第1章:1.1 すれ違う運命
朝の八時半の台北地下鉄ブルーライン。
車内は表情のない通勤客で埋め尽くされている。
冷房がどれほど強く効いていても、濡れた傘や香水、そしてサラリーマンの汗が混ざり合ったあの澱んだ匂いを抑えることはできない。
闕恆遠は片手で吊り革をつかみ、列車の進行に合わせて体をわずかに揺らしながら、視線はスマホの画面に映るカレンダーをじっと見つめていた。
心に溜まりに溜まった疲労感は、今朝九時の部門横断ミーティングを目にしたことで、ついに限界点に達した。
27歳の彼は、「雪耀国際」という名のブランドマーケティング会社に入社して丸三年になる。
大学を卒業し、兵役を終えて戻ってきて以来、毎日の終わらない残業、何度直しても終わらない企画の修正、そしてチャンスがあればここぞとばかりに難癖をつけ、雑用をすべて押し付けてくる直属の上司が待っていた。
「もう辞めてやるさ。」
闕恆遠は心の中で自分にそうつぶやいた。
彼の右手探りがスーツの内ポケットに入り、指先が厚みのある封筒に触れた。
それは昨日の夜、アパートのデスクライトの下でパソコンを使い、一文字ずつ打ち込んで印刷した退職届だった。
地下鉄の駅を出ると、外の空は灰色に曇り、細かい霧雨が降っていた。
彼は傘を差さず、ただスーツの襟を立てて、信義区にある高級オフィスビル内の会社の本部へと早足で歩いて向かった。
17階のマーケティング第二課のオフィスエリアに足を踏み入れると、まず耳に飛び込んできたのはキーボードを叩く軽快な音と電話の呼び出し音だった。
闕恆遠はバックパックを自分の席に置いたところだったが、パソコンの電源を入れる暇もなく、すぐ後ろから皮肉な響きを含んだ声が聞こえてきた。
「おや、」
「恆遠じゃないか、」
「やっと来たか。」
そう話しかけてきたのは、マーケティング第二課課長の連廷傑だった。
彼は体にフィットしたグレーのスーツに身を包み、髪はポマードで一糸乱れず整えられ、手には淹れたてのアウトドアなホットアメリカーノを片持ち、見る者の胃を痛くさせるような虚偽の笑みを顔に貼り付けていた。
「課長、」
「おはようございます。」
闕恆遠は振り返り、起伏のない声のトーンで答えた。
「遅いよ、」
「みんなもう会議室に入って準備している。」
「そうだ、」
「昨日の夜、君に徹夜で修正してもらったあの『尊爵品味』の企画書、」
「プリントアウトしたか?」
「社長がこれから直接目を通すんだからな、」
「これは我が第二課にとって今四半期の最重要プロジェクトなんだ、」
「しくじってくれるなよ。」
連廷傑はそう言いながら、手元にあった厚みのある、青いクリアファイルに挟まれた書類を闕恆遠のデスクに直接放り投げた。
「課長、」
「あの企画書は昨日の夜十二時にあなたのメールボックスに送りましたけど、」
「それに、昨日自分でプリントアウトしてまとめると言っていませんでしたか?」
闕恆遠は眉をひそめた。
「おいおい、」
「俺はやるべきことがこんなに多いんだ、」
「そんな暇があるわけないだろ?」
「今すぐきれいにまとめてくれ、」
「その青いファイルに挟んで、」
「それから会議室の俺の席まで持ってきてくれ。」
「それと、」
「俺の机の上に社長へ提出する重要な報告書がある、」
「封筒もそこに置いてあるから、」
「ついでにそれも持ってきて、」
「企画書と一緒に重ねておいてくれ。」
「早くしろよ、」
「社長の機嫌は知っているだろ。」
連廷傑はめんどくさそうに手を振り、闕恆遠に拒否する隙すら与えず、そのまま大会議室へと歩いて行った。
闕恆遠は連廷傑の背中を見つめながら深く息を吸い込み、胸の中で渦巻く怒りを必死に抑え込んだ。
彼は連廷傑の採光が抜群によい個室オフィスへと向かい、散らかった机の上からその上品な白い封筒を見つけ出した。
連廷傑という男は昔から見栄っ張りで、ちょっとした報告書を出すのにもやたらと高価な厚手紙の封筒を使う。
