第9話 「脱出」 (前編)
手の中にある燭台の灯りは、一筋の輝く剣のように通路の暗闇を切り裂いて行く。その切っ先を追いかけるように、二人の人間は、息を切らしつつも懸命に駆けていた。
レイチェルは聞き耳を立てていたが、エルドの言っていた微かな悲鳴は聞こえて来なかった。
先を行く男の黄色い頭越しに、出口の光りが見えてきた。そして斜面を駆け上がり、彼に続いて眩しい世界へと飛び出した。
高く奥行きのある剥き出しの石壁に無数の灯が瞬いている。それは、広大な空間の下に、聳え立つ大きな背をも照らし出していた。
分厚い皮膜の両翼を持った黒い竜は、出会った時と同じように、胸部から下までが未だに大地の中に埋もれていた。そいつは長い両腕を撓らせ、鞭のように振り回していた。それを回り込むように避けているのは、イーレのようであった。遠目だが、彼女の脚は人のものに戻っている。サンダーが血を分けたのだろう。しかし、少年の姿は竜の周囲には無かった。
「シスターシルヴァンス!」
クレソナスが呼び、レイチェルは初めて足元の光景に気付いたのであった。
二人の周囲には、牢獄から飛び出した女達が倒れている。その目は見開かれ、身体は小刻みに震えている。竜の迫力に慄いたのかと思わせたが、そうではなさそうだ。
そして、戦場に程近い場所には、紛れも無くサンダーの姿があった。彼はその場でへたり込む様に腰を下ろしている。クレソナスは屈み込み女達の様子を窺っていた。その背を見ていると、彼は振り返った。
「これは毒に違いありません! それも身体の自由を奪う程の猛毒の! シスターシルヴァンス、解毒の法術をお願いします! 私は向こうの彼を助けなければ……」
その時、大地が不安定に傾いた。前方の竜が、地面の裂け目からがっしりとした太い片脚を引き抜き、そして無情にも、もう片方の脚までもが地上に姿を見せた。光る黄色の目がこちらを見下ろした。
その大きな足が、ゆっくりと地を離れ、大きく振り下ろされる。周囲が危く揺れ、壁や天井からは、土塊が幾つも降ってきた。
竜はそのまま歩んで来る。断続的な揺れに、レイチェル達の脚も感覚を失われ、ついにその場に立っていられなくなった。
そしてレイチェルは気付いた。
怪物の歩みの前には今も同じ体勢で、サンダーがいるのだ。彼もまた毒にやられてしまったのだろう。しかし、大地は揺れ続け、彼女とクレソナスの抵抗を嘲笑うように阻んでいた。
「このままではあの少年が、踏みつけられてしまう!」
クレソナスはそう言うや、その場にうつ伏せに倒れ、地面を掻くようにしてサンダーの方へと向かい始めた。
「シスターシルヴァンスは解毒を! 皆さんが降ってくる岩の下敷きになってしまうかもしれません! どうか急いで!」
素早い歩みの先で、クレソナスはこちらを一瞥し訴えた。そんな彼のすぐ隣に、大きめの岩が落下し、地面に当たって砕け散った。しかし神官の男は臆せず這い進んだ。
レイチェルは決心し、解毒の魔術の調を口ずさみ始めた。尻の下に嫌な地響きを感じながら……。そして前を向けば、何処かには必ず、破壊的な塊が現れ砕けてゆく様に、冷や冷やさせられながら……。とても気持ちが耐えられるものではなかった。しかし、仲間達は危険な戦場で各々奮起している。
クレソナスはサンダーを助けるために、邪悪なる竜へと懸命に這い進んでいる。イーレの小さな影は苦労しながら立ちつつも、揺れに足を取られて動けない様子であった。そして彼女の悲痛な声がサンダーの名を叫んでいる。竜は少年の目前まで来ていた。クレソナスは間に合わなかった。
浄化の光りが宿ったことも気付かず、レイチェルは、無情にも振り下ろされた巨大な足先を見詰めていた。しかし、幸運にもそれは座り込む少年を気紛れに跨ぎ越していったのだった。屈強な足から生える太い三本の爪から土塊が降り注ぎ、再び地面を穿った。
しかし、ホッとするのも束の間、竜はクレソナスの姿に気付き、首を下ろすや咆哮を上げた。それは空気を揺るがし、新たな衝撃となって部屋中を激震させる。天井から容赦なく岩石が降り、次々に地面を埋め尽くしてゆく。クレソナスはうつ伏せのまま、その場から動かなくなっていた。岩礁のような竜の顎がその薄い金色の髪に近付いている。
