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第二話:魔獣の谷の法則と、熱の罠の解析

神の剣山の巨大な山塊が、濃い青灰色に輝いている。迷いの森の空間的な歪みを乗り越えたアランとリサは、その威容を前に立ち尽くした。前人未踏の地への探究心が、アランの全身を駆け巡っている。

「見たか、リサ。法則を解き明かせば、どんな障壁も乗り越えられる。この神の剣山こそ、俺たちの探検の最初の記録となる」

アランは、治癒されたばかりの若い体躯に力を込め、目の前に広がる谷の入口に視線を向けた。谷の様相は、森の緑とは一線を画した、赤茶けた岩肌と、濃密な湿気に満ちている。

「ここよ、アラン。ここから先が『魔獣の谷』。私の探している『紅胞子べにほうし』は、この谷の特定の場所、魔獣の血だまりが濃く残る『血の苔』の上にしか生えないの」

リサは土色のフードを目深に被り、腰の採集ナイフを握り直した。彼女の瞳には、危険への恐怖よりも、目的の薬草への強い渇望が宿っている。

谷の底を流れる沢の水は淀み、土壌からは血液と鉄分、そして動物の濃密な体臭が混じった、生温かく重い匂いが立ち込めていた。その空気は、アランの探検家としての本能を、極度の警戒へと引き上げていた。

「魔獣の血を養分とするのか。この世界の生命の法則は、俺の知る経験則よりも遥かに過激だ」

アランは谷の地形を分析した。この谷は、迷いの森のような空間的な罠はないが、代わりに、谷の傾斜、岩の配置、そして谷底を流れる風の流れ、その全てが、魔獣が獲物を狩るための**「物理的な罠」**として機能している。

「リサ。この谷の魔獣は、この地形の法則を熟知している。谷底の岩の配置は、奴らが急な加速や方向転換をするための**『フットホールド』として機能している。そして、風の流れは、奴らが獲物の匂いを嗅ぎ分けるための『匂いのベクトル』**だ」

アランは、前世の軍事サバイバルと地形学の知識を応用した。この谷の真ん中は避ける。魔獣が最も早く移動できるルートだからだ。



アランは、岩壁の最も不安定で、魔獣が足場にしない**『構造的な弱点』**をルートとして選ぶ。そして、匂いだ。

「リサ、君の薬草の知識で、この濃密な谷の匂いを打ち消す**『匂いのマスキング剤』**を調合できるか? 魔獣の追跡の法則は、匂いのベクトルを頼りにしているはずだ」

リサは、すぐに籠の中から、乾燥させた根と、粘性の高い樹液を取り出した。

「これよ。『苦痛のくつうのね』。強烈な腐敗臭を放つから、普段は使わないけど、この谷の匂いと混ぜ合わせれば、私たちの体臭を完璧に隠蔽できるはずよ。ただし、塗ると肌が荒れるわ」

「それでいい。探検の代償だ」

二人は、岩陰に隠れ、その苦痛の根をすり潰し、体全てに塗り込んだ。リサがアランの逞しい胸元に、アランがリサの細い背中に、互いの体臭を完璧に隠蔽するための粘性の薬液を塗り込む。その作業は、互いの肌の温度を感じる、極めて親密なものだったが、彼らの間には、生死を分けるための真剣な集中力だけが流れていた。

ペーストを塗布し終え、谷の深部へと進む。熱気は異常だ。岩壁はまるで巨大な蒸し風呂のように生温かく、谷底からは、地熱によって熱せられた水が噴き出す音が響いている。

「アラン、この熱気は異常だわ。通常の地熱じゃない。何かが、谷の底から熱を放出している」

「ああ。この熱は、この谷の最大の罠だ」

アランは、前世で培った熱力学と地質学の知識を総動員した。谷の地形と、周囲の岩石の組成を分析する。

「この谷の岩壁は、熱を吸収し、谷底で熱を放出するようにできている。熱源は谷のさらに奥深くだが、この熱気は、魔獣が獲物を狩るための**『熱のヒート・トラップ』**だ。この熱気の中で、獲物は脱水と疲労で動きが鈍る。そして、この熱気の中では、魔獣が獲物の体温を正確に感知できる」

