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第四話:重力への挑戦と、知識が編む命のロープ

魔獣の谷での生死を分かつ激闘を終え、アランとリサは神の剣山の山麓に立った。谷の湿気と熱気は背後に消え、山麓に吹く風は冷たく、空気を洗浄するように澄んでいた。

アランの右腕は、リサの『紅胞子』による緊急治癒で骨が再結合を完了していたが、その箇所にはまだ熱がこもり、鈍い痛みが残っている。しかし、彼の瞳は、その痛みよりも、目の前に聳える巨大な岩壁への探求心で輝いていた。

谷を抜けた先に広がるのは、雲を突き刺すようにそそり立つ、濃い青灰色の垂直な岩壁だった。その岩肌は、長年の風雨に削られて滑らかで、足がかりとなるホールドはほとんど見当たらない。岩壁の頂上は、常に雷雲に覆われ、時折、青白い光が瞬くのが見える。その威容は、人間の存在を根源から拒絶しているかのようだった。

「これだ。前世のどの山脈も、ここまで威圧的ではなかった」

アランは、その岩壁の威容に感嘆の息を漏らした。この垂直の壁こそ、彼が知識と知恵を駆使して挑むべき、この世界の法則が課した最大の物理的な試練だ。

リサは、岩壁を見上げ、緊張に顔を強張らせた。

「アラン……ここを登るの? 村の伝承では、ここを登った者は一人もいないわ。風が常に吹き荒れ、足場を奪う。そして、この高さには、翼を持つ魔獣が巣食っている」

「翼を持つ魔獣か。それは、俺たちの探検をさらに面白くする要素だ」

アランは、リサの不安を和らげるように笑ったが、彼の脳裏では、前世の岩壁登攀の経験則、山岳気象を読む知恵、そして道具の構造に関する知識が猛烈に回転していた。彼は、この垂直の壁を、原始的な装備でどう攻略するか、その法則を解き明かそうとしていた。

「リサ。この岩壁を登るには、強靭な命綱が必要だ。俺たちの手元にあるのは、魔獣の腱と、硬い木を削った杭、そして君の知識だけだ」

アランは、リサの採集ナイフと、魔獣の腱の残滓を取り出した。

「まず、ロープだ。魔獣の腱は強度が高いが、岩との摩擦熱に弱い。摩擦熱に耐え、キンク(ねじれ)を防ぐための、最も効率的な編み込み構造が必要だ。君の採集士としての編み込みの知恵を貸してくれ」

リサは、アランの真剣な要求に、探求心が刺激されるのを感じた。彼女の知識が、アランの探検を現実にする鍵となる。

「わかったわ。この腱は、乾燥した樹液と混ぜて編み込むと、熱を吸収する特性が生まれる。そして、三本ではなく、五本の紐を、特定の角度でねじり合わせることで、ロープの耐久性と、キンクを防ぐ構造的安定性が増すはずよ。私の村の編み物の知恵が使えるわ」

アランは、リサの持つ知恵が、ロープの耐久性の法則として完璧に機能することに感嘆した。二人は、岩壁の陰に野営地を作り、ロープの製作に取り掛かった。

アランは、右腕の治癒の痛みを無視し、魔獣の腱の繊維を一本一本丁寧に解き、リサが指示する五本撚り(より)の構造で編み上げた。その作業中、二人の手は何度も触れ合い、ロープという**「命綱」**を共に編み上げていく行為は、彼らの絆をさらに強固なものにした。完成したロープは、濃い灰色で、乾燥した樹液の光沢を帯び、見た目からは想像できないほどの弾力性を持っていた。

次に、岩壁の小さな亀裂に打ち込み、体重を支えるための**ピトン**だ。

アランは、周囲に生えていた、最も硬質な木を削り出し始めた。彼は、長年のクライミング経験に基づき、杭の先端を鋭利にするだけでなく、打ち込んだ際の岩の亀裂の広がりを最小限に抑えるための微細な角度を削り出す。杭は、岩壁の法則を読み解くための、最も原始的な道具だ。

