第9話 「脱出」 (中編その2)
彼女は一頻り砂粒を吐き出した後、ようやく助けを求める叫びを発していた。
咽が未だに埃っぽくて、異物感があったが、何度も懸命に声を上げていた。しかし、それは目の前の形ある暗闇に嘲笑うように吸い込まれるだけのようにも思え、事実手を伸ばせば、周囲は砂の壁で塞がれていることがわかった。手を引き抜くと、砂はサラサラ、あるいはボロボロと零れ落ち、穿った穴を、すぐさま奥から埋め立ててしまうのである。
周囲は真っ暗で、恐ろしいほど静かであった。砂の山に迫られ、座ることすらできない。下手に触れれば、尻が壁を揺らし、多量の土砂と、その中に潜んでいる不安定な小岩とが頭に降り注いでくる有様だ。ここから出られなかったらどうしよう。そんな不安が何度も何度も過ぎり、その度に鳩尾の辺りが冷やりと重くなり、体中にチキチクと嫌な緊張が走る。このような現実を認めたくないと、彼女は思い、無意味に暴れ、やけっぱちになって騒ぎ出したいという衝動をどうにか堪え続けてきた。その慰めに一役買っているのが、鞘に収まった「鎖断ちの剣」であった。金属製の丸い柄の屈強で冷たい感触は、彼女を落ち着かせ勇気付けた。まるで、イーレの声が叱咤してくれているようであった。剣の持ち主のことを思い出せば、自然と見知った人々の姿が脳裡を過ぎってゆく。皆は無事なのだろうか。レイチェルは黒い竜の毒のせいで、砂の中で気を失っていたのだ。時間の感覚は無いが、しかしさほど空腹では無いため、長くて半日ぐらいだろう。
助けは来るだろうか。おそらくは広間全てが深い深い岩の海へと成り代わっているだろう。そして、レイチェルがいる場所は広間の半分も進んでいないところのはずだ。もしも、本当に岩の海に成り代わっているなら、助けは到底ここまで入っては来れないだろう。ならば、自分でどうにかするしかないのだ。彼女は溜息を吐いた。もとからある壁のゴツゴツと続く感触のおかげで、少なくとも左右のいずれかを認識することはできる。ここから出口は前の方にあるのか、それとも逆なのかはわからないが、もしも砂と岩との山を、掘り進む他に手段が無い場合は、二つに一つの道を選ぶことができるというわけだ。彼女は自らを嘲笑う気力も失せ、再び溜息を吐いた。気のせいか、胸が息苦しく感じる。砂埃を吸っているのだろうか。そう思うと、目にもそれらが霞みの如く張り付いているように感じてきた。
彼女は剣の柄に触れた。その冷たい感触をただ感じたいがために、無意識のうちに撫で回していた。その間に何かを考えているというわけでもなかった。ただ、不鮮明な焦りと絶望感が大きくグルグルと脳裡を渦巻き、彼女自身は痴呆を患ったかのごとく、呆然とそれを傍から眺めているだけにすぎなかった。
程なくして我に返ったのも特にきっかけがあったわけでも無かった。ただ、その後は再び脱出の手段についての思慮を、堂々巡りだが、何かしら具体的なことを考えてはいた。そしていよいよ苛立ちを募らせ始めた。良いものも悪いものも、目の前の砂の山すらも見せようとしない暗闇に対して、彼女は罵倒してやりたいほど憤怒を募らせていた。そして寸前のところで思い止まった。滑稽な己の姿を想像し、恥ずかしくも、はしたなくも感じたからだ。
それに体力を消費するだけだ。そう言い聞かせ、立ちっ放しで棒になりつつある脚を庇うように、無意味とは思うが片足だけ上げる格好で立ってみた。グラグラと地に着く片足の筋肉が震え、身体が不安定に揺らめいた。彼女は己を鼓舞するように、後、僅か立ち続けられるように頑張ってみようと思った。ほんの少しではあったが、気を紛れさせることができた。しかし、そのことに思い当たると、自然と虚しくなり、彼女はこれこそ滑稽だと感じて力なく脚を下ろした。腕を半ばまで伸ばし、手先が砂の壁に減り込んだ。せめて座れることができればと思った。彼女は窮屈な中で、直立のまま身を転じた。ベルトに差した鞘の尾が、何かに引っ掛かったのはその時であった。
鞘の末端が何かに挟まり危険に撓んだ。レイチェルは弾かれるように身を硬直させた。借り物の鞘は木でできていた。折れたりしていたら、イーレに対して申し訳が無いし、どんな理由であっても彼女は許してくれるだろうが、それでも大切な物の無残な姿を見て胸中ではさぞ落胆するだろう。
せっかくできた友人にそのような思いをさせたくはなかった。はたして鞘は大丈夫だろうか。彼女が少し腰を捻ると、鞘が再び柔軟に撓り、心臓を凍りつかせる思いをさせた。末端はどうやら元々の壁と、新たに聳え立った岩石と土砂との継ぎ目に、運悪く入り込んでしまったようだ。それもどうやら砂に埋もれた岩石の方が鞘を咥え込んでいるらしい。レイチェルは手を伸ばし、木目の滑らかな肌に両手を添えた。身体の向きを恐々と戻し始めた。慎重な足の運びに応じて、鞘が直線の姿を取り戻すのを感じた。彼女は僅かに安堵しながら、気を抜かずに動き続けた。そして鞘が完全に伸びたのを感じ取ると、恐る恐る引き上げた。
