少尉殿が笑った理由
次の日、源一郎は何事もなかったかのように新しい職場に出勤した。
いつもより早く到着したつもりだったが、日向少尉はすでに机に向かって捜査資料の整理を始めていた。机の上に山積みされた資料を上から引っ張ってきて、そこに記された一言一句と真剣に向き合っている。制帽を脱ぐことも忘れるほどに、捜査資料の読み込みに集中しているらしい。
源一郎は新人だったころの自分と日向少尉を重ねた。
同時に黒鷺が言っていた日向少尉が捜査本部へ出向してきた理由が脳裏をよぎった。
声をかけていいものかと、一瞬だけ躊躇った。
だが、それは杞憂だったらしい。
「――おはようございます。大洗警察官殿」
義務的で無機質な挨拶。
日向少尉から声をかけられ、ハッと我に返った。
源一郎は辿々しい返事しか返せなかった。だが、日向少尉は相変わらず源一郎のことは気に留めていないらしく、源一郎の顔色を一瞬だけ伺うと、すぐにペンを手に取って報告書の作成を再開する。
「なにボーッと突っ立っているのです? 今日も頼みますよ」
「お、おい……おめぇさんは、いったい何時からここにいたんだ?」
「昨日、着任した直後からずっとここにいますよ」
「まさか帰ってねぇーのか?」
「はい。色々と調べないといけないことが多いので」
短い会話のやり取りだったが、源一郎は日向少尉の確かな覚悟を感じた。
同時に、昨日黒鷺に教えてもらった日向少尉の特殊な事情が頭に浮かぶ。視線を横にずらすと、金井家襲撃事件の実況見分書や関係者の供述調書が目に入った。ただ、すぐに日向少尉は関連する資料を源一郎の視界から逃すかのように、背後の本棚の引き出しに押し込んで隠す。
「はぁ……」
自分と同じ。源一郎は孤軍奮闘せんとする若い将校の姿に、なんとも言えない感情を持ってしまう。
つい口が出てしまった。
「少尉殿」
「はい、なんでしょうか?」
「金井邸の現場……行ってみるか?」
ピタッと日向少尉の動きが止まった。
源一郎は確信。
やはり日向少尉は敵討のつもりでやってきたのだと。
日向少尉は顔をあげて、源一郎と目を合わせた。
だが、その表情は源一郎の予想に反して、不信感丸出しの怪訝そうなものだった。
「誰から聞きましたか?」
「俺も一応刑事だからな。気になることはすぐに調べるくせがついてんだ」
「なるほど。遊興にあけくれた飲んだくれ警官だと思っていましたが……」
「そーかい、俺のことは調べがついてるってことだな」
「昨日もサボっていたくせにどうやって調べたのですか?」
「おいおい言ってくれるじゃねぇーか。どこまで知っていやがるんだ」
「一応、私も今は捜査官ですので。黒鷺さんと貧民窟で飲んでいたのでしょう?」
ここで日向少尉が手を止めた。
なにか考えているらしい。細い腕を組んで唸っている。
源一郎がサボっていたことを特に注意するつもりはないらしい。
「うーーん、そうですねぇ。どうしましょうか」
刹那の静寂。
それほど重くはない。
ほどなくして、日向少尉は「うん」と一人納得したように頷き、スッと席を立った。源一郎はそれが何を意味するのか理解したうえで、報告書を大事そうに本棚の下の引き出しに押し込む日向少尉の後ろ姿を黙って見守った。
「まぁ……アナタの誘いに乗るのは癪ですが、いいでしょう。少し外へ出ましょうか」
振り返って一言。日向少尉は少し不服そうに扉を一瞥。
ただ、源一郎は何も言わない。
座りっぱなしで固まった腰に手を当てて背中を伸ばして女みたいに喘いでいる。本棚の横にあるコートハンガーにかかっている将校用の外套を羽織って一瞬で外出準備を完了させた。
「大洗警察官、なにをしているのですか? 早く現場に行きますよ」
大きな瞳が源一郎の硬直を解く。
「お、おう! ちょっと待ってろ!」
源一郎は、慌てて本棚に差し込まれているテロ関連の事件資料から、金井邸の住所を探し出し、一目見てそれを頭に叩き込む。富裕層ばかりが住む超高級街のど真ん中に現場があるらしい。