闕恆遠は何も深く考えず、その封筒を手に取ると自分の席に戻り、昨日の残業で仕上げた企画書をページごとに確認して順番を整え、最後にきれいに青いファイルへと挟み込んだ。
資料を抱えて会議室へ向かおうとしたまさにその時、彼の指先が再び内ポケットの中にある退職届に触れた。
「いっそ今日で終わりにしよう。」
闕恆遠は冷笑を浮かべた。
彼は自分の退職届が入った白い封筒を引き抜き、ミーティングが終わったらそのまま直接、社長の伊凝雪に手渡そうと考えた。
どうせ連廷傑のような小者とこれ以上無駄口を叩く気はないし、直接上の人間に報告して、労働基準法で定められた予告期間を経てそのまま辞めてやればいい。
彼は自分の退職届の封筒を、そのまま青いクリアファイルの中に放り込んだ。
九時ちょうど。
大会議室の中は静まり返っていた。
広い会議テーブルの両側には各部門の課長たちがずらりと座り、誰もが身を正し、息をするのさえわざと抑えていた。
会議室の扉が押し開けられ、微かでありながらも圧迫感に満ちたハイヒールの乾いた足音が遠くから近づいてきた。
入ってきたのは、雪耀国際の現役社長である伊凝雪だった。
彼女はこの日、仕立てのすっきりとしたダークブルーのダブルのスーツジャケットに、シルクの白いシャツを合わせ、下は同系色のスラックスという装いだった。
その高身長でスリムな体型が完璧に引き立てられ、この上なくファッショナブルで、まさにトップに立つ者の手腕を感じさせる佇まいだった。
だが、その美しさは見る者を誰も寄せ付けないような冷たさを帯びており、透き通った瞳が場内を一瞥するだけで、誰もが心の奥底に隠している下心を見抜かれてしまうかのような錯覚を覚えさせた。
雪耀国際において、伊凝雪は冷徹な鉄面皮社長としてその名を知られていた。
規律を厳しく守り、公私の区別は徹底しており、仕事のクオリティに対する要求は妥協を許さず厳格そのものだった。
彼女の前で報告をする時など、データがほんの少しでも曖昧であれば、その氷のように冷たい言葉でその場ですべて論破されてしまうのだった。
伊凝雪は主パネリストの席に腰を下ろし、マイクの角度を手で直した。
その声は、まるで何の感情も帯びていない楽器のように冷ややかだった。
「始めましょう。」
「マーケティング第二課から、」
「連課長、」
「そのプロジェクトの進捗はどうなっているの?」
連廷傑はすぐに立ち上がり、顔中に媚びへつらうような笑みを張り付かせた。
「はい、社長。」
「『尊爵品味』のマーケティング企画についてですが、」
「我が第二課ではここ数日、熟考を重ねた結果、」
「非常に大きな最適化を行いました。」
「闕恆遠、」
「資料を社長に渡しなさい。」
闕恆遠は無表情のまま立ち上がり、あの青いクリアファイルを持って歩み寄った。
伊凝雪の傍らに近づくと、高山のヒノキのようなかすかで清らかな冷たい香水が鼻をかすめた。
伊凝雪は顔を上げて彼を一瞥することすらなかった。
ただそのすらりとした、爪が異常なほど整えられた指先を伸ばし、ファイルを受け取った。
闕恆遠はファイルを置いたその瞬間、ファイルの下部から指で引き抜くようにして、自分自身の退職届が入った封筒だけを残し、それを伊凝雪の右手側にそっと置いた。
「社長、」
「こちらが報告書です。」
闕恆遠は低く呟いた。
伊凝雪の視線は企画書の最初のページに留まったままで、ただ軽くうなずいて席に戻るよう合図した。
その後の三十分間は、会議室にいる大半の者にとって耐え難い苦行だったが、闕恆遠にとっては自分とは無関係のブラックユーモアのようだった。
連廷傑はプロジェクターのスクリーン前でよどみなく話し続け、闕恆遠が昨夜徹夜で考え出したアイデアを、すべて「私の個人的な戦略構想」として自分のものに仕立て上げていた。