岩は頑なに鞘を咥え込むかと思ったが、梃子摺ることもなく抜き取ることができた。レイチェルは安心し、同じ愚を起こさぬように、片手で鞘を垂直に傾けた。そして彼女は恐々と身を反転させる。どのぐらいの溝がこのような狼藉を働いたのかと、岩壁に沿って指を動かしてゆく。すぐに砂に触れた。何気なしに指先を突っ込んでゆくと、それは思った以上に奥に深く、横に広く入り込んでいった。
レイチェルは何気無しに指先で砂を掻き出してゆく。時が過ぎるのを忘れ、呆けた眼差しで溝に沿って指を掻き続け、それは徐々に掌まで吸い込み、ついには手首まで入れるほどにまでなっていた。
溝が随分深くなり、かといって砂が上から流れ込んで塞ぐ気配も無かった。ようやくレイチェルは我に返った。だが、この先も永遠に壁が続いているだろう。彼女は冷ややかにそう思った。
だが、溝の入り口が正真正銘の不動の岩石に当たったため、これ以上腕は入らない。でも剣ならもう少し届く。すぐにそう考えた。ぼんやりと、希望の失せた頭でだ。それは、ただ唯一見つけた没頭できる戯れに従事するため以外のなにものでもない。そのようなことで、友人の大切な剣を傷めつけるのはどうなのだろうか。良心が酷く痛んだ。不意に、レイチェル自身の声が頭の中で言った。「でも、もしかしたらこの先に、ささやかだが嬉しい何かがみつかるかもしれない」彼女は自問自答した。「それって出口がってこと?」「いやいや、この位置からしてそれは有り得ない話だ」「だったら何が? ささやかな食べ物?」「それはあるかもしれない。近くに居たはずの、仲間達の誰かが、竜との遭遇の際に落としていったかもしれない。でも、やっぱり無いとは思うけれど……でも」「うん。でもだよ。でも、とても気になるよ」
イーレさんごめんなさい。彼女は強く念じるように謝罪を捧げると、剣を鞘から引き抜いた。気遣いながら鎖断ちの刃を闇に彷徨わせ、そして片手で壁を探り当てると、それを手掛かりに刃を突き出してゆく。何も見えないせいか、切っ先は随分奥で、行き止まりに突き当たったように思えた。
レイチェルは剣を少し引き、そして多少の加減をして突いた。ザクッと音がし、刃は岩と砂を無理に蹴散らしつつ中へと吸い込まれて行く。刀身は傷ついただろうか。彼女は恐れ多くて身震いしたが、作業を続けた。屈強な刃は、彼女の力に応じて、立ち塞がる岩を殺ぎ、先へ先へと進み続けた。
唐突に手元が軽くなったとき、レイチェルは思わず前のめりに倒れ、砂の中にあった岩に額をぶつけてしまっていた。
額はヒリヒリと痛んだ。たぶん擦り剥いてしまった。彼女は剣を引き抜いた。その先には意地悪にも見えない岩が鎮座しているはずだ。それか、たまたま即席の壁に生まれた空洞に突き当たっただけなのかもしれない。どうせ、そんなところだろう。
そして細い筋のような窓の向こうに、煌々としたオレンジ色を見て、彼女はこれが夢じゃなければどれほど嬉しいことだろう。と、息を呑み、己の素晴らしい幻覚を冷静に打ち消そうとした。
しかし、何度見ても、光りがある。大小の岩でゴロゴロしている地面に、燭台が2つ落ちている。蝋燭は灯ったままであった。その茜色が素晴らしいほどに周囲を眩しく鮮明に染め上げていた。
ああ、我が主よ! 獣神よ! レイチェルは驚愕した。身体中に興奮が駆け巡る。だが、彼女は冷ややかに己の心を抑えた。この細い溝をどうやって向こうまで行けば良いのだろうか。今は大きなカタツムリまでなら通れそうだ。彼女は剣を溝に差し込みその周囲を突き始めた。
頑強な手応えの場所も多かったが、やがて灯りの漏れる穴は奇妙な蜂の巣のように不揃いに開いていた。彼女はめげずに岩を突き、強固な刃は何度も何度もその願いを聞き届けた。
ようやく綺麗な縦に開いた窓を彼女は覗き込んだ。無事だった燭台が煌々と照らし出すのは、一面に広がった岩であった。丸いもの、割れて鋭利になったもの、それらは積み重なり、最終的には針山のような、切り立った小山をあちこちに聳えさせていた。
レイチェルは見た。薄暗い岩の山々の先に、向こう側の壁と、穿たれた入り口があるのを。そこまでは、やや遠かったが、岩を攀じ登り、潜って行けば問題は無さそうである。
出口とは反対方向だという事実が彼女を少なからず落胆させていたが、ここには確実に希望も食料も無いことを思うと、レイチェルは、剣を繰り出し、再び入り口を削り始めたのであった。
二
彼女は未知へと続く入り口の前に佇んでいた。
荒く呼吸を繰り返し、その度に肩が揺れている。その両腕も散々剣を振るったために、筋肉と関節とが気だるい様な痛みを放っている。そして長く立ち尽くした両脚は言うに及ばず、足場の悪いゴロゴロした地面を歩む羽目にもなったため、既に棒に成り果てるのを通り越し、筋という筋が不規則な痙攣を起こしていた。
