卑屈な街とピカピカ将校
「――うぅっ、思ったよりひどいですね」
突き刺すようなドブの臭いに、思わずハンカチを鼻に押し当てる日向少尉。彼の隣を歩く源一郎がすかさず日向少尉の肩を肘で小突いた。
「振る舞いには気をつけろよ。ボンボンが来るとこじゃねーんだからよ」
「えぇそうですね……どうやら住む世界が違うらしい」
「……そうだな」
貧民窟を訪れた二人の態度には明確な差が生まれていた。
卑湿の地に無秩序に立ち並ぶ細長屋の軒はどれも低く、屋根は崩れたまま放置されている。
陰気で、溌剌とした活気もなく、壊れた壁の隙間からこちらを覗く人の顔はどれも見るからに不健康そのもので、外からやってきた二人をわかりやすく警戒している。
二人は気にしていない様子を装いながら歩みを進める。
相変わらず日向少尉は険しい表情のままだが、源一郎は注意しなかった。
むしろ当然の反応だと思いながら、何も感じなくなっている自分に悲しみを覚えながら、日向少尉が目立たないようにそっと前に出て小さな彼の姿を大きな背中で隠してやる。
「今日は……あんまりいい日じゃねぇーな。こりゃ」
「どういうことです?」
「……おもったより注目を集めちまった」
「それは織り込み済みでは?」
「ちげぇーんだ。俺たちの周りだけ雰囲気が死んでんだよ」
源一郎は、こっそりと長屋の前に捨て置かれた割れた手鏡に視線を移して、背後を確認した。予想通り、少し距離を空けて何人かの住民が二人の後をつけてきていた。一瞬だけだったが、どの表情も友好的なものとは思えない。
緊張を隠せていない、不良軍人に扮したピカピカ将校。
酒浸りで賭博狂いの不良警官。
「こりゃ……試されてんな」
源一郎は溜息を吐いて肩を落とした。
警察官と将校がやってきた――この話はすぐに街中に広まるはず。
ただ、ちょうど源一郎が日向少尉を連れてきたことに若干の後悔を始めた頃だった。
突然、路地にある細長屋の玄関から、か細い腕が伸びてきて、通りかかった源一郎の肩を優しく掴む。
「――っ!?」
不意を突かれ、硬直する源一郎。
対して、日向少尉は素早く腰に手を当てて反撃の姿勢をとった。
ただ、一抹の不安は杞憂だったらしい。
腰の警棒に手が伸びそうになった瞬間、源一郎の目の前に友好的な笑みを浮かべた女がひょっこり現れる。
「あらぁ〜ゲンさん、男前を連れてきてくれたのかい?」
安堵の溜息が出る。
それは源一郎の顔馴染みの色女だった。
「ははっ、今日は社会見学さ」
「へぇー。かわいい軍人さんだねぇー。今日の一番客だから安ぅするよー?」
源一郎と女が汚い笑みで日向少尉を誘惑する。対して、日向少尉は初めて見る生き物を見つけたように、あんぐりと口を開けていた。
「えっ……えっと……わ、わわ、わっ……」
一気に挙動不審になる日向少尉。源一郎は思わず吹き出しそうになった。
女への耐性を一切持ち合わせていないらしい。
源一郎は太い腕を立ち尽くす日向少尉の首に巻きつけて甘く囁く。
「少尉殿、遊んでいかれますかい?」
刹那、日向少尉の白い肌が焼けた鉄の如く真っ赤になる。
「えっ!? え、え、ええっ、え、遠慮させてもらう!!」
綺麗に回れ右をする日向少尉の腕を源一郎はがっちりと掴んだ。
「おい少尉殿!」
「放せ大洗警察官! 私には無理だ!! これにて失礼するっ!!」
日向少尉は源一郎の腕を振り払い、そのまま来た道を走って逃げてしまった。
「お、おいちょっと待ってくれ!」
源一郎も慌ててその後を追った。
一瞬だけ振り返って色女の表情を見ると、そこには般若の如く殺気だった顔をしている女が映った。
「そうかい、だったらさっさとどこかへ消えな!! 遊びじゃないんだよ!」
女の怒号を皮切りに、細長屋に控えていた女たちが続々と怒声を浴びせ始める。中には水やゴミを投げつけてくる者もいた。ひっそりとしていた裏通りが一瞬で騒々しくなった。
こうして二人は大慌てで色街を後にした。
五分ほど走って、ようやく落ち着ける場所に到着する。
「ハァ……ハァ……おっさんを…………走らすんじゃ……ねぇ、ハァ……」
「も、申し訳ない……あまりにも急でびっくりして」
「ハァ、ハァ……まぁ、俺も……ハァ……悪かった……しっかし……なんて足の速さだ……」
このまま血を吐き出してしまいそうなほどに参っている源一郎は、冗談もわからない生真面目将校に抗議の視線を向けたまま、しばらく軒先の柱にもたれて息を整える。
「しかし大洗警察官、捜査中に女遊びは明確な規則違反ですよ」
「馬鹿野郎が。俺たちは不良警官、不良将校でやってきたんだろうがよぉ」
「あっ……」
日向少尉はやっと源一郎の意図を理解したらしい。
「断るにしても、もっとまともな断り方があったぞ……なんだよあれ。初心な女じゃあるまいし」