伊凝雪が鋭い質問を投げかけるたび、連廷傑は言葉につまり、隅に座る闕恆遠に目配せして補足を促した。
闕恆遠はいつも最も簡潔で平坦な言葉でその穴を埋めた。
その「やる気の一切ない」死んだ魚のような目の態度に、連廷傑はテーブルの下で歯ぎしりして悔しがったが、主パネリストの席にいる伊凝雪は、なぜかほんのわずかに眉をひそめた。
「そこまで。」
「この案件はこれで進める。」
「連課長、」
「細部については今週金曜日までに最終版を提出して。」
伊凝雪はパタンとファイルを閉じ、各部門のマネージャーたちに視線を向けた。
「解散。」
会場の全員がまるで恩赦でも受けたかのように、慌てて荷物をまとめ、一番のスピードで会議室から出て行った。
連廷傑はわざと最後まで残り、闕恆遠のそばに歩寄ると、声を低くしてきつく言い放った。
「闕恆遠、」
「さっきの態度はなんだ?」
「質問されても歯磨き粉を絞るみたいにしどろもどろじゃないか!」
「あとでオフィスに戻ったら、」
「今週のデータをもう一度出し直せ。」
「定時までに提出できなければ、」
「週末は会社に残って残業してもらうからな!」
闕恆遠は冷ややかな目で彼を一瞥し、返事すら面倒くさそうに無視して、自分のノートを手に外へと歩き出した。
週末まで待つ必要などないと、彼はすでに分かっていたからだ。
二十分後、闕恆遠が自分の私物を机で整理し、社長室からの「呼び出し」の連絡を待っていると、社長秘書兼マーケティング本部長の千慕羽がやってきた。
千慕羽は社内で伊凝雪と直接対話できる数少ない高層の一人で、肩まで垂れる茶色く柔らかなウェーブがかったロングヘアを上品にまとめ、精悍な顔立ちにはいつも優しい笑みが浮かんでおり、伊凝雪の冷たさとは対照的だった。
「闕恆遠、」
「社長が、今すぐ社長室まで来るようにって。」
千慕羽の声は優しく、その瞳の奥には何かを探るような読めない光が宿っていた。
「分かりました、」
「ありがとうございます、千本部長。」
闕恆遠は立ち上がり、ズボンのシワを軽く手で払った。
連廷傑の席の前を通り過ぎる時、連廷傑は鼻で笑い、周囲に聞こえるように嫌味を言った。
「ほら見ろ、」
「さっきの会議でのあの仕事の態度じゃあ、」
「社長だって見過ごせなかったってことだ。」
「中に入ったらしっかり謝ってこいよ、」
「第二課全体の足を引っ張るなよ!」
信義区の高いオフィスビル内。
午後の陽光が少しずつ晴れてきた雲間から差し込み、社長室の重厚な木の扉に斜めに光を落としていた。
闕恆遠はその扉の前に立ち、深く息を吸い込んでから重い木の扉をノックした。
中から伊凝雪のあの特徴的な冷ややかな声が響いてきた。
「入りなさい。」
中から聞こえてきた伊凝雪のその声は、普段の会議の時と変わらず起伏がなく、聞く者に自然と身を引き締めさせるような威厳を帯びていた。
闕恆遠はドアを押し開けて中に入り、そのままそっとドアを閉めた。
オフィスは極めて広く、床まである大きな窓の外からは信義区の華やかな街並みが一望できた。
伊凝雪はあの巨大な黒いデスクの向こう側に座り、指先で開封された便箋をつまんでいた。
その時の伊凝雪の指先には、白い封筒からまさに引き抜かれたばかりの厚手の上質な便箋が挟まれていた。
普段の会議室ではいつも張り詰めていて、氷のように冷徹だった美しい卵型の顔には、この時なぜか微かに尋常ではない緊張の色が浮かび、真っ白な耳の付け根さえもほのかにピンク色に染まっていた。
「社長、」
「お呼びでしょうか。」
闕恆遠はデスクから三歩手前の距離で立ち止まり、両手を自然に体の脇に垂らしたまま、落ち着き払った声で言った。
彼はすでに、口頭での警告や、そのまま解雇手当の話を持ち出される覚悟を決めていた。
彼の考えはシンプルだった。
辞表をすでに提出した以上、連廷傑のあの手この手の搾取や、データ集めといったくだらない雑用などもう知ったことではない。