少し前のサンダーほどの姿ではないが、彼女もまた満身創痍の有様であった。そのため自分に自信が持てず、この先を潜って行くのを躊躇っていた。彼女の前にあるのは、牢獄行きの通路ではなく、左側の未踏の方であった。かつて覗いたときには、暗い通路の先を、外の広大な灯りの帯が幾分かは照らしていたが、今は、灯の点いた燭台は、ほんの少ししか残っていない。そのため、全く先の様子が見えず、彼女の勇気を挫く要因の一つにもなっていた。
レイチェルは休むことに決めた。壁に背を預け、ようやくの思いで座るという幸福にありつけることができた。途端に身体中の疲労が緩和してゆくように思えた。彼女は溜息を吐き、自分が歩いて来た方角を振り返った。
大小関わらず無数の岩が転がっており、あの竜よりは小さいが、方々で破壊的な岩盤が刃のように聳え立っている。薄暗い広間は、そんな俄かに切り立った岩山の世界へと変貌していた。そして不安定に連なったそれらは、四六時中、唐突に何処が転がり落ち、虚しい風景の中に不吉な音を響かせていた。
それらは天井が崩落したものでできていたが、これだけ落ちても、まだまだ外の光りには達していないようである。レイチェルが閉じ込められていた辺りからは、幾つもの岩盤が重なって、行き止まりの壁を拵えていた。これらを破砕するには「鎖断ちの剣」もただでは済まないだろうし、越えようと思えば、不安定に重なったそれが忽ち崩れ落ち、下敷きにされてしまうだろう。
やはり、先に行くしかない。片側が牢獄だっただけに、こちらは悪者達の居住場所に違いない。水や食料が手に入る可能性がある。
足元に並べ置かれた燭台は、数えてみると全部で六つだ。挿された蝋燭には炎が灯っている。つまりは今も蝋燭は磨り減ってるということだ。調べてみると、細かいバラつきがあるが、多少は余裕がありそうにも見えた。しかし、内部がどれほど深いものかは不明だ。身体は襤褸布のような有様だが、レイチェルは急ぐことにした。そして火と蝋燭を手に入れることも忘れず言い聞かせた。
燭台を手に、通路へと踏み込んで行く。彼女の左手は燭台の尾を掴み、暗闇の中へ突き出されていた。利き腕の方は何も持たずにいる。もしも転んだ時に支えが必要だからだ。それに、大事な「鎖断ちの剣」は鞘に収めてベルトに挟んでいた方が無くす心配がないからだ。蝋燭の灯かりが通路の剥き出しの岩壁を照らしつける。悪者の生き残りはいるだろうか。足音は忍ばせていた。先の方に左へ折れる角がある。レイチェルは緊張し、誰も潜んでないことを祈った。そして、結局は「鎖断ちの剣」を右手に構えていた。角を一睨みし、意を決して進んだ。正面の壁が、燭台の火で、どんどん明るくなってゆく。敵が居るとすれば気付かれている。レイチェルは残りの距離を全力で駆け抜け、壁沿いに外側から一挙に角へと飛び込んだ。
その先は同じ暗い通路が続いているだけであった。だが、少し遠くの右手側に灯かりが漏れ出ている。扉があるようだ。戦慄が身を過ぎる。もし、何者かが残っていたとしても、暗い中で対峙するよりはマシだ。そう、行く手に灯かりがあるだけ運があると思うべきだ。レイチェルは怖じる自分に言い聞かせて奮い立たせた。
彼女は一本道の通路を足音を殺すようにしながら歩き始めた。そして簡素な鉄の扉の脇で身を隠すように、聞き耳を立てた。扉には小さな格子状の窓がついていて、灯かりはそこから出ていた。
レイチェルは、取っ手に目を向けた。中からは音が聞こえなかったので、身を隠しながら取っ手に手を掛け、それを慎重に倒しながらこちら側へ僅かに引いた。レイチェルは手を引っ込め、最後に聞き耳を立てた。彼女は決意を固めて、扉の前に躍り出た。格子状の窓の先に動くものの存在は皆無であった。同じように剥き出しの岩壁に囲まれた通路が続いていて、一定の間隔で左右の壁には燭台が差し込まれていた。それらの蝋燭の灯かりが、壁に埋め込まれている幾つもの扉を照らしていた。見える限り、左右それぞれ三ずつはある。通路と燭台はまだ奥まで続いているため、更にその分だけ扉があるようだ。
レイチェルの脳裡には、ある怖い想像が浮かんでいた。扉を開けると、部屋の中で佇んでいる腐った男の死体がいて、そいつが不安定に身を揺さぶりながら振り向く様子だ。それとも、葬儀の正装でめかし込んだヴァンパイアかもしれない。優雅に椅子に座っている闇の者が、青白い顔にある邪悪な赤い目を光らせ、牙の見える口元を怪しく歪ませるのだ。そして扉を叩き付ける様に閉めて逃げ出すレイチェルの前に、そいつはいつの間にか立っていて……。彼女は強く頭を振って嫌な想像を振り払った。そんな奴らがいても、神官の魔術があれば大丈夫だ。そうじゃない相手なら、剣でどうにかすれば良い。こういうのを死角無しというのだろう。彼女は無理矢理そう思い込んだ。気は晴れないが、目の前の扉の残りをさっさと開いて、新たな区画に足を踏み入れたい。そして後ろ手にそっと扉を閉じた。振り向いた瞬間に恐ろしい経験をするのは御免だからだ。ここは恐怖に勝ちを譲ったのかもしれない。だからこそ、次の扉に対しては積極的に挑んで行こうと決めた。心細さを振り切るように、手近の左右の木の扉を見回した。
