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第一話:地図が失われた世界と、探求者の第二の生

極度の寒さと、巨大な氷塊が軋む地獄のような音。それが、アラン・クロムウェルが最後に感じた世界の感触だった。北極圏の未踏地帯、彼の生涯をかけた探検の終わり。四十六年の経験は、この瞬間のためにあった。


彼は、地球上に残された「最後の空白」を埋めるために生きてきた。だが、衛星とネットが全てを暴いた時代、真の空白は地球上にはもうなかった。彼の探検は、いつしか「誰も行かない場所での自己証明」という、孤独で歪んだ道を選んでいた。


次に意識が浮上した時、アランは死の冷たさとは無縁の、生温かい湿気の中で目覚めた。


掠れた声は、彼の記憶にある野太い声ではなく、細く頼りない青年のものだった。体は二十歳前後。着ているのは、粗末な麻の服。左手首の甲に浮かぶ〈ステータス・ボード〉など、彼は一瞥して無視した。彼が信じるのは、四十六年間の経験と、大自然の生命の法則を読み解く好奇心だけだ。


アランはゆっくりと周囲を見渡した。空気に満ちる匂いは、土と、強烈な生命力が混ざった、濃密なものだった。


視線の先に聳え立っていたのは、前世のどの山脈とも異なる、巨大で、無骨で、荒々しい岩肌を持つ山塊だった。山頂は厚い雲に覆われ、その頂が何であるか、アランには全く予測できない。


足元には、油のような光沢があり深緑色に輝く、掌ほどの巨大な葉を持つシダ類が密集している。葉の裏側には、蛍光色の斑点があり、毒性の強さを警告しているように見えた。耳を澄ませば、聞いたことのない咆哮や、金属が擦れるような奇妙な鳥の鳴き声が木霊している。


彼は震えた。それは恐怖ではない。魂が震えるような、根源的な歓喜だった。


「これこそ、俺の求めていたものだ。真の未知。誰も記録していない、空白の世界」


この世界は、彼の前世の知識では何一つ予測できない。しかし、アランは知っている。大自然には必ず**「生命の法則」**がある。その法則を読み解くことが、彼の探検家としての使命だ。


彼は、探検家としての「第二の人生」が始まったことを確信した。目標は、この広大すぎる世界を、文字通り、歩き尽くすこと。そして、空白の地図を、自らの命懸けの知恵と記録で埋め尽くすことだ。


アランはまず、サバイバルの基礎を固めた。沢を見つけ、上流を確認。水が清澄であっても、彼は即席のろ過装置を組み上げた。麻布、木炭、砂利を重ねて沢の水をろ過し、火起こし棒による摩擦熱で火を熾し、念入りに煮沸する。生命維持の基本法則は、この異世界でも変わらない。


次に、食料だ。彼は、罠にかかった、耳が長く毛皮が紫色のウサギのような生物(『パープル・ヘア』)を解体する。アランは、内臓の色や特定の刺激臭がないことを確認し、焼いて食べた肉は香ばしく、野趣あふれる美味さだった。


彼は食料確保と並行して、周囲の植物の分類を始めた。特定の葉の形状、鮮やかな色彩、そして周囲の土壌の酸性度を指先で確認し、彼は即座に「毒性」「食用」「薬効」の三種に分類していく。彼の思考は、前世の経験則と、この異世界の植物が持つ**「生命の信号」を読み取る直感によって導かれていた。彼は、この世界で独自の異世界植物図鑑**を頭の中に作り上げていく作業に、最高の知的興奮を覚えていた。


夜。簡素なシェルターの中で焚き火を眺めながら、アランは手書きの地図に、森の地形と資源の分布を正確に記録した。彼の探検は、ただの武力による征服ではない。過酷なクライミング、毒草との駆け引き、食料の確保、そして、誰も見たことのない絶景。全てを知り、全てを記録する。 それが、探検家アラン・クロムウェルの真の使命だった。


初日のサバイバルを終えた翌日。アランは、革のなめしに使えそうな樹皮を探していた。その時、近くの茂みで不自然な物音がした。動物ではない、人の気配だ。


茂みから現れたのは、全身を土色のマントで包んだ、一人の少女だった。背中には薬草採集用の小さな籠を背負っている。年の頃はアランと同じか、少し下くらいだろう。少女は、地面に生えている、太陽の光を浴びて青く輝くキノコのような植物を熱心に調べている。