この三年間、この会社でタダ働きのようにこき使われ、毎日のように深夜まで残業した挙句に得られたのは上司の冷笑だけだった。
どうせ辞めるなら、堂々と去りたい。
この27歳の会社員として、当然持つべき尊厳を取り戻すのだ。
伊凝雪はゆっくりと顔を上げた。
その澄み切った、底知れぬ美しさをたたえた瞳が、じっと闕恆遠を見据えた。
彼女の胸元がわずかに激しく上下し、まるで胸の内で荒れ狂う激しい感情を必死に抑え込んでいるかのようだった。
彼女は目の前の男を見つめた。
オフィスの照明の下、長年の夜更かしのせいで少し気だるげでありながらも、異常なほど冷静な、あの死魚のような目をしている。
シャツはきちんと着こなされ、そこにまっすぐ立つ姿には、すべてを見透かしたような淡々とした空気が漂っていた。
伊凝雪は手元の便箋の向きを変え、そっとデスクの上に平らに広げた。
『伊総、』
『これが深く考え抜いた末の決断です。』
『この三年間、』
『ステージに立つあなたの姿を見るたび、』
『私はずっと陰からあなたを見つめていました。』
『この感情が一線を越えていることは分かっています。』
『私はただの平社員なのですから。』
『ですが、もう疲れたんです、』
『これ以上隠し続けるのは嫌なんです。』
『我々の身分には格差があるかもしれませんが、』
『愛の前では平等だと信じています。』
『あなたのことが好きです。』
『伊凝雪。』
伊凝雪の指先は微かに震えながら便箋を押さえていた。
冷ややかな声には、隠しきれない緊張が混じっている。
「闕恆遠、」
「よくもここまで隠し通してくれたわね。」
「この手紙……」
「会議の時に自分で私に手渡したのよね?」
「はい、伊総。」
「これは昨日の夜、ずっと考え抜いた結果です。」
「お互いにとって、これが一番ふさわしい決断だと思いました。」
闕恆遠はうなずき、この上なく揺るぎない口調で答えた。
彼としては、退職という重大な決断なのだから、当然深く考え抜く必要があると思っていたからだ。
伊凝雪は「お互いにとって一番ふさわしい決断」という言葉を耳にし、心臓が激しく揺さぶられた。
普段、財務諸表を見つめるその目は圧倒的な精度を誇るのに、この時は強い心の防衛本能と勝手な妄想のせいで、その言葉の意味を完全にねじ曲げて受け取っていた。
高校時代にあの恐ろしい誘拐事件に巻き込まれて以来、彼女が自分に近づこうとするすべての男性に対して高い警戒心を抱くようになったことは、誰も知らない。
それに、長年自分の周囲に現れる男たちは、伊家の財産目当てか、あるいは彼女の外見にしか目がくらんでいない者ばかりだった。
而闕恆遠、その男はこの三年間、マーケティング第二課において、常に黙々と働き、自分の功績を誇ることもせず、連廷傑に難癖をつけられても一言も文句を言わずに耐え続けてきた人物だった。
まさか……。
彼は気が弱いわけではなく、ただずっと下から、こうして密かに見守るというやり方で、高嶺の花である自分という総裁を目で追い続けていたのだ。
「あなたが……」
「疲れたって?」
「これ以上隠し続けるのは嫌だって?」
伊凝雪はわずかに体を前傾させ、両手をデスクの上についた。
彼女の普段の冷徹な仮面は音を立てて少しずつひび割れ、その代わりに浮かび上がってきたのは、不意を突かれたような羞恥心と、心を見透かされた動揺が入り混じった複雑な表情だった。
「はい、」
「確かに、もう限界だと感じています。」
闕恆遠は自嘲気味にふっと笑い、まっすぐに伊凝雪を見据えた。
「この三年間、」
「第二課における私の置かれた状況を、」
「伊総もご覧になっていたはずです。」
「毎日終わりのない消耗の連続で、」
「本来の自分の仕事ではない雑用ばかりを押し付けられてきました。」
「これ以上、こんな状態を隠し、引き延ばし続けるのは、」
「私のキャリアにとっても、」
「あるいは会社の運営にとっても、」