木の材質は違うようだが、間に合わせで作られたかのように、どちらも不自然に薄くて脆そうであった。レイチェルは左手の扉に近寄り、くすんだ銀色の取っ手を回し、力強く押し開いた。
途端にバリッと短い音がし、扉の上側が蝶番ごと外れてしまった。一瞬だけそちらに気を取られつつも、内部へ目を向けた。そして彼女の心は明るくなった。そこにはリンゴや、カボチャ、じゃがいもの詰まった箱があり、他にも樽や、箱が所狭しと並んでいたのだ。内部に灯かりはなかったので、燭台を持ち込んだ。そして扉を半開きのまま放置し、レイチェルは信じられない思いで中を見て回った。硬いビスケットのようなパンと、干物の肉と干物の魚に、同じく干物の果物を新たにみつけた。他には小瓶に入った塩、茶色の砂糖、ワインの入った樽が幾つか、予想以上の収穫であった。気を良くして、並んだ棚に区切られた反対側へ行くと、彼女はそこで明るい気分が吹き飛んでしまった。奥の重ねられた木箱の前で、男が一人、箱に背を預けるようにして座り込んでいたのだ。黒くて丈のある魔術師の衣装を羽織った男は俯いていて、顔を拝むことはできなかった。気を失っているのか、あるいは死んでいるのか。相手は邪悪なる魔術師の一人に違いないだろう。もしも動いたら、剣で殺さなければならないのだろうか。この男だけでも、レイチェルを打ち負かすことは容易いはずだ。そして、相手は確実に殺しに来る。
背筋を刺す様な気持ちの悪い緊張が走った。「鎖断ちの剣」をおそるそる男の右肩に近付け、そして刃の腹で軽く触れてみた。反応は無かった。今度はより強く、押し付けるようにしてみたが、同じことであった。
レイチェルは覚悟を決めねばならなかった。彼女は警戒しながら屈み込み、相手の顔を窺った。
無精髭の生えた中年の男は、白目を剥いて眠っていた。口からは泡を噴き出していたが、既にそれは乾燥した痕となっていた。身体を探る勇気が無いが、見た感じ、外傷は見当たらないし、致命的ほど血が流れ出た様子も無い。何故死んでしまったのだろうか。彼女は腑に落ちず周囲を見回した。
剥き出しの砂利の地面には、パンが転がっていた。先程見つけた箱に入ったものと同じである。それには齧った痕跡があった。
食べていた最中に不意を衝かれて殺されたということだろうか。釈然としないが、もう一つ気になることがあった。この魔術師を殺さなければならない理由は何かということだ。内輪揉めをしたのだろうか。
臆病風が彼女に安全な場所を探すように訴えた。考えるのは後で、今は、そうするべきだ。食べ物を少しだけ持って、滞在する場所を探そう。水と、火はそのついでに……。
レイチェルは既に遺体から離れ、扉の方へ回っていた。そして箱に入っている硬いパンを見て、食欲が急激に失せるのを感じた。あの男と同じ物というのが、どうしてもおぞましく思えた。不意に、脳裡を過ぎったのは、地面に転がった食べかけのパンのことであった。レイチェルは神経が過敏になり過ぎていると思いたかった。しかし、もしもパンに毒が仕込まれていて、それを食したために、あの魔術師の男が死んでしまったのだとしたら……。
ガシャッ。棚の裏、つまりは反対側から、木が軋む音が微かに聞こえた。レイチェルは肝を潰しつつ、嫌な想像をしていた。向こう側から砂利を踏み締める音がゆっくりとした感覚で聞こえ、途端に目の前の棚が音を立てて危いほどにこちら側に傾いた。
レイチェルは慌てて扉の方へと後退した。大きな音を立てて棚が倒れた。幾つもの小瓶や、木箱が地面に散らばる音が続いた。虚ろな音のような声が聞こえる前に、彼女はどのような事態になったのかを悟った。
そして倒れた棚を踏み潰し、両腕を掻くように動かしながら、ヨロヨロと動く不浄なる者は、彼女の前にその横顔を曝け出した。
浄化の魔術を! レイチェルが旋律を詠む前に、動く死体として蘇った男の白い双眸がこちらを振り返っていた。そして両腕が振り上がった時、レイチェルは詠唱を諦め、脱兎の如く通路へと飛び出した。破損したドアが、彼女の身体に当たり乱暴に開け放たれる。レイチェルは振り返り、不浄なる者が目前まで来ているのを見ると、半ば恐慌しつつも、扉を叩きつけて閉じた。それは迫り来る敵に当たってすぐにこちらへ跳ね返って来た。不浄なる者はヨロヨロと仰け反っていた。レイチェルは逃げることだけを考えていた。落ち着いたところを見つけて、浄化の魔術で対抗することに決定した。ならばと、奥の未踏の通路を一瞥し、先ほど来た外の通路へ続く鉄の扉に飛び付いた。取っ手を回したところで、小さな足音がし、敵が通路に出て来るのを悟った。彼女は扉を開くや、外へと飛び出し、そして後ろ手に閉じて、奥へと駆けた。そして扉から間合いを取ったところで、聖なる旋律を詠み始めた。
