新聞記者は貴族令嬢と旅をする
『――まもなく、東京駅発下関行きの寝台車が発車します』
駅員の案内が新田の耳に届き、彼はやっと興奮から目を覚ました。
「待ってくれ! 俺もだ!」
さっき拾ったばかりの切符を体格の良い駅員に見せる――が、新田から切符を受け取った駅員は訝しげな面持ちで新田の頭の先からつま先を見て首を捻った。
「失礼ですが……こちらの切符はご自身のですか?」
「はぁ? どう見たって俺のだろう」
「いや……こちらの切符は一等寝台ですから。お一人でお使いに?? お荷物もなく?」
「当たり前だろう! おい、俺は急いでいるんだ。客だぞ!」
「では乗車区間と運賃をお答えください。ご自身で購入されたのでしたらわかりますよね?」
駅員にはっきりと疑いの言葉をかけられ、新田は顔から汗が引いていく感覚に襲われた。
今さら拾ったとは言えるわけもなく、改めて自分の身なりを思い返し、厳しい目が向けられない方がおかしいと妙に納得してしまう。襟が黄ばんだ白いシャツに、糸がほつれて取れそうになっているカフスボタンや靴底がすり減って傾斜の出来ている革靴を履き、さらに荷物を持っていない新田は明らかに場違いだった。
不審な気配を感じ取ったのか、他の駅員たちも続々と乗車口に駆けつけ始める。
(くそっ、こんなところで)
ついに、新田は駅員を納得させる言葉を探し出せず、諦めて肩を落として観念しようとした。
だが、そのとき、突然新田の方に小さな右手が置かれる。
「――すいません、早くしていただけませんか? その人は私の『鞄持ち』です」
まだわずかに幼さが残る少女の力強い声は、新田の背後から。振り返ると、つばの大きい麦わら帽子を被った少女が立っている。まるで彼女の純真さを体現したような真っ白なワンピースの足元には、二つの大きな革製の旅行鞄が置かれており、汚れを知らなさそうな色素の薄い手のひらには一等寝台車用の白切符が優しく乗っていた。
「皆様、お騒がせをして申し訳ございません」
香り立つ気品さと凛とした立ち姿に、新田はつい目を奪われてしまう。
だが、少女は呆然とする新田とは反対に、むくっと頬を膨らませる。
「もう、情けないですわ!! 鞄持ちが鞄を置いて先に行ってしまうなんて」
困惑する駅員だった――が。
『お前、切符を家に忘れたかもしれないって何事だッ!』
突如、構内に男の怒声が響き渡る。
声は切符売り場の辺りから。新田がそちらに顔を向けた時には、遊女のように派手に着飾った女が頬を手で押さえて地面に倒れていた。すぐそばには、先ほど新田に暴言を吐いた生意気な青年が、顔を真っ赤にして床に押し倒された女を睨みつけながら立っている。
「せっかく買ってもらったんだぞ! 父上に……父上に。なんて報告すれば良いんだ!」
切符を無くしたことを女のせいにする青年を、少女は一瞥して駅員に詰め寄る。
「耳障りですわ、駅員さん。早く私たちを中に入れてくださらない?」
「も、申し訳ございません……では、こちらにどうぞ」
駅員はわかりやすく困った顔を浮かべたまま、再び新田と切符に交互に目を配り、帽子を脱いで新田に頭を下げる。疑いの目は、少女の登場によって一瞬で晴れてしまった。
なおも騒ぐ青年の元に駅員が殺到する間、新田は少女の左右の足元に置かれた大きな革製の旅行鞄を少女の後に続いて寝台に運び込む。
「あ、あの……」
「いえいえ、何かご事情がありそうでしたので。構いませんことよ」
「えっ!? わかっていて、どうしてあんな嘘を?」
「うふふっ、私もちょうど鞄持ちが欲しかったので助かりますわ」
指定された寝台車の個室で荷物の整理をしている間、少女は終始子どもっぽく笑って新田に質問を続ける。新田は、自分が新聞記者であることを明かしたが、その目的の詳細までは語らず「悪を追っている」とだけ答えた。
『それではまもなく発車いたします。』
わざわざ駅員が頭を下げに客車の一室一室を回るのも、一介の新聞記者でしかない新田には衝撃だった。遅れてきた客がいたらしく、結局列車は定刻の三分遅れで駅を発つ。
「――うふふっ、新田様はまったく滅茶苦茶なお方ですこと」
「あはは……いやぁ情けない話です。しかし、今回は大変助かりましたよ」
「全く問題ありませんわ。あの有名な新田様の取材のお手伝いができて光栄です」
いたずらっぽく笑う少女は、新田に『土方チカ』だと名乗った。
造船業を営んでいる『土方家』の長女――つまり、新田が苦手とする成金の娘だった。年齢まだ十六歳だが、落ち着いた上品な振る舞いのおかげでかなり大人っぽく見える。
海軍に所属している許嫁の元を訪れるために寝台特急を利用した、と彼女はひまわりのような笑顔を浮かべながら新田に話す。
「ところで、今回はどのような悪を追いかけているいらっしゃるのでしょうか?」
海軍の許嫁――という言葉を、新田はふと思い出した。