愕然としているだけのレイチェルの前で、竜の口が僅かに開いた。途端にクレソナスが脇へ転がり、彼は懸命に竜を迂回するように這い進み始めた。その視線の先では、イーレも彼と同じようにサンダーの方へと、這って合流しようとしていた。
その姿に鼓舞され、レイチェルはようやく己の役目を思い出した。右腕には白い浄化の光りが宿っている。彼女は手近の女性の肩をその手で触れた。そして懸命に祈りを捧げ始めた。
「神官さん……」
消え入るような声で相手の女性は顔を上げた。疲れたような顔の中で、必死に畏敬の眼差しを向けていた。彼女は充分過ぎるほどの恐怖を体験したのだ。自分の中にまだ蟠りがあったことを、それ自体が消えてゆくことで彼女は自覚したのだった。
そして申し訳ない気持ちもあった。彼女達を先に行かせず、どうにか牢獄に止めて置くべきだったのだ。そう思っていた矢先に、女は声を上げて泣き叫び、レイチェルの身体に顔を埋めてきた。自分よりも強そうな年上の女性であったが、レイチェルは神官として、その身体を優しく抱擁し、再び新たな相手に手を伸ばして解毒に当たった。前方の様子がどうにも気になったが、例え竜のゴツゴツした鼻面が目の前にあったとしても、彼女はこの人達を見捨てて生き延びるつもりはなかった。
「シスターシルヴァンス、遅くなった」
その重々しい声音は、まさしく素晴らしい音色そのものであった。エルドが通路の向こうから顔を覗かせた。彼もまた揺れに足を救われぬように、壁に手を置いている。こちらを見下ろす大きな男の顔は古傷だらけだであった。エルドは戦場を向くと、行く手に巨剣を突き出した。すると、その身体は一陣の風を残して、真っ直ぐ竜の背へと疾駆して行った。見間違いで無ければ、彼の二つの足は浮いていた。
「レイチェル」
アネットが通路から現れた。彼女は傍に身を屈めると、解毒の魔術を詠み始めた。その両手にはすぐさま白い光りが現れる。手近の二人の身体を労わるように彼女は触れた。彼女の姿はレイチェルを励ますと共に、もう片方の腕のことを思い出させてくれた。魔術を詠みながら懸命に意識すると、その光りは左手にも現れた。レイチェルは意気を取り戻し人々の治療に当たった。
鉄のぶつかり合う高らかな音が聞こえ続けた。ふとした合間に目を向けると、エルドは揺らめく大地を駆け、そして迫り来る竜の長い腕と尻尾の齎す致命的な一撃を避けるや、通り過ぎようとするそれに、すかさず剣を打ち込んでいた。音の正体はこれであった。大柄な神官が全力で振るう巨剣をも、黒光りする竜の鱗は阻んでしまうのだ。しかし、エルドにも計略があったことがすぐにわかった。彼が敵を翻弄している隙に、イーレが身をよろめかせながら、新たに出来た背後に回りこみ、「鱗切りの剣」を振るうのだ。文字通りの剣は、鱗をものともせず大地を踏み締める脚の脛を裂いていた。
しかし、それでも竜にとっては蚊に刺された程度なのだろう。痛みに声を上げることも無く、ひたすらエルドの剣の後を夢中で追っていた。
サンダーとクレソナスは、壁を支えとしながら、こちらに小走りで駆け寄って来ていた。
乾いた血に塗れた少年の顔を見て、女達が虫の居所が悪いかのように目を逸らし、表情を曇らせた。
「エルドさん達が隙を作っている間に皆さんを逃がしましょう!」
「イーレとあの人が相手してる間にこの人達を出口へ!」
異口同音に、二人の男はそう叫んでいた。そして顔を見合わせ、苦笑しあった。レイチェルは、サンダーの手に握られている短剣が、刀身の中ほどから無くなっているのを見た。彼女は慌てて「鎖断ちの剣」を彼に差し出したが、クレソナスが止めた。
「レイチェルさんも、まだ武器は持っていた方がいい! その代わり、サンダー殿には、我が剣をお貸し致しますよ!」
そうして腰から鞘ごと剣を抜き取り少年に差し出した。鞘には、銀色の妙な花飾りがついているほか、側面にも金色で何らかなの紋様が施されている。それなりに高価そうであった。クレソナスは高貴な家の出であるようだ。