右手に握った「鎖断ちの剣」に、白い浄化の光りが姿を見せた。こうなれば、後は斬るだけだ。レイチェルは再び鉄の扉へ向かって歩んで行った。そして最初のときと同じ体勢で、まずは聞き耳を立てる。砂利を引き摺る足音がするかと思ったが、幾ら待っても聞こえて来なかった。扉も揺れる気配は無い。通路の反対側へ行ってしまったのだろうか。
レイチェルは思い切って、扉の格子窓から覗いてみた。
蝋燭の灯かりが照らす通路には蠢く姿は見当たらなかった。つまりは最初の部屋へ引き返したようだ。壊れた扉が揺れているのを見てそう思った。
死人の白い双眸が下から現れたのはその時であった。レイチェルは肝を冷やして後退った。不浄なる者は向こう側で扉を揺さぶっていた。野獣のように凶暴に歯を剥きだし、そこから荒ぶる唸り声を轟かせている。まだ血の気の失せ切っていない顔をからすれば、不浄なる者に成り代わって間もないのだろう。闇の本能のままに、暴力に飢え怒り猛っている。正に恐ろしい魔の尖兵そのものであった。
レイチェルは剣を突き出した。鉄格子の隙間から、白い光りを纏った切っ先が、骨の固い手応えと共に額へ突き刺さった。
刃の傷口から不浄なる者の身体が灰へと成り代わってゆき、そして唐突にその身体は崩壊した。
レイチェルは安堵の息を吐き、気が進まないが、再び中の通路へと戻って行った。
二
死者の纏っていた服が灰の中に埋もれていた。
レイチェルはそれを跨ぐと、今度は右の扉に近寄って行く。その際に、壊れた扉が目の端を霞め、彼女を少しだけ驚かせる。そしてあの部屋の食料は、きっぱり諦めるべきなのだと嘆息した。これから先、安全そうな食べ物が見付かるだろうか。彼女は鉄の取っ手を回して押し開けた。乾燥気味の土のにおいが鼻を掠める。眩い灯かりが目に入った。寝台と、その奥に低い書棚がある。灯かりの正体は書棚の上に置かれたカンテラであった。
すぐ左手の壁に、白い神官の衣装が提げられている。扉に表札は無かったが、ここは竜にその身を差し出した悪の神官ベルハルトの部屋では無いかと彼女は察した。剥き出しの石壁に囲まれた小さな部屋には、他に大きな棚が一つあるだけであった。
この一件の首謀者はこの神官だとレイチェルは思っていた。ならず者達はまだしも、魔術師達はきっと良い様に利用されていたのだろう。彼らはホムンクルスという人造の肉体を作り上げることもできるのだ。その知識と技術だけが、あの邪悪な神官には必要だったのだ。現に、あの男は魔術師達の生き残りを竜に捧げ殺させた。
首領の部屋だと思うだけで、レイチェルは落ち着かない気持ちになっていた。竜に食われたはずの男が甦るとは思えない。でも、彼の者の意思が、怨念の如く、ここに吹き溜まっているような、妙な緊張と恐れを抱いていた。しかし、この部屋は魅力的でもあった。それは、寝台があるからだ。白いシーツに包まれたそれの足元には、茶色の毛布が丸めて畳まれている。彼女は途端に急激な疲労と眠気を感じた。魔術を使い過ぎたのかもしれない。眩暈が過ぎり、彼女の意識をフッと奪い去ろうと手を伸ばす。
少し休みたい。彼女は開け放たれた扉の方へと近付いた。わざわざ洞穴に一室を得られるほどの待遇だ。鍵がついているかもしれない。予想は当たり、木の扉の裏には簡素な閂が二つつけられていた。恐る恐る通路へ顔を出し、そこが変わりの無い静寂に満たされているのを知ると、扉を閉じ、閂を掛けた。剣の光を消し、鞘に収める。それを隣の書棚に立て掛けた。硬い寝台に腰を下ろし、最後に彼女は訝しげに扉を凝視した。
先程のような死人なら、この薄い板のような扉を破って入って来れるだろう。彼女は隣にあった小さな棚を障害物として、扉の前に設置した。カンテラと剣はすぐ手の下に置いてある。レイチェルはベッドに横になり、毛布を被った。毛布はチクチクしていたが、彼女の体温をしっかりと封じ、素晴らしい寝床へと変貌を遂げた。扉が叩かれるような想像をしながらも、いつの間にかレイチェルは眠りへと落ちていった。
それから時間は過ぎた。地面に置いたカンテラの灯かりは、いつの間にか消え、部屋は真っ暗闇となっていた。彼女の眠る部屋の外もまた、燭台の火が一つ、また一つとその寿命を終えて行く。最後の灯かりは通路の一番奥の左手の壁にあった。鉄の籠の中で、その蝋燭がついに蕩けきると、通路は不気味な暗黒の世界へと姿を変えてしまった。しばしの静寂の後、まるで夜のにおいを嗅いだかのように、何処かの部屋の中から、砂利をゆっくりと踏み締める音が聞こえていた。その音は最初はとても密やかであった。部屋の中を彷徨うように、ゆっくりゆっくりと、鈍い足音を響かせる。そして唐突にその音は止んでしまった。這い回る虫も無く、通路には再び静けさが訪れたかに思えた。