「……これじゃないのよねぇ。欲しいのは、もうちょっと胞子が赤い方なの。『緑光茸』じゃなくて、血の苔に生える『紅胞子』じゃなきゃダメなのに」


少女はぶつぶつと独り言を言いながら、古い革のノートに何かを書きつけた。アランは情報収集のため声をかけた。


「すまない。そこで何をしている?」


アランが声をかけると、少女は「ひゃん!」と小さな悲鳴を上げて飛び上がった。土色のマントの下から現れた顔は、小麦色の肌に、透き通るような緑色の瞳を持っていた。


「だ、誰? 私はリサ。薬草採集士よ。あなたは探検家? 装備が貧弱すぎない?」


「アランだ。ああ、探検家だ。それで、一つ聞きたいんだが……この先にある、巨大な岩山……あれを越えるのに、最適なルートを知っているか?」


リサは目を見開いた。彼女が指差しているのは、雲を突き刺すような巨大な山塊だ。


「あの『神の剣山』を? あそこは……村の人間も近寄らない場所よ。迷いの森を抜け、魔獣の谷を越えて、そして巨大な岩壁を登り切るなんて、自殺行為だわ」


「神の剣山か。良い名だ。だが、俺はそこを通りたい。その山脈を越えて、その向こう側、この世界の『果て』を目指している。俺の探検は、空白の地図を埋め、新たな世界を発見することにある」


リサは、若いアランの真剣な瞳をじっと見つめた後、ため息をついた。


「大馬鹿ね……。でも、ちょうど私も、あなたが言った『紅胞子』が採れる魔獣の谷の近くまで行くところなの。ついてくるなら、迷いの森の道筋だけは教えてあげるわ」


「ありがとう、リサ。助かる」


アランは心から感謝した。彼のザックには、彼の知恵と、探検の記録となる新品の地図が詰まっている。


リサと共に、アランはすぐに「迷いの森」と呼ばれる領域へと入った。森の植生は濃く、光が遮られ、歩を進めるごとに、道筋が不自然に曲がる。後ろを振り返ると、さっきまで通っていたはずの道が、深い藪になって消えていた。


「ここが迷いの森。リサの言う通り、ここでは空間的な法則が歪んでいる。俺の知識を欺く罠だ」


アランは立ち止まり、周囲の地形を観察した。彼は、前世のジャングル探検で培った**「地形を読む経験則」**と、頭の中でシミュレーションする理想のコンパスを統合した。


「リサ、この森の歪みは、単なるランダムな現象じゃない。巨大な地下水脈や、特定の鉱脈の影響で、大地が常に一方向への歪みを発生させている。この歪みは、俺たちの進路を常に南へ曲げようとしている。つまり、俺たちが東へ行きたいなら、この歪みを打ち消すように、真北へと進路を取る必要がある」


アランは、リサの持つ古い羊皮紙の地図と、自分の歩測の記録を統合し、この森に仕掛けられた大自然の歪みの法則を、瞬時に解明した。彼の思考プロセスは、何十年もかけて培った「大地が持つ生命のベクトル」を読み解く直感に近かった。


リサは、アランの突飛な理論と、その思考の論理的完成度に、驚きを隠せなかった。


「大馬鹿者だけど……あなたの言うことは、どこか論理的だわ。試してみる価値はあるかもしれない」


アランは、自身の体と、彼の頭の中の理想のコンパスを頼りに、真北へと進路を取った。


そして数時間後。彼らは、不自然な空間の歪みを乗り越え、迷いの森を抜け、巨大な山脈の麓へと到達した。目の前には、険しい岩肌を持つ、巨大な山塊がそそり立っている。その岩肌は、濃い青灰色をしており、夕焼けの光を浴びて、神々しくも荒々しい威容を誇っていた。


「やったわ……! 本当に抜けた! あなたの法則が、精霊の森の罠を破ったのね!」


リサは、喜びと興奮で、アランに抱きついた。


アランは、リサの柔らかな体温と、極限の探検の達成感を同時に感じた。彼の知識が、この異世界で初めて、明確な形で結果を出した瞬間だった。


「リサ。この旅は、決してスローライフだけでは終わらない。生死をかけた探検であり、同時に、この大自然の法則を解き明かす、知的探求だ。俺の知識と、君の知識を組み合わせれば、この世界の全てを踏破できる」


「ええ。分かったわ、アラン。私は、あなたの旅の案内人であり、あなたの探検の法則を、現実にするための、最高の相棒になるわ」


こうして、アランとリサの運命的な協力関係は確立された。彼らの目の前には、前世の地球には残されていなかった、真の未知、神の剣山が、彼らの知恵を試すかのように、威圧的に聳え立っていた。この山脈の先にある、未知の広大な世界こそが、アランの永遠の好奇心を満たす探求の舞台となるだろう。

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