「失礼しました……ただ、あの女の人たちもあんなに怒ることはないのでは?」
日向少尉はずぶ濡れになった外套を気にしながら、不満そうに口先を尖らせる。
源一郎は世間知らずな将校の頭を軽く小突いて、彼の認識が誤っていることを暗に示した。
ようやく呼吸を落ち着けた源一郎は、煙草に火をつけて冷たい視線を通りに向けた。
「それだけ生きることに必死というわけだ」
「生きる?」
「ここはそういう街なんだ。わざわざ田舎から仕事を求めて帝都にやってきたはいいものの満足な仕事にありつけず、男が昼間に外で身体を張っている間、女房や娘は内職か身体を売るか……アイツの旦那は去年の冬に薬のやりすぎで死んじまってな。旦那の残した博打のツケもあって、それから娘と一緒に女郎屋に入ってそこで暮らしているのさ」
「……そ、そんなことって。そんな借金は無効では?」
「ははっ、そうだな。だけど、ここでそれは通じねぇ。それをやっちまうと、ここにいる奴らはめちゃくちゃをやっちまうからな」
「…………」
「アイツだけじゃねーが、色街や女郎屋に受け入れてもらえただけマシさ。もっとひどいやつはほら……細長屋や木賃宿の軒先に立っている十四、十五くらいの若い女がいるだろ?」
煙草の先が向かいの通りの端に立っている少女たちを指し示す。
日向少尉が目線を向けると、そこには泥濘んだ地面の上を裸足で立っているボロ切れを纏った骨と皮だけの少女たちがいた。通りを歩く男たちと目を合わせて、手でなにかやり取りをしている。男も立ち止まって満足そうに頷くと、そのまま少女の肩を抱いて裏路地に消えていく。
そして、五分も経たないうちに、男と少女がまた通りに戻って来て、笑顔で別れる。
男はスッキリした面持ちで通りを歩き、定位置に戻った少女はまた暗い面持ちで通りの男に誘惑の視線を送る。
「あれは……なんでしょうか?」
「立ちんぼだ。店にも入れねぇ、帰る場所もねぇ、ここで客をとって日銭を稼いで生きていくしかなくなったワケありな子どもだよ。客を取っているのが見つかったら殺されるからな、あーやって向こうから話しかけてくるのを待っているのさ。あとは路地でぱぱっと済ませて終わり」
「この街の女性や子どもは、みんな身体を売っているのですか?」
「全員ではないがな。ただ……ほとんどの女は自分一人が生きるためだけに身体を売ろうなんて思わねぇ。こんな場所でも一日中内職すればその日の飯と宿代くらいは賄えるさ」
「それではどうして彼女たちは?」
本当にわかっていないらしい。
呆れを通り越して、感心できるほどに無知だ。
源一郎は少し言葉に迷ったが、少女たちを見つめる日向少尉のまっすぐな眼差しを見て正直に答えることにした。
「だいたいは、働き手のいない家族のためか、酒狂い博打狂いの男のためだよ」
「売られたとかではなく?」
「売り物は店に入っているから、あんなとこには並ばねぇーんだよ」
「なるほど。しかし、百歩譲って家族のための身売りなら理解できますが、男のため……とはなんでしょうか?」
「……泣ける話なんだ。自分が使われているだけなのをわかっていても、愛する男のために身を捧げる馬鹿が一定数いるんだよ……まぁ、そのうち、身体を売ってラクして稼げる蜜を覚えちまって、ウリから離れられなくなるんだけどな。中には誰かに抱かれていないと、最低な自分に価値があると思えないってヤツもいる。欲って本当にこえーよな。これが帝都の最低貧民の生活だよ。少尉殿はどう思うかい?」
「どう……そうですね、簡潔に言えば、とても酷い話だと思います」
「まったくだ」
心のこもっていない言葉だけの同意。
通りに目を向ける日向少尉の背中には、なんとかしてあげたいという想いがはっきりと浮かんでいた。
ここで源一郎ははっきりと後悔した。
まだ彼を連れてくるには早かったかもしれないと。
捜査協力の提案も、きっと強がっていただけなのだと思い始めた。
そもそも貧民窟の住民の生活の救済は、千夏の捜索および過激派捜査に全く関係ない話で、要らない私情を挟めば大きな厄介ごとに巻き込まれる危険性も高まってしまう。
源一郎は煙草を地面に吐き捨てて、日向少尉の肩に優しく手を置いた。
「でも、これも社会って奴だ。あいつらもあいつらなりに必死に生きてんだってことさ」
「……千夏さんもどこかに」
「やめろよっ! ……考えたくもねぇ」
「申し訳ありません……つい」
肩を落とす日向少尉。言いすぎてしまったと後悔しているらしい。
悪気がなさそうにシュンとする日向少尉を見て、源一郎は大きく息を吐いてから新しい煙草に火をつけた。
来週の水曜日に更新
ここからどのように物語が動くのか楽しみですね!