サンダーは恐縮しながらというよりも、相手の迫るような厚意に圧されるようにしてそれを受け取った。そして軽く刃を抜き、小さく感嘆した。 その隣でクレソナスが一同を見渡して一際声高に言った。
「これから我々は、壁沿いに進んで出口を目指します! 先頭は私が、最後尾にはサンダー殿が就きます! シスターラースクリスと、シスターシルヴァンスは、皆さんの列の中に入って頂き、万が一の備えとなっていただきます! さぁ、何か御質問は!?」
クレソナスは生真面目な表情で人々を一望し、決意するように頷いた。
「では、速やかに皆さんは一列に! 守護の方も各々御配置に!」
揺れる地面に苦労しながら女達が列を作り始めた。レイチェルはサンダーの前に、全体を半分に区切ったその後列の中程に入った。クレソナスの号令で、一同は戦々恐々と壁に身を預けながら出発した。
目指す出口はここからは遥か先であった。しかし、彼女以外の者は、遠目に見える竜から片時も目を放さずにいた。そして、それを翻弄する二人の戦士の影を時折思い出すように心細げな一瞥を向けるのであった。
エルドは振り下ろされてくる顎をゆるやかに避け続ける。そして苛立ちで止まった大きな顔へ、大上段の一撃を繰り出したが、やはり刃は硬質な音を立てて弾かれていた。その最中にイーレが背後から忍び寄っていたが、それを既に熟知していたかの如く、彼女の横合いから風の唸りを上げて尻尾が殴り掛かってきた。足元が揺れる中、イーレは危な気なくそれを避けたが、竜は突如として彼女を振り返り、太い片足で彼女を踏み潰そうとした。
レイチェルの背後でサンダーが小さく悲鳴を上げていた。しかし、エルドが剣を突き出しながら滑るように猛進し、巨大な足元に割り込んで彼女を抱えて救出した。
そして振り下ろされた足が洞窟中を再び激震させた。
レイチェルも女達も立っていられなくなり、尻餅をついていた。女達の多くが悲鳴を上げていた。
竜は二人の戦士を壁際まで追い詰めていたのだが、その重々しい歩みを止め、ゆっくりとこちらを振り返った。漆黒の顔の中で、黄色の双眸がレイチェル達一行を値踏みするかのように凝視している。
隊列の者達は茫然自失し、竜から目を逸らすことはできなかった。そして戦慄に支配された数人の悲鳴が静寂を崩壊させるや、闇の竜デルザンドは破滅の訪れを抱かせるような咆哮を上げた。それは部屋中の壁という壁に反響し、レイチェル達の耳を突き破るように痛めつける。そして恐慌状態に陥った人々が列を飛び出し、散り散りになって逃げ始めた。その向かう先は、牢獄に続く通路か、それとも未だに遠い出口かのいずれかであった。
竜は、ほんの目の前を横切って行く集団の横を目で追っていた。その眼光が逸らされ、見過ごすかと思った矢先に黒い巨体は突進した。その断続的な足踏みが大地を激しく揺さぶり、人々の脚から自由と希望とを奪い去った。
女達は、這いながら懸命に逃れようとしている。しかし、彼女達の絶望の悲鳴が上がるよりも早く、巨体が黒い雪崩の如く一団を蹴散らし、大量の血と多くの拉げた身体を宙に巻き上げた。黒い巨体は岩壁に激突し、洞窟中を激震させ、岩を降らせつつ停止した。人々の亡骸が四方八方に落ちていった。その幾つかに大岩が注ぎ、亡骸を潰すおぞましい音を響かせた。
竜は壁に減り込んだ身体を引き抜くや、空気を鋭く裂く様な声を発し、顎を大きく開いた。レイチェル達はその巨体を間近で見上げていた。全身を覆う黒光りする鱗は、一つ一つが大きな楔形をし、刃のように逆立っている。聳え立つ巨躯と両脚は強靭な筋肉の塊だが、長く伸びた両腕だけは不釣合いなほど華奢で幽霊柳の枝のようであった。
残虐そうな横顔の膨れ上がった下顎が下ろされた。鋭利で頑強な白い歯が上下に列挙していた。彼女はただ尻をつき、息を呑んで闇の暴君を見上げているしかなかった。
不意に悠然と、黄色一色の目が彼女を見下ろした。それは気のせいではなかった。竜は顎を開いたままこちらを振り向いたのだ。そして、上下の顎に列を成す残虐な氷柱のような歯に挟まれた、赤黒い洞穴の奥底で、紫色の光りが明滅した。その時には、眼前に勢いのある靄が吐き出され、レイチェルは、その濃密な紫の光りの真ん中で、全身に焼ける様な痛みと、意識が朦朧とするのを感じていた。その最中でも背後で多くの悲鳴が上がるのを彼女は聞いた。
