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約束を延ばす人より、今日を選ぶ人の方が誠実だと知りました

作者: ピラビタ

「話は以上だ。君なら理解してくれると思っている」


 そう言って、彼はもう私を見ていなかった。

 机に広げられた書類へと視線を戻し、羽根ペンを走らせる。


 私は一度、深く呼吸をしてから答える。


「ええ。承知いたしました」


 その返事に、彼――王弟補佐官であり、私の婚約者であるセドリック様は満足そうに頷いた。


「助かる。今は本当に立て込んでいてね。式の話まで手が回らない」


 それは、これで何度目の言葉だろう。


 私はマリア・ハルフォード。

 侯爵家の娘として、彼と婚約してから四年が過ぎていた。


 婚約は順調だった。

 問題があるとすれば、ただ一つ。


 ――「決定」が、常に後回しにされること。


「落ち着いたら必ず」「状況が整い次第」「今は最善ではない」


 彼の口から出る言葉は、どれも正しく、もっともで、反論の余地がなかった。

 だから私は、否定しなかった。


 否定しない代わりに、黙って待った。


「君は本当に賢明だな」


 ふと、セドリック様が顔を上げる。


「感情で騒がない。理解がある。理想的な婚約者だ」


 その言葉を、褒め言葉として受け取れなくなったのは、いつからだっただろう。


「……恐れ入ります」


 私は礼儀正しく頭を下げ、部屋を辞した。


 その廊下で、偶然にも聞いてしまったのだ。


「ねえ、セドリック様。私、いつまで“仮”なの?」


 軽やかで、甘えた声。

 最近、彼の周囲に出入りしている子爵令嬢のものだった。


「急ぐ必要はないよ。君には、余裕が似合う」


「でも、あの人……婚約者の方は?」


「彼女は問題ない。分別があるからね。波風を立てない」


 私は、その場で足を止めた。


 問題がない。

 波風を立てない。


 それが、私の評価だった。


「じゃあ、私が隣に立つ未来も……?」


「否定はしないさ。君の方が柔らかくて、息がしやすい」


 息がしやすい。


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かに崩れた。


 怒りではなかった。

 悲しみでもなかった。


 ただ、理解してしまったのだ。


 ――私は「選択を先延ばしにするための、安定装置」だったのだと。


 ***


 翌朝、私は父に全てを話した。


 怒りも失望も、父は口にしなかった。

 ただ一言、「お前の判断に任せる」とだけ言った。


 それで十分だった。


 私は書類を用意し、セドリック様の執務室を訪れた。


「どうしたんだい?」


「確認したいことがございます」


 私は、机の上に一枚の文書を置いた。


「婚約の見直しについてです」


「……見直し?」


「はい。続けるか、終えるか」


 彼は一瞬、冗談だと思ったように笑った。


「急だな。今はそんな話をしている場合じゃ――」


「だからです」


 私は遮った。


「いつも“今ではない”と言われ続けてきました。

 ですが私は、自分の時間を無期限で預けるつもりはありません」


 彼は言葉を失った。


「私は、決断できない方と人生を共有することは出来ません」


「待て。誤解だ。君を軽んじているわけじゃない」


「分かっています」


 私は頷いた。


「だからこそ、余計に質が悪いのです」


 彼の顔が歪む。


「君がいなくなったら、誰が調整役を――」


「それは、私の役割ではありません」


 私は静かに書類を指し示した。


「署名を」


 沈黙の末、彼は震える手でペンを取った。


 ***


 婚約解消は穏便に発表された。

 理由は「価値観の相違」。


 噂は広がったが、私はそれに関与しなかった。


 数週間後、私は隣国との交流会に参加していた。


「あなたが、マリア・ハルフォード嬢ですね」


 声を掛けてきたのは、外交官として名を馳せる青年だった。


「あなたの判断は、正しかったと思います」


「……なぜ、そう思われるのですか」


「決断を避ける人間は、責任も避けます。

 あなたはそれを、きちんと見抜いた」


 その言葉に、初めて心が軽くなった。


「もし、今後お話しする機会があれば」


