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君は何者になるか

「――日向少尉であります!」

 

 威勢の良い挨拶。

 直後の迷いが見える不器用な敬礼。

 軍装した美少女は、姿見に映る自分を見て、がっくりと肩を落とした。


「はぁ……これじゃダメだ。役になりきれていない……こんなの軍服を着た子どもじゃない」


 アヤは納得できない表情を浮かべ、溜息を漏らす。

 軍服姿の自分にしっくりこない。声が少年すぎる。

 これでは怪しまれてしまう。


 アヤは気を取り直して、白手袋をつけたままの右手で軽く喉を押さえて、もう一度大きく息を吸い込んだ。


「――申告します! 陸軍総監部より派遣されました! 日向少尉でありますっ!!」


 アヤのイメージする声に近づく。

 しかし、今度は敬礼する際の腕の角度が気に入らない。

 試行錯誤を繰り返し、これで二時間が経つ。

 いまいち役に入りきれない自分への苛立ちが募る。


 うまくいかない理由はわかっていた。

 アヤの頭の中には絶えず、病室でスズカと対面したときに彼女から聞かされた言葉がよぎっていた。自分でもなぜ殺さなかったのか、はっきりと言葉にできないまま、彼女は今日までずっと「華山アヤ」として生きていたのだった。


「どうして……これじゃ舞台まで間に合わない…………ダメッ、中佐に捨てられてしまう」


 畳の床の上に広がった台本と正面の姿見を何度も見比べて、役になりきる練習を行っていたが、こんなことはアヤも初めてで戸惑いを覚えていた。


 汗を拭い、もう一度――と、背筋を伸ばして気を引き締める。

 その直後だった。

 


『――おやおや、これは随分と気合が入っているねぇ』



 アヤの緊張を壊す気の抜けた男の声。

 アヤは一瞬だけビクッと身体を硬直させるが、背後の気配の正体にはすぐに気づいた。

 どうやらずっと見られていたらしい。


 アヤは、背後にいる夫にはっきりと聞こえるくらいに、大きな溜息を吐いた。


「……笑一さん、他人の部屋に勝手に入ってくるのは、さすがによくないのでは?」

「あはは、それは失敬。でも、別に着替えを覗き見たわけじゃないから許してよ。立派だなと感心していたくらいさ」

「そうですか。生憎、私は今とても機嫌が悪ぅございます。特に急ぎの用がなければ、このままそっと襖を閉めていただけると幸いです……このまま私の邪魔をするのもよろしいですが、その場合、このまま私が振り返って笑一様を殴りつけることになりますが、どういたしましょう?」


 アヤは本気だった。

 両手を握って、露骨に殺気を纏わせる。

 弱みを握られるような気分になるため、不機嫌な自分も見られたくなかった本音もある。

 早くどっかいってほしい。


 だが、いつもならすぐに聞こえているわざとらしい乾いた笑いが、今日は聞こえてこない。

 しばしの沈黙を、破ったのは笑一だった。


「そうだねー。邪魔もしたかったんだけど、ちょっと君と話をしたいなと思ってさ。」

「……お話? なんでしょうか」

 

 アヤはここでようやく振り返った。

 ただし、眉間に皺を寄せて、露骨に嫌そうにすることは忘れない。両手は固く握られており、警官に扮して彼女の背後に立とうとしていた笑一への牽制としては十分すぎる威力を発揮していた。


「わーお、これはずいぶんとお怒りだ」


 いつの間にか部屋に入ってきて壁にもたれかかって腕を組んでアヤを見つめていた笑一も、拒絶を隠そうとしないアヤの態度を感じ取って思わず苦笑いしてしまう。


「それで何の用です?」


 軍服姿のアヤと、警官の制服を纏う笑一。小柄で色白な美少年風の将校と、爽やかな風貌と反対に大柄で威圧感のある警察官――八畳ほどのアヤの自室で、華山夫婦は互いに奇妙な服装で対峙することになる。


「それで? 話とは?」

「いやいやくだらない話さ。療養が終わったはずなのに、ここ最近ずっと思い詰めた顔していたでしょ? なにか悩んでいることでもあるのかなと」

「…………笑一さんには関係ないことです」

「一応さ、僕たちも夫婦なわけだし、そうじゃなくても先輩と後輩の関係でしょ? 今後さ、もし共演するときに支障が出るとまずいかなと思って、こうして聞いているわけだよ」


