顔の見えない将校とアヤの能力
――ジャリ……ジャリ……
玄関前に撒かれた玉砂利の鳴き声がアヤと笑一の耳に入る。
「「――!?」」
一瞬でアヤと笑一の顔から余裕が消えた。息を飲んで玄関に迫る気配に意識を集中するさせるアヤと反対に、笑一は動きを止めているアヤの横を通って玄関に向かう。
「はーい、誰ですか?」
気の抜けた応答とは裏腹に、笑一は訪問者を威嚇するように勢いよく玄関戸を開けた。
刹那、アヤの目を大きく見開く。そこには、鼻先が隠れるまで将校用の軍帽を目深に被った将校の姿があった。肩には『陸軍中佐』を示す金の階級章――アヤは瞬時に訪問者の姿が宮都中佐だと理解した。
「ちゅ、中佐――」
「――すまんな、良い雰囲気をぶち壊すようなことをして」
俯いている中佐の口元がイタズラっぽく緩む。
全て見られていた――と、アヤは笑一に抱きしめられていたことを思い出し、顔を紅潮させて下を向く。
予想外の訪問者に、アヤは半年以上新しい任務をもらえていないことを思い出した。実力不足と判断された可能性を疑い、漠然とした不安にかられたアヤは、その場を動くことができない。一方、中佐はまるでアヤと笑一が見えていないかのように、二人の脇を通って勝手に家の中へ上がり込んで部屋を見渡して、ため息を漏らした。
「まだまだ不自然だな……上手く夫婦生活が送れていないのがよくわかる。そんな難しい命令を出した記憶もないが?」
アヤはすぐに中佐の背後に駆け寄り、飛びかかる勢いで頭を下げた。
「大変申し訳ございません!!」
アヤは強く叱責されると思うと、 頭を下げたままこのあとに続く中佐の言葉を待った。だが、中佐は何も言わず、綺麗に折り畳まれた三枚の紙をアヤの視界に入るように畳の上を滑らせる。
「――だ、台本!?」
「新しいお前の台本だ。一分で覚えろ」」
喜びと驚きが激しくぶつかりあって取り繕っていた表情が崩れそうになるアヤ。だが、中佐は、喜ぶアヤをよそに、懐中時計を上着の胸ポケットから抜き取って、すでに計測を始めていた。
「ぼーっとしてていいのか? あと五〇秒だ」
「は、はい!!!」
我に帰ったアヤも素早く紙を広げて暗記を開始。
紙の右上には赤文字で『読了後、すみやかに焼却』と記されており、さらに視線を下に向けると作戦の詳細が小さな文字がびっしりと書かれていた。
アヤは頭を下げた状態のまま、目線だけを右へ左へ動かして、台本を頭に叩き込む。
一枚目には、接触対象と主目的、出立日時、当日必要になる周辺情報などの作戦概要が。
二枚目以降は、作戦行動中にアヤが演じる『役』の経歴、家族構成、外貌、口癖や趣味、好きな犬種までありとあらゆる個人情報が記載されており、かなり複雑。だが、アヤはタイプライターに囚われた用紙の如く左から右へ視線を流し、丁寧に読み込みを進める。
そして、彼女が三枚目に到達した瞬間――。
「――時間だ」
「はい!」
アヤは頭を上げて中佐の後ろ姿に熱い視線を注いだ。彼女の頭の中には、見たままの光景が浮かんでいた。
「今覚えた内容を、私と笑一の前で、一言一句、過不足なく話してみろ」
「えっと、僕はここにいても大丈夫なんですか? さすがに作戦を聞くのはマズイのでは?」
「今回は構わん。アヤ、復唱せよ」
一切の嘘や間違いを許さない透徹した威圧感が、アヤの心拍数を急上昇させる。
だが、アヤも負けじと息を飲んで口を開く。
「はい 行きますっ!」
結果、アヤは一言一句漏らさず正確に記載されている内容の暗唱に成功する。
中佐はしばらく沈黙を貫いた。
その様子が、アヤには彼女の復唱した内容をじっくり味わって確認しているようにも見えた。
そして、時間にして、約二分。迷いを許さない宮都中佐の視線を浴びたせいでアヤの額には大粒の汗が浮かんでいたが、アヤは汗を拭って「どうだ」と胸を張って中佐の判定を待つ。
「まぁ良いだろう。合格だ」
笑一は感心したように口笛を吹き、アヤの瞳には今日一番の光が灯る。
「アヤ、その台本はもう不要だ。かまどの燃料にでもしておけ」
アヤは、クシャクシャに丸められて畳の上に投げ捨てられた台本を受け取り、足早にかまどに向かう。いつになく上機嫌に火を起こし、細い鉄棒で台本をつついて証拠隠滅の作業を開始。
そんなアヤの背中を見た宮都中佐は、にんまりと口角を上げている笑一にも視線を送る。
『――おい笑一、少し話せるか?』
笑一は一瞬だけ振り返り、証拠隠滅作業に熱中するアヤの様子を確認して頷いた。
「では、僕の部屋で……」
そして、二人はアヤの立ち入ることが許されていない笑一の寝室へ向かった。