レイチェルの眠る隣の部屋の扉が音も無く開いた。その簡素な木の扉は、ふわりと風に弄ばれたかのように緩やかに過ぎ、壁にぶつかった。開け放たれた部屋から、泣いているかのような虚ろな声が幾つも聞こえ、死者となった魔術師達が、白濁した双眸を見開き、ゆらゆらと通路に彷徨い出て行った。闇を蠢くその影は全部で五つあった。
その頃、レイチェルは夢を見ていた。
彼女が学校の最上級生になった頃の夢であった。その忌まわしい中身は、眠りながらにして彼女の心を押し潰すようなものであった。
彼女の部屋の扉を、死者がダラリとした両腕を振るい、殴るように叩いたとき、彼女の夢の中では、彼女自身が親友の頬をそうしているところであった。
三
時が経ち、レイチェルもまた暗い心境で新たな学年へと昇っていた。
外は変われど中身はさほど変わり映え映えしない、同年代の嫌な仲間達は、レイチェルへの嫌がらせにはすっかり興味を無くし、そして何事も無かったかのように教室の中で振舞っていた。だが、彼らに彼女達は、バツが悪いのか、それともすっかり身についてしまったのか、悪戯や陰口は無くなれど、レイチェルを遠巻きにし、謝罪を口にする者はおろか、話し掛けてくれる者も皆無であった。
レイチェルは一人で本を読み、時には空想し、そうして小うるさい存在とも思しき連中をやり過ごしているうちに、次第にそれが本当の意味での日課となり、彼女は自分自身の世界を得ることに成功していた。そう思えていた。それと言うのも結局はまたもや外からの圧力で長くは持たなかったからである。
タニヤ・バルバトゥスは勝気で黒髪の美少女であった。その娘は、レイチェルの心の壁の脆い部分を容易く見付けて、ヒビを入れ、全てを倒壊させた。
タニヤは大人以外の者と話すときには、その中心にレイチェルのことを再び織り交ぜ始めた。彼女が自分の名前を口にしたときに、レイチェルの心の壁には槌が打ち込まれていた。かくして、タニヤの気紛れの日より僅か数日後には、再び教室中に、レイチェルを無視してやろうという気風が確立したのであった。
はたして気付いてみれば、タニヤ・バルバトゥスは、教室の中の指導者であり、絶対的な神の如くとなっていた。男女が構わず、レイチェルの側を選んで談笑し、何処に行くにも彼女の側には数人がさり気無く付き従い、そして時にはほぼ名指しで、彼女に対する非常に細かい点をどうしようもない奴として取り上げ、嘆き、嘲笑っていた。レイチェルの机や椅子は蹴られ、本は隠された。それらの大半が、雨上がりの水溜りの中で発見された。レイチェルは彼らを憎みながらも、己の身形を正し、そして幻想卿とも言うべき想像の世界に代わって、彼らや彼女達に卑屈に取り入ろうと躍起になっている己の姿を、無意識の内に思い描いてしまっていた。しかし、ふと我に返ると、彼女は憎悪の炎で慌ててそれらを燃やし尽くしたのだった。
だが、新たに時が経ち、最上級クラスの一つ手前に上がった頃には、幸か不幸か、レイチェル自身の凄まじい憎しみが、再び完全なる心の壁を築き上げていた。
その心の世界の壁には、見張りの尖塔があり、分厚い城壁には、六台の投石機が設置されていた。その間を、常に数人の衛兵が巡回し、敵がレイチェルの心を侵そうとするならば、目敏く発見し、防衛の構えを取らせた。レイチェルは、害をなさんとする尖兵どもを、殺戮せんばかりの眼光で一睨みし、奴らを退散させ、そして友好は築けなくも、一切合財を黙させることに成功した。ここにきて、タニヤ・バルバトゥスから完全な勝利を得、黙認される孤独者の権利を手に入れたのである。
しかし、そう確信した後は、レイチェルは本を読むことも、空想の世界に庭を広げることもしなかった。談笑する者達をこちらから睨み付け、相手の口を噤ませて互いに離れた席に戻すという日々を過ごしていた。無論、彼女は、光に相対する闇の如く、もう一人の支配者として認識されつつあることを知る由も無かった。
「レイチェル、あなたどうしていつも皆を睨んでるの?」
そう問い掛けて、顔をマジマジと覗いてきたのは見知らぬ相手であった。レイチェルは久しぶりに虚を衝かれた。彼女の脳みそは目まぐるしく回転しながら、結局は困惑を告げたのであった。誰なの、この命知らずは?
「私に、近付かない方が良いと思うよ」
レイチェルは、苦労しながら答えた。そして自分の発した台詞が、演劇の役者の真似事の如く、酷く気取ったように思えて、恥ずかしさで身体中が火照り出すのも感じた。
「私、先週こっちに転校してきたんだけど、たぶんあなた、私のこと見てなかったみたいね」
レイチェルは相手の言い方に傲慢さを感じたような気がし、噴き出さんばかりの敵意のままに机を両手で叩き付ける寸前であった。
あっちへ行け!