 アヤはここ数日の自分の態度を振り返り、笑一の不安を少しだけ納得。

 今日も彼が帰ってくる時間を失念していた事実を思い返し、素直に頭を下げた。


「ご心配をおかけして大変申し訳ありません。ですが、私は大丈夫です」

「そっか……でも、僕が心配なんだよねー」


 ここで笑一は制帽を脱帽し、居間に向かって乱暴に放り投げて話を続ける。

 役を捨てて腹を割って話そうということらしい。


「中佐から聞いたよ。親の仇……君は殺さなかったらしいね」

「…………そうですか、中佐から聞いたのですか?」

「まぁ……それ以外どうやって僕が知ることができるかって話だよね」


 ここでアヤも制帽を脱帽し、机の上に丁寧に置く。

 笑一に見せつけるという意味よりも、わずかな時間でも考える時間が欲しかったのだ。

 笑一がこれから何を聞こうとしているのか、アヤは彼の表情から全てを察していた。

 だから、質問を受ける前に、心の整理をつけたかったのだ。


 笑一もアヤの迷いのある顔色を見て、彼女の状態を認識。

 その場にあぐらをかいて座って、アヤにも座るように促した。


「アヤちゃん、僕は君がしたことは正しいことだと思うよ」


 笑一はアヤが畳の上に正座するなり、率直な思いをぶつけた。


 嘘ではなく、本音である。

 アヤもそれは理解した。


 だが、まっすぐな夫の眼差しを、アヤはバツが悪そうに俯いて躱す。

 膝の上に置いた拳は力無く震えていた。


「……私は今、わからなく……なっています…………」

「だろうね。ここ一ヶ月ずっと迷っていたみたいだね」


 アヤはしばらく黙った。

 脳裏に浮かぶのは、病室でスズカから告げられた衝撃的な事実の連続と、親の仇を殺さなかったことで発生した虚無感だった。

 悲しくもない、悔しくもない――ただ苦しいだけ。


 アヤは病室を出た後、まるで胸の中に錘を入れられたかのような感覚で日々を過ごしていた。

 自分は何者で、何がしたいのか。見えていたはずの光が失われ、闇の中に溺れているような状態に息苦しさを覚え始めていたくらいだった。


 そんな自分が情けない。考え込むうちに、アヤの瞳から大粒の涙がこぼれ始める。

 両親だと思っていた人たちの無惨な死に様と断末魔の叫びが、何度もアヤの脳裏を駆け巡って胸を締め付ける。


 しかし、そんなアヤの悪夢を打ち払うように、大きな手が彼女の頭に乗る。


「大丈夫だ。僕がいる。君は本当によくがんばった」


 優しく撫でられる。

 アヤは幼少の頃を思い出してまた涙した。


「君の痛みを……その……しっかりとわかってあげられなくてごめんね」


 いつも軽薄な雰囲気や、いやらしさを感じない真剣で温かい思いは、アヤの拒絶をいとも簡単に突破した。


「わ、私は……お父様と……お母様の……実の子じゃなかったんです」

「そうか、調べてしまったんだね」


 アヤは嗚咽を殺しながら、静かに頷いた。


「あのあと、すぐに役所に行ったんです……全部が嘘でした……そもそも、私は、存在すらも……していない……名前も、なにもかも……それでは、私は……なんのためにずっと……」


 アヤは病室を出た後にスズカの話を確かめるために、思いつく方法の全てを試して「本当の自分」について調べていた。結果は、アヤの両親だと思っていた人物は、実の両親ではないことが判明。

 予期していた最悪の結果。

 さらに追い討ちをかけるように、アヤは自分の出生記録すら存在していないことも知ってしまう。


 大切に育ててくれた親だった人が実は赤の他人で、自分はこの世に記録すら残っていない空想上の人物で、しかも親の仇だと思った相手の仇が自分の親だと思っている人だった――そのせいで、アヤは生きることに集中できなくなっていた。


「アヤちゃん」


 笑一が優しく語りかける。


「話してくれてありがとう」


 励ますように微笑みかけ、そっとアヤの脇の下に腕を伸ばして一緒にゆっくりと立ち上がる。

 力無く立ち尽くすアヤに机の上の制帽を被せ、丁寧につばの傾きを調整。

 さらに、軍服の裾をピンと引っ張ってシワを伸ばし、最後は親指で詰襟をしっかりと立たせる。


「……なんですか?」


 突然立たせられて、急に始まった服装チェック。

 顔をあげると、いつものわざとらしい笑みを浮かべた笑一がそこにいた。


「服装の乱れは心の乱れっていうでしょ?」

「は、はぁ……」

「ごめんね、気が利くようなセリフも出なくてさ。先輩として僕にできるのは、こうやって君の服装を点検してあげることくらしかできなさそうだと思ってね。僕も軍人は2回だけやったことがあるんだ。だから、なんでも相談してよ」

「い、いえ……そ、それはさすがに……」


 優しすぎる話の逸らし方に、アヤはただされるがままになる。

 笑一はテキパキと要領よく服装を直していき、アヤを立派な将校姿に変身させていく。


 いつもより丁寧で、アヤの様子の変化を慎重に探るかのようにも見える。

 アヤの過去に興味がないわけではなく、今はその話はしたくないといった感じ。

 