アランは、熱の法則が、魔獣のハンティング・フィールドとして機能していることを解明した。彼らの体が発する熱は、この谷で最も目立つ「信号」となっているのだ。

「私たちの『苦痛の根』は匂いのマスキング剤だ。熱は隠せない。リサ、君の持つ知識で、熱の放出を外部に遮断する薬草はないか?」

リサは籠の中を漁り、焦った表情を浮かべた。

「即効性のある冷却剤はないわ。でも……これを試す価値はあるかもしれない」

リサが取り出したのは、乾燥させた黒いキノコの胞子だった。

「『影の胞子かげのほうし』。これを皮膚に塗ると、周囲の光を吸収する特性があるわ。熱を遮断する効果はないけど、光を吸収することで、熱源の視覚的輪郭を曖昧にできるかもしれない」

「視覚的な曖昧さか。それで十分だ。魔獣が熱だけでなく、熱源の輪郭で獲物を追跡している可能性もある」

二人は再び岩陰に隠れ、影の胞子を水と混ぜてペーストを作り、全身に塗り込んだ。リサがアランの体全てにペーストを塗り込み、その熱い皮膚を覆っていく。熱気がこもる谷の深部で、二人の体温は異常なほど上昇していたが、彼らの間には、互いの命を救うための真剣な集中力だけがあった。



ペーストを塗布し終え、再び岩壁のルートを進んだ瞬間、ゴオオッという低い唸り声が、谷の底から響いた。

アランは、即座に岩陰に身を潜めた。彼の探検家の嗅覚が、これまでに遭遇したどの魔獣よりも巨大で、素早い魔獣の接近を警告していた。

谷底を、巨大な**『熱源追跡者ヒート・ストーカー』**が、猛烈な速度で岩壁を登り始めていた。それは、トカゲのような流線型の体躯を持ち、全身に赤い熱線のような模様が走っている。奴らは、谷の熱気の中で、獲物のわずかな体温の揺らぎを感知する、熱感知型の捕食者だった。

「まずい! 奴らは熱そのものを追っている! 私たちのペーストは熱の輪郭を消しただけだ!」

熱源追跡者は、谷底の岩のフットホールドを完璧に利用し、垂直の壁を信じられない速度で駆け上がってくる。アランたちの隠れた岩壁目掛けて、その熱い体が突進してきた。

アランは、冷静に思考を巡らせた。

(熱感知が弱点……ならば、谷の熱そのものを、ノイズとして奴らに叩きつける!)

アランは、リサに指示した。

「リサ! 周囲を見ろ! 沢の水が、熱せられた岩壁に触れて、湯気を上げている場所はないか!」

リサは、視線を周囲に走らせた。岩壁のわずかな窪みに、沢の水が滲み出し、熱い岩に触れて白い湯気が立ち上っている場所を見つけた。

「あったわ! そこよ!」

「よし! 君の籠の中の『苦痛の根』の残滓を、その湯気に叩きつけろ! 可能な限り大きな熱の乱気流を起こすんだ!」

アランの戦略は、熱力学の法則に基づいていた。熱源追跡者は、獲物の体温という一点の安定した熱源を追跡する。ならば、周囲に巨大で不安定な熱源を発生させ、魔獣のセンサーを飽和させれば、一時的に追跡を不可能にできる。

リサは迷うことなく、苦痛の根の残滓と、乾燥させた葉を湯気の立ち上る窪みに投げ込んだ。

シュウウウウウウ!

湯気は瞬時に巨大な熱の乱気流へと変わり、周囲の熱気と混ざり合った。熱源追跡者は、その巨大で不安定な熱のノイズに戸惑い、一瞬動きを止めた。

「今だ、リサ! 反対側の岩壁へ飛び移るぞ!」

アランは、リサを抱き寄せ、岩壁の最も不安定な、魔獣が足場にしない**『構造的な弱点』**をルートとして利用し、谷の反対側へと飛び移った。魔獣が追跡を再開した時には、彼らはすでに、別の岩壁の陰に隠れていた。

この生死を分かつ知的サバイバルを乗り越え、彼らは谷の最も奥深い、リサが求める**「血の苔」**が生い茂る場所へと辿り着いた。そこは、過去の魔獣の激闘の痕跡が濃く残り、岩盤全体が濃い赤黒い苔で覆われていた。

「アラン、見て! これよ! 『紅胞子』!」

リサは、血の苔の上に、太陽光を浴びて、妖しく赤く輝くキノコのような薬草を発見した。それは、彼女の探検の目的そのものだ。

リサは興奮のあまり、無防備に紅胞子へと駆け寄ろうとした。その時、**キィィィン……**という、甲高い警戒音が谷全体に響いた。熱源追跡者とは異なる、遥かに巨大で、そして賢い魔獣の咆哮だ。

アランは、その咆哮に、谷の支配者の存在を確信した。新たな危機が、彼らの目の前に迫っていた。この谷の法則の解明は、まだ終わっていなかったのだ。


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