「健全ではない一線の越え方だと考えています。」
「だからこそ、」
「これ以上ずるずる引き延ばすのはやめにすると決めました。」
闕恆遠のこの言葉は、一言一句が連廷傑による搾取と会社のシステムが抱える欠陥を告発するものだった。
しかし、伊凝雪の耳には、この言葉がこの上なく重く、切なく、そして抗いようのない究極の愛の告白として響いていた。
『毎日の終わりのない消耗……』
『健全ではない一線の越え方……』
伊凝雪は下唇を軽く噛み締めた。
自分の心臓が耐えられないほど激しく脈打っているのを感じる。
この男は、自分に密かな恋心を抱いているというその事実を、それほどまでに苦しい苦悩として抱え込んでいたというのだろうか。
自分との身分の格差や、自分が総裁であり彼が部下であるという現実のせいで、ずっと一人で内なる葛藤に耐え続けてきたというのか。
「消耗だって?」
「私のことへの……」
「私に対するその気持ちを、」
「消耗だと思っているの?」
伊凝雪の声は低くなり、自分でも気づかないほどの切なさと微かな震えが混じっていた。
「気持ちがどうこうという問題ではなく、」
「これは客観的な事実です。」
闕恆遠はあくまで事務的に答えた。
彼女が自分の仕事に対する姿勢を疑っているのだと思い込んでいたからだ。
「現在の環境はまさにその通りで、」
「安心感というものは、確実に結果で示すべきものです。」
「この場所がすでに私に見合う見返りを与えてくれないと感じる以上、」
「無理に居残っても何の意味もありません。」
「いっそ今日ここで話しをはっきりさせ、」
「お互いに別の道を歩むのが、」
「お互いにとって一番いいはずです。」
お互いに別の道を歩む?
その言葉は、まるで重いハンマーのように伊凝雪の心の防壁を激しく打ち砕いた。
高校時代の誘拐事件がもたらしたトラウマのせいで、彼女は極度なまでに安心感に飢えていた。
そして、闕恆遠の「安心感は確実に結果で示すべきものだ」という言葉は、彼女の魂の核心を正確に撃ち抜いていた。
この男は、彼女にすがりついているのではない。
自分の将来と尊厳を賭けて、冷たい仮面の陰に隠れ続けてきたお嬢さまである彼女に、決断を迫っているのだ。
もし彼女が首を縦に振らなければ、彼は手紙に書いた通り、自分の世界から永遠に消え去ってしまうだろう。
第二課で自分のために数え切れないほどの穴を埋め、あのぶっきらぼうでありながらも優しい目で自分を見つめてくれたこの男がいなくなってしまうと想像しただけで、伊凝雪の胸の奥がチリチリと痛んだ。
「別の道だって?」
「そんな勝手なことが許されるわけ……」
伊凝雪はふっと背筋を伸ばし、美しい卵型の顔にどこか執念じみた決意を浮かべた。
彼女はデスクの向こうから立ち上がり、ハイヒールの音を響かせながら、闕恆遠の目の前まで一歩、また一歩と歩み寄った。
二人の距離はわずか半歩にまで縮まり、闕恆遠は彼女の身に纏う高山のヒノキのような清らかな香水のかほりをはっきりと感じ取った。
「伊総、」
「では、関連の手続きは……」
闕恆遠は総裁が歩み寄ってきたのを見て、彼女が退職に同意してサインをしてくれるものと思い込み、内心でほくそ笑みながら引き継ぎの手続きについて尋ねた。
「手続きなんてどうでもいいの!」
伊凝雪は急に顔を上げ、普段は氷のように冷徹なその瞳に、か弱い女性のような羞じらいと、心の奥深くに隠されていた熱い想いをあふれさせていた。
彼女は歯を食いしばり、一言一言を噛み締めるように言った。
「あなたがそのボールを私に投げた以上、」
「私がそれを受け取るって決めたわ。」
「よく聞いて、」
「闕恆遠、」
「私はあなたが雪耀を辞めることも、」
「お互いに別の道を歩むことも、一切認めない!」
「はあ?」
闕恆遠はポカンと口を開けた。
退職が認められないだって?ご時世に、辞職を無理やり引き止められるなんてことがあるのか?