そして霧が晴れたとき、竜の大きな顔が、まるで不足な餌だというようにこちら眺めていた。レイチェルは声が出せなかった。
身体中の筋という筋が忙しげに脈動している。彼女の目の瞬きも、指も、口も、そして関節という関節が意思と関係なく緩み切り、そして唐突に締まってゆく。目がチラチラとし、もはや感じるものは疲労感だけであった。温かい玉ねぎのスープを飲んで、あとは柔らかいベッドで眠りたい。彼女はそう思っていた。そして気を失った。その身体には頭上から熱い鼻息が忍び寄っていた。
2
紫色の毒の霧が目の前に広がった時、サンダーは慌てて駆け、辛うじて難を逃れていた。彼は残った女達の集団の方を目指しながら、レイチェルの姿が無い事に気付き、深く絶望し、見捨てるような結果への罪悪感に苛まれていた。
尚も恐怖の悲鳴を上げる女達を、彼は一喝して黙らせ、それで幾分か思考を取り戻していた。彼は借り物の優美な剣を握り、行く手を塞ぐ濃密な煙の先を睨んでいた。サンダーもあの霧を浴び、生死を彷徨う思いをしていた。それをクレソナス何とかという声の大きな男に助けられたのだ。全身を襲う激しい痺れを、そして容赦ない吐き気と頭痛、息苦しさが一挙に身体を蝕んできた。気付いたのは、クレソナスが治療を施してくれた時だ。その最中の記憶はあるようで無い。レイチェルも同じ状態に陥っている筈だ。
霧が薄れ、恐ろしい巨体の影が見えてきた。しかし、その顔は俯かれ、大きな顎の先には壁の前で崩れ落ちているレイチェルの姿があった。彼女はまるで死んだ人の身体がそうなるように、ビクビクと不穏に揺れ動いている。全身が痺れているのだ。
レイチェルの眼前で竜の口が開いた。サンダーは慌てて声を上げていた。
「よせえっ!」
すると、竜は顔をこちらに向け、ゴロゴロと咽を鳴らすと背筋を起こした。その足はレイチェルの脇に危な気なく一歩踏み出される。そして身を屈めた。漆黒の顔の中で目立つ黄色の双眸がサンダーを畏怖させるように凝視する。
このまま竜を引き付ければ、クレソナスか、アネットさんかが、レイチェルを救い出してくれるかもしれない。
「そうだ、こっちに来い! 俺がお前の相手をしてやるぜ!」
風が隣に舞い降りた。見上げるような人の巨体が彼の隣に立っている。全身を覆う銀色の鎧兜は、蝋燭の灯りを反射し幻想的な輝きを放っていた。
雄雄しいその姿と相俟り、その風貌はまさしく英雄を想像させた。
「良い胆力をしているな」
古傷だらけの無骨な顔が冷静な口調でそう言った。敵を注視しながら、大柄な神官は続けた。
「もっと叫んでくれ。シスターシルヴァンスのために、我らでその隙を設けてみせよう」
見上げた横顔には、沈着冷静な瞳が鎮座しこちらを見下ろしていた。この人はクレシェイドとどちらが強いのだろうか。サンダーは一瞬そう考えた後、大きく息を吸い、思いつく限りの罵詈雑言を、声高に竜に向かって叫び続けた。
子供同士のおふざけでの悪口や、諸国を行き、町中や酒場でその耳に飛び込んできた、未だに意味の分からない文句も次々と記憶の底から掘り出し口から放り出した。
そして肩で息をしながら、首尾はどうかと隣の男へ目を向ける。相手は無言で竜を睨んでいた。この神官の戦いぶりと、その巨大な剣を思い出していた。竜の鱗には歯が立たなかったが、この男の周囲を太く唸らせる一太刀は、鋼鉄に身を包んだ人馬をも容易く裂いてしまうだろう。竜は不動の姿勢を保っていたが、動き出すときは素早かった。その身体が振れ、地鳴りがしたと思ったときには既に目の前にいた。
「さぁ少年、女性達を率いて行け。ここは我と獣の神器、飛翼の爪に任せてもらうぞ!」
神官は巨剣を突き出すと、向かってくる竜目掛けて疾駆していた。サンダーは気付いていたが改めて確信した。この男の足は宙に浮いている。それは、紛れもなく手にしている剣の力なのだろう。
