエニ、マダマダ、コドモダ」
サリィが吹き出した。
「そういう判断の下し方をしてたわけだ。あたしらを騙したじいさんも、そういう目で見繕ってた訳かい」
「ならば王よ、俺達を襲った理由とは何なのだ?」
不可解に思いクレシェイドが尋ねた。
「ソレハ、モウヒトリノ、オンナガ、ソウダカラダ。デモ、マダ、コドモダッタ。ダガ、モウ、ニンゲンヲ、オソワナイ。ワレラ、ミノスノオンナタチヲ、マツ」
「それがいいさ。このサリィ様に任せておきな」
赤い髪の女剣士は力強い口調で言った。クレシェイドは二人の少女の方を振り返った。ティアイエルは疲労したように立ち尽くし、レイチェルは負傷したミノタウロス達を神聖な魔術で癒していた。
それから人々と、ミノタウロスは、別れと出発の朝食を取った。そして別れ際、ティアイエルとレイチェルには、ミノスの御守りが手渡された。小さな斧を模った木彫りの板であった。精巧な出来であることもそうだが、彼らの大きな指がここまで細やかな物を作ってしまうことに、クレシェイドは驚いた。ティアイエルには精霊の魔術で皆を護ったこと、レイチェルには傷ついたミノタウロスを癒しの魔術を施したことの、それぞれへの礼として渡されたのだ。それから三人はミノスの里に別れを告げ、再び街道に出たところで、デズモンドとアロゼ、フランら、ブライバスンへ向かう者達と改めて別れたのであった。ミノスの王デズモンドは、冒険者達と共に、ブライバスンへ向かうのだ。そこで彼らの仲介と補佐のもと、まずは魔術師ギルドの長であるゼーロン・ゴースに、ミノスの里のこと、ミノタウロス自身のことを話し、長きに渡って根付いた彼らの悪い風評を取り去り、またはその存在を広く世間に認知してもらうのだ。それが本当に良いことなのかはわからないが、彼らはそれを選んだ。クレシェイドにはミノスの里の幸運を祈ることしかできなかった。