「私はアネット・ラースクリス。良かったら、仲良くしてね」
笑みは無かったが、それでも彼女は茶色の瞳を真っ直ぐ向け、細い右腕を差し出して来た。しかし、レイチェルは冷静に相手の顔を見詰め返しはしたが、その手に応じることはできなかった。だが、最近見ていなかった心の幻想郷が甦り、その城壁にいつの間にか存在していた大きな黒金色の扉が、錆び付いた蝶番の擦れる音を響かせながら、ゆっくりゆっくりと開いてゆくのを見ていた。そして生真面目一徹という初老の兵隊が、槍を掲げて姿を見せる。彼は言った。「これはこれは実に久しぶりのお客様になりますかな。しかし、真に申し訳なきことですが、我らが主は現在留守にしておりまして」彼はそう答えながら、白いものが混じり始めた長い口髭を、思案げに撫で付けていた。そして言葉を付け加えた。「しかしながら、あなた様が御出でになられたことは、当館の主に責任を持ってお伝えしておきましょう」
アネット・ラースクリスは、やや驚いたように目を丸くしていた。レイチェルは慌てて自分の口を両手で押さえていた。初老の兵隊と一緒に、彼女は声に出してしまったのだ。これで決まった。アネット・ラースクリスは奇異な目を向けてくるだろう。そして私の前から姿を消す。何だ、一番望ましい結末になったのかもしれない。そうだ、行ってしまえ!
「これは、これは、御丁寧な御対応に痛み入りましてございます。では、それがしは、改めて明朝にでもお訪ねしようと思います」
僅かに考える素振りを見せた後、神妙な顔で堂々とアネット・ラースクリスはそう答えた。彼女は席に戻っていった。レイチェルは、窓際の最後尾だが、彼女は廊下側の同じく一番後ろであった。奇異な視線を向けていたのは、教室にいる人々で、それが注目しているのは桃色の長い髪の転校生であった。アネット・ラースクリスは、座席に着くと、引き出しから深緑の革製のカバーが掛かった重厚な本を出した。そしてページをパラパラと捲り、予定したと思われるページを見付けると、思慮深げな瞳を見せて黙読し始めていた。
「アネットの家、獣神様を祭ってるらしいぜ」
「え? 何それ?」
「うーんと、父さんが言うには我らが戦神の最高の盟友だとか言ってたよ。でも、怪物みたいな顔なんだぜ? 良い神様だなんて信じられないよね」
教室で交わされる転校生の正体について、レイチェルは興味深げに耳を欹てながらも、久々に読本を取り出していた――。
突如、視界いっぱいの夕暮れが現れた。
憎しみが彼女の身体を駆け巡った。
赤い陽の下に、二つの人影が向き合っていた。そのうちの片方が、横合いからもう一つの人影の頬を殴りつけていた。その光景を遥か遠くで見下ろしながら、眠っているはずのレイチェル・シルヴァンスは叫びたいのほどの後悔に苦悩した。
あの頬を打つ鮮烈な音が、何度も何度も彼女の脳裡を駆け巡る。嫌な音だ。世の中でこれほど身の毛のよだつ音色が他にあるのだろうか。
彼女は暗闇の中で目を覚ました。まずは、乾いた土のにおいに気付き、そして首元でチクチクする毛布と、馴染みの無いシーツの感触に首を傾げていた。そして、すぐ近くの闇の中から、激しく木を叩く音が聞こえ、緊張と共に状況を思い出した。寝台から飛び起き、慌てて立てかけておいた剣の柄を探り当てる。恐慌しつつ、今も音が続く方向を睨みつけ、剣を鞘から抜き放った。火の失せたカンテラが足に当たった。
扉が割れんばかりに叩かれているようだ。彼女は不浄なる者として甦った死者のことを思い出した。たぶんまだ潜んでいたのだろう。心許ない木の扉はもうそろそろ破られてしまうだろうか。レイチェルは浄化の調を口にし始めた。
破壊的な音を上げて扉が開け放たれた。死者の唸り声が部屋に低く木霊した。「鎖断ちの剣」に白い清き光りが燃え上がるように宿った。その光りは、部屋中を白い光りで照らし出し、前方の不浄なる者の姿も明らかにさせた。魔術師の衣装を着た不浄なる者は、白目を剥き出しにし、両手を威嚇するように掲げた。そして進路を封鎖する書棚を物ともせず、歯を光らせ、凶悪な唸りを上げてレイチェル目掛けて駆け寄ってきた。
甦った死者の、鬼気迫るが如き攻撃に、彼女は若干応対がもたついた。そのため、寝台へ飛び乗り、反対側へと降りた。寝台越しに飢えに狂った不浄なる者と向かい合う。敵が引っかくように横合いから手を伸ばすと、レイチェルは「鎖断ちの剣」を繰り出し、その手を切り裂いた。白い光りの中で、甦った死者の手からドロドロした血が滴り落ち、すぐに手は蝕まれるように肩口までが灰となって崩壊した。