彼は地響きに肝を冷やしながら、不安定な地上を懸命に這い始めた。牢獄へ続く通路の前に生き残りの女達が座り込み、怪物の姿を恐れ仰いでいた。壁に沿いながらイーレも来ていた。
彼女は茶色の革の頭巾の下で、サンダーに強く頷いてみせると、竜に怯える女達を見下ろした。
「立ちなさい、これが最後の機会になるはずだから。行きましょう」
イーレは彼女なりに思いやって諭してみせていた。イーレは手を差し伸べた。女達はラミアの彼女の姿を見ていたのだが、今やその程度の異質な恐れに構っている暇ないと割り切るように一人、また一人と腕を掴んで立ち上がり、そして壁に身を預けた。
イーレは戦場を一瞥すると、安心したような表情になり彼女達を先導した。サンダーにも彼女の安堵の意味が見えていた。たった一人残されていたレイチェルの隣には、アネットとクレソナスが駆け付け、二人は互いに聖なる白き魔術で治療を施していた。一方の大柄な神官は、鞭か鉄槌の如く襲い掛かる長い腕を、剣で受けながら持ち応えていた。鋼が打たれるような音が響き続けた。こちらが安全圏まで退避するのを待っているのだ。
サンダーは前を向き列を追い始めた。女達の背がなかなか進まないことに、まどろっこしさを感じたが、そんな醜い思いとは決別しなければと、殿の少年戦士は考え直す。
不意に、背後から猛烈な風が吹き付けた。竜の背を振り返る。その広く伸びた皮の両翼が静かに羽ばたき始めていた。驚愕し、後退りしながら仰ぎ見ていると、同じく立ち止まってしまった女の身体に彼はぶつかった。
「急いで!」
慄く女達の顔を見回して彼は急き立てた。風の勢いが変わり始めたのその時であった。風は見えない塊の波のようであった。地上の全てにぶつかり、根こそぎ吹き飛ばそうとするかのようだ。そして重厚な音を頭上に轟かせ、巨体が頭上へ舞い上がり、よろめいて壁に激突する。洞窟が揺らぎ、人々は足を止められた。視界の其処彼処で悪夢の如く岩が降り注いだ。
男女の慌しい叫びが聞こえた。サンダーが素早く目を向けた先で、アネットとクレソナスが二人係で、レイチェルを持ち上げていた。
「急げ、逃げろ!」
頭上で神官の大男が声を上げた。その巨剣は竜の脇腹に深々と突き刺さっていた。傷口からは粘液のような竜の赤い血が流れ、重々しく地上へと滴っている。巨躯の神官戦士は空でそれを引き抜こうと、悪戦苦闘していた。その目が驚愕するように振り向かれ、焦りに満ちた叫びが木霊した。
「アネット! クレソナス!」
サンダーは見た。二人の頭上に岩と砂が大量に降り注ぐのを……。そして、砂煙の中でレイチェルの影が起き上がり、二人を両腕で突き飛ばすのを……。その影の周囲に更なる土砂と岩とが奔流の如く落ち続け、あっと言う間に埋め尽くしていった。
サンダーは誰かに腕を掴まれ、力任せに引き摺られた。唖然とする彼の視界の先に、レイチェルの影は既に無く、土砂の上には無数の岩石が鈍い音を立てて降り注ぎ続けた。
その光景が頭の中で繰り返され、彼に悲惨な現実を幻として見せ続けていた。知らぬ間に出口を潜り、そして背後で激しい光りと共に、魔法の扉が開かれたことにも気付けなかった。
「何者だ!?」
女の問いが叫びとなって轟いた。
「我らは神官と、囚われ人達だ。そちらと敵対する者ではないはずだ」
サンダーの隣で巨躯の神官の低い声が、鋭く冷静な音色で応じた。するとその答えを遮って女が驚愕の声を上げた。
「サンダーか!?」
己の名を呼ばれ、サンダーは薄らぼんやりとした回想の中から抜け出せた。彼の目がようやく見たのは、土砂に塞がれた入り口であった。その視界をあの魔法の扉が音も無く姿を現し遮ってしまった。
「サンダー! どうした、怪我をしているのか!?」
肩に手を置かれ、それはさほど力が籠もっていた訳ではなかったが、酷く暴力的に身体を揺すったように感じた。レイチェルは戻って来ない。
ライラの切れ長の目は険しい色を湛え、彼の眼を真っ直ぐ覗き込んでいた。彼は事実を告げようとしたが、声は咽の奥で膨れ上がったかのようにつっかえていて、何も言えなかった。思わず泣きそうになったが、その身体を仲間の女性は力強く抱き締めたのであった。