だが、彼が反応する間もなく、伊凝雪の次の言葉が、彼のあごが落ちそうになるほど驚かせた。
「受け入れるわよ。」
伊凝雪はわずかにうつむき、自分の指先をもてあそびながら、声こそ相変わらず冷ややかだったが、その頬は滴るように真っ赤に染まっていた。
「あなたの……」
「その告白、受け入れる。」
「これより、」
「私、伊凝雪はあなたの彼女になるの。」
「だから、二度と辞めるなんて口に出さないで。」
「分かった?」
オフィス内は一瞬にして静まり返った。
窓の外で降っていた霧雨はすっかり止み、強い陽光が差し込んで、二人の影を長く引き延ばしていた。
闕恆遠はその場に凍りついたように立ち尽くし、脳の処理が一瞬で停止した。
告白?
彼女に?
彼の視線は伊凝雪の肩越しに、デスクの上に置かれた走り書きの便箋へと落ちた。
そのお馴染みの、おべっかと気恥ずかしい表現が並ぶ文面、そして無署名というスタイル……
あれは紛れもなく、連廷傑の書いたものだった。
既婚者の連廷傑が、ヒキガエルが白鳥の肉を食おうとするかのように、あんな気恥ずかしい手紙で総裁を引っ掛け、不倫相手に仕立て上げようと企んでいたのだ。
それが、たまたま封筒の色が同じだったせいで、自分の退職届とすり替わって総裁に渡ってしまった。
そして、先ほど自分と総裁が交わした「疲れた」「消耗」「無理に居残っても意味がない」という対話は、まったく異なる次元の話でありながら、奇跡的に美しく噛み合ってしまっていたのだ。
彼は「こんなクソみたいな仕事、もう辞めてやる」と思っていたのに、総裁のほうは「彼は私を愛するあまり、退職をダシに使って私に決断を迫っているんだわ」と勝手に脳内補完してしまったのだ。
「社長、」
「もしかして……」
「何か誤解されていませんか?」
闕恆遠は喉がカラカラに乾き、唾を飲み込みながら最後にあがこうとした。
今ここで真相を打ち明けなければ、これはもう詐欺に近い大問題になってしまう!
「プライベートな場では、」
「私を社長と呼ぶのは許さないわ。」
伊凝雪はふっと顔を上げ、驚きと戸惑いに満ちた闕恆遠の整った顔を見つめた。
その胸の内でようやく湧き上がった勇気は、一瞬にして濃密な甘い切なさに変わっていた。
外では雷を轟かせるような鉄面皮の女総裁が、ハイヒールを鳴らしたまま前のめりに飛び込み、その身体をしっかりと闕恆遠の胸の中に預けたのだった。
彼女の両手は闕恆遠の腰を固く締め付け、その美しい卵型の顔を彼のシャツの胸元に埋め、深く息を吸い込んだ。
「呼んで……」
「凝雪って。」
彼女の声が胸元から響いてくる。
少し鼻にかかったような、甘えるような呟きだった。
「恆遠、」
「もう私を試さなくていいから。」
「自分が人に厳しくしているのは分かっているわ。」
「普段、誰にも心を開かないこともね。」
「でも、あなただけは、」
「会社で私に安心感をくれた。」
「私を困らせないために、」
「第二課で連課長からあんなに理不尽な扱いを受けても、一言も言わずに耐えてくれて……」
「私、これからは……」
「絶対にあなたに埋め合わせをしてあげるから。」
闕恆遠は体をこわばらせ、両手をどうしていい分からず宙に浮かせたまま立ち尽くしていた。
腕の中で小さく、柔らかく、そして微かに震えている彼女の体温を感じながら、その信頼と脆さが入り混じった本音を聞いていると、「この手紙は連廷傑が書いたものなんです」という言葉が喉のつかえにつかえて、どうしても口から出なくなってしまった。
ここで本当のことを打ち明けるべきだろうか?