「大洗警察官?」
「はいはい、今行きますよ。少尉殿」
源一郎はもう廊下に出ようとする日向少尉の後ろを追いかけた。
廊下に出ると、煙草を吸って談笑する同僚たちの姿が目に入った。
誰も源一郎には声をかけない。対して、新米将校の日向少尉には、見よう見まねの敬礼で挨拶を交わす。
日向少尉も律儀に足を止めて返礼。明らかに馬鹿にされていることには気づいていないらしく、源一郎は後ろから睨みを効かせて同僚たちの増長をやんわりと牽制。
階段を降りる際、源一郎を流刑に処した元凶である班長とすれ違った。
「あらっ? これから捜査ですか?」
わざとらしく目をぱちくりさせる班長に、日向少尉はまっすぐな眼差しを向けた。
「はい! これから大洗警察官に事件現場を案内してもらうところです」
「おーーそうですか! それはいいことです! 少尉殿の悪漢討伐の熱意がゲンさんを動かしたとなれば、いやぁーそれは素晴らしい話でございます。私もこちらに着任して三ヶ月、本当に手を焼いておりましたので」
露骨な嫌味にも日向少尉は表情ひとつ変えず、班長の横を通り抜ける。
「それでは私たちはこれにて」
「えぇ、お気をつけていってらっしゃいませ。ゲンさん、くれぐれも無礼だけはやめてね」
「わーってるよ!」
こうして二人は捜査本部を出て事件現場に向かった。
ひらりひらりと華麗に舞う少尉の外套の裾を追いかけるように源一郎は彼の後ろを歩いた。
たまに道に迷いながら、路面電車で日比谷通りを抜け、源一郎の暗記した住所を基に道を尋ね歩いていると、洋館の立ち並ぶ高級住宅街に到着。さらに歩くと、焼け落ちた当時のまま残されている金井邸がある。
広い敷地の中に立っている建物はほぼ炭化しており、火災の勢いを今も生々しく残している。
相当な大火だったに違いない。周囲の屋敷への被害がなかったことが奇跡だと思わざるを得ないほどに、屋敷は完璧に焼け落ちていたのだった。
「なるほど……」
「こりゃ……ひでぇな」
静かな住宅街の一画で、二人は呆然と立ち尽くした。
「ここが……たぶん現場だな。少尉殿は来たことは?」
「いえ、初めてです。ここまで酷くなっているとは」
「焼け落ちる前も含めてか?」
「はい。士官学校におりましたので」
「……そうかい。花でも買ってくりゃよかったな」
「…………そうですね」
日向少尉の声の震えに気づく源一郎。
直接の親戚でなくとも、義家族が二人も命を落としている現場なら当然の反応と言えるだろう。硬く握られた拳からは、後悔や憤りが入り混じった感情が見て取れる。
好きにさせてやろう、と。
源一郎は一歩前に踏み出して、日向少尉の肩を叩いて現場に背を向けた。
「俺はそこで煙草を吸っているから好きなだけみていいぞ」
「…………大洗警察官、アナタも初めて現場に来たのでは?」
源一郎は火をつけたばかりの煙草を口から外して、ゆっくりと振り返った。
「どうしてそう思う?」
「もしも一度でもこの現場を訪れたことがあるなら、いちいち住所の確認はしなくていいし、途中で道に迷うこともなかったでしょう。それに私が捜査本部に来た理由を知っているなら、私に案内させればいい。だけどもアナタはそれをしなかった。」
「はぁ……なにがいいたい?」
「結論として、私をここに連れてきてあげたかったのかと……不器用ですが、案外優しい方なのですね。見直しましたよ」
初めて日向少尉が笑った。
だが、源一郎には痛々しく見えた。
彼を気遣っていることが嫌というほどわかってしまう。
ただかけてあげる言葉が見つからない。
源一郎はしばらく黙ったまま煙草の煙を味わって、日向少尉の笑顔を見なかったことにした。
「……お前も大変だったな」
「それはお互い様ですよ。千夏さん、見つかるといいですね」
その瞬間、源一郎の時が止まった。
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