「杭は、岩壁の法則を読み解く鍵だ。岩の亀裂の形状と、杭の先端の角度が合わなければ、岩壁が崩れ、俺たちの命はない。リサ、この岩壁の組成を教えてくれ。どの程度の衝撃に耐えられる?」

リサは、岩壁に張り付き、岩の表面と、小さな亀裂に生える苔の様子を指先で確認した。

「この岩は、凝灰岩ぎょうかいがんに近いわ。脆くて、衝撃には弱い。しかし、風化していない内側は硬質よ。杭を打ち込む際には、強い衝撃を一瞬で終わらせ、振動を最小限に抑える必要があるわ」

リサの地質学的な知識は、アランの探検の判断を決定づけるものだった。

ロープと杭の準備が整い、いよいよ登攀の時が来た。夜明けが近づき、雷雲に覆われた山頂から、強い風が吹き下ろしてくる。

「アラン、風が強すぎるわ。登攀は不可能よ!」リサが叫んだ。

アランは、岩壁の表面を流れる風の流れを分析した。

「違う、リサ。この風は、俺たちの敵じゃない。風の法則を逆利用する。この岩壁は、頂上付近の雷雲から吹き下ろす風を、特定のルートに沿って**『風のトンネル』**として流している。この風のトンネルの縁を登れば、風の勢いが、逆に俺たちの体を岩壁に押し付け、安定させてくれる」

アランは、前世の気象学と航空力学の知識を応用した。垂直の岩壁に沿って流れる風の法則を、重力に抗うための浮力として利用するのだ。

そして、最大の脅威。翼を持つ魔獣だ。

「翼を持つ魔獣は、この風のトンネルを利用して、獲物を狩るはずだ。奴らの飛行の法則を解明する必要がある」

アランは、空を見上げた。雷雲の隙間を縫って、黒い影が旋回している。

「奴らの飛行は、風の法則に完全に依存している。風のトンネルの中心こそが、奴らが最も高速で移動できるルートだ。だが、獲物を狩る際には、風の勢いが最も弱まるトンネルの縁に沿って急降下してくる。俺たちが登るべきは、風のトンネルの**中心ではない、安定した『縁』**だ」

アランは、クライミングルートを定めた。それは、岩壁の最も滑らかで、足場が少ない、しかし風の法則が安定をもたらす、危険なルートだった。

「行くぞ、リサ。俺が先に登る。杭を打ち込み、ロープを固定する。君は、そのロープに命を預け、俺の後を追え。もし、翼を持つ魔獣が近づいてきたら、すぐに警告しろ」

アランは、治癒された右腕に、自作の杭を握りしめ、垂直の岩壁に最初の足がかりを見つけた。彼は、岩壁の微細な亀裂に、杭の先端を正確に打ち込む。

**カツン!**という鋭い音と共に、杭は岩壁にしっかりと固定された。アランは、その杭に体重を預け、ロープを固定する。

一歩、また一歩。アランは、岩壁の法則と、風の流れを肌で感じながら、垂直の壁を登っていく。彼の動きは、優雅で、無駄がない。岩壁の小さな亀裂、苔の生え方、風の音の反響。その全てが、アランの探検家としての知恵と経験によって、登攀のための確かな情報へと変換されていく。

リサは、アランの登攀の法則を、地面から見つめていた。アランが打ち込んだ杭と、彼女が編み上げたロープ。二人の知恵が、重力という自然の法則に挑んでいる。

「アラン! 右側からの風のベクトルが強くなったわ! 安定している!」

リサの警告と分析が、アランの登攀を支える。彼らの探検は、知恵と知恵の組み合わせによって、新たな領域を切り開いていた。アランの視線の先には、常に雷雲が覆う、未知の神の剣山の頂上があった。


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