だが、ここで真実を告げれば、やっとの思いで異性に心を開いたこの精神的にデリケートなお嬢様は、その場でショックのあまり崩れてしまうかもしれない。
そうなれば逆恨みを買うことになり、自分はこの業界で生きていけなくなるだろう。
いっそこの間違いに乗っかってしまうか?
もともとは会社を辞めに来ただけなのに、気づけばこのトップマーケティング会社の最高権力者の正真正銘の彼氏になってしまっているではないか。
「でもね、」
「社内では、」
「今まで通り距離を保ちましょう。」
伊凝雪はふと彼の胸元から顔を上げた。
その表情からは、普段の厳しさがすっかり消え失せていた。
代わりに浮かんでいたのは、普段とのギャップが激しい、どこか小悪魔的な茶目っ気と、ほんの少し色気を帯びた眼差しだった。
彼女は舌先で少し乾いた赤い唇を軽く舐め、両手で闕恆遠の胸元を優しく撫で回し、シャツの上から茶目っ気たっぷりに彼の胸板を指先でキュッとつまんでみせた。
「外の人たちに気づかれてはダメ。」
「もしあなたが私の彼氏だって知られたら、」
「みんな陰でよからぬ噂話をしたりするから。」
「だから、」
「私があなたを守るの、」
「分かった?」
伊凝雪は顔を上げ、その瞳をキラキラと輝かせた。
「……分かります。」
闕恆遠は愛想笑いを浮かべるしかなく、心の中では絶望的なまでに頭を抱えていた。
「それから、」
「今日の仕事が終わったら……」
伊凝雪はさらに彼の体に体をぴたりと寄せ、声のトーンを落とし、恥じらいの混じったワガママな口調で言った。
「一人で帰るなんて許さないから。」
「あなたに……」
「あとでバイクで私を家まで送ってほしいの。」
「私、昔テレビや小説で見たんだけど、」
「普通の恋愛って、」
「みんなそうやってるみたいだから、」
「私もバイクの後部座席に乗ってみたいなって。」
「このバイクの鍵をあげる、」
「終業後、会社の地下駐車場で待ってて。」
目の前にいる、あまりのギャップに人生そのものを疑いたくなるような総裁の彼女を見つめながら、闕恆遠は心の中でそっと深みのため息をついた。
この会社を辞めるのは、どうやら当分お預けになりそうだった。
闕恆遠がどこか魂の抜けたような足取りで社長室を出て、マーケティング第二課のオフィスへと戻ると、連廷傑がホットアメリカーノのカップを手にそのあたりで待ち構えていた。
闕恆遠の姿を見つけると、連廷傑はすぐに近づいてきて、これ幸いとばかりにニヤニヤしながら小声で笑った。
「どうだった?」
「闕恆遠、」
「さっきも言った通り、社長にお説教されるのって散々な気分だったろ?」
「その死んだ魚みたいな顔を見てれば分かる、」
「ボーナスをカットされるか、それとも始末書でも書かされるのか?」
「言っておくけど、」
「雪耀国際において、」
「この連廷傑を敵に回そうなんて思ったら、」
「これからの会社生活、思い知ることになるからな!」
闕恆遠は、今まさに自分の目の前で得意顔になりながらも、自分が情熱を込めて用意したはずの(つもりの)告白の手紙が、部下に最高の赤い糸を結びつけてしまい、さらにはその部下が「自分の直属上司の男」になってしまったことなど微塵も気づいていないこの直属の上司を見つめながら、目頭を激しくピクつかせた。
彼は連廷傑の肩を軽くポンと叩き、この上なく誠実な口調で、その瞳にはわずかな憐れみをたたえて言った。
「課長の言う通りですね。」
「私のこれからの会社生活、」
「確かにまだまだ長そうです。」
そう言い残すと、彼は自分の席へと戻り、山積みの面倒なデータの処理に取りかかった。
こうなった以上、もう辞められないのであれば、腹をくくってこの芝居を演じ続けるしかなかった。
ただ、彼には知る由もなかった。
この、一通の誤って届けられた手紙と、噛み合わないまま進んだ対話によって引き起こされた不条理な誤解が、この会社における彼の運命を根本から変えてしまうだけでなく、彼をこれまで想像すらしたことのない、甘美とスリルに満ちた秘密の財閥恋愛へと引きずり込んでいくことになるのだ。