「実は陸軍内部で大規模な汚職がありまして」
「えぇっ、そんな話が!?」
チカは、キョトンと目を丸くして、小首をかしげている。
初めて知りました、というような反応に、そりゃそうだ、と新田は得意気に鼻の下をすすった。
「チカさんには悪いですが、あのジーメンス事件を超える話になるやもしれん、とても大きな話です」
「まぁ、それは大変ですわっ! 海軍のジーメンス事件があったとき、陸軍は海軍をどれほど叩いていたことか……旦那様からはよく恨み言を聞かされていました」
「それで私は、汚職の中心人物がこの列車に乗り込んだと思って追いかけてきたわけです……が、まさか一等車で取引を行うとも思わず」
「さっき、切符は拾ったと仰っておられましたけど、どこで拾われたのですか?」
「駅ですよ。さっき騒いでいた馬鹿な若者がいたでしょ? アレに絡まれた後に足元に舞い降りてきたのです。いやぁ、天も悪を暴かんとする我に味方してくれたようです」
「なるほど。この後のことは、何か考えておられるのでしょうか?」
新田はバツが悪そうにボサボサの髪をかいて苦笑する。
「うーん、正直全くですな。この寝台車に奴らがいるのは間違いないと思うのですが」
「うふふっ、なにか協力できることがあれば、いつでも私にお申し出くださいね。私こう見えて3回もこちらに乗っていますのよ」
「あはははっ、お気持ちだけでも。証拠を抑え次第、私はすぐに降りますので」
「では、それまでにいっぱい新田様のお話を聞いておかないと」
「えっ――私の話です、か?」
「ええ、そうですっ! 新聞記者様とお話しなんて一生ない機会ですものっ!」
新田はチカの雰囲気が少し変化しているのに気が付いた。
好奇心が旺盛なのか、本当に様々な事柄を新田に尋ねてくる。
追いかけている汚職疑惑の話や新田がこれまで暴いてきた不正の裏側など、最後に凶作に見舞われた地方では飢饉状態にある国民がいると話をすると、チカはさも初めて知りましたと言わんばかりに目を丸くしていたが、すぐに新田の膝に小さな右手をそっと置き、真剣な眼差しを彼に向けた。
「ど、どうされました!?」
「新田様、私にお手伝いできることがあれば何なりとおっしゃってください! 合衆国と癒着する陸軍の不正は私も許せませんわ」
新田は、チカのまっすぐな瞳に思わず吸い込まれそうになった。
だが、寸前のところで、天啓を得る。
新田は、外の世界の情報にいちいち新鮮な反応を見せるチカの様子を思い返し、今しがた脳裏に降臨した考えを口にする。寝台車を怪しまれずに探索するために必要な情報収集をチカに任せることに決めた。
「も、もし良かったら、各寝台に誰が乗っているか見てきてもらうのは……できますか?」
「あら、どうしてです?」
「まぁ、この通り私はこの格好ですし、あまり寝台車の中を歩き回ると目立ってしまいます。そこで貴女に長く停まる駅に入ったとき……うーん、一つ一つの部屋へ間違えて入ってもらい たいのです! そして、貴女はこの部屋に戻ってきて、どこに誰がいたのか教えてほしいのですよ」
「えぇっと、ですが、私は誰がどなたか存じ上げておりませんので」
「あっ――で、ですが、外国人ならばわかるのでは? 追いかけている一人は横浜から乗ってきます。 鼻が高い白人、取引用に革製の大きな旅行鞄を持っているかと」
「……うふふっ、まぁなんと面白い作戦ですこと。まるで、探偵さんですわ!」
目を輝かせて朝陽のように柔らかい笑みを浮かべるチカ。
突拍子もない話にも乗り気なチカ の反応に、我ながら良い考えを思いついたものだと新田は内心で自画自賛して。
「あっ、それです! アナタは若く、しかも女性だ。きっと相手も不審がらないでしょう!」
もっとチカの気持ちを乗せようと両手で包み込むように彼女の手を握る――と。
チカは嬉しそうに頬を桜色に染めて頷いた。
「フフフッ、分かりました。面白そうですので、手伝いましょう」
「ありがとうございます! チカさんのおかげで悪を裁くことができそうです!」
「こちらこそお手伝いできて光栄ですわ。ですが。次の停車駅までは三十分ほどございますから、それまではお茶でもいただいてもっとお話をお伺いできればと思いますわ」
「えぇ、わかりました。 では、世界情勢についてご教授させていただきます!」
(やはり単純な女だ)
それからチカは新田に、横浜駅は出入の客が多いため長く停車することを教えた。
横浜駅といえば、ちょうどミュラー氏が乗車してくると思われる駅で、その話を聞くなり、新田の表情も自然と明るくなってしまう。
停車している間に、横浜駅から乗り込んでくる乗客を装ってチカが部屋を確認して回る。
作戦の第一段階は、これに決まった。
冴え渡る考えと幸運の連続に、新田は沸き上がる高揚感を抑えるのに必死だった。