 彼は穏やかに微笑んだ。


「今度はいつかではなく、今日を基準にしませんか」


 私は少し考え、答えた。


「……ええ。それなら」


 誰かの都合で止まる時間ではなく、

 自分の意思で進む未来なら。


 それはきっと、悪くない。


 それからしばらく、穏やかな日々が続いた。


 婚約解消後、私は実家に戻り、父の補佐として領地経営の書類を見直していた。

 忙しくはあったが、不思議と心は軽かった。


 ――待たなくていい。


 その事実が、これほど人を楽にするとは思わなかった。


 そんなある日、一通の正式な招待状が届いた。

 差出人は王都。差し出しの名を見た瞬間、指先が一瞬だけ止まる。


「……セドリック様」


 父は何も言わず、私を見た。


「行くかどうかは、お前が決めろ」


「……はい」


 私は、少しだけ考えてから頷いた。


 逃げる必要はない。

 もう、私は彼の決断を待つ立場ではないのだから。


 ***


 王都での会合は、表向きは穏やかだった。


 だが、席に着いた瞬間から分かった。

 これは業務ではない。


「久しぶりだね、マリア」


 セドリック様は、以前より少しだけ疲れた顔をしていた。


「お変わりありませんか」


 形式通りの挨拶を返す私に、彼はわずかに目を細める。


「……君は、本当に変わらないな」


「そうでしょうか」


「いや。違う」


 彼は首を振った。


「以前の君は、こちらを見ていなかった。

 今は……自分の足で立っている」


 沈黙が落ちる。


「君がいなくなってから、分かったことがある」


 その言葉に、私は続きを促さなかった。

 聞く価値があるかどうか、判断していたからだ。


「私は、決断しないことで、全てを保てると思っていた」


 自嘲気味な笑み。


「だが実際は、誰も守れなかった。

 仕事も、信頼も……君も」


 私は、ゆっくりと息を吐いた。


「それは、私の責任ではありません」


「分かっている」


 彼は即答した。


「だから、謝罪をしたかった」


 そう言って、彼は深く頭を下げた。


 あまりに予想外で、私は言葉を失った。


「君の時間を奪った。

 選択を先延ばしにして、君を縛った」


 顔を上げた彼の目に、言い訳はなかった。


「許されるとは思っていない。

 ただ、言うべきだった」


 ……なるほど。


 私は、そこでようやく理解した。


 彼は“変わろうとしている”のだ。

 遅すぎたけれど。


「謝罪は、受け取ります」


 私は静かに答えた。


「ですが、それ以上の関係には戻れません」


「……だろうね」


 彼は苦笑した。


「君はもう、待つ人ではない」


「はい」


 私は、はっきりと頷いた。


「私は、自分で決めて進みます」


 それが、私なりの区切りだった。


 ***


 会合の帰り道、王都の庭園で声を掛けられた。


「先ほどは、どうも」


 そこにいたのは、あの外交官――

 交流会で言葉を交わした、エリオット卿だった。


「お話し中のご様子でしたが」


「ええ。過去と、きちんと別れてきました」


「それは……良い表情です」


 彼は微笑んだ。


「もし差し支えなければ、お茶でもいかがですか。

 今度は“確認”ではなく、“雑談”を」


 私は少し考えたあと、答える。


「条件があります」


「ほう?」


「急がないこと。でも、曖昧にもならないこと」


 彼は、迷わず頷いた。


「素晴らしい条件です」


 その返事に、胸の奥が静かに温かくなった。


 ――きっと、これでいい。


 私はもう、

 誰かの「決断待ち」では生きない。


 自分で選び、

 相手にも選ばせる。


 それが対等で、

 健やかな関係なのだと、今なら分かる。


 未来は、まだ白紙だ。

 けれどその白紙は、誰かの都合で埋められるものではない。


 私の意思で、

 一行ずつ、書いていくためのものなのだから。


ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

待たないことを選ぶ話でした。

もしどこか一行でも心に残ったなら、そっとブックマークしてもらえたら嬉しいです。

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