 もしくは、妙な話を振ってしまったと申し訳なく思っているのか、いずれにせよ笑一はこれ以上の話は避けたいと思っているようにアヤは感じた。だから、アヤは黙ってされるがまま、服の上から身体を触られることを許した。


「さて……と。これでいいだろう。うん、実に美しい」


 笑一は、一通りアヤの服装の乱れを直すと、洗練された陸軍式の敬礼を彼女に送った。


「敬礼はね、少し肩を柔らかく使うと自然でスマートに見えるんだ」

「……ありがとうございます」

「さぁ、まもなく君の出番だ。期待しているよ、少尉殿」


 満面の笑み。いつものお調子者の笑一に戻ったらしい。

 だが、アヤは唇を噛んで、笑一に鋭い視線を送った。

 まだ話は終わっていない。


「どうして聞かないのですか?」

「ん?」

「私は『華山アヤ』の役を超えて自分を知ろうとしました。これは許されないことです」


 これ以上は言わない。だが、強く握られた両手がその先のセリフを表していた。


 このままどうか中佐に密告して役を下ろしてほしい。

 このあとに任されている役になりきる自信もない。


 自暴自棄的な自責感情と底知れない不安にアヤは襲われていた。

 だが、笑一は笑顔を崩さず、アヤの肩に優しく右手を乗せる。


「さっきの話、華山笑一は何も聞かなかった……それでいいんだと思う」


 さらに笑一は、アヤの頬を伝う涙を人差し指で掬って床に振り払った。


「それに、何者かわからなくなるなんてさ、きっと人生はそんなもんだよ。『何者だったか』じゃなくて『何者になるのか』が大事でさ……特に僕たちみたいな人間には」

「何者になるのか……」

「君は実際に育ての親を殺されたが、復讐は選ばなかった……これからどんな自分になるのか、舞台をこなしながら決めていけばいいと思う。僕は君が復讐を選ばなかっただけで満足なんだ。よかったよ、君が本当に優しい人だとわかって」

「優しい人? 私がですか?」

「そうだよー。君の人生はまだまだ長い。がむしゃらに生きてみれば良いさ。そのうち答えは見つかるだろうよ」

「なんですか……それ。こっちは不安で仕方ないのに」

「ははっ、不安なのはいいことだ。まだ君はやりきれていないってことだからね」

「やりきれていない?」

「そう。与えられた使命をやり切る。きっとその先に君が求めている答えは見つかるってことさ。これから君が何者になるのか。君が切り拓いた未来が、君の過去に色をつけてくれるさ」


 ここで笑一はイタズラっぽく笑って、くるりと踵を返して部屋を後にしようとする。


「いやぁー、良いこと言ったなー。さすが僕だ。なんで妻はこんな僕に冷たく当たるのだろう。こまったものだ」

「そうやって、いつも私のことを……」

「ほら僕たちは夫婦でしょ? 困ったときは助け合いなんだよ……大丈夫だ、君が問題を起こしそうになったら僕がすぐに助けにかけつける。ははっ、まさに白馬の王子様ってやつさ。まさに僕にぴったりな役回りだね」


 笑一は満足そうに頷くと、アヤに陽気な口笛を吹きながら部屋の襖を閉めてアヤの前から姿を消す。

 静寂が戻り、急に室温が下がったような気配。


 アヤは目をぱちくりさせるだけで、しばらくその場を動くことができなかった。

 突然やってきて、言いたいことだけを言って、ニコニコと去っていく。

 だが、アヤは不思議と嫌悪感を抱かなかった。


「何者に……なるか……」


 今は『華山アヤ』でいようと、決意が固まった。

 涙を拭き、回れ右をして姿見の前に立つ。

 腫れぼったくなった目の周り。


 だが、ついさっきまで感じていた違和感はない。アヤの頭の中に次の役に関係する情報が一気に湧き上がってくる。役が身体の中に入り込んでくる感覚。再構成された役のイメージが鮮明に浮かび上がる。


 これならいけるとアヤは、笑一の動きと助言を思い出しながら、大きく息を吸った。


本当に更新が遅れて申しわけありませんでした。

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供給ありがとうございます!
更新してたー! 待ってました。嬉しい。 笑一さんは思わず相談したくなりそうな方ですね。 「大丈夫だ。僕がいる。君は本当によくがんばった」 このセリフで落ちるか泣くかの人がかなりいそうな。 迷いや不…
笑一さんええなぁ⋯かっこええ!! アヤちゃんの役にピタッとはまる感覚!わかる!!!!!! 気持ちが揺らいでる間は何をしてもあかんのよな⋯⋯ アヤちゃんもかっこええなぁ 次の舞台がたのしみです。更新あり…
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