棚の上に
その昔に人気があって何度かリバイバルされたり舞台化されている作品に「葵クンの恋人」があります。
葵クンの幼馴染の女子高生ユノが小さい人、つまり小人になってしまうことから巻き起こるファンタジーコメディでした。
ユノは葵クンのポケットで生活し、手のひらで移動するのでした。
私はその日自転車を飛ばしていました。
ふと転がっていくボールを見たので、思わず後を追いました。
ボールは雑木林を転がり、私は自転車を降りると、そのまま担いで追いかけました。
学校の裏山は崖を活かした地層で、不思議な寺院が立ち並んでいました。
ボールはテンテンとして寺院群へと吸い込まれていきました。
私の追跡もここまででした。
しかし自転車を抱えて追ってきたせいで、くだってきた崖を登ることができません。
自転車はやむなく放置するにはもったいない。
そこでそのまま下って寺院の間を抜けて元の道に戻ることにしました。
というより、それしか選択肢がありません。
崖の道を自転車を担いでくだるのですから、実は自分はとんでもない選択をしたことに薄々気が付き始めました。
お坊さんたちの列がこちらへと向かってきました。
私が避けなければいけません。
背後からは去年亡くなったプロレスラーのアントラーズ猪瀬さんが!
前門の僧侶、後門のアントンに私は進退が極まりました。
ですが自転車を捨てることはできません。
もったいないのです。
僧侶たちはよく見ると汗塗れで、こんなところに道があるんですか?と口々に言い合っていました。
猪瀬さんも「こんなところに道があるとはね」
「ここ通れるのかね!ダーッ!」などと、それでも燃える闘魂でした。
私は足をすべらせました。
気がつくと寺院の中に居ました。
棚を見ると。
「はるる」こと彩海遙がいるではないですか!
小人のように、いや小人になっているのです。
「はーちゃん!?」
今は全国ネット的には「はるる」と呼ばれていますがデビュー当初は「はーちゃん」がファンからの自然発生的なニックネームでした。
本人も気に入って、色紙にも書いていました。
ファンが増え始めてから運営が同時期に清純エースとして売出中だった「みるる」こと村山美瑠とのコンビ売りを思い立ち、ファンに扮した工作員を忍ばせ、劇場パフォーマンス中にそれまでのファンが「はーちゃん!」とコールするところを狙って「はるるーっ!」と被せていくことで、そしてメディアとも連携して、まんまと「はるる」呼びを定着させたのでした。
ですが私達初期からのコアファンにとってはいまでもはーちゃんははーちゃんのままなのは言うまでもありません。
そんなはーちゃんこと彩海遥も既にアイドルを卒業し30歳になっていました。
それが今、小人の姿で、あの頃のままのアイドル衣装で棚の上にいるのです。
何故かはわかりません。
しかし放ってもおけません。
はーちゃん!
乗って!
手のひらを差し出しました。
しかし遥は乗りません。
首をふるふると振ります。
僕のこと忘れたの?
握手券いつも100枚買ってチェキもいっぱい撮りました。
卒業コンサートにファン一堂で花輪も送りました。
遥はふるふると首をふりました。
忘れたわけではないようです。
はっ!としました。
遥はだれよりも意地っ張りで負けず嫌いなのです。
なるほど自分ひとりの力で降りたい気持ちは理解できます。
でもそれにしても、どう考えても無理なのです。
私は説得を重ねました。
遥はそのうち下を向いてしまいました。
その間には少しは顔を上げて、こちらに歩み寄ろうという動きも示しかけましたが、最終的には踏みとどまり、やがて棚の奥の暗がりに引っ込んでしまいました。
もー!
塩対応なんだから!
「ご飯だって食べなきゃいけないし!」
「事務所の人たちだって、ご家族だって心配するでしょ!」
「トイレだってしなきゃいけないんだよ!?」
暗がりに私は手を突っ込んで遥を引きずり出して連れ帰ることも考えました。
しかしその場合、一生消えない深い傷を残してしまうことも理解できました。
こっちだってダテに遥のアイドルとしての生き様を見守ってきたわけではありません。
仕方がない。
思えば「葵クンの恋人」のヒロイン・ユノは最終回で、不幸な偶然によって葵クンのポケットから投げ出され、そのまま全身を強く打って死んでしまいました。
「こんな旅行を計画しなきゃよかった!」
葵クンが後悔に苦しみ、端正な顔をこれでもかと歪めて泣き叫びながら、夕暮れをバックに亡骸を連れ帰るという、まさかのアンハッピーエンドに多くの視聴者から苦情が寄せられ、いろんなハッピーエンドのスピンアウト作品が生まれました。
作者の湯河原優子先生はその10年後にようやくインタビューに答え、最初に小人になったときに既にユノは死んでいたという、これまた衝撃の設定を明かしました。
そして葵クンも次第にユノがいたことさえ忘れて、新しい恋人と幸せになる、というのです。
それが葵クンの本当の恋人、というメインテーマだったのです。
遥だって初期の頃の「まとめてミニライムズ!」なんかのインタビューでは。
「しっかり勉強して、いいアイドルそして女優さんになります」とかいってて、インタビュアーから「頑張ってくださいね!」といわれると、「はいっ!」とか言って記事のシメになっていたことを思い出しました。
私も「いいぞ!」と思ってしまいました。
今思うとお互い恥ずかしいですね。
が、その後遥は「私はみるるにはなれない」というある種の悟りを開いたようで、人間彩海遥として生きることに決めたようでした。
ミニライムズの前に受けて落ちた別グループのオーディションのことも、いつの間にかなかったことにしてしまいました。
そんな懐かしいことを思い出す内に、私はまたふと思いました。
だいたいその別グループってどこなんだよ?
何度握手会で聞いても教えてはくれませんでした。
(なかったのかもしれないな)
そうさ全ては設定。
設定という設定の設定だってありえる。
アイドルはいつだって白昼夢なのさ。
可愛くて、意地っ張りで負けん気で、ちょっと塩対応だけど、まっすぐに輝いていた俺達の青春だった遥。
その輝きだけは、間違いなく本物だ。
そんなことを思いながらも、ふとまた引き返して、そっと覗いてみたところ。
遥が動滑車を使って、2倍の距離を経由しつつもあたかも質量が半分になったかのように降りてきていたのでした。