レイチェルは毛布とシーツを諦めた。その間にも彼女は襲ってくるもう片方の腕をどうにか切っ先で突いていた。敵は掌の傷口から細い煙を上げ始めた。浅かったようだ。レイチェルは意を決して寝台に攀じ登り、こちらを見上げる虚ろな眼窩を一刀の元に切り裂いた。硬い手応えがあったが、相手は仰け反り、そして頭から灰を舞い上がらせて倒れた。レイチェルは一息吐いた。だが、その耳に廊下を彷徨う微かな音が届き、真っ暗な廊下へ目を向けるや、恐怖で彼女は泣きたい気持ちになった。出るか、待つか。彼女は結局出ることにした。
剣の白い光りが暗闇を払い除けた。通路の先をよろめく不浄なる者が、何かに感付いたように、頭を大きく前後に揺らしながら危な気なく振り返る。白濁した死者の双眸が三つ、レイチェルを姿を捉えたかのように近寄って来る。どれも裾の長い魔術師の衣装を着ていた。三体の敵は、通路の幅いっぱいに並んで迫って来ている。動きは遅いが、それは重い剣を手にする自分にも言えることだ。正面から相手をするには分が悪すぎる。彼女がそう思い始めた時に、すぐ反対側の、食料庫の壊れた扉が、不気味な音を立てて押し開かれた。よろよろと、更なる死者が腕を伸ばして飛び込んで来た。
レイチェルは小さく悲鳴を上げた。蝋のように染まった両腕が振り下ろされるのを防げなかった。鞭のように撓り、棍棒のように硬い、死者のおぞましい腕はレイチェルの右肩を打ち、その爪が神官の衣装を引き裂いた。
死者の爪が、中に着込んでいた鎖帷子の輪に引っ掛かり剥がれるの感じた。死者は彼女に食らいつこうと、歯を剥き出した。悪臭漂うその口にレイチェルは恐怖のままに渾身の力と共に剣を突き出し、刃は死者を貫いた。剣を引き抜く前に、敵は灰となって崩壊した。
三体の死者が目前まで来ているのを一瞥し、レイチェルは一旦部屋に引っ込んだ。そして扉のすぐ隣に身を潜め、両手で剣を握り大上段に身構えた。互いに押し合い、亡者達はよろめきながら部屋に踏み入ってきた。レイチェルは気合の叫びと共に剣を振り下ろし、死者の肩口を大きく切り裂いた。そして更なる一体がこちらに顔向けると同じくして、その腹部に剣を繰り出し、突き刺した。その死者は後ろによろめき転倒した。もう一体は恐ろしいことに、肩口から灰になって行く死者に掴みかかり、大口を開きながら相手を引き寄せた。レイチェルは悲惨な光景を想像するや、その死者に向かって背中から深々とした一太刀を入れた。死者はそこから真っ二つになり、地面に崩れ落ちた。三体の亡者は這いつつも、執拗にレイチェルに迫ろうとしたが、その途上でどうにか灰の山へと変わっていった。虚ろな死者のおぞましい声も、心臓を凍らせるような微かな足音も、もう闇の中からは聞こえなかった。レイチェルは深く安堵し、今一番必要なのは、全ての暗闇を照らすための温かな灯かりなのだと考えた。そして出口が無い以上は、新たな寝室も必要になるだろう。食料については考えないことにした。
白い光りを通路の方に向ける。忍び寄る者の存在は無いように思えた。ならばと、すぐ目の前に投げ出された小さな書棚を調べることにした。
願わくば火と蝋燭があらんことを……。そんな彼女の頼みも虚しく、この小さな棚には塵芥の塊すらも残っていなかった。希望を夢見る数だけあった引き出しと、開き戸に対して、彼女は失望した。それは壁際にある大きな棚も同様であった。綺麗さっぱり何も残されてはいない。あるのは、蝋燭が溶け切ったカンテラと、壁に掛かった神官の白い衣装、そして不浄なる者によって汚された寝台である。
神官の衣装を見詰めつつ、彼女は自分の衣装が破れてしまったことを思い出した。そして、中に着ている鎖帷子に食い込んで残っているであろう、亡者の生爪のこともだ。上着を脱ぎ、剣で鎧を照らすと、あるべきところにそれはあった。ほんの僅かの肉片をくっ付けつつ、鎖の輪の中には三つの生爪が突き立つように引っ掛かっていた。レイチェルはおぞましく思い、シーツの端を厚く折り重ねてそれで摘んで取り除いた。本当は気のせいなのかもしれないが、それはどうにも嫌な感触であった。
彼女の白い衣装は、右の肩口から大きく裂けていた。戦いの勲章だと思いつつも、聖なる役職に身を置く女性が着るには、はしたない様にも思えた。あれを着るべきだろうか。壁に掛かっている敵の首領の物と思われる純白の衣装を見つつ彼女は思案した。邪悪なる神官の物を羽織って、我が獣神キアロド様を怒らせ、破門にされはしないだろうか。それとも、この衣装には呪いが掛かっていたりはしないだろうか。後者の疑念を晴らすべく、白く輝く剣の切っ先で衣装に触れた。光りと闇の鬩ぎ合いで出るはずの蒸気は上がらなかった。どちらにせよ、これで清められた。レイチェルはそう腹を括ると、衣装を手に取った。途端に、あまりにも滑らか過ぎる高級な感触に目を丸くした。同時に罪悪感にも苛まれた。これは泥棒だ。しかし、彼女は羽織った。あくまで借りるだけにしよう。そう借りるだけだ。彼女は主に祈りを捧げると、他の部屋の調査